第十四話
今回の話は前話の最後から続いて入った回想といった感じです。
教室を飛び出したアヤは何も考えず、ただ足が向かう先へと走った。
そして、気がつけば夕暮れ時で、足を止めたアヤの前には喫茶店があった。
全力疾走のする中で人気を避けたからか、それとも落ち着ける場所を無意識に探したのか。
ここに辿り着いた理由はアヤ本人にも分からなかった。
ふと、アヤは通りすがりの生徒から怪訝そうに見られていることに気がついた。
それはそうだろう。現在アヤは全力で走ったので大きく息を乱れさせており、しかも髪が肌に張り付くほどに汗をかいていた。
通りすがりの生徒からすれば、普通とは言い難い様子の女子生徒が喫茶店の前に立っているのだ。嫌でも目を向けてしまうのだろう。
アヤも視線が向けられる理由に思い至り、その視線から逃れるように慌てて店の扉に手を掛けた。
「いらっしゃいませー!」
扉を開けると受付に立っていたウエイトレスが元気の良く出迎えてくれた。
てっきり寡黙なマスターが出迎えると思っていたアヤは面食らうが、思い返してみればこの喫茶店では人手が足りない時の為に、学生からアルバイトを募っているのだった。
故に、マスター以外の者が出迎えることはあり得る話である。
茶髪のウエイトレスは真っ白いシャツに黒いパンツ、そして装飾も特にない黒いエプロンという質素な格好だが、それは店の落ち着いた雰囲気と非常に調和したものとなっていた。
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
汗だくのアヤに嫌な顔をせずに接するウエイトレス。このアルバイトを初めて長いのかもしれない。
上級生だろうか? そんなことを考えるアヤは、促されるままに窓際の席へと座った。
窓からは沈む夕日がよく見えて、光が鬱陶しくない程度に差し込むそこはまるで特等席のようだった。
「ご注文がお決まりになりましたら、こちらのベルをお鳴らし下さい。ただいまお冷やをお持ちします」
机の隅に置かれた小さなベルを示すと、ウエイトレスは席から離れていった。
そうして落ち着いた店の空気の中に身を置いていると、アヤはまだ熱が残るものの、少しずつ自分の頭が冷えてくるのを感じた。
(お嬢様を置いて逃げ出して来るなんて!)
真っ先に頭を巡ったのはその思いだった。
しかし、同時に今の自分ではリーネの側で、普段通りではいられないとも思っていた。
自分の気持ちに整理を付ける必要がある。アヤはそう自分に言い聞かせる。
元々クライニアス学園内で致命的な危険に晒されるというのは、ほとんどありえないことなのだ。いつもいつも張り付いていなければならないわけではない。
とにかく先ほどあったことに対して、止めたくなる思考を無理矢理動かす。
(私はコウ殿を殴ってしまったんだな……)
クレイストの発言が許せなかった。だから、どうやってでも口を閉ざさせようとした。
冷静になってきた頭が、流石に暴力でそれを実行するのは間違っていたと今更訴えかけてくる。
思えば、感情に身を任せて力任せに人を殴ったのは、あれが初めての経験だった。
コウを殴りつけた右手には、まだその時の感覚が残っていた。
あの時、それほど衝撃を強く感じなかったのは、理性の箍が外れ、興奮状態だったせいだろうか。
(でも、何故コウ殿はクレイストなんかを庇ったんだ)
コウの口ぶりやロンの態度から、彼らが普段からクレイストのことを歓迎した様子でなかったのは明らかだったはずだ。
何故? 何故? 何故?
