百日紅の咲く山荘にて
こちらの作品はミステリ仕立てになっているため、一部のタグを伏せています。
地雷のある方は避けていただけると助かります。
かつて。若さゆえの過剰なまでの自負と焦燥を詠い、絶大な人気を博した詩人磯部泰之は三十七で命を絶った。
その最後の地となった別荘は、主の作風や生前の立ち回りとは似つかわしくない、錆びた佇まいの日本家屋だ。もともとは妻のかよ、つまりは閨秀作家森香邑の実家であった貿易商の持ち物である。
孫を溺愛していた祖父が香邑のために残した山荘は、彼女も亡くなったため二人の息子である和真の持ち物になっていた。事件の後はほとんど使われることはなく、地元の夫婦が管理しているらしい。
加佐見暁子は和真の案内でひんやりした廊下を歩いていた。
白い麻のシャツとベージュのズボン。流行をまるで気にしていないような身なりの青年に導かれて古い建物を歩いていると、一昔前の時代に迷い込み幼い少女なったような気分になってくる。
と、彼は角を曲がった先にある襖の前で立ち止まった。
「この奥の部屋です。父と沢谷さんの遺体が見つかったのは」
磯部は女性がらみの醜聞の多い男で、それまでにも心中騒ぎは起こしていたが、今から十五年前、この別荘で海生社の担当編集者である沢谷佳江とついに心中を遂げている。
「ご覧になりますか」
「差し支えなければ」
彼は特にためらう様子もなく襖を開けた。
その先は続き和室で、手前が八畳、奥が十二畳。奥の部屋は書斎のようで、庭に面した障子は開け放たれていた。
緑の中に濃紅と白の花が咲き乱れている。百日紅だ。
事件のあった日と暦は遠くない。死を前にした二人もこの光景をみたのだろうか。それとも、その時の彼らには鮮やかな色彩すら目に入らなかったのか。
「血がついて駄目になったものは取り替えていますが、それ以外はほぼ当時のままです」
説明の言葉に改めて室内を見回す。
入って右手に書棚があり、その手前には文机。机の脇は庭に面して付け書院になっている。
しかし、書棚の隣は明らかに床脇で、天袋も地袋も違い棚も備わっている。ということは床の間をつぶしてあるのだろうか。下を見ると、書棚は直接床板に置かれてあった。その視線に気づいたのか。
「父はそういうことには頓着しない人だったそうで」
「たしかに、そういうイメージ、ありますね」
軽く答えると、和真は苦笑を浮かべた。
「中に入っても?」
頷くのを確認して、室内に入る。頭の中でむせ返るような血の匂いがイメージされたが、十年以上たってそんなものが残っているはずもなく、おそらくは埃と木材と藺草の入り混じったひなびたような微かな香りがするだけだ。
机の上に日に焼けた原稿用紙が置いてあるのが視界に入りそちらに足を向けた。
「その原稿用紙には何も書いていません。当時机の上にあったものは血がついてしまったので、それは父が買い置きしてあった未使用品です。もっとも処分してしまった方にもこれといった内容は書いていなかったようです。亡くなるころにはほとんど作品を書かなくなっていましたから」
暁子の小さなため息に気づいたのか。
「期待はずれですみません。代わりに先日お話しした母の日記でしたら持ってきています。かなりの量があるのでごく一部ですが」
「え、見せていただけるんですか?」
「そのつもりで持ってきました。たしかに体裁の悪い内容もありますが、両親について調べるとおっしゃるなら見ていただくほうがいいと思って」
思いもよらない申し出に戸惑いが先に立つ。
なにしろ訳ありの夫婦である。
時代の寵児ともてはやされながらやがては創作に行き詰まり醜聞にまみれて心中した夫と、良家に生まれながら素行の悪い作家の才能に惚れ込んで駆け落ち同然に一緒になりその死後は幻想作家として独自の評価を得た妻。
昨夏、香邑がなくなって以来、一人息子である和真のもとには両親に関する取材依頼がいくつか入っていたようだ。だが、信頼のおける相手からの、それも個人ではなく作品に関するもの以外は依頼には応じてもらえないと聞いていた。
しかし、暁子からの取材の申し出にはあっさりと応じ別荘まで案内してくれたばかりか、香邑の日記まで見せてくれるという。
フリーの記者というのは嘘ではない。彼に見せた記事も間違いなく自分で手掛けたものではある。しかし、大した名声もない女からの両親の内面に踏み込むような取材の依頼をなぜこんなに簡単に受け入れてくれたのだろうか。
もしかしたらこちらの事情に気づいているのだろうか。と疑いもしたが、だとしたらよけいに意味が分からない。
だが悩んでもしようがないので申し出は快く受けることにした。
和真は穏やかに微笑んでいる。
