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翠眼の退魔師

作者: 王芳

 一

 連続猟奇死体遺棄事件の新たな犠牲者が本日未明、新宿歌舞伎町の路上で見つかった。先月八月に最初の犠牲者が出てから、これで五人目となった。犠牲者は全て若い女性であり、遺体の一部が激しく損傷していた。現在警察は犠牲者の身元確認を急いでいる。


 三雲和也は山手線の電車に揺られ、缶コーヒーを片手にこの物騒な記事を読んだ。

「うちの生徒達にも注意させないといけないな」

 真剣な面持ちで記事に目を通し、彼は一人ごちた。通勤ラッシュを避けるために、かなり早い時間に家を出るのが習慣になっている。車両には彼の他に、酒の臭いをぷんぷんさせてだらしない姿勢で座っている酔っ払いしかいない。

 念願の教師になりやっと半年が経ち、三雲は教師としての充実した日々を噛みしめていた。

 二十七歳、担当教科は英語、高校二年A組担任。

 大学を卒業してから教師になるまで五年もかかってしまった。現在勤務している私立高校に採用されるまで、非常勤講師や産休代替の仕事をして生活してきたが、ようやく正規の教員になることができた。

 郷里の両親から、家業である寺を継げという催促もやっとなくなった。

 教育現場に従事する苦労はこの半年間で嫌というほど味わったが、車に乗らなければコンビニにも行けないような村で、老人相手にお経を読むよりも、学校で生徒に教える方が自分に向いていると思う。

 手首に巻いてある透明な数珠に視線を落とす。祖父の形見として受け取った物だ。神仏関係とはできるだけ距離を取りたいものだが、どうにもこれがないと落ち着かないのは認めざるを得なかった。


 担任をしているクラスの思春期真っ只中にいる生徒達は思ったよりも素直に自分の話を聞いてくれるし、懐いてくれているように感じる。これは多分、自分の若さが有利に働いているからだろう。

 自身の見た目がガキっぽいというのも自覚している。スーツを着ていなければ生徒にしか見えないと散々言われたし、クラスの男子と一緒に昼飯を食べていたら、他学年の教員に生徒と間違われたことも実際にある。童顔は長年のコンプレックスだったが、生徒との距離を縮める役に立ったことは事実なのだから感謝しなければいけない。

 品川駅で降りて、そこからは歩く。

 朝の空気は清々しかった。血生臭い事件が起きたのは遥か遠くの別世界であるかのような気がした。新宿なんてすぐ近くなのに。

「おはよう、先生」

 職員室での打ち合わせが長引いたせいで、いつもより少し遅れて教室に入ると、何人かの生徒達が既に登校していた。

「ああ、おはよう」

 彼らの顔を見ると、自分の生徒をあんな事件に絶対巻き込んではならないと強く思った。被害者の内、二人は都内の高校に通う女子高生だったらしい。職員室は、事件についての話題で持ちきりだった。朝の会議で、当面の間、部活動を停止し、早めに生徒を帰宅させる方針が発表された。

 三雲はホームルームの際に真剣な面持ちで生徒達に呼びかけた。

「皆、聞いてくれ。知っているかもしれないが、新宿でまた事件が起こった。猟奇事件として報道されているから皆も知っているだろう。いいか、夜は出歩くな。特に女子、帰る途中で知らない人間に声をかけられたら、絶対ついていかないでくれ。学校に……俺の携帯でもいい、何かあれば電話してくれ」

「先生、大丈夫だよ。ウチら、子どもじゃないんだから」

「俺ら、なるべく女子を送るようにするよ先生」と男子らが言うと、女子は「そっちの方が危険だ」と言ってクラスが湧いた。

 結局、三雲のクラスでは生徒用の連絡網を作ることになった。クラスの中心になっている生徒が全員の在宅を確認してから三雲に報告してくれるように計ってくれた。


 退勤後、三雲は住んでいるのとは反対方向の電車に乗った。やり過ぎなのかもしれないが、取りあえず事件が起きた付近を巡回するつもりだ。

 変質的な殺人者がうろついていると考えると恐ろしいが、犠牲者は全て女性だ。狙われる確率は低いだろう。それに、スポーツはからきし駄目だが、逃げ足の速さには自信がある。

 午後七時半。新宿西口に出ると、浮浪者や占い師、自作のイラストや詩を売っている人々が路上に佇んでいる。警察官に注意されているストリートミュージシャンの姿がかつての自分と重なった。

 学生時代、趣味でバンドをやっていた頃は、よく新宿に来ていた。練習スタジオやライブハウスもあるし、海賊版のCDを売っている店もある。昔のことを思い出しながら夜の都会を歩いた。九月の初旬にはまだ夏の暑さが残っており、じっとりと汗をかいた。

 事件があったばかりだというのに、高校生の姿が目につく。彼らには危機管理能力なんてないんじゃないかと思えて心配になってくる。

 似合わない金髪と、冗談みたいに派手な化粧の女子高生達が目の前を通り過ぎていった。何が楽しくてあんなにはしゃいでいるのかさっぱり分からないのは世代の違いのせいだろう。職業柄、つい注意してしまいそうになる自分を抑えて歩いた。

 新宿が煌びやかなのは表面だけで、中に入っていけば入っていくほど、爛れて歪んだ本当の姿が見える。

 三雲は表通りから離れて、路地裏に入った。ラブホテルやソープランド、裏ビデオやSMグッズが売っている店が並んでいた。そこに入り込んだ途端今まで感じていた懐かしさや感慨深い気持ちが一気に吹き飛んだ。

 鳥肌が立ち、首もとがぞくぞくとしている。汗が冷たいものに変わり、背中を濡らしている。なんだ、これは。朝感じた嫌な感じを百倍濃厚にしたような感覚だ。

 でっぷりとした中年男が若い女と腕を組んで歩いているのが見えた。

 新聞によれば、被害女性は内臓をごっそり持っていかれたとのことだ。今朝読んだ記事の内容が鮮明に蘇り、吐き気がした。

 今、目の前を歩いている女性が、もしかしたら明日の朝には内蔵のない死体になっているかもしれない。それをイメージしてしまうと三雲は路肩に入り酔っ払いのサラリーマンのように吐いた。

 胃が空になると、いくらか楽になった。それでも悪寒めいた感覚は続いている。もしかしたら風邪でも引いているのかもしれない。今日はこのくらいにして帰ろう。

 そう思い、顔を上げると、向かい側からカップルがこちらに歩いてきていた。女は三雲が思ったよりも更に若かった。もしかしたら高校生かもしれない。下着が見えそうなほど短くしたスカートから、素足が伸びており、胸元が大きく開いたトップスを着ていた。

 すれ違う瞬間、少女の目と目が一瞬合った。混乱のあまり、三雲は思わず目を逸らしてしまった。信じたくない。ちょっと待ってくれ、見覚えがある。毎日見ているんだから、見間違えるはずがない。でも、あり得ない。

 心臓の鼓動が早くなった。

 カップルは三雲の存在に全く気づいていないかのように通り過ぎた。

 声をかけようとしたその時、胸元の携帯電話が鳴った。間島隆、野球部のエース投手でクラスのリーダーだ。三雲はすぐに電話に出た。

「先生、全員と連絡ついたよ」

 全員?そんな馬鹿な。

「間島、連絡は携帯電話で取ったのか?」

「それじゃ意味ないでしょ。先生、頭使おうぜ。全員家電で連絡することにしたんだ。皆学校からそんなに遠い所に住んでるわけじゃないし、この時間なら全員家にいるはずだからさ。これなら先生も安心できるだろ?先生のことだから、今頃、新宿でもパトロールしてるんじゃないの?」