疑問がアヤの頭の中で湧いて渦巻く。
(コウ殿はお嬢様の友人ではなかったのか? それなら、あんな奴の味方をするのは変じゃないか)
アヤにとってリーネの周りにいる者は、完全に信頼出来る味方でなければならなかった。
そうでないと、リーネが辛いと思ったから。
そして何より――
「お待たせしました~。こちらをどうぞ!」
その先まで思考が至る前に、ウエイトレスが戻ってきた。
手には盆を、そして盆の上にはアイスティーが乗っていた。それを当然のように目の前に置かれ、アヤは困惑した。
「私、まだ何も注文していませんよ?」
確かウエイトレスは水を取りに行ったはずだ。
それなのに、何故か戻ってきた彼女はアイスティーを運んできたのだ。
困惑しながら問うアヤにウエイトレスはにこやかに微笑むと、片目をぱちりと閉じて人差し指を口の前に立てた。まるで内緒だと言わんばかりの姿だ。
「マスターからよ。何があったかは分からないけど、あんまり自分を責めたりしないようにね」
秘密を共有する悪友に対してのような笑みを浮かべるウエイトレス。
アヤは慌てて見たがマスターはカウンターの奥で、グラスを磨くだけで素知らぬ顔である。
「どうして私に悩み事があると分かったのですか?」
不思議に思ったアヤは普段なら悩みなどないと突っぱねるのに、思わず素の状態で聞いてしまう。
どんな解答が得られるのかと構えるアヤに、ウエイトレスの返したものはある意味予想外なものだった。
「さぁ?」
「さぁって……」
これにはアヤも拍子抜けである。
「私はマスターが貴方にこれ持ってけって言うから運んだだけだしね」
「でも、さっきの言葉は貴方からのものですよね?」
「うん? あぁ、自分の感情に~ってやつ? いやね、大体マスターがサービスする人って、何かしら悩んでいたりする人だからさ」
「はぁ」
「それで、あんな風に言えばいいかな、って思ってね」
なんだかいろいろと台無しなウエイトレスである。
アヤから残念なそうな視線を受けていると、ウエイトレスは慌てて言葉を継ぎ足す。
「で、でも、気持ちは本物だからね? 元気はあった方がいいんだから!」
そう言って、ウエイトレスは逃げるように受付の方へと戻っていった――かと思うと、慌てた様子で戻戻ってきた。
「ご注文はお決まりですか!?」
どうやら忘れていたようである。ほのかに顔を赤くしている。
「……いえ、こちらを頂いたので今は結構です」
アヤは手元にあるアイスティーを指差す。
「失礼致しましたー!」
そして顔を赤くしたまま、今度こそウエイトレスは逃げていったのだった。
一連のことで圧倒されっぱなしのアヤだったが、そのおかげで気分がほんの少しだが和らいでいるのを感じた。
それは狙って行われたのかは分からないが、少なくともアヤは名前も知らないウエイトレスへ感謝の気持ちを抱いた。
「美味しい」
喫茶店の人達からの気づかいを口にして、小さくそう零すアヤだった。
グラスの中身の残りがあと三分の一となった辺りで、店の入り口が少し騒がしくなった。
周りにいた他の生徒のようにアヤもそちらに目を向けると、どうやら扉を勢いよく開けた生徒がいて、先ほどのウエイトレスに注意されているようだ。
金髪碧眼。普段は好奇心を宿した目には焦りが浮かぶその生徒は、最近になってアヤの日常に登場するようになった少年だった。
「ロン?」
「アヤちゃん!」
「え、二人は知り合い? って、何、悩みって色恋沙汰?」
驚くウエイトレスの横をすり抜けて、ロンはアヤの元へやって来た。
「急に教室を飛び出していくんだもん。びっくりしたよ。あ、お姉さんコーヒーよろしく」
先ほど注意されたことなど忘れたかのように、ロンは陽気に言いながらアヤの向かいに座る。
そんなロンの姿に仕方がないという風に息を一つ吐いたウエイトレスは、既に煎れ始めたマスターの元へと行ってしまう。
色恋沙汰云々を否定する間もなかったアヤは呆然とした様子だったが、前にロンが座ると自分が現在どんな立場であるかを改めて痛感した。
「……探してくれたのか?」
「探したよ~。あ、そうだ」
思い出したようにロンはそう言うと、髪をゆっくりと掻き分けるようにして自分の左耳に触れた。
特別席のようなこの席のせいか、差し込む光はロンの耳元を照らしていて、そこにつけてあるものをアヤによく見せてくれた。
ロンの耳につけられているそれは、夕日の柔らかい緋色を浴びて輝く銀製の小さなイヤリング。細かな曲線や直線が刻まれ、狭い面積の中にいくつもの小さな模様を描いていた。
アヤは今まで見てきた中で一番綺麗なイヤリングだと思った。