「僕は少し用事を片付けてきます。よかったらあとはご自由にご覧ください。といっても他の部屋にはろくにものも置いていませんが。日記はソファのほうが楽でしょうから、先ほどの応接室のほうに用意しておきますから、部屋を見た後は向こうに戻ってください」
一人取り残されると暁子は、まず文机に向かった。原稿用紙の他には蒔絵の文箱とシェーファーの万年筆。文箱を開けると中には便箋と封筒と一冊のノートが入っていた。こちらは日に当たっていなかったせいか、それほど古さは感じられない。
ただ、もちろん便箋も封筒も未使用だったし、ノートにも事務的なメモ書き以外はほとんど何も書かれていないようだ。
引き出しの中にも、机の上にあるものの買い置きが残っているだけだった。万年筆のインクが瓶の中で変質して固まってしまっている。
隣の地袋の中にもほとんど物は入っていなかったが、天袋の中には香炉と香木。それから子供のおもちゃがいくつかしまい込んであった。けん玉とビー玉、折り紙は折られたものもいくつかある。
小さく息をのんだ。
どれも十年以上の歳月を経ているはずなのに、折り目もくっきりときれいに保存されている。ことに折り鶴などは、まるで今先ほど折られたばかりのようにふっくらとしたまま残されていた。
暁子は首を振って余計な思いを振り払い書棚に向かう。
一番場所をとっているのは十五年前の当時は最新だったのだろう百科事典。そして、磯部本人の作品。その隣にはランボーやヴェルレーヌ、キーツなどの海外のものから、藤村や晩翠など国内のものまで、著名な詩集がそろっていた。
亡くなる前と、何も変えていない。というわりには、ずいぶんとよそいきの姿に見えるが、書斎とはいえ別荘なのだから、こんなものなのかもしれない。
そういえば、香邑の作品は無いのだろうか、後年の小説が無いのは当然として、たしか結婚してすぐに出した私家版の詩集があったはずだ。そう思って見直してみたが、やはりそれはなかった。
そして気づく。この本棚に並んでいるのはすでに故人で名声も定まった詩人の作品集のみ。磯部と同時代や近い時代の詩人の作品が無い。
朔太郎や中也。また一時期は彼とライヴァルのように扱われていた矢野青治も北山公洲などの名前もない。
亡くなった当時、磯部は三十七歳。人気や知名度こそ高かったが、いつまでたってもいくつの新作を出しても、代表作は二十三歳の時の第一詩集「鳥曇」のまま。
余計な勘繰りかもしれないが、名作と自分の作品だけが並んでいる本棚には、当時の彼の心の在り様が表れているような気がしてしまう。
といっても、それは先入観があるからそう見えるだけのことかもしれない。
憶測を振り切るように、暁子は本棚に背を向ける。
他の部屋を回ることにした。
しかし、書斎以外はどの部屋もきれいに片づけられていて人の息遣いはまるで感じられない。
かつては様々な客が招かれた場所の変わりようがやるせない。
応接間に戻ろうと思ったが、段ボールを抱えた和真に行き会うと、まだ日記を出していないという。勧められるままに庭を見ることにした。
一度書斎に戻り、縁側から降りる。
庭には、もともとこのあたりの植生に近い植物が植えられていたのだろう。あまり頻繁に手を入れていない木々は生い茂り、もう少しで背後の山と一体化してしまいそうだ。
ただのその中で部屋からも見えた紅と白の二本の百日紅だけが異質な鮮やかさで咲き誇っている。
地面には花弁が分厚く散り敷き、風が吹くと模様が入り乱れて様相を変えていく。
午後になってだいぶ風が出てきたようだ。
佳江のほうの遺体は、室内ではなくこの庭の百日紅の下で見つかっている。
溢れる血に濡れた花びらの絨毯は悍ましかったのだろうか、それとも美しかったのだろうか。
磯部の心中の相手である沢谷佳江はその時二十八歳、磯部の担当編集をしていた。物堅い家庭に育ったが、戦争のせいで適当な結婚相手に恵まれず、親も職業婦人となることをやむなく認めたらしい。
それまで磯部と醜聞のあった女たちとはずいぶんと毛色が違っていたが、だからこそ遊びではすまなかったのかもしれない。とも言われている。
二人で睡眠薬を飲んだ後、佳江が磯部の首の血管を切り、それから彼女は庭に出て自分の手首を切って死んでいた。
離れて死んでいたことや、それほど深い仲だったことは知られておらず、情交の形跡もなかったこと、また彼女が末期の癌を患っていたことなどから、一時は無理心中なのではとも言われたこともある。
しかし、以前にも磯部は心中未遂を起こしており、愛人や一時の遊び相手の女たちの中にも心中を持ち掛けられたと証言するものがいたこと。また、妻の香邑や、親しくしていた詩人や編集者などの証言から、磯部が長く納得のいく作品を生み出せず精神的に追い詰められており、向精神薬を手放せない状態だったこと。さらには、睡眠薬も剃刀も磯部が妻に用意させたものだったこと。などから、結局は合意の上の心中だったのだろう。ということになった。