「……」

「えっマジでパトロールしてるの?ウチのクラスの連中は大人しいほうだし、この状況で夜遊びするほど馬鹿な奴はいないはずだよ。心配しなくても大丈夫だって。女子も時田がちゃんと連絡取ってくれたから。先生も早く帰んなよ」

「そ、そうか。ありがとな」

 曖昧に返事をして三雲は電話を切った。不釣合いなカップルの後姿はもうかなり遠くなっていた。

 電話を切ると、数珠を力いっぱい握っていたことに初めて気がついた。


 ニ

 よくテレビ番組で、犯罪者の親の「ウチの子どもがそんなことをするわけない」とか、「何かの間違えにちがいない」という台詞を聞くたびに、軽蔑に似た感情を覚えた。

 もしも、昨晩見た少女が『成上雫』ならば、自分も彼らと同類だ。この先教師として生きていくのは無理かもしれない。

 そう思うほど、成上雫という生徒と夜の都会は似つかわしくなかった。


 成上は一年生の途中から、この学校に編入している。八王子の方から、親の仕事の関係で引っ越してきたらしい。

 目立たない少女で、全くと言っていいほど前に出てくるタイプの生徒ではなかった。丁度肩の位置で切りそろえられた髪の毛は一度も色染めをしたことがないと誰が見ても分かるほど真っ黒で、スカートの位置も膝がしっかりと隠れる長さの物を履いていた。顔の半分ほどの大きさの丸メガネをかけた大人しそうな顔をした学生だった。

 休み時間は、一人で分厚い文庫本を読んでいることが多い。何を読んでいるのか聞いて見ると、トマス・マンの『魔の山』だったのことに驚いてしまった。この間トルストイの『戦争と平和』を読み終えた所なのだと控え目に教えてくれた。

 今、彼女は三雲が昼飯を食べている教壇のすぐ近くで相変わらず本を読んでいる。トマス・マンの小説はもうほとんど読み終わりそうだった。

 彼女の読書の嗜好は普通の高校生の女の子とはかけ離れているようで、わざと読みにくい本を選んでいるとしか思えなかった。。

 それでも、成上は変に自意識の高い面倒なタイプではなく、近づきがたい雰囲気を故意に発しているわけでもない。クラスメートから話しかけられれば普通に接しているし、女子高校生らしく楽しそうにしていることが多かったので、特に不安視もしていなかった。

「成上」

 三雲が声をかけると、菓子パンを片手に本のページを繰っていた成上が顔を上げた。

「何ですか?」

「あのさ、成上って双子のお姉さんとか、妹っていたりしないか?」

「は?いませんけど」

 やっぱり見間違いだ。そうに決まっている。

「そうか。ごめん。勘違いだった」

 成上は困惑した顔で「はぁ」と答えると、ちらりと時計を見て、パタンと本を閉じ、席を立った。図書室で新しく借りる本を物色するつもりなのだろう。

 彼女がクラスを出るのを目で追ってから、三雲は女子の中心的存在である時田茜に話しかけた。

「時田さ、昨日女子に連絡取ってくれただろ。それって、全員本人がちゃんと電話に出た?」

「もちろん!当然でしょ!」

 グループでわいわいと楽しげに昼食をとっている途中だった時田は口をもごもごさせながら言った。

「成上も?」

「雫ちゃん?ちゃんと家に電話入れたよ。わたし、雫ちゃんと結構仲良いんだよ」

「間違いなく本人だったか?」

「うん……先生、何でそんなこと聞くの?」

 三雲は「いや、何でもない」と言い、髪の毛をかきながら教卓に戻った。

 これで自分の見間違いだということが確定したわけだが、どうにも腑に落ちなかった。彼の無駄に鋭い直感が、何かを訴えていた。

 午後の授業が始まる五分前を知らせるチャイムが鳴った。三雲は次の授業のあるクラスに向かった。

 廊下で新しく借りた本を両手に抱えた成上と鉢合わせた。

「今度は何を借りたんだい?」

「メルヴィルの『白鯨』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です。先生、読んだことあります?」

「俺の専門はアメリカ文学だから」

「メルヴィルはアメリカですよ」

「ああ、そう、そうだったな。それにしても、偉いよな。高校生のうちからこんな難しい本に挑戦するんだから。大学の進路は文学部かな?」

「うーん、どうでしょうね」

 にっこりと笑って成上雫は教室に戻っていった。

 その笑顔は大人しく、あまり目立たない生徒である成上には何だか似つかわしくないように感じた。それは高校生らしい快活さではなく、どこか妖しい艶かしさを感じさせる笑顔だったからだ。

 三雲は今日も仕事終わりに新宿へ足を運ぶことを決意した。


 三

 新宿駅で電車を降りると、昨晩路地裏で感じたのと同じ嫌な空気を感じた。

「大丈夫だ、いざとなれば逃げればいいんだから」と自身に言い聞かせ、三雲は昨晩と同じように西口へと出た。

 体格の良い外国人と肩がぶつかり、「Fuck!」と罵られたが、その声も聞こえないほどヒリヒリとした嫌な空気を感じていた。

 路地裏に入り、自動販売機の陰に身を隠しながら、成上に似た少女が現れるのを待った。

 手に持った缶コーヒーはもう三本目だ。

 温くなったコーヒーは甘ったるく、胸やけしてしまいそうだ。それでも飲み干してしまうと、手持ち無沙汰が何となく不安になってしまう。四本目を買おうかどうしようか迷っていた。その時、空気が僅かに揺らいだような気がした。

 来た。

 やっぱりそうだ。向こうから歩いてくるのは成上雫だ。

 隣にいるのは昨日見かけた中年男より若く、大学生ぐらいだろうか。背も高く、肩幅もある体格の良い青年で、シャツにジーンズというラフな格好をしていた。一見普通のカップルに見えなくもないが、三雲はその男を一目見た瞬間、全身の肌が粟立つのを感じた。

 何だ、あいつ。いや違う、アレだ。アレは人間じゃない。

 そう思うが早いか、彼は物陰から飛び出し「成上!そいつから離れろ!そいつはヤバイ!」と叫んでいた。

 次の瞬間に驚くべきことが起こった。青年の口元が裂け、両手が鍵爪のように変形した。化け物と化した男がその凶器の腕を少女に向けて振るった。少女は小さな悲鳴と共に吹き飛ばされ、意識を失ってしまったようだった。

「やめろ」と三雲が言う暇を与えず、化け物は猛スピードで襲いかかり、三雲の喉元を掴み、物凄い力で締め上げてきた。

「どう…やって…結界に……入った」

 裂けた口から聞き取りにくい声が漏れてきた。化け物が口を開けると、おぞましい腐臭と血の臭いがした。こんなことは起こりっこない、これは悪い夢だ、と三雲は思いたがったが、喉を締め付ける痛みが、これは現実なんだと冷酷に告げていた。

「…坊主の…臭いがする…忌々しい…」

 喉の奥から僅かに鉄の味がした。

 意識が遠くなる。

「こんな訳の分からないことで俺は死ぬのか」と思った瞬間、ふと彼の首を絞めていた力が緩んだ。どさりと地面に落とされ、彼は激しく咳き込んだ。

 何が起こったのか?