「リーネちゃん? うん、見つけたよ。――――ちょ、これ頭に直接響くんだから、そんな大声出さないで! ――――ん~、そうだねぇ……」
アヤが装飾品だと思ったそれは予想に反して、魔導具であったようだ。
ロンの仕草などを考えると、どうやら念話の魔術が施されたものであるようだ。よく見ると模様の部分が魔光によって淡く光っている。
通常展開によって念話の魔術を展開すると、相手を限定して念話を届けたりするのはかなり難易度が高くなるが、魔導具を介すればかなり容易なものとなるのだ。
その代わり、設定した魔導具同士でしか念話が行えないなどの制約が発生するのだが、難易度の高い通常展開による個人への念話を行うよりも断然魔導具で行う方が楽であった。
リーネと念話を始めたロンだが、一度アヤのことを見ると何やら考える素振りを見せた。
「場所は内緒で。――――大丈夫安全な場所だから! ――――信用ないなぁ。本当に大丈夫、って、何にもしないよ!?」
何やら必死に弁明を始めるロンに周りにいた他の生徒から、悪い意味で注目が集まるが念話に集中するロンはそれに気づかない。
ロンが弁明を初めて十数分。ウエイトレスが頼んだコーヒーを置いて少し経った辺りで、それはようやく終わりを迎えた。
「はい、指一本触れません。あ、アクシデントはノーカンでお願いします。――――いや、それくらいは許してよ。じゃあ、念話終了」
少し強引に念話を終わらせると、ロンはくたびれたのか机に突っ伏した。
「はぁー、俺、いくら何でも信用なさ過ぎでしょ」
「相手はお嬢様、だよな?」
「うん。何でも、ロンさんは良い人ですが、女性に関してのことは信用出来ません! だそうで」
何でここまで信用ないんだと首を捻るロンだが、可愛い女子生徒がいれば徹底的に目で追いかけ、アヤを見つければ猛烈な勢いですり寄って来るのが普段のロンである。
リーネの評価は正当なものだと言えた。
「お嬢様は悪くないだろう。……ところで、お嬢様は私なんかを心配して下さっているのか?」
「へ? 当たり前でしょ。ちなみに、リーネちゃんはアヤちゃんが行きそうな所を、俺は他の場所を虱潰しに探す方針でした」
当然だとロンは返したのだがコウを殴ってしまった罪悪感に嘖まされるアヤだ。それは直ぐに受け入れられるものではなかった。
「お嬢様が信頼するコウ殿を殴り飛ばした私なんかを、心配して下さっているのか……」
「……あー、そゆこと」
沈んだ様子のアヤを見て、リーネがこの場所へ来るのは避けた方が良いと直感的に思ったロンだったが、それはどうやら正解であったようである。
「あれよ? 別にリーネちゃんはコウを殴ったことで、アヤちゃんのこと嫌ったりはしてなかったみたいよ?」
「けど……」
「それにコウも気にしてないだろうし。あ、別にコウは怪我とかしてなかったから、そこは安心しといて」
「なっ!? あれだけ勢いよく突っ込んだのに!?」
「ぴんぴんしてたよ? もしかしたら、あれは自分で突っ込んだのかも知れないね」
ロンは以前にも同じようなことがあって、コウに怪我を訊ねた時、「自分で跳んで衝撃を緩和したから問題ない」と答えられたことがあったと話す。
それを聞いてアヤは自分の右手に残っていた感触を思い出した。
いくらコウがまだ少年だとはいえ、コウはしなやかなに鍛えられた肉体を持っている。それなのに殴って軽かったといのは確かにおかしな話かもしれない。
ロンの話を聞いて、アヤは今更ながらその違和感に気がついた。
「そうだったのか……。しかし、それで私がコウ殿を殴ったという事実は消えないな」
アヤはコウを殴った時を思い出した。
そして、それは同時にコウがクレイストをアヤから庇ったという一つの事実も思い出させることにもなった。
「何で、何でコウ殿はあんな奴を、お嬢様を売女などという奴を庇ったんだ……!!」
手を握り机に押しつけ、声を荒げるアヤ。
「ちょ、アヤちゃん抑えて!」
日が沈み始め、寮の門限も迫り始めているとは言え、周りにはまだ喫茶店の客として生徒がいるのだ。
コウのように魔術で騒ぎを気づかせないという手段がない以上、自分たちで声量を押さえたりする必要があった。
「すま、ない」
なんとか激情を抑えた様子のアヤにロンはほっとする。
周りから注目は集めたようだが、幸いにも短い時間であった為に興味はすぐに失せたようで、今は誰もアヤ達へ意識を向けていないようである。
ロンは極力落ち着けた雰囲気を意識して、ゆっくりと声を出す。
「リーネちゃんがその……売女とか言われたのって、やっぱりあの噂のせいだよね?」
「……知っていたんだな」