だが暁子はどうしてもしっくりこなかった。
調べれば調べるほど、磯部泰之という男は、沢谷佳江がともに死のうとまで思い入れる男には思えないのだ。
しかし、事実として二人は一緒に死んでいる。もし恋情、少なくとも愛欲がなかったのだとしたら、なぜそんなことになったのか、どうしてもひっかかる。
警察が調べて何も出てこなかったところではあるが、立証する責任のない暁子だからこそ何かを見つけられるかもしれない。
そんな思いでここまで来てしまった。
「何か面白いものは見つかりましたか」
和真の声に我に返る。
「すみません。驚かせてしまいましたか」
暁子はあわてて笑顔を浮かべる。
「いいえ、大丈夫です。いろいろ考え事をしていたらついぼんやりしてしまって。建物もお庭もほんとうに素敵ですね」
「ありがとうございます。母が実家にいたころからのお気に入りの場所だったそうです。僕も小さい頃はよく来ていました。母の友人が妹さんを連れてきてくれて一緒に遊んだこともあったんですよ。今思うと、年が少し離れていたから気を使ってくれていたんでしょうね。僕がやりたがることは何でも付き合ってくれました。竹馬とかベーゴマとか。母たちも巻き込んで、かくれんぼをしたり。この庭でままごとをしたこともあったな。そういえば、天袋に子供のおもちゃが入っているのはご覧になりました? あれはその時のものなんです」
不安を押し隠して笑顔を繕い続けたが、彼は暁子のことなど気にも留めていないようで、咲き誇る百日紅を見上げている。
「あの時ほんとうに楽しかった」
ひどく無邪気な口調になぜか心が冷えて。今まで口に出せずにいた言葉がすると出てきた。
「沢谷さんを恨んでいらっしゃいます?」
和真が振り返る。
「なぜ?」
「なぜって……」
彼はほんとうにきょとんとした表情で暁子を見つめている。
深呼吸して続けた。
「それはだってお父様を奪ったわけですから」
和真の表情が緩む。
「ああ、そういうこと……。そうか、そうですね。普通はそう思うのかな。でも僕は、いえ僕も母も彼女には感謝しているくらいなんです」
そういって彼は建物を振り返る。
ひどくあっさりと、感謝と口にした和真に暁子はとまどっていた。その戸惑いを違う意味にとったのか。
「行きましょう。日記をみてもらえば分かっていただけると思いますから」
そこだけは洋風の設えになっている応接間に戻ると、和真はもう少し用事があるからと部屋から出て行った。
机の上には三冊の日記が置いてある。
一部のみということは、おそらく彼の見せたいものだけがここにあるはず。暁子が求めるような記述はここには無いかもしれない。だが、彼が隠そうとしていたとしてもうっかり見落としているヒントが見つかる可能性はある。
深呼吸して手を伸ばす。
一番上に置かれていたのは結婚して間もないころの日記だった。
家事雑用など自分ではする必要も無かったような良家の娘が駆け落ち同様に所帯を持ち、いきなり自分の手一つで家政を切り盛りするようなったのだ、きっと苦労はあっただろう。
しかし、日記に書かれているのは新しい暮らしの中で見つけた驚きや楽しさ。親に遮られることなく可能になった刺激的な友人たちとの交流。そして何より尊敬する磯部のそばにいられる喜び。
日々出会う楽しいことを何一つ逃すまいとするかのように、毎日びっしりと書き込まれている。
後年の、多くの信者たちを引き付けてやまない、研ぎ澄まされてなお華やかな芳香を放つようなそれとは違う、率直で溌溂とした文体は、そのまま彼女の若さを表すようで読んでいて心地よい。
そのままエッセイ集として出版されていてもおかしくないくらいだった。
だが、そこには暁子の探しているものは見つけられそうにない。
ざっくりと内容を確認しながら飛ばし読み、続いて二冊目を手に取った。
数ページ読んで暁子は息をのむ。そこには簡単には見せてもらえないだろうと諦めていた磯部の晩年の姿が赤裸々に描きだされていたのだ。
それは最初の日記から七年後。磯部が心中したその年の日記だった。
一冊目と同じ人物の手によるものとは思えない乱れた文章で描かれるのは、怯えて暮らす母と子の姿。
一部で噂されていた、そして暁子が想像していたとおりに、彼女は磯部の浮気と裏腹な嫉妬深さ、そして数々の横暴に苦しんでいた。
不幸なことに、お嬢様育ちだった香邑は家事がそれほど得意でなかったようだ。米の炊き具合、味噌汁の味、総菜の数。掃除や洗濯の仕上がり具合。一冊目の日記では笑い話になっていたような失敗が、七年後の日記では磯部の暴言や暴力のきっかけになってしまう。