 三雲はやっとの思いで顔を上げた。苦しさの余り流れてきた涙で、視界が霞むが、そこで見たのは更に信じがたい光景だった。

 化け物の胸から腕が生えていた。この化け物と同じように鋭い爪が、化け物を背後から貫いていたのだ。

 断末魔の悲鳴が鼓膜を震わせた。

 化け物が三雲のすぐ近くに倒れた。「それ」が死んでいるのは明らかだった。左胸に大きな穴が開いているのが見えたからだ。

 三雲は自分の目が信じられなかった。月明かりの下で、自分と化け物を見下ろしていたのは、失神していると思っていた成上雫だった。

 成上の鍵爪の生えた手には化け物の心臓がのっていた。ピンク色の肉塊はまだ脈打っていて、余計におぞましかった。

 彼女はそれをぎゅっと握り潰した。どす黒い血が、勢いよく吹き出て少女の顔を濡らした。

 だがその血に濡れた表情は、恐ろしくも美しかった。死の臭いがする絵画的な美だ。

「……後……もう一匹……」

 そう呟いた彼女の目は翠色に輝いていた。少女は掌の上に残った肉片を無造作に投げ捨て、トップスの肩口で顔の血を拭いながら闇の中へと歩き去った。三雲のことなどまるで眼中にないかのようだった。

 化け物に再び目を移すと、それもまた嘘のようになくなっていた。


 四

 禍々しい空気はいつの間にか消えていて、三雲は路地裏に一人蹲っていることに気づいた。それは端から見たらひどく滑稽な様子に見えたことだろう。だが本人は恥ずかしさを感じる余裕もなかった。胸の奥にはっきりとした恐怖が残っていた。


 幻覚なんかじゃない。

 あの化け物はなんだ?

 あの翠色の目をした女は何だ?

 あの爪は何だ?


 あれは成上だ。俺のクラスにいる目立たない地味な生徒の成上雫に間違いなかった。三雲は立ち上がるとすぐに携帯電話を手にした。間島からの着信がきていたが、先に時田茜に電話をかけることにした。

「先生?どうしたの?」

「時田、今晩も成上に電話してくれたか?」

「うん。ついさっきしたよ。間島から先生に電話いかなかった?」

「いやきてた。でもさっき新宿で成上を見かけたんだ」

「さっきっていつ?」

「今だよ」と三雲は答えた。

「え?そんなことあるわけないじゃん。あたしが電話かけたのは十分くらい前だもん。雫ちゃんの家羽田空港の近くだよ。どうがんばったってそんなに早く新宿には着かないでしょ」

「……そうか……じゃあ俺の見間違いかな」

「絶対そうだって。先生パトロールなんかしてるんでしょ?間島が言ってたよ。あたしらは大丈夫だからそんなことやめなって。警察に任しときなよ。先生の方が危なっかしいよ」

「分かった。そうするよ、ありがとう」

 三雲はそう言って電話を切った。それから間島に電話を折り返し、全員在宅の報告を受けた。彼は新宿駅のプラットフォームに向かったが、まだ自分の家に帰るわけにはいかなかった。


 山手線で品川駅まで行き、そこから京急に乗り換えた。羽田に行くためだ。この目で直接成上雫の在宅を確認しなければ納得がいかない。彼女があのまま自宅に帰っていれば、当然三雲よりも先に家に着いているはずだが、それでも会って話をすれば、さっきの女が彼女自身なのかどうかは絶対に分かるはずだ。

 三雲は羽田空港の手前の駅で降りた。成上の家は家庭訪問で一度訪れたことがある。駅から少し歩くと神社があり、その近くのアパートだったはずだ。

 もうすっかり夜の帳が下りていて、辺りは真っ暗だった。駅周辺には仕事帰りの人々の姿があったが、神社の傍の通りには彼一人しか歩いていなかった。

 寺育ちのため、こうした夜の静寂には慣れていた。何よりも、先程とは正反対の清らかな静けさの中を歩いていると段々と気持ちが落ち着いてきた。

 成上が家族と住んでいるのは、決して新しいとは言えないアパートの四階だった。エレベーターがついていないため、階段で行くしかない。カンカンと靴の音をたてて四階分を上り切ると息が切れてしまった。

 運動不足を反省するのは後にして、アパートの外廊下を歩いた。すぐに成上と書かれた表札が見つかった。そのドアの前に行くと、自分が考えていたことは単なる空想だったのかもしれないという思いが強くなった。ドアの向こうには確実に人の気配があり、肉じゃがの良い香りが漂っていたからだ。

 それでもせっかくここまで来たのだからと彼は呼び鈴を鳴らした。「はーい」という穏やかな女性の声がして、ドアはすぐに開いた。

「あら、三雲先生じゃないですか?こんな時間にどうなさったんですか?」

 顔を出したのは成上雫の母親だった。娘と同じように眼鏡をかけており、顔立ちもよく似ていた。担任教員の突然の訪問に戸惑っているにもかかわらず、温和な笑顔で彼を迎えてくれた。

「あの、こんな時間に申し訳ありません。雫さんのことなんですが…」

「娘が何か?学校で問題でも起こしました?」

 母親は娘が何かやらかしたのではないかと不安そうな顔をしたので、三雲はすぐに「違うんです」と手を振って否定した。

「学校が子ども達を早く自宅に帰るように指導をしているのはご存知ですよね?」

「最近の物騒な事件のせいですよね。本当に怖いわ」

「そうです。それで、私のクラスでは連絡網を作って生徒の帰宅を確認しているんですが、帰宅途中に街中で雫さんに似た女子生徒を見かけまして……」

 言葉を用意していなかった三雲は舌をもつらせながらたどたどしく突然の訪問の理由を説明した。

「え?何時くらいですか?」

 さっきの出来事はどれくらい前のことだったろう?鈍くなった頭をフル回転させ何とか「七時過ぎですね」という一言を絞り出した。

「じゃあそれは何かの間違えですよ、先生。雫は五時には帰宅して、それから外出してないんですから。ねぇ、あなた?」

 いつの間にか母親に続いて、父親も玄関に顔を出していた。父親は初見だが、人の良さが滲み出た優しそうな顔をしていた。一家そろって大きめの眼鏡をかけていることに、何だか気持ちが和んだ。

「今日は私の仕事が早上がりだったから、雫とは丁度駅で会って一緒に帰って来たんです。それからずっと私も家にいますが、外には出ていないですよ。あの娘の部屋からは居間を通らないと玄関に行けないんです。私は居間でナイターを見ながら晩酌をしていましたから、通れば気づきますからね。ちょっと今日は体調が優れないみたいで部屋で休んでますが、呼びましょうか?」

「いえ、結構です。ちょっと心配になってお邪魔しただけですから。本当に申し訳ありませんでした」

 もう充分だ。やはり成上雫があんな化け物と関わりがあるはずがない。さっき見た女は他人の空似に違いない。自分の早とちりが恥ずかしくなり、顔が熱くなってきた。

「とんでもないです。今の時代先生みたいに生徒のことを心配してくださる人は少ないですから、ありがたいです。先生もお気をつけてくださいね」

「先生、いつもありがとうございます。今後も娘を宜しくお願いいたします」

 労いと感謝の言葉を背にアパートから出ると、今にも倒れてしまいそうなほどの疲労感に襲われた。

 今日はとんでもない一日だった。もう何も考えたくない。一刻も早く自分の家に帰って、一~二本缶チューハイでも飲んで眠ってしまいたかった。


 五

「先生、昨日の夜ウチに来たんですか?」

 翌日の朝一番、三雲がクラスに入ると成上雫が聞いてきた。彼女はいつもクラスで一番に学校に登校して本を読んでいる。

「うん。ちょっと心配でな。お父さんとお母さんにも言ったけど、成上に似た人を見かけたんだ。ひょっとしてまだ家に帰ってないのかなと心配になってさ」

「昨日も学校でそんなことを言ってましたよね。でもわたし、時田さんからの電話にも出ましたよ……先生もしかしてわたしのこと信用してないんですか?」

「違う違う!ただすごく似てたからさ。ほら、あんな事件があった後だろ?」

 三雲が慌てて否定すると、成上はその様子を見てふっと微笑んだ。どうやら昨晩の訪問に関して不快に思ってはいないみたいだ。

 他の生徒も次々とクラスに入ってきた。成上は自分の席に戻り、ドストエフスキーの最期の傑作の続きを読み始めた。

 本人を目の前にすると、ますます昨晩彼を救った女とのイメージが遠く離れていった。やはりアレは夢だったのか?いや違う、あの翠の目の女と化け物との戦闘は紛れもなく実際に起こったことだ。思考があっちに行ったりこっちに行ったりで三雲は業務に集中できない一日を送ることになった。

 さすがに昨晩散々な目に遭った新宿に足を向ける気はしなかった。ざらざらとした恐怖の残滓が三雲にこれ以上余計なことをしないように告げていたのだ。その代わりに、今まで起きた事件の情報を安全な場から調べることにした。


 しばらくの間、平穏な日々が続いた。

 成上雫は相変わらず控え目な態度で学校生活を送っていた。変わったのは読んでいる本が外国文学から日本文学になったことくらいだ。最近は大江健三郎や三島由紀夫の全集を読み耽っている。

 彼女のことよりも、いつも元気な時田茜の顔色が優れないことが三雲は気がかりだった。授業中に指名した時にもいつものように溌剌と答えるのではなく、気だるそうに答えるようになっていた。

「時田、最近あんまり元気がないみたいだけど、何かあったか?」

 昼休みに声をかけてみると、「生理中だから」という返答にそれ以上何も続けることができなかった。

「先生もう行ってもいい?」

「ああ、辛かったら保健室で休んでもいいぞ」

「大丈夫、大丈夫」

 弁当を持って時田は仲良しグループの輪の中に入っていったが、会話の中心になることはなく他の生徒の話に相槌を打ったり、笑顔を作ったりしているだけだった。その青白くなった顔色を見ていると、もしかしたらクラスのリーダーという役割を強いることで負担をかけていたのかもしれないと思った。もっと自分がこの生徒達のクラスの担任としてしっかりしなければならないなという気持ちが強くなった。

 放課後、次々と他の教職員が帰宅する中、三雲は自分のデスクに座って、パソコンで一連の死体遺棄事件の記事を読んでいた。彼の住むアパートにはインターネット回線などというものは通っていないので、ここで情報収集をするしかなかった。

 被害者の内三人は風俗嬢で、後の二人が女子高生というのはテレビのニュースでも報道されていた。この女子高生らも援助交際をしていたようだということが、ネットの情報から分かった。となると、やはり三雲が見かけたあの大学生風の男及び化け物が彼女らを金銭で釣ってから殺害したのだろう。でもあの化け物は翠の目の女が殺したのを見た。ということはもうこれ以上、殺人事件は起こらないということか。いや、最初に見た中年の男はどうだろう。アレも化け物だったのだろうか。

「三雲先生はまだ帰らないんですか?」

 田村教頭の声に、三雲は顔を上げた。教頭は四十代後半の女性で、声が異常に高い「アニメ声」ということから生徒間ではとても人気があった。社会現象を巻き起こした某人気アニメのキャラクターそっくりの声で話しかけられると、何だか奇妙な感じがした。

「はい。ええっと、まだ明日の授業で使うプリントが完成してないんです」

 パソコンの画面を素早くクリックして、だらだらと作っている英語のプリントを表示させた。

「そう。あまり遅くならないようにね。戸締り、よろしく頼むわよ」とだけ言って、教頭も職員室を出た。この事件が始まる前には、元々英語教員だった田村教頭は彼のプリントのミスや改善点を指摘してくれたものだった。今はほとんどの教員が就業時間が終わったらすぐに帰るようになっている。事務の職員達も帰っているはずだから、校舎に残っているのは彼一人だけということだ。

 寺育ちでも、夜の学校は少しだけ怖い。小学校の時に友人と肝試しで夜の学校に忍び込み、かくれんぼをしたことを思い出した。見事にじゃんけんで負けてオニになった三雲は、夜の学校をくまなく探すことになったのである。友人らは音楽室や理科室、トイレなどの「いわくつき」の場所に隠れて三雲を脅かした。その時の嫌な思い出が、大人になった今でも記憶の片隅に残っていた。

 彼はデスクの上に置いた缶コーヒーを一口飲み、子どもじみた恐怖感を振り払おうとした。再びパソコンの画面に映った事件の記事に集中しようとした時、手元の携帯電話が鳴った。間島だった。彼も律儀に連絡網を続けてくれている。そろそろこれも終わりにしてもいいかもしれない。生徒達に元通りの日常を返してやることも大人の役割だろう。

「先生、ちょっと変なんだ!」

 予想外に緊張を帯びた間島の声に、三雲は驚いた。「どうした?」と聞き返すと、時田茜と連絡が取れなくなったと言う。

「時田から電話がこなくてさ、他の女子に聞いたんだ。そしたらあいつ携帯電話にも出ないらしい」

「家の電話にはかけてみたか?」

「かけたよ!何回もかけたけど誰も出なかったんだ」

「分かった。今から時田の家に行ってみるよ」

「俺も行くよ」

「いや、お前は家にいなさい。大人に任せろ。何かあれば連絡するからさ」

「……でも……」

「いいから待ってろ。外に出るんじゃないぞ!」

 電話の向こうで間島が心配そうな顔をしているのが目に浮かんだ。間島が時田茜に気があるのは普段の様子からよく分かっていた。教師としては不適切な意見かもしれないが、似合いの二人だと思っていた。

 時田は事件の被害者となるタイプの生徒では決してない。バレーボール部のキャプテンを務め、成績も優秀、クラス委員として活躍し、教員や学生達からの人望も厚いという絵に描いたような優等生だ。それでも、万が一のことを考えると、彼女の安否を確認しに行かずにはいられなかった

 彼はすぐに散らかったデスクを片づけ、パソコンの電源を切り、住所録で時田茜の住所を確認してから職員室を出た。


 時田茜は高校からほど近い団地に父親と三つ年上の兄と一緒に住んでいる。両親は彼女が幼い頃に離婚している父子家庭だった。

 三雲は学校に置いてある共用自転車を漕いで、団地へと急いだ。どういうわけかペダルを漕ぐごとに夜の暗さが濃くなっていくような気がした。その中に自分が飛び込んでいくことに対する不安や恐怖に抗うように彼はペダルを漕いだ。止まってしまったら、もうそれ以上先に進めないんじゃないかと思い夜風を切り裂きながら自転車を走らせた。

 団地の前に着くと、三雲は自転車から降りて、建物を見上げた。まだそんなに遅い時間ではないのに、驚くほど人の気配がなかった。住んでいる住人には申し訳ないが、一家団欒とは程遠い寒々とした印象を覚えた。

 時田一家の部屋は二階の角部屋にある。入り口に置いてあった子ども用の三輪車を跨いで、三雲は建物の中に入った。コンクリート造りの階段を上がり、いくつか部屋の前を通ったが、どこからも全く人の声が聞こえないし夕食の匂いが漂ってくることもなかった。

 チャイムを鳴らしても、その部屋から誰も出てはこないだろうと思った。それでも三雲はチャイムを押した。出ない。もう一度押す。出ない。ドアを叩いてみた。出ない。叩きながら時田の名前を呼ぶ…出ない。

 ドアノブに手をかけてみると、鍵がかかっていなかった。意を決して開けたドアの隙間から形容しがたい悪臭が流れた。

 教え子の無残な姿が頭に浮かぶと同時に、三雲はその部屋に飛び込んだ。誰もいない…電気の消えた部屋にはテレビやテーブル、椅子などの家具は何もなく、がらんとしていた。それでも彼はついさっきまで「ここ」にあの化け物どもがいたのだと確信した。新宿の路地裏で感じた空気の澱みとそっくり同じ物がこの部屋にあったからだ。


 六

 三雲はすぐに警察に電話をした。

 かけつけた警察官には、時田茜が電話に出ずに心配になり、ここに来たのだと説明した。ドアも最初から開いていたと話した。

「本当なら先に警察に連絡するべきでしたね。一歩間違えれば不法侵入ですよ」

 厳しい態度の警察官の相手をすることは面倒この上ないことだったが、三雲は丁寧に応対した。こういう時に変に逆らったり、感情を表に出したりしたら、逆効果になることはよく分かっていた。

「すみません、軽率でした」

 これで頭を下げるのは何度目になるだろうか。彼は自身の愚かさを心から反省しているかのような声が喉から出ていることを願った。

「気をつけて下さいよ。心配になる気持ちは分からなくはないですが、これはどう見ても普通の夜逃げでしょうね。まぁ素人判断は止めて、我々に任せてください」

 さっき自分が間島に言ったのとそのまま同じ台詞を返された後、ようやく三雲は解放された。不思議なことに、警察官が到着した後すぐに、団地が突然息を吹き返したかのようにそこかしこから人の気配を感じられるようになった。部屋の中の臭気も、外気の中に紛れてしまったみたいだった。

 すぐに携帯電話を使って管理職に連絡をした。電話に出た田村教頭にさっき警察官に話した内容を丸々再現して聞かせた後、間島にも電話をした。彼には時田の家族が夜逃げしたみたいだとだけ伝えた。間島はかなりショックを受けているようだった。時田と仲が良い連中に最近どんな様子だったかを聞いてみると言って少年は電話を切った。

 三雲も自転車に跨って時田を探しに行きたかったが、どこを探したら良いのか皆目見当もつかなかった。結局、彼は闇雲に団地の付近を回ることにした。そこかしこにある工場や公園をくまなく探したが、時田の姿はなかった。

 学校に戻り、自転車を返した時にはもう深夜の零時を越えていた。


 翌日、やはり時田茜が学校に現れることはなかった。

 三雲は生徒の不安を掻き立てるようなことをしないように上から指示された。警察が調査を終えてはっきりとした結果が出るまでは「家庭の事情で休んでいる」ということにする、ということで決まった。

 だが当然そのような当面の嘘で高校生の口に戸を立てることはできなかった。三雲が担任をしている二年A組の生徒達の表情には明らかに以前にはなかった翳が見て取れた。皆表立って時田のことを詮索することはなかったが、噂はすぐに広まった。


「茜、いなくなっちゃったんだって」

「家族全員失踪なんておかしくない?」

「もしかしたら、あの連続殺人事件に巻き込まれたんじゃない?」

「死体が見つかるってこと?」

「知り合いがそんなことになったら怖くない?」

「テレビのレポーターが学校に来たりすんのかなぁ?」

「目のとこモザイク入れられて、高い声でテレビに出んの?恥ずいって」

「うちらも狙われるかな?」

「もう狙われてたりして……」


 そんな状況の中でも、成上雫だけはいつもと全く変わらない様子だった。まるで時田茜という生徒が最初から存在しなかったかのように、マイペースを崩さなかった。時田は成上とは仲良しだと言っていたが、成上にとってはそうでもなかったのだろうか。それにしても、その態度は少し冷たいと思わざるを得なかった。

 反対に今まで冷静で頼れるクラスのリーダー的存在だった間島は完全に落ち着きをなくしていた。時田の友人らに聞いても「ちょっと元気はなかったけど、あんまりいつもと変わらなかった」という何の役にも立たない回答しか得られなかったらしい。高校生という身分ではそれ以上のことが何もできないという無力感に苛立ちを感じているみたいだった。

 ひっきりなしに貧乏揺すりをしている間島の様子を見ながら、三雲はこの少年に対して担任としてどのようにフォローするのがベストなのだろうかと思い悩んだ。

 帰りのホームルームの際に、時田の代わりに女子の帰宅確認を取りまとめてくれる人はいるか、と訊くと以外にも成上が手を挙げて立候補した。いつも控え目な成上が自分から進んで何かをしようとしていることに担任である三雲を含めてクラス全体が驚いたが、他に立候補者もなく反対意見も出なかったので、彼女に決まった。男子はどうするか、間島一人に頼るのもクラスとしては余り良くないんじゃないかと三雲が言ったが、当の間島が「このまま俺がやるよ」と有無を言わさぬ調子で言ったのでそのまま継続ということになった。

「間島、ちょっといいか?」

 三雲は間島を小声で呼び止めた。下校のチャイムが鳴り、他の生徒が教室から出るのを待ってから彼らは向き合って座った。

「時田のこと?」

「うん……お前がどう考えてるのか知りたいと思ってさ」

「どう考えたっておかしいでしょ!あいつ、夜逃げする素振りなんて全然なかった…クラスの連中にもそんなこと洩らしたことないって」

「時田の父親やお兄さんと会ったことはあるかい?」

「ちゃんと話したことはないけど、何度か見かけて挨拶くらいはしたことあるよ。どっちも普通のちゃんとした人達だった」

「最近、調子があんまり良くなかったように見えたけど」

「俺もそう思った。最初の内は連絡網のことで電話がかかってくる時に少し話したりしてたんだ。学校のこととか、進路のこととかさ。でも最近は『全員確認した』だけになってた。先生、もしかしたら皆が噂しているみたいに、あいつ何かヤバいことに巻き込まれちまったのかな?」

 三雲の身体からじとっとした汗が滲み出た。あの腐臭が鼻の奥にまだ残っているみたいだった。

「……分からない。でも例えそうだったとしても、お前が抱える問題じゃないよ」

「俺、あいつのために何ができるかな?」

「本人に連絡はしてみた?」

「何回もしたよ。メールも打ったけど、返ってこない」

「じゃあ、もうできることはないさ。探すあてもないし、変に動き回ってお前が危険な目に遭ったりしたら意味がないだろ?時田はきっと大丈夫、落ち着けばまたお前達に連絡してくるはずさ。もし、彼女から連絡があればいの一番で俺に教えてくれ、頼むぞ」

 間島は小さく頷いて、席を立った。

 教室に一人残った三雲は、これから何をすればいいのかを考えた。警察に相談しても信じてもらえるはずがない。郷里の父は生まれてこの方幽霊を見たことは一度もないと常日頃から言っている。霊感のない住職に化け物退治ができるとは到底思えない。もしこんな話を相談したら頭がおかしくなったと心配されて、又実家に戻ってくるように言われるだけだろう。三雲は教壇に拳を叩きつけた。

 ガラッ。

 唐突に教室の後部のドアが開いた。そこにいたのは成上雫だった。

 だが、何かいつもとは様子が異なるようだった。眼鏡をかけておらず、本を抱えてもいない。彼女は真っ直ぐに三雲を見据えていた。その目の奥がちらちらと翠色に輝いているように見えるのは気のせいだろうか。

「なっ成上か、どうした?忘れ物でもしたか?」

 彼女は三雲の問いかけに応えることなく、教室の中に入り、彼に歩み寄った。

「……命が惜しければ、これ以上の詮索をやめろ。あんたが、介入できることじゃないから、邪魔になるだけだ」

 その声は低く、押し殺されており、圧倒的な迫力があった。少女の吐息を耳元に感じながら、三雲は蛇に睨まれた蛙のごとく一寸も動くことができなかった。

「……あたしは警告したぞ……」

 その目の奥の翠色の輝きが今ははっきりと見えた。成上雫はいつもの声色に戻って「先生、さようなら」と言って、彼から離れた。


 七

 どうなってるんだ?

