下手くそな絵
亜実は両手を後ろで縛られている。
目の前には知らない男がいて、右手にはなにかのスイッチらしいリモコンを持っている。亜実の隣には親友のすずがいる。すずの首には首輪がつけられていて、手を縛られているほかに目隠し、口はタオルで覆われている。
男は落ち着いた雰囲気だったが徐々に興奮してきているのがわかった。男の顔は若かった。おそらく大学生くらいでほっそりしている。
視界を奪われ声を出せない状況にあるすずの表情はわからないが、すごく怯えているはずだ。机にはよくわからない小さな物体がある。小さな物体の隣には膨れた茶封筒、覆面の黒いマスク、スマホ、ガムテープが置いてある。
「やめろ!すずには手を出すな!」
「うるさい!俺のいうことを聞け!」
男は亜実の背後に回り、亜実の髪の毛にかたいものを突き立ててきた。
「これでいかせてやるよ」
「後ろからやらないで。正面で私の目を見てやってよ?自信ないの?」
すると外からキーンという音が混じりながら、拡声器の声がした。
「ああー。立てこもっている犯人よ。ええー。我々警察は人質となっている女子高生2人の命が最優先だ。ええー。だから君の要求を求む。もう一度言う。人質の命だけは……ええー。奪わないでくれ」
時刻は午後5時30分だ。
上空から複数のヘリコプターの音が聞こえる。
立てこもり事件が起きたのは今から2時間ほど前だ。放課になり部活に行く者、帰宅する者、教室に残り友達と話して楽しむ者などいつも通りの光景だった。美術部は亜実とすずの2人だけだ。美術室は一階の一番端っこの教室で、ひと気は少ない。亜実とすずはいつも通りに美術室に向かい、部活の時間になるはずだった。
亜実が扉を開けると覆面姿の男は机に腰掛けていて、銃口を亜実たちに向け「動くな」と言った。一瞬何が起きているのかわからなかった。すずも固まっていた。「こっちに来い」と男が言い、亜実たちと男の位置が入れ替わる。男は銃口を亜実たちに向けたまま、廊下にある消火栓のボタンを押した。
ジリリリと音が学校中に鳴り響いた。
数分後、先生たちがやってきた。最初はどうせ生徒のいたずらか何かだろうという顔つきだったが、男の一言で一変した。
「この女2人は人質だ。警察に連絡しろ。以上だ」
男は扉を閉めて鍵をかけた。美術室をカーテンで覆い、手際良く亜実たちを拘束した。
夜になって気温が下がるのを感じる。さすがに夜中にヘリコプターの音は聞こえない。この時間に美術室にいるのは最初で最後の経験だろう。時計の針が10時を示しているのに、カーテンの隙間から見える外の世界は黒く、違和感を覚える。
「ねぇ、目的はなに?」
「人質が口を開くな」
男の声は亜実たちを結束バンドで縛り付けた時に比べて、落ち着きがある。もう大声を出すような覇気は感じない。話をするなら今だ。
「お金?それとも復讐とか?それとも一人じゃ死ねないから道づれに?」
男は俯いて黙っている。
疑問に思うことがひとつある。なぜ亜実は手だけ縛られているのだろう。すずと同じように拘束しないのか。男に何か意図があるのだろうか。あと机に置いてある茶封筒の中身が気になる。
男は弱々しく口を開いた。
「……お前、俺が怖くないのか?」
「あんたが持ってる、拳銃が怖い。あんたは怖くない」
「なるほどな。どうする?俺が引き金を引いたら?」
狼狽した様子で男がおもちゃであろう拳銃を亜実に向ける。
「あんたは人を殺す度胸はない」
「なぜ?言いきれる?」
「まず視線がキョロキョロしすぎ。足も落ち着かない。動揺がだだ漏れしすぎ」
すると廊下からガタンと小さな音がした。
男は慌てて音がした方へ行こうとする。
「待って!」
亜実は口で男の上着の裾を噛み、男を止める。
「ダメだよ。窓側にだぶん数人いる。廊下に行ったらその隙に突入するかもよ?」
「そうなのか?窓にいるのか?」
「わからない。けどさっき無線が切れる音が聞こえた」
しばらくの沈黙の後、男は落ち着いた口調で言った。
「……お前何考えてんだ。普通、犯人の手助けしないだろ」
「言ったじゃん。私はあんたを怖くない。あんたが過去に何があって、今何を思ってこういうことしてるのかはわからない。初対面だからね。でもね……」
男の目を見た。顔は青白かった。
「あんたは優しい人間だ」
「だから!何を根拠に言ってんだ!お前が…」
亜実は男の発言を遮る。
「靴ーー新品じゃない。けどきれいに履いている。かかのすり減り具合も少ない」