それでもなんとかして夫に仕えようとするのに、磯部は香邑をないがしろにして他所の女の影を隠さなくなっていた。ではと外に目を向けて娘の頃のように文筆活動によりどころを求めようとすれば、嫉妬と疑念に満ちた夫の怒りをかってしまう。
そのころの香邑は韻文から散文に興味を移し始め、きっかけとなった幻想作家の高崎遥や文芸誌の編集者の小見博也などと親交を持つようになっていた。
しかし、磯部は妻が自分のあずかり知らぬところで人脈を広げることがどうにも気に入らなかったようだ。
彼らの携わった雑誌や作品集を送られ、令状や感想を送っていたことを知られ、売女と罵倒され、頬を張られた。発表するあてもなく、ただ心の慰みに書いていた原稿を見られ、家事をないがしろにして遊んでいると罵られ原稿を破り捨てられた。
磯部の怒りは、当時まだ五歳だった和真に向かうこともあった。
遊びに夢中になり、帰宅した父をすぐに迎えに出なかっただけで、何時間も板の間に正座させ、その前で香邑に甘やかして育てるからだ、おまえはしつけもできない屑だ、親の資格などないと延々と説教を続けたこともあった。
時には、いきなりその辺の本を音読させては,つっかえたり漢字が読めなかったりすると、馬鹿だ、なまけものだと罵倒しだし、果ては、頭の出来が悪いのはお前の血筋だ、いやおれの血が入っているならこんなに不出来なはずはない。いったいどこの誰の種なんだと和真の前で言い出したこともあった。
和真に矛先が向いてしまった日の日記では、香邑はひたすらに自分の至らなさを悔やみ幼い息子に謝罪しつづける。
しかし、磯部は外面のいい男だった。妻子が常に暴言や暴力にさらされていたことなど知られていない。放埓な女癖や酒癖の悪さは有名だが、それも天才ゆえのやむを得ない欠点程度に扱われていた。
香邑自身、妻は夫に従うものと育てられていたためだろう、自分たち母子の置かれている状況を公にして助けを求めたり、逃げ出したりという選択肢を思いつくことさえなかったようだ。
それゆえに、何も知らない周囲の人間たちの言葉はしばしば香邑の心を切り裂いていく。
妻なのだから、彼を第一に考えろ。
妻なのだから、安らげる家庭をつくれ。
妻なのだから、いい作品を書くように叱咤しろ。
妻なのだから……
そのころの磯部が香邑の言葉を聞き入れようはずもない。しかし、周りはそのことに気づかない。香邑自身も気づかない。
だから言われるたびに自分を責める。
自分が至らないから、夫は自分たち母子を大切にしてくれないのだ。
自分が至らないから、夫は家に寄り付かないのだ。
自分が至らないから、夫は良い作品が書けないのだ。
自分が至らないばかりに……
夫を支えることができず、完璧に家事をこなすこともできないのに自分の作品が書きたいと思ってしまう情けない自分を彼女は責め続ける。
しかし、そんな日記すら次第に量が減り、間遠になっていく。
疲れた。ごめんなさい。そして死にたい。
そんな言葉がつぶやくように書かれたページがしばらく続き。そして磯部の死の一月前に日記は途切れ。
その年の日記はそこで終わっていた。
少し首を解してから最後の一冊を手に取る。
最初の日付は事件の約半年後。
『今日、東京に雪が降った。あの庭も今頃は雪に埋もれているのだろうか。できることならあなたと共にこの雪を見たかった。私がもっと強ければ叶ったのだろうか』
それだけ。あなたが誰なのかはわからない。
そして、日記は何もなかったように再開する。
前年の日記など無かったかのように、日常の出来事や季節の便りがつづられていく。増えたのは友人たちの近況や自分の作品について。進捗状況や資料についての覚書など。
ただ、文体は近年の無駄のない端正なものに近づいており、進むにつれてより研ぎ澄まされていく。
扉があく音に我に返った。
「もう二時間もそのままですよ。少し休憩にしませんか」
和真はティーカップを乗せた盆を抱えていた。
「すみません。うっかり長居をしてしまいました」
慌てて立ち上がり、手を伸ばしたがやんわりと断られてしまう。
「お気遣いなく、僕もこちらで片付けなきゃいけない用事があったんでちょうどよかったんです」
机の上に並べられたカップから立つ湯気はふわりと柑橘のにおいがした。遠い記憶がくすぐられて揺れる液体を見つめる。
「アールグレイです。もしかして苦手でしたか?」
「いえ、懐かしいです。姉が好きだったもので」
暁子が茶器を手に取るのを見て、和真も自分のカップを口元に運ぶ。
「すみません。少し香りが落ちてしまっていますね。お茶のことまで気が回らなかったので、去年、母が来た時に置いていった茶葉しかなくて」
「香邑先生はよくこちらに」
「よく、ではないですね。たまに。一年に一度このくらいの季節になると来ていたようです」
このくらいの季節ということはつまり。
「それはやはり……」
「どうなんでしょうか。聞いたことがないからわかりませんが、僕は亡き人をしのんでいたのだと思っています」
偲んでいたと言いはるのか。あんな目にあわされた夫を。
「香邑先生にとって、磯部先生は本当に大事な方だったんですね」
つい皮肉な調子が出てしまいあわてて和真をうかがうと彼は本当に不思議そうにこちらを見返していた。
「なぜ?」
「なぜ、とは」
「日記をご覧になったのでしょう。なぜ母があんな男を偲ばなきゃいけないんです」
「でも自分でおっしゃったじゃありませんか。亡き人を偲んでと」
彼は、何かに気づいたように目を見開くといきなり笑い出した。
「この世界で死人は父だけじゃないでしょう」
「でも毎年この季節にこの別荘にいらしては偲んでらっしゃるのでしょう。なら」
「この別荘に関りがあるのなら、母をかわいがってくれていたという曽祖父母がいますよ。この季節にはなにか特別な思い入れがあるのかもしれない。まあでも」
そういって真顔になり、すっと身を乗り出してきた。
「もう一人いるでしょう。確実にこの季節にここで亡くなった方。アールグレイの紅茶を好んだ女性が。沢谷佳江さん。あなたのお姉さん」
衝撃に頭が真っ白になる。時折彼が漏らす言葉から気づかれているのかもしれない。と疑ってはいた。けれどあまりに淡々とした態度にその疑念から気をそらしてしまっていたのだ。
「そんな顔をしないでください。責めているわけじゃない」
「いつから……、いつから気づいていたんです」
彼は少し肩をすくめた。
「最初から。あなたが取材を申し込んできたときに名前を見てすぐわかりました」
「でも名字が」
「それも知ってましたから。事件のことでいじめられたから、引っ越して叔父さん夫婦の養女になって名字も変えたんですよね。いつか連絡をとろうと思って調べたんです。でも、なかなか勇気が出なくて、だからあなたから連絡をくれた時には本当に嬉しかったんですよ」
暁子は頭痛を抑えるように頭を抱えてソファーに沈み込んだ。
「だったら何で知らないふりをしたの」
「それは、あなたが言ってくれないから、何か理由があるのかなと思って。それに久しぶりすぎてなんだか気恥ずかしかったし」
暁子の口調がくだけるのにつられたように和真の口調もくだける。
年下なのに和真のほうがよほど落ち着いている。そのことがいっそう暁子をいらだたせた。
「分かってたなら、なぜ私に日記を読ませたのよ」
「なぜって。あなたに知ってほしかったからです。母と僕がどれほど沢谷さんに救われたのかを。あの人がいなければ、僕たちは生きていられなかったかもしれない。ずっと感謝しています」
その声はひどく柔らかく、言葉だけを聞いていると純粋な感謝以外は感じ取れなかった。しかし、そんなはずがないことは事情を知っていればわかる。
「皮肉なのかしら、あんなクズに溺れてくれてありがとうって」
「ひどいなぁ、一応僕の父ですよ」
「自分でも結構けなしていたくせに」
和真は立ち上がるとテーブルを回りソファーの隣に腰かけた。
「でも、あれを読むと僕も母も父を奪われた不幸な親子じゃなかったってわかるでしょ。むしろ救われたんだってことが。それだけじゃない。多分父にとってもあそこで死ねたことはある意味幸せだったのかもしれない。あれ以上生きて自分の才能のなさを思い知らされ、世間からも見放され忘れ去られてしまうよりも。まだわずかでも期待されているうちに逝けた」
膝の上で握りしめていた手に和真の手が触れた。勘違いしてしまいそうになるほど優しく包み込まれる。
「暁さん。会いたかった」
「ふざけないで!」
その手を振り払い立ち上がる。
「あり得ないでしょ! 姉が、あんな男を愛するなんて。一緒に死のうとまで思い詰めるなんて」
和真は困ったように彼女を見上げる。
「わたしは姉の口から聞いていたのよ。磯部泰之にどんなに迷惑をかけられていたのか。どれほど彼がわがままで、くだらない人間なのか。仕事で連絡を取るたびに、毎度あきれかえって私に愚痴をこぼしていたわ。もちろん誰にも言うなとは言われていたけど。だから事件のあとは、そのことを何度も訴えたのよ。でも、みんな、聞いてくれなかった。子どもだからちょっとしたことを大げさに受け取ってしまったんだろうとか。男女の機微は分からないから仕方がないとか。頭から決めてかかって話を聞いてくれなかった。可哀そうすぎるわ。あんなくだらない男を死ぬほど愛していたなんて思われて」
和真はそこでようやく口をはさんだ。