 やはり、あの翠の目の女は成上雫だったんだ!

 でも、彼女の目的は一体何なんだ?


 三雲は完全に自身の想像力のキャパシティを超えてしまった一連の事件について考えることに加え、次の日から、どんな顔で成上に接すれば良いのか頭を悩ますことになった。

 翌日、三雲の心配とは裏腹に、成上雫はいつものように朝一番でクラスに入ると「おはようございます」と言ってから自席に座り、早速朝の読書を始めた。昨日のことなど全くなかったかのような自然な素振りだったので、三雲はまたも当惑してしまった。クラスの中に彼女と二人でいることに息苦しさを感じた。何かを話しかけてみようと思うのだが、頭に浮かぶのは彼女が言う所の「余計な詮索」ばかりだった。

 三雲は教務手帳を開いて、意味のない数字を書き込んでは消すことで、手持ち無沙汰をごまかした。気づかれないようにちらちらと様子を伺ってみたが、成上は視線を上げることなく、文学の世界に没頭しているようだった。

 やがて他の生徒が登校し、三雲は一人感じていた重苦しい空気から解放された。

 欠席者がいないことにとりあえずはホッとしたが、それでも生徒達の表情からは不安が拭い去られていなかった。とりわけ、心配になったのは間島だった。

 顔色が昨日までとは明らかに違って、青白くなっていた。失踪前の時田と同じような雰囲気があった。クラスメートは単に彼の意中の人である時田茜がいなくなったことに傷心しているのだろうと思い、見守っていた。軽口を叩けるような話題ではないということは、このクラスの全員が分かっていたのだ。

 三雲は次にいなくなるのは間島なのではないかと心配になり、ホームルームの後に彼に話しかけようとした。すると先手を打つように成上が立ち上がり、間島に話しかけた。

「今日から私が女子の連絡網をまとめて、間島君に電話するね」

 おずおずと恥ずかしそうに話す成上に対して間島は「ああ、うん」とぼんやりと返事をした。成上雫は振り返ると、三雲と目を合わせた。あの鋭い目つきだった。これも「余計なこと」なのか…三雲は意図を察し、踵を返して教室から出た。


 七時半頃になると、いつものように間島から報告の電話があった。三雲はさりげなく調子を訊こうとしたが、間島は虚ろな声で「ああ、別に」とだけ言って電話を切ってしまった。

 嫌な予感がしてならなかった。その予感は近いうちに的中するだろうという確信があった。

 購買の自動販売機で買った缶コーヒーのブラックを啜りながら、誰もいない職員室で彼は空っぽになった頭をひねり続けた。

 更に半刻ほど学校に居残り、これまでに起こったことの中で合点がいかないことをプリントの裏に書き起こした。


 新宿で翠の目の女に遭遇した時間に、時田茜は成上雫の自宅在宅を確認している。

 成上雫の自宅を訪れた時に両親にも確認を取っている。


 誰かが嘘をついている?

 何のために?

 時田茜はなぜ狙われたのだろうか?

 無差別に、たまたまあの化け物に出くわしたのか?

 ただ、運が悪かったから?

 あの化け物には仲間がいるのか?

 確かあの時「後、もう一匹」と言っていなかったか?

 それが今度は間島を襲おうとしているのか?


 三雲は子どもじみた乱雑な字で書き記したメモを見直すと、ぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨てた。余計に頭がこんがらがってきた。苦いだけで香りもしないコーヒーの残りを飲み干して、彼はようやく学校を出ることにした。

 それでもこのまま家に帰ることに罪悪感めいたものを感じた三雲は時田茜一家の住んでいた団地を通っていくことにした。もしかしたら時田が帰っているかもしれない。そんなあるわけもない希望に縋って行動することぐらいしか今自分にできることはないような気がした。

 周囲をきょろきょろしながら彼は夜道を歩いた。あの恐ろしい表情をした成上に見張られているのではないかと心配したからだ。どうやら誰も尾行していない。というより、周囲には誰も歩いていなかった。

 さりげなく団地の前を歩いてみても、何も感じられなかった。彼はそっと中に入り、時田一家の部屋まで行き、ノックするが当然返事はなかった。彼は今日できることはこれでやり切ったと自身を納得させ、団地を出てそのまま駅に向かった。

 三雲は翌日も同じことを繰り返した。間島からの報告を受けてから団地に寄って、帰宅する。だがその次の日、変化が起こった。七時半を過ぎても、間島からの電話がなかったのだ。すぐに携帯電話に連絡を入れてみるが何度電話してもツーツーと不在着信音がするだけだった。恐る恐る成上雫に電話してみるが、こちらも出ない。パニックになりそうになるのを制して、彼は間島の自宅に電話をしてみた。

「もしもし。あ、先生ですか?」

 電話に出たのは間島の母親だった。間島の在宅を確認したが、少し前に友達に会いに行ってくるといったきり戻っていないようだった。母親の心配を煽らないように気をつけながら、家庭での間島の様子を尋ねてみた。やはり、家でも元気がなく口数が減ったみたいだった。それでも食欲はあるし学校にも行こうとするので、それほど大きな心配はしていなかったと母親は答えた。

「誰と会うのか言ってましたか?」

「いえ、具体的には。でもとても嬉しそうな顔してました。しばらく息子のあんな顔は見てなかったから安心しましたわ。先生は何か息子に御用がありましたか?」

「えっと……ちょっと彼と話したいことがあったので……家に戻ってきたら私に折り返すように伝えてもらえますか」

 三雲は自身の焦りを最後まで声に出さないよう最大限の努力をして会話を終えた。電話を切るやいなや、彼はすぐに飛び出した。

 間島が誰に会いに行ったのか、直感ですぐに分かった。時田だ、時田茜は襲われてなかったんだ!

 彼は学校の最寄り駅まで全速力で自転車を走らせた。間島がすでに着いていないことを祈りつつ彼はテレビドラマで見た探偵のごとく目立たないように駅前のロータリーにある公衆トイレに身を隠した。

 駅のホームに電車が到着する度に、三雲はロータリーを通り過ぎる人の中に間島の姿を探した。数回肩透かしを食らった後に、間島がホームから出てきた。間島が携帯電話を取り出し、慣れた手つきでメールを打つのが見えた。時田とここで待ち合わせをしているのかもしれない。

 しかし、間島と合流したのは時田ではなかった。佐藤かえで、仲村静香、山本正美、皆三雲が担任をしている二年A組の生徒で、時田と特に仲の良いグループの女子達だった。彼らは駅前で集合するとすぐに歩き出した。三雲は距離をおいて生徒達の後を追った。


 八

 間島が先導し女子生徒達を連れていったのは、時田茜が住んでいた団地のすぐ近くにある工場の中にある空き倉庫だった。当然三雲は以前ここも探してみたが、その時には人っ子一人いなかった。

 日が落ち真っ暗になっているが、三雲は彼らに見つからないように慎重に距離を詰めた。倉庫の前で四人が話している声をかろうじて聞き取ることができた。

「本当に、こんな所に茜がいるの?」と、佐藤かえでが間島に詰問するような口調で問いかけた。

「茜は大丈夫なの?怪我とかしてないよね?」

「本当に大人に連絡しなくていいのかな?三雲先生には報告したほうが良くない?」と仲村と山本が続いた。

「時田はこの中にいるよ……今は俺らだけに会いたいんだって……何があったかは時田に直接訊いてみた方がいいよ」

 間島が抑揚のない話し方で答えて倉庫のドアを開けると、生徒達は恐る恐る中に入ってしまった。すると、それまで周囲を照らしていた間島の携帯電話の灯りが消えてしまい三雲の周囲は完全に闇に呑まれた。

 あいつらを止めなきゃ!