「そりゃ、有名だしね。知らないのは噂に無頓着なコウくらいじゃない?」
ロンは机に備え付けられている瓶を開け、中から角砂糖を二つ摘みだして少し冷めたコーヒーに落としていく。
そしてそれを口に含みながら、ロンはリーネの噂について思い出す。
リーネには様々な噂があった。
曰く、美しい容姿とは裏腹に、性格は最悪。曰く、男を使い捨てだと思っている。曰く、捨てた男の数は百を超える。曰く、男に思わせぶりな態度を取って遊んでいる。
等々、数え上げたら切りがない。
噂の全てに共通して言えるのは、負の感情を沸き起こす陸でもないものばかりである、という点だろうか。
「お嬢様は何も悪くないのに!」
悔しそうに漏らすアヤは、白くなるほど手を握りしめていた。
そんなアヤを見てロンはカップをソーサーに戻してから、神妙な顔で切り出した。
「実を言うとさ、俺も噂のことを少し信じてたんだよね。余りにもイメージの悪い噂が溢れてたからさ」
それを聞いてアヤが何か反応を示す前に、ロンは矢継ぎ早に言葉を続ける。
「でも、違った。実際に言葉を交わしたリーネちゃんは、驚くくらいに潔白で優しくて、そして何事にも一生懸命な子だった」
「……そう、お嬢様は売女などと呼ばれるような方じゃないんだ」
一人でも多くの人に知って欲しいと、アヤはロンに説明する。
男女の関係に関するリーネの噂の真相とは、リーネの容姿に惹かれて言い寄ってきた者達が流したものなのだと。
容姿に惹かれて寄ってきた男子生徒達。当然、そのような理由で群がってくる者達の柄が良い訳が無く、所謂ナンパというやつだった。
その全員をリーネは拒絶した。これが一人、二人であれば。或いは平民の生徒達だけだったのなら悪い噂など立たなかったのだろう。
言い寄ってきた人数はかなり多く、しかも中には基本的にプライドが高い者が多い貴族の生徒もいたのだ。自尊心を守る為に彼らが取った行動はリーネを悪女として仕立て上げることだった。
容姿がずば抜けて良い女が言い寄ってきたので、思わずなびきそうなった。これが彼らの言い分である。
そんなどうしようもない理由で噂は生まれ、それは雪だるま式に増えていったそうだ。
「なんだよ、それ、くだらない……」
説明を受けたロンとその生徒達の行動はあまり変わらないことをしている。
しかし、ロンは決してそのような姑息なことはしない。故に、そんなことをした者達を腹立たしく思った。
そんなロンの様子を見て、アヤは嬉しく思うのだった。
それから何となく黙った二人だったが、少し躊躇いがちに口を開くことで会話は続く。
「たまたま見たんだけどさ、リーネちゃんって周りに学園の奴らがいると無表情になるじゃん?」
たった今聞いた話に続く訳ではないが、ある意味で関係する話としてロンは切り出す。
「あれを見た時はびっくりしたよ。コウと一緒に会っている時のリーネちゃんは、いつも感情豊かだったからさ」
「……」
そのことはアヤに取って喜ばしいことであり、同時に嫉妬を覚えるものだった。
アヤと二人っきりでいるときはリーネもアヤに笑顔を見せてくれた。しかし、周りに生徒達がいるとどんなにアヤが頑張っても弱々しい笑顔が精一杯だったのだ。
噂のことがあるので、それは仕方がないとアヤに自分に言い聞かせていた。
それなのにコウは場所を関係なくどころか、何の苦もなくリーネの笑顔を引き出していた。
アヤはそれが羨ましくもあり、悔しくもあった。
「俺、リーネちゃんのあれは周りに無関心なのかと思ってたんだよ。けど、それをコウに言ったらさ、あいつ、あれは感情を押し殺している表情だって言ったんだ」
「コウ殿が?」
「うん、コウも一度見てるしね。それに悲しそうだとも言ってたよ」
アヤは驚いた。
確かにリーネが見せていた痛ましい無表情は、周りから送られてくる負の感情に対する一種の防衛反応であった。
それを一度だけしか見ていないのに、見抜く人物がいるとは思いも寄らなかったからである。
そして、何よりアヤが驚いたのは普段コウが見ていたリーネは、いつも自然体の姿であったのにも拘わらず、コウはその奥に秘められた悲しみに気づいたという点である。
どうせリーネの一面しか理解出来ないだろう。と、心の何処かで思っていただけに、アヤが感じた衝撃は大きかった。
だからこそ、アヤは思ってしまう。
「それなら、尚更何で……、何でコウ殿はあんな男なんかを庇ったんだ!」
この席に着いたばかりの時のように、疑問がアヤの中で湧いては渦巻く。
何故、そこまでリーネのことを理解してくれているのに、リーネを貶す奴などを庇うのか。
何故? 何故? 何故?