「それは、気持ちはわかるけど。でも、あの時沢谷さんは病気で先がなかったんだよね。普通の精神状態ではなかったんじゃないかな。だから、父の死にたい気持ちに引きずられてしまった。体の交わりはなかったようだし、恋愛ではなくて同情だったのかもしれない」
なだめるような口調に苛立ちがつのる。
「ごまかさないでよ。姉のことは私が一番よく知っているの。そんな理由で死ぬなんてあの人に限ってあり得ない」
和真は悲しそうに首を振った。
「もうやめよう。済んでしまったことだよ。とらわれていてもいいことなんてない」
「なぜ? 話をされて都合の悪いことでもあるの。心中でないと困るから? わたしね。知ってたのよ、なんとなく。あの日記を見る前から、あなたたちが磯部先生、いいえ磯部に怯えて暮らしていたこと。だって、何度も一緒に遊んだじゃない。嬉しかったんでしょ。あの男が死んでくれて。あなたもあなたのお母様も」
彼はハッとしたように眼を見開いてこちらを見つめた。その表情は本当に驚いているように見える。
「もしかして、疑っているの母が何かしたんじゃないかと」
さすがに彼の母親を疑っていると口にだしてしまったことが後ろめたくて、つい目をそらした。
「そうか。そうだね。父と僕たちの関係を知っていれば疑われても仕方ないよね。でも、多少不審なところがあったからこそ、警察はかなりしっかり調べて行ったんだよ」
その声はあくまでも揺らがない。
「確かに世に出ている情報だけでは心中を否定できそうにないわね」
「だから来たんだね。何があったか探しにここまで」
深いため息が聞こえた。
「わかった。座って、僕にわかることは全部話すから」
視線を向けると和真は少しだけ笑った。
「信用できない? でも、とりあえず聞いてみてよ。それでも納得できなかったらそれからまた考えればいいじゃない。遺族だから新聞や雑誌に出ていないことも知っているよ」
軽く手を引かれ、崩れるようにソファに沈む。
「疑わしいと思ったのは、沢谷さんの気持ちに納得できないからだけ?」
「そう。でも、調べてみたらいろいろ出てきたの。まず死んだ場所。心中なのにどうして姉はわざわざ一人になったの」
「警察の推測だと、父の首を切った時の出血に怯えてその場から逃げたんじゃないかって。父は……なんというか。怖がりでね。自分で自分を傷つけられなかったから、たぶん沢谷さんに死なせてもらったんだと思う。沢谷さんのほうが肝は据わっていたから。でも、いくら強くても目の前で人が死ぬのを見たら怖くなってもおかしくないんじゃないかな」
「では、剃刀と睡眠薬は。磯部が普段使っていたものではなかったんでしょう。なぜわざわざ」
「それについてはなぜかは分からない。でも、なくなるひと月ほど前に父に言われて母が買いに行ったものなのは本当なんだ。店の人も証言してくれている」
そういうと気まずそうに彼は笑う。
「母が買ったからよけいに信用できないというなら仕方ないけど。でもね、暁さんが、沢谷さんが父を愛していたなんて認められないように。僕も母が沢谷さんを利用して死なせたなんてことだけは認められないんだ。あなたよりも僕は二人の近くで見ていた。あなたが思っているよりずっと、母と沢谷さんは親しかったんだ。母にとって沢谷さんは父に関する苦悩を話せるほとんど唯一の人だったんじゃないかな。それだけじゃない。母を小見さんや高崎さんに引き合わせてくれたのも沢谷さんなんだよ」
丸まっていた背が伸びる。それは暁子にとって初めて聞く話だった。
「沢谷さんが家に来るようになったのは、父の担当編集としてだ。でも、父は留守がちで捕まらないことも多かったから、次第に女同士で年も近く本の好みが似ている母と会話をすることが多くなったらしい。そうしているうちに彼女は両親の関係が歪んでいることに気づき、母の話を聞いてくれるようになったらしいんだ。小説のこともそう。母は、だれに見せるともなく書いた草稿を沢谷さんにだけは読んでもらっていたみたいだ。それを見た沢谷さんが、ものすごく高く評価してくれて、これは絶対世に出すべきだと小見さんに見せてくれた。それがきっかけだよ」
「そんなこと……」
「うん、当時は隠していたらしい。沢谷さんは父の担当で機嫌を損ねるわけにはいかなかったから。でも、そうしているうちにあの事件が起きて、なんとなくそのことを言いだす機会を失ってしまった。でも、近く小見さんの雑誌で母の追悼特集を組んでくれることになったんだ。そこに載る小見さん高崎さん飯野さんの鼎談を読んでもらえば、中で触れられているよ。小見さんが、どうしても証言しておきたいとおっしゃって。あの頃だったら醜聞にかき消されていただろうけど、今なら、沢谷さんの人知れず残した実績がちゃんと評価されるはずだって」
胸が痛かった。