 足がすくみそうになるのを堪えて、三雲は倉庫の入り口に向かって走った。倉庫の扉を開けようとしたが、おかしい、扉がはんだづけをされたように動かなかった。間島は鍵なんて使っていなかったはずなのに。どんなに力を入れてもビクともしない。焦りが募る一方だった。

「どうすればいい?」と自問しながら、彼は無意識に手首に巻きつけている数珠を触っていた。指先に触れる数珠の感触によって、三雲はパニック状態から脱することができた。同時にこの邪気に対して唯一自身がなし得ることを思い出した。

 彼は息を整えて、もう一度数珠を撫でて、うろ覚えのお経を口にし始めた。幼少の頃から聞いていたとはいえ、本格的に学んだわけではないので当然完璧ではない。所々をはしょりながら覚えている部分を繋げる。それを繰り返すと、頭の中から雑念が消えていき、意識が澄んでいく。「開け、開け、開け」と念じながら扉に手をかけた。


 開いた、嘘のようにすんなりと扉が開いた。


 三雲は生まれて初めて自身の出自に感謝をした。倉庫の中に入り、読経を止めると、背後で扉が再び固く閉ざされるのを感じた。

 深い闇を間島の携帯電話のライトがかすかに照らしていた。工事に使われる予定だった廃材が積まれた山の前に三人の女子生徒が倒れているのが見えた。携帯電話はそのすぐ近くに落ちていた。三雲はそれを見た途端、恐怖を忘れて教え子達に駆け寄った。

 三人とも息はしていた。しかし苦しそうに呼吸をしており、手足を小さく痙攣させていた。すぐに病院に連れて行かなければと、三雲は自身の携帯電話を取り出して119番をダイヤルしようとしたが、圏外になっていた。それならば、彼らをここから外に出すしかないと膝をついた。そうだ、間島はどこにいるのだろうか。目を凝らし、周囲を見回しても見当たらない。

「あら…三雲先生じゃない…」

 廃材の上から、聞き覚えのある声がした。それは口から息が漏れているような不鮮明な話し方だったが確かに時田茜の声だった。見上げると、彼女の姿があったが、顔はよく見えなかった。

「時田か?お前、どうしたんだ?」

「心配してくれてたんだ……大丈夫……ちょっとお腹が空いてるだけだから……これから食事をすれば…前みたいに…学校に行けるし…自分の家にも…帰れる…ちゃんと中間テストも……受けるから」

 時田はかなりの高さがある廃材の山から飛び降りて、三雲の前に立った。あの腐臭が鼻についた。

「……あたしね…お父さんと…お兄ちゃんが……誰かに…殺されちゃって…『餌』を…取れなく…なっちゃって…おかしいんだよ…ううん、それだけじゃない…少し前から…おかしかったんだ…お腹が減って…仕方なくなったの……ごめん……話が飛んだ……時系列で……話すのが大事だよね……あたし…戻りたいの…だから…そのために……間島に頼んだの…間島は…わたしのこと…好きみたいだからさ…簡単だった…かえでと静香と…正美を…ここに連れて来てって…言ったの」

「何の…何のためにだ?」

「…喰べるため!」

 時田の双眸が赤く光った。口元が大きく裂けているのが見えた。それからその肉体が、メキメキという音をたてて変化をした。灰色の筋肉が大きく膨れ上がり、制服はずたずたの布切れとなって本来の役割を成さなくなった。一糸纏わぬ姿に、もはや女としての特徴はなかった。新宿の路地裏で見たあの化け物とそっくりだった。いや、それよりももっと大きく見えた。人外の妖魔を前にして三雲は恐れ慄いたが、何とかして生徒達だけは守りたいと思った。

「時田!やめろ!喰うのは俺だけにしてくれ!こいつらは逃してやってくれ!」

 これが彼にできる最大限のことだった。

 化け物と化した時田が少し首をかしげたように見えたかと思うと、目視できないスピードで動いた。三雲は何が起きたのかまるで理解できなかった。いつの間にか化け物の足が自身の頭を踏みつけていた。

「だめ…先生…だめよ…『時田』…『茜』…の姿でいる…には……若い女の…血肉を……喰らわないと…いけないの…」

 頭に加わる力が強まり、三雲は自分が死ぬんだと思った。

「お前、馬鹿か。これだけ立て続けに殺しておいて、人間として暮していけるわけがないだろう」

 意識が遠のく中、氷のように冷たい声が倉庫の中に響くのを聞いた。化け物が自分の頭から重たい脚をどかしたのが分かったが、そこからぴくりとも三雲は動くことができなかった。


 九

 いままでどこにいたのか、成上雫が闇の中から姿を現した。ひざまであるスカートに大きな眼鏡、いつもの教室でのいでたちだった。声だけが低く、いつもと異なった。まるで別人が発しているかのような声だった。

「死んでもらう」

 吐き捨てるように言うと、成上は眼鏡を外し地面に落とした。同時に双眸が翠色の強烈な光を帯びた。少女は化け物に向かって華奢な腕を伸ばして掌を開いた。

「雫ちゃぁん!あなだ、だっだのぉ!」

 前動作なしに化け物が腕を振るうと、それは異様に伸縮して成上を襲った。不意打ちを食った成上はその攻撃をいなし切れず、肩口に傷を負ったようだった。

 化け物の爪が成上の血で濡れていた。その血を長い舌で拭うように舐めると喉の奥から不快極まる音を発した。


 ゲヒ、ゲヒィ!


 それは何とも形容しがたい笑い声だった。その不気味な笑い声がしばらく続くと、怪物の顔はいつの間にか時田茜のものに戻っていた。筋骨隆々の化け物の首に女子高生の顔が載っているというのは不気味な光景であった。

「聞いたことがあるわ。妖魔喰いをすることで力をつけた退魔の者がいるという噂をね。それが雫ちゃんだなんてぜーんぜん気づかなかった。同じクラスにいたのにねぇ」

「……」

 まるで教室の中で友人に話しかけるように喋り続ける時田に対して、成上は微動だにせず獲物を狩るハンターの目つきで異形の者を睨みつけていた。

「あの『翠眼の王』を喰らった愚かな一族は代々強大な妖力と同時に呪いを受け継ぐことになったことも知ってるわ。わたし達の間では有名な話よ。成上…『成る神』だったのね!もっと早く気づけば良かった。ほんの少し血を舐めただけでこんなに回復したんだから、全部食べたらもうこんな姿にならなくて済むよね。そしたらきっと何人も殺さずに済んだのに。雫ちゃん、ひどいよ」