「お嬢様の周りにいるのは信頼出来る味方でいて欲しい! そうじゃないとお嬢様が辛いじゃないか!」
さっきは心の中で巡らせた言葉は、ロンという話相手がいることで口から漏れだした。
「そうじゃないと……、そうじゃないと…………私も、辛いよ……」
本当に、本当に小さな掠れるような声だった。
しかし、それこそがアヤの心の底に沈めてあったものだった。
リーネの護衛はアヤ一人である。
それは何かあった時、アヤ一人で守らなければならないという意味だ。
何かあればリーネも戦いなどに参加はするが、それでもリーネを守るという者はアヤ一人であることに変わりはない。
今までリーネが襲われた時、その全てを余裕で退けてきた訳ではない。むしろ、今まで無事だったことが不思議なくらいの出来事は何度もあった。
やはり、物理的にも、そして精神的にも守る者が一人というのは辛いものがあった。
様々な重圧が心に重くのしかかり、悲鳴を上げたくなるような日もあった。
そんな心の脆さをリーネに悟られないようにする生活は、アヤの心を確実に蝕んでいた。
そんな時に現れたのがコウだった。
突然現れたのにも拘わらず、リーネから絶大な信頼を寄せられるコウに対する嫉妬は、決して小さくなかった。
だからこそ、コウに対する態度は刺々しいものになったし、関係はぎこちないものになった。
けれども、同時にコウはアヤにとって望むべき存在となるのではとも思ったのだ。
まだ本格的に実力を測った訳ではなかったが、リーネに話を聞くところによるとかなりの力量を有しているらしく、僅かに見せた片鱗も確かに素晴らしいものだった。
尚且つ、私利私欲に関係なくリーネと友人であろうとする姿は、アヤの期待を膨らませるには十分なものであった。
即ち、彼ならリーネの――自分たちの味方になってくれるのではないか、というものだ。
信じてもいいのではないか。そうアヤは思っていた。
そんな矢先に起こったのが、コウがクレイストを庇うという事態だった。
裏切られた。そうアヤは思った。
勝手に期待したのはアヤ自身なのに、その思いは消せるものではなかった。
それだけ期待は大きく膨らんでいたということだろう。大きくなった分だけ辛かった。
「私は、コウ殿のことを信じたかったんだと思う。……けど、それは間違いだったのかな?」
それまで独白を続けていたアヤは何処か自虐的な笑みを浮かべながら、答えを求めてロンへ言葉を投げかける。
言葉を受けたロンは目を瞑り、ただ静かにそこにいるだけだった。
「ロン?」
アヤの声が不安で揺れる。
その姿はいつもの凛とした姿は想像出来ない、ただの少女のように弱々しいものだった。
そんなアヤの姿を見たロンは目を見開き、そして次の瞬間にはわなわなと震えていた。
「許さん……」
「えっ?」
「コウの奴、俺のアヤちゃんをこんな風にするなんて! これはこれで可愛いけど!」
「……ロン?」
いつものアヤならここでロンの発言に対して制裁を加えるところなのだが、今のアヤはただ戸惑うばかりである。
その姿はロンのいきなり始まった暴走に拍車をかけた。
「よし、コウに仕返ししようよ」
「えぇ!?」
「そうだね……コウは毎朝鍛錬とか言って寮から出て秘密の場所に行くからそこで襲おう」
「秘密の場所?」
「そうそう、俺もコウから教えて貰ったんだけどね」
そう言うと、ロンは手帖を取り出すとしばらくの間、何かを書き始め、それを書き終えるとページを破ってアヤに手渡した。
受け取ったアヤは書かれたものを確認する。それは何か洞窟などを連想されるような道の地図だった。地図の横には順路やその他の様々な事が細かく書かれていた。
「時間は、ん~、コウは太陽が昇る前に部屋を出て行くから、アヤちゃんは太陽が顔を出したくらいに出発すると良いと思うよ」
「そ、そんな時間じゃ、警備部隊の人達が巡回してる!」
「あ、それは大丈夫」
ロンは懐を探ると何かを取り出した。
「それは、指輪?」
「そう、一応これも耳のやつと同じで魔導具だよ。これは認識阻害が施されてる。はい」
ロンが気軽に渡して来るそれをアヤは慌てて受け取る。
手にとってまじまじと見てみれば、指輪にはびっしりと小さな円が重なるように細かく刻み込まれていた。
魔導具というからには刻まれたそれは魔術的に何かしら意味があるはずだが、アヤにはただの美しい装飾品にしか見えなかった。
「あ、アヤちゃん、魔力操れるよね?」
「う、うん」
「おっけー、おっけー、なら問題無いね。それとこれも、はい」
続いてロンが渡してきたのは、またもや指輪だった。
こちらは先ほどの指輪と違って、単一の模様ではなく様々な線や円や四角形が刻まれていた。これもまた、アヤの目には美しく映る代物だった。
「それは地図の横に書いたやつの六行目、岩をどける時に嵌めてