半裸列車
浜松行の夜行列車だった。
駆け込み乗車はいけないと知っていながら、うす暗いホームからプシュウと開いたドアに飛び乗る。
どうして浜松に行くのか、いったいなぜ行く先が浜松なのかもわかっていない。
ブルートレインのようないいものでもなかった。
ただ私は、遠い昔の田舎の電車のような、車両の前後だけに4人用ボックスシートがあり、後は対面のベンチ式になっている客車の中にいた。
つり革が所在なく揺れている。
トイレが近いのか、連結から上がってくるのか、かすかな尿の匂いが鼻を掠めた。
進行方向を背にしてボックスシート窓側に、鞄を抱きしめて座り込む。
真っ暗な窓の外は何も見えず、まだ30前だというのに、目の落ちくぼんだ自分の顔が見返すだけ。
首を回してぼんやりと自分の周りや隣のボックスシートを見やると、いつのまにか満席となっていた。
立っている人はいないのがせめてもの救いか。
寝台もない電車で夜通し立っているなんて、苦行でしかない。
ふと、車内アナウンスが聞こえる。
「本日の達成率は75パーセント。本日の達成率は……」
3度繰り返して沈黙した。
まるで降水確率でも告げるように。
喉が渇いていた私は、車内販売が来たらしい音を聞きつけて、係のおねえさんに声をかける。
「コーヒーお願いします」
背が高く、栗色の髪を長く垂らした販売員さんはチラリと私を見て、通り過ぎようとする。
彼女の波打つ髪の間には、たわわな双丘が誇り高く輝いていた。
ーーーーはだか。
即座に視線を下に落とすと、スカートは穿いている。半裸だ。
挙動不審になる私に、斜め横に座る若い男が、イケメンをぐっと突き出してにやける。
「頼んであげましょうか? その格好じゃあダメですから」
よく見ると、黒髪をムースで流した彼も、色白の肌と控えめな茶色の乳首を見せている。
下はスーツのズボンに革靴。
私が彼の申し出に答えられないうちに、車内販売は去って行ってしまった。
隣の4人席をよく見ると、上半身裸の母親にふたりの小学生が、やはり胸を顕わにして寄り添うようにして眠っていた。
その向かいにはふたりだけの会話に忙しい大学生カップル。
彼女の胸先はツンと尖って赤桃色。
ふたりお揃いの棒状の乳首ピアスを片方ずつにしている。
ひと目でカップルだとわかるのに、手を繋ぐだけでお互いの胸には触れていない。
話しかけてきたイケメンサラリーマンは立ち上がって、隣の客車に移動してしまった。
私のせいで気分を害してしまったのかもしれない、恥をかかされたと思ったのだろうか?
入れ替わりなのかよくわからないが、丸メガネをかけた、すこしぽっちゃり気味の30代男性が来て、私の斜め前に着席した。
重心を後ろに下げ、足を前に投げ出して、あまり行儀のいい座り方ではない。
私のほうをじろりと見て、眼鏡をクイっとあげた。
「達成率アップにご協力ください。達成率アップに……」
アナウンスはまた3度繰り返して沈黙する。
丸メガネの男は、さらに視線を意地悪にして私を見つめる。
そこへ、お弁当を売る車内販売さんが現れた。
小柄で黒髪、薄化粧で、幼馴染に似ている。
カートを押してではなく、腕にかけたかごに、お弁当は5つくらいしか入っていない。
彼女は普通に長袖ブラウスを着ていた。
ホッとしたのも束の間、私の隣、通路側に座っていた中年女性がその袖を引っ張って、
「何これ、職員がこんなじゃ示しが付かないじゃない」
と言って、横の私をギロリと睨んだ。
それを合図に、周囲の乗客皆が、お弁当係さんに詰め寄った。
「お客様、申し訳ありませんがお弁当担当は統計外でして……」
「そうなの?」
「はい、過去に、お弁当の角でケガをし、お弁当を汚してしまった事例がありまして……」
謎の会話が乗客を宥めたようで、一瞬殺気のような緊張が走った車内が落ち着いてくる。