男は片足を軽く上げ、靴底を確認する。
「物の扱い方が優しすぎるくらいに優しい。物音を立てない、スマホを見ても傷ひとつない」
亜実は深呼吸をするように目を閉じて息を吸った。
「私の夢はすずと一緒に漫画家になること。私が話を構成してすずが絵を描く。悪趣味だと自分でも思うけど、私は人間観察が得意だ。あんたの目は温かさと悲しみが混在している。そんなやつに殺人はおろか人を傷つけることもできない」
「夢を簡単に語るな。俺が優しい人間だ?2人で漫画 ?1人でやれ。1人でできないなら諦めろ。おまえの勝手でこいつの人生をダメにする可能性もあるんだぞ。優しさはただの弱さだ。縛りつけるだけだ」
どの言葉が男を興奮させたかはわからない。まるで濡れていたアスファルトが冬の乾いた風晒されて、一瞬で冷たい渇ききったアスファルトになったように男の雰囲気が変わった。
静寂な美術室のカーテンに赤色灯の光が動いていた。
「ねぇ、私とすずは事情聴取のときなんて言えばいいの?」
男はふっ、とだけ笑う。
「日本の警察は優秀らしいよ?あんたも逃げきれるなんて思ってないでしょ。でも私だったらこの状況で逃げること考えるかも」
「なにか逃げきれる妙案でもあるのか?」
「敵は田舎の警察だからね。聞いたでしょあの声を。のほほーんとした声。向こうもまさかこんな田舎で立てこもり事件が起こるなんて思ってなかったでしょ。事件発生から6時間以上経って向こうも気のたるみがでてる気がする」
「一応言っておくがこれは漫画じゃなくて現実だ」
「知ってる。今がチャンスじゃない?倉庫裏のフェンスにちょっとだけ隙間があるの。そこから裏山にでる」
男が笑いながら言う。
「詰めが甘すぎるだろ。おまえが考えることより俺の考え…」
ぐぅーーー
かなり大きな音だった。亜実の腹の虫ではない。男でもなさそうだ。
横を見るとすずが耳を赤くしていた。かわいいと思うと同時にまだ元気がありそうで安心した。でも空腹なのはどうにかしてあげたい。
男がゆったりとすずに近づき手を伸ばした。
「だから!すずには手を出すな!」
「安心しろ。解放する。……悪かった」
男が初めて謝罪を口にした。すずの首輪、タオル、結束バンドをはずし、男は亜実たちに向かって言った。
「……自首する。ーーその前に見たい絵がある。ここにあるはずだ」
「ちょっときてー」
隣の準備室からすずの声がした。亜実が準備室に行くと四つんばいになりながら、すずが何かを引っ張り出している。その姿は小動物のようで愛くるしい。すずが一枚の絵を渡してきた。その絵は小学生が描いたような下手な絵だった。校舎と桜の木が一本ある。立体的ではなく線で描かれて、桜の花びらがひらひらと散っている。
作者名はーー五十嵐和樹
「なんであのとき犯人を助けたの?」
あのときとは亜実が口で男の裾を噛んで止めたときのことだろう。亜実は答えた。
「自分でもよくわかんないんだよね。なんで助けたか――でもあの男、優しいやつだったよね」
「全くわからないよ。犯罪者のどこがどう優しい男なの?自首する前も、絵が見たいとかいって怖くて仕方がなかったよ。この絵もなんだか不気味じゃない?校舎と桜だけって」
「そうだね。下手くそな絵だ」
「頭にブーメラン、刺さってるよ」
すずが亜実の頭をぽんっと叩いた。おい!と笑いながら亜実もすずの肩をぽんっと叩き返した。
「あとこれ、隠しておいた」
すずが後ろからなにかを出した。
「あっ!それ」
すずの右手には立てこもり事件の時、机に置いてあった膨れた茶封筒があった。すずと亜実は美術室に戻り茶封筒の中身を確認した。茶封筒の中身は漫画の原稿だった。膨れたいたのはしわくちゃに丸められた紙が3つほどあったからだ。インクのにおいが微かにする。しかも値段が高いインクのにおいだ。
男の名前ーー犯人は五十嵐和樹という名で、マスコミで大きく取り上げられた。大学3年の21歳で警察の取り調べに対して黙秘を続けているらしい。マスコミの情報によると事件の2ヶ月前に親友が自殺して、犯行時は心神耗弱だったのではないかとのことだった。
五十嵐和樹はこの高校を卒業している。
ーー1人でできないなら諦めろ
男の言葉がずっと亜実の脳裏と心の隅に残っている。
「ーーねぇ。ーーすず」
「ん?」
亜実の横隔膜が強張っていたが、ポテチを食べているすずを見て肺が新鮮な空気で満たされた。
「漫画家なろうね一緒に」
「当たり前じゃん」
美術室のカーテンは束ねられ、窓からの夕焼けが鮮やかだった。