ただ、事件の脇役としてしか人々の記憶に残っていないと思っていた姉を評価してくれている人がいるのだ。そのことが嬉しい。
「それとね。もう一つ、沢谷さんは一度僕ら親子の命を救ってくれてもいるんだ」
そういって彼は日記を引き寄せて、ページを開いた。
「ここ、父の死の一月くらい前から日記が途切れているでしょう。この後母は自殺未遂を起こしているんだ。運よく沢谷さんが来てくれて大事になる前に収まったから人には知られていないけど、あの時彼女が来てくれなかったら、たぶん僕も母も死んでいた」
「でも……」
けれど先が続かない。
「僕も沢谷さんが父を愛していたとは思わない。でも、母のことは大切に思ってくれていたと思う。父のためだけには死ねなくても、母のために父のわがままを引き受けて連れて行ってくれたんだと思うんだ。だから母は、毎年ここにきてはアールグレイを入れて沢谷さんを偲んでいたんじゃないかな」
そっと背に手が触れた。
「それに、父のこと。男としては愛していなかったかもしれないけど、担当編集としての責任感や愛情はあったんじゃないかな。父はプライドの高い人だった。納得のいかない作品を出して自分の築いてきた名声を壊すことを恐れ。自分の才能がもう枯れてしまっていることを認められなくて壊れかけてた。でも、意気地なしだから天才詩人ではない自分を認めることはできず、かといって自分で自分を消し去ることもできず。戯れのように女性たちに心中を持ち掛けて。もちろん、普通の状態であの人が父との心中を受け入れてくれたとは思わない。でも、残された命でできることを考えた時、あの人は父にきれいな最期を、そして母と僕には未来をくれようとしたんじゃないのかな。違う?」
そういわれると、それはひどく姉らしい行動に思えてきた。けれど。
「でも、そんなのひどい。私はどうなるの姉さまに置いて行かれて」
「僕がいる。僕がずっとそばにいるから」
包み込むように柔らかく抱きしめられた。
「何を言って」
振りほどく力に逆らわず離れた手はすぐに戻って来て今度はゆっくりと髪をなで始める。
「ずっと会いたかった。でも、沢谷さんの死のきっかけを作ってしまったのは僕たち親子だ。あなたにとって僕はどれほどか疎ましい存在だろうと思うと怖くて会いに行けなかった。だからあなたが来てくれて嬉しかったんだ。だからついはしゃいでしまって」
その手の心地よさに流されそうになり。あわてて振り払う。
「ばかばかしい。あの頃あなたはまだ四、五歳でしょう。覚えているはずないじゃない」
静かな笑い声がする。
「さっきも言ったでしょう。本当に僕は友達がいなかったんだ。年の近い子に遊んでもらった思い出なんてほとんどない。だからあなたが来てくれて、一緒に遊んでくれて、それがどれほど楽しかったか。それに、学校に行くようになっても事件のことが広まっていたし、自分もせいもあるんだろうけど、本当に気を許せる相手はどうしても作れなかった。でもあなたは、あんなことが起こる前から優しくしてくれた人だ。特別なんだずっと」
柔らかすぎる笑顔から目を背ける。
「あなたの言葉に完全に納得したわけじゃない」
「うん。でも、だったら沢谷さんの出てくる母の日記もあるし、雑誌の鼎談の元原稿ももらってあるから見せるよ。だから、拒絶しないで。どうか時間と機会をくれないか」
そっと握られた手を振りほどくほどの強い気持ちがもう湧きあがらない。和真は委ねられた手に安心したように微笑んだ。
「本当にあなたに会いたかったんだ。あなたにとっての僕が昔の知り合いに過ぎないのは分かってる。でも、せめてあの頃みたいに、たまに来て僕に人としての当たり前の時間をくれないかな。そうじゃないと、僕はどんどん自分が希薄になっていってしまいそうで怖いんだ」
泣きそうな表情はあまりに切実で、けれどその言葉はあまりに重くて軽々しく頷くこともできない。
何も言えないでいると、和真の顔が泣きそうなまましゃりと笑う。
「ごめんね。変なこと言って。困るよね。こんなこと言われて。今日はもう遅くなっちゃったから駅まで送るよ。でもまた会ってくれるのは。それは、いいでしょう」
そこまで拒むこともできず暁子は小さくうなずいた。
暁子を駅まで送り届けた和真は、一人山荘に戻った。
応接間の彼女の座っていたソファに座り。手のぬくもりを、髪の感触を、抱きしめた質量を思い出しながら、何とか抑え込んでいた激しい昂ぶりを慰める。
育ちからくる歪みの故か、思春期にも入っても全く機能しなかった彼のものは、成人した暁子に合った日から彼女にだけ反応するようになっていた。
やがて、最近知った、ぼんやりとしたけだるさのなか、彼の思いは浮遊する。
まだ気づかれてはいけない。焦ってはいけない。性急にことを進めて逃げられるわけにはいかない。