となると、仮眠を取ろうとする人以外は、そこかしこから、私をちらちらと窺い見るようになった。
「75パーセントって困るわよねぇ」
「過去最低じゃないか?」
「若いからってそんなに隠したいものなのかしら?」
隣のボックス席、自分の座席の背もたれの向こう、ドアの近く、車内あちこちからひそひそ声がする。
ここまで聞こえれば私にもわかる、この電車は『半裸電車』で、達成率とは車内できちんと半裸でいる人々が4分の3しかいない、ということだ。
私の隣のオバサンは、1ミリでも私から遠く離れていられるように座り直して、両眼を閉じた。
連れだと思われたら困るのだろう。
彼女の胸は重力に抗しているとはいいがたいが、何人か子供を立派に育てたらしい証に、若い娘とは違った迫力があった。
私の前に座るおじいさんは、こげ茶色の乳首以外にもあちこち茶色いシミの見える皺の寄りがちな胸を見せながら、最初から眠っている。
「脱がないのか?」
唐突な声は、丸メガネの男から発せられたものだった。
「ムリヤリ剥がれるより、自分で脱いだほうがいいぜ?」
「え? 力ずくで脱がされるんですか?」
「いつもより神経質な乗客が多いらしいな、今日は」
「た、達成率を上げることが、そんなに大事なんですか?!」
「まあ、そうだな。半裸達成率イコール、この列車がスケジュール通りの運行を達成できる率、だからな」
「浜松に行けない率が4分の1もあるの?」
「ある」
滅茶苦茶なことを言われていても、この男と会話が通じることに私は幾ばくかの安心感を得ていた。
「どうしてこんなことに?」
「いつから?」とか「裸に意味がある?」とか雑多な質問が頭をよぎったが、男はしーっと声を落とすように身振りする。
「眠れない客は気が立ってる。剥がれたくなかったら静かにしてろ。女の声は響く」
私がぎゅっと自分の胸と鞄を抱きしめて俯くと、メガネ男は低音で説明を続けてくれた。
「乗客参加型交通機関と呼ばれる。鉄道会社に自分の運命を預けるだけではいけないって考えだな」
(だからって、乗客が裸になっても、重量が減るわけでも燃料が安くなるわけでもない……)
口には出さなかったが、ちらりと合った私の瞳が男にそんな思いを伝えたのだろう。
「共通の目標に向かって一丸となって同じ行動を取ることに、意味を見出す人もいる」
(バカげてる)
「あなたも?」
「いや、オレは脱いでない客の反応が面白いから」
私はムッとして聞き返す。
「それだけ?」
男は肩をすくめてみせた。
「触りたくならない?」
驚いた男の顔からメガネがズレた。
いつもならもう少し婉曲な表現を使う。
でも静かに話せと言われ、脱げと圧力かけられているようで、言葉を選ぶ余裕がない。
「触ったら電車が止まる。目的地に着く前に」
「そうなんだ」
他人の胸に触った瞬間に、運行の達成率はゼロになるということ。
「苦行じゃない?」
男は何とか吹き出すのを止めた。
「皆もう慣れっこなんだよ。いつも見てりゃセクシーでもなんでもない」
「そう」
「だから隠してるアンタのは、見てみたいと思うけどな?」
私はどっと赤面する。
「オレと……、次の駅で降りないか?」
男もうっすら赤らんで尋ねた。
「でも、この電車、浜松までノンストップ……」
私の反応にイエスの意を汲み取ったのだろう、男は書類鞄内に丁寧に畳んであったワイシャツを取り出した。
「着衣客2人を吐き出すためなら、停車可能な次の駅に列車は停まる。達成率を上げるためにな。ドアのところに立って待ってればいい」
浜松に何があるのか、結局わからずじまいだった。
なぜそこへ自分が向かっていたのかも。
『半裸列車』を降りて、私がメガネの男に胸を見られてしまったかどうかは、一生の秘密だ。
ー終わりー
読んでくださってありがとうございます。