黄昏
その日、スペンサー男爵は、お気に入りのティールームで葉巻をくゆらせていた。昨今は紙巻き煙草が主流だが、紫煙を漂わせながら、ゆっくりと時間をかけて香りを楽しむ優雅さに勝るものはない。
狩猟シーズンはとうに過ぎているというのに、このカントリーハウスを訪れる客はいない。それはそうだろう、約一万エーカー(千二百万坪)もあった領地のほとんどを手放してしまったのだから。かつては金色に染まった木々の陰からキジやヤマウズラを勢子が追い立て、銃で仕留めた獲物で貯蔵庫は満杯になったものだったのに。
すべては、彼があの過酷な西部戦線の塹壕から、何とか生還した時期から始まった。
まずは両親が亡くなり、国に莫大な相続税を払わざるを得なくなった。戦費によって窮乏した国庫を救う為に、所得税も跳ね上がった。戦争によって痛めた右足は、二度と彼の言う事をきかなくなり、次いで、若い使用人達も、それにならった。給料を上げる事を要求し、通らないとわかれば、あっさりとこの屋敷を去っていった。今では他にも勤め口が見つかるからだ。
そんな頃だ、一人息子のヘンリーが、キッチンメイドと結婚したいと言い出したのは。
プディングを作るのが上手いメイドがいる、と息子がやたらに褒めるのが気に入らなかった。高貴なる者、いたずらに食べ物に言及するものではないし、厨房へなど顔を出すものでもない。
もちろん、スペンサー卿は当然のように猛反対をしたのだが、息子は女とともに屋敷を出ていってしまった。
妻が亡くなったのは、それから間もなくの事だ。葬儀に現れた息子は、親戚の冷たい視線を浴びながらも、スペンサー卿に許しを乞うた。元メイドの腹には、既に新しい命が宿っているのだと言う。父は黙して語らなかった。
スペンサー卿が、杖を頼りに立ち上がった。大きなフランス窓から、寂れた庭を眺める。庭師が一人だけでは、残った庭園の手入れもままならない。屋敷に残るのは、同じように老いた執事とメイド頭。彼らも、寄る年波には勝てない。その執事が、ドアをノックする。
「旦那様、メアリー……いえ、若奥様が御着きになりました」
二度目の大戦が起こっていた。ヘンリーは戦地へ赴き、残った彼の妻は料理屋で働き糊口をしのいでいたという。戦地の息子から手紙が届いたのは、つい先だっての事だった。
『ロンドンは、ドイツによる爆撃で危険な状態だ。妻と子を疎開させてほしい』
何を調子のいい事を、と憤慨もしたが、それでも自ら電話を入れた。いつの間にか、彼らの到着を待つ自分がいる。元メイドが、息子の緑の瞳とよく似た目を持つ男の子の手を引いて、彼の前に現れた。
「旦那様……」
「……もういい、孫の前で、あまり恥をかかせないでくれ。お父様、と呼びなさい」