きちんと情報をあつめて、少しづつ反応を見ながら懐に入りこまなければ。
けして母のような失敗はしない。
彼女は失敗したのだ。沢谷佳江を完全に自分の手元に引き寄せようとして。
あの日、彼女は佳江の来る時間を見計らって、睡眠薬を飲み手首を切った。細心の注意を払ってその作業をしていた鬼気迫る表情を和真はよく覚えている。
あれは間違いなく狂言自殺だった。
そして目論見通り、佳江は香邑の境遇に同情を深くし大きな一線を踏み越えた。
ただし、母の望んでいない方向へ。
あの日母から取り上げた剃刀と睡眠薬を使って彼女は母をそこまで追い詰めた男が二度と母を傷つけられないように取り除いてくれた。
母が狂言自殺に使おうとした道具を使ったのには彼女なりの思いがあったのだろう。しかし、凶器から母に嫌疑がかかることのないように、事件のその時には小見が原稿を見に来るように段取りまでつけていた。
そして同時に、自身の家族をせめて殺人者の遺族にしないために心中を偽装したのだろう。
磯部が佳江に心中を持ち掛けるはずもないことなど身近な人間からすれば明らかだ。なぜなら彼には死ぬ気などなかったのだから。
あの男は自分に才能がないなど露ほども思っていなかった。ただ、運が悪くて、周囲が悪くて、作品を認めない読者が悪いと思い込める人間だった。
心中を持ち掛けたのも、そうすることで自分もいっぱしの文豪になれたような気分を楽しんでいただけ。その証拠にいざとなれば逃げそうな相手ばかり選んでいた。
佳江のように覚悟が決まれば本気で死ぬ女に心中を持ち掛けるはずがない。
いや、それ以前に、彼は自分より頭のいい女は嫌いなのだ。
自分の妻が、ただ美人で育ちがよくて己のファンで、自分に箔をつけてくれるだけの女だと思っていた間は可愛がっていたのに、その教養の深さを知り、さらには才能を自分以上に評価する人間がいることを見せつけられるようになって厭いだしたように。
当然、磯部は才女である佳江のことも嫌っていた。
つまり、あれは心中ではなく、母の窮状を知った彼女が、二人の人間の命を天秤にかけて片方を選んだということ。
事件の後に届いた佳江からの手紙を母が涙を流しながら焼き捨てているのを見たのを覚えている。たぶんあそこには彼女からのメッセージが書かれていたのだろう。
もし華邑が、佳江がことに及ぶより先に自ら夫を切り捨てられていたら。
あるいは、せめて、余計なことをしなければ。
病で亡くなるまでの間だけでも佳江と共に過ごすことができただろうに。
それもこれも彼女の病気に気づかなかったことが敗因だ。
だから和真は暁子の周囲を調べる手間だけは惜しまない。
将来を約束するような相手がいないことは調べた。
両親はすでに亡く、書類上父母になっている伯父夫妻も、疎遠とまではいかないがそれなりの付き合いしかない。ほかに口を出してくる親類も係累もいない。
あとは彼女次第なのだが、そこからが一番難しい。
彼はため息をつき。立ち上がると、この先の段取りを考えながら書斎に向かった。
母が己への戒めのために残していた部屋。愛する人を汚辱にまみれた死に追いやってしまった罪を忘れないためにその時のままに凝結された。でも、もうそれは必要ない。あの男の痕跡などさっさと片付けてしまおう。
売ってしまうか、それともいっそ東京の家は払ってここで暮らすのも悪くはないかもしれない。
雨戸を閉めようとして、百日紅が目に入る。
そしてふと思った。
それでも案外母は満足していたのかもしれない。と。なぜなら佳江はあの百日紅の元で命を絶ったのだから。
深夜、手洗いに起きた和真はあの百日紅の下で月を見上げながら飽かず話し続けている二人の姿を見たことがある。
あの時、月を見上げる佳江の隣に寄り添う母がふと見せた表情は、彼の見たこともないなまめかしい女のものだった。
愛した相手が命まで自分に捧げてくれたことをひょっとしたらあの女は喜んでいたのかもしれない
けれど、和真は香邑ほど歪んでいない。
どうせなら生きたままの暁子を手に入れたい。せっかく、体でも繋がれるのなら、心も体も丸ごと手に入れて自分に縛り付けたい。
闇に沈みかける庭には百日紅が咲いている。
錆びた庭には似合わない華やかな色彩の空々しさはなんと彼ら親子に似つかわしいことか。
二色の百日紅の混じり合う様に、いつか彼女で汚すときを思い、また昂ぶりはじめている己れに和真は少し苦笑を漏らした。
そして、
悄然としたまま、日常に戻った暁子のもとに、間もなく一通の手紙が届く。
『東京の家を引き払い長野に移ることにしました。
あの書斎は片付けるので、その前にもう一度いらっしゃいませんか。
母の日記もすべてこちらに移動しておきますから時間のあるときにどうぞ』