「…………か?」ぼそりと成上雫が呟いた。

「なぁに?聞こえないよ」

「……最後の言葉だよ。もういいか?」

 そう言い終えると、今度は成上の細い腕の皮膚の下で何かが蛇のように動いた。それが指先にまで達すると、ナイフのように鋭い鍵爪が飛び出した。

 身体の一部が化け物の少女が、頭だけが少女の化け物に向かって物凄い勢いで走った。成上が爪を振るうと時田がそれを自身の爪で受ける音がした。スポーツなんかとは全く縁がないように思えた文学少女はアクロバテッィクな動きでもって化け物を翻弄していた。時田が何とか隙を見て反撃をしようとすると、ふわりと浮くように後方宙返りをしてその攻撃を避けた。その翠眼が相手の次の動作を読んでいるかのようだった。

 時田の身体は次第に傷つき、巨体から血が流れていた。人間の顔を維持する余裕がなくなったのだろう、再び醜い妖魔の顔へと変わり、口元からは血が混じった涎が垂れていた。化け物はついに膝をついた。決着の時がきたのだ。

「これで終わりだ」

 成上は何の躊躇いもなく、かつてのクラスメートにとどめを刺すべく爪を振りかざした。それを妨げたのは、空気を切り裂く音とともに少女の腹部に突き刺さった廃材だった。

 どさり。

 嫌な音をたてて成上雫は倒れ込んだ。大量の血が溢れて地面を濡らしているのを、同じように倒れていた三雲は見た。両方の目からは翠色の輝きも失われていた。

「だめだ!だめだ!だめだ!時田は殺させない!」

 倉庫のメザニンに間島は立っていた。そこに積まれていた先の尖った角材を成上に向けて放ったのである。

 どう考えても普通の人間にできる芸当ではなかった。だが、驚愕している余裕はなかった。三雲は痛みや恐怖により固まっていた身体を無理やり起こして立ち上がり、木の杭の次の一撃が襲ってくる前に成上を抱き抱えて、倉庫の端にうち捨てられている高所作業車の背後に身を隠した。

「……油断した……間島は……血を吸われて……使い魔に……」

 成上は最後まで言い終えることができずに激しく咳き込んで、血を吐いた。それから身体が痙攣し始めて、全身の血管が浮き上がった。彼女はそれでも口を動かして何かを言おうとしていたが「……なりたくない」としか聞きとれなかった。

「しゃべるな、成上!」

 ガクガクと震えている教え子を抱きかかえながら、三雲は言った。直後に間島の投げる廃材が作業車に当たった。

「先生…雫ちゃん…そこにいるのねぇ…」

 時田にもどこにいるのか分かってしまった。化け物が舌なめずりをしてこちらに向かってきている。

「そうだ…先生も…わたしの使い魔に…しよう…今度は…わたしと間島が…双子の兄妹になるの…先生は…年の少し離れたお兄さんに……になってもらうわ」

 邪な声がもう間近に迫っている中、三雲はさっき時田の顔が成上の血を舐めて人間に戻ったのを思い返した。


 身体の一部が化け物の少女

 頭だけが化け物の少女


 三雲は迷わずに成上のナイフのような爪を自身の手首に当てて、横に引いた。パクリと皮膚が切れて真紅の血が溢れ出た。アドレナリンが分泌されているせいか、痛みは感じなかった。成上の頭を膝の上に載せて、その血を彼女の口元に垂らした。ぼたぼたと血が落ちて少女の唇を濡らす。弱々しく口が開き、成上は零れ落ちてくる血を嚥下した。

 少女はカッと翠色の目を開き、腹部に刺さった木の杭を抜いた。一瞬の苦痛の悲鳴をあげた後、成上はその杭を忌々しげに放り捨てて三雲を見た。

「ありがとう、先生」

 そこから先は一瞬のことだった。成上は三雲の腕をほどき、作業車の前に出て時田に対峙した。間島が投げつけてきた廃材をほんの少しの動作で交わし、時田に向かって跳躍した。

「ああああああああああああああああああ!!」

 咆哮をあげながら、成上は空中で身体を捻って時田の最後の攻撃を交わし、その爪を真横に一閃させて化け物の首と胴体を切り離した。

 地面に落ちた首は、最後に「ずるいよ、雫ちゃんだけ」と言い残して消滅した。最後の言葉を話す時の声がまぎれもなくクラスの人気者だった時田のものだったので、三雲の胸は痛んだ。化け物だったとしても、彼にとっては大切な生徒の一人だったのだ。


 十

 危機の去った倉庫の中で、成上雫は手際よく三雲の手首の傷に応急処置を施してくれた。佐藤、仲村、山本の三人の女子生徒はまだ意識を失ったままだが、瘴気にあてられているだけなのでしばらくしたら目が覚めるとのことだった。使い魔にされかかっていた間島も時田が消えてしまったのと同時にその場に倒れてしまっていた。彼のほうは病院に連れて行き状態を観察したほうが良いらしい。

「成上、聞いていいかい?」

 説明を終えて、この場を離れようとした素振りを見せた成上に三雲は訊いた。

「何?」

「俺が新宿で見たのは成上だよな?」

「そう。あいつの使い魔を探して、狩場にしばらく通ってたの。餌の供給を断ち切れば、尻尾を出すはずだと思ったから」

「時田が、その…化け物だってのは知ってたのか?」

「仲間が調べた。何十年も前からあいつは『時田茜』という名前を使って、色々な学校に通ってたわ。でも自分では中々動かないし、いつも誰かと一緒にいるから外でも狙えなかった。住処には結界を張ってあったから、こうするしかなかった」

「そうか」

「もういい?」

「待ってくれ、もう一つ。新宿にいたのが成上なら、時田の電話に出たのは誰なんだ?」

「先生、うちに来た時にうちの両親に会ったでしょ?」

「会ったよ。それが何か関係あるのか?」

「あれは『式』と呼ばれるものだよ。わたしの声も出せるように作られてる。だからどちらかがわたしの声真似をしたんでしょ」

 そんな現実離れした話でも今なら信じることができた。三雲は成上の口調に刺々しさがあることに気づきながらも話を続けた。

「じゃあ、あれは本物のお父さんとお母さんじゃないのか?」

「そうだよ。あれはわたしとは何の関係もないただの式神。普通の家族を装って、怪しまれないようにするためにいるの。それからあいつらにはもう一つ大事な役割があるの」

「どんな?」

「わたしがもし、妖魔になりきってしまったら、始末するという役割よ」

 もうそれ以上は話すつもりがないという意思を示すように、成上は三雲に背を向けて歩き出した。


 三人の女子生徒はこの晩のことをほとんど何も覚えていなかった。

 間島はしばらく入院していた。三雲と放課後に教室で話した日の帰り道に時田茜に遭ったことは覚えているが、倉庫での出来事は覚えていなかった。三雲が時田茜一家がいなくなったのは「夜逃げ」のためだと警察から連絡があったことを伝えると、納得のいかなそうな顔をしていたが、日に日に元気にはなっているみたいだった。

 成上雫はというと……彼女がもう自分の前からは姿を消すだろうという三雲の予想を裏切り、いつものように学校に登校していた。

「てっきり、どこかに行っちまうんだと思ったよ。ほら、よく小説とかの主人公は正体がバレるといなくなるだろ?」

 ある日の朝、三雲はいつものように大きな眼鏡をかけて、難しそうな本を読んでいる成上に言った。

「『彼女』がいきなり食欲を抑えられなくなった理由を探らないといけないの」と成上は本を読みながら小さな声で答えた。

「あの時は、ありがとう、先生。でもね…」

「何だ?」

「あんまり足を突っ込むと、危ないですよ」

 口調を変えて本から目を上げて三雲を見た成上雫は他の生徒と何ら変わらぬように見えた。三雲はこれからもきっと足を突っ込むことになるだろうと思いながら、手首に巻いている数珠に手を触れた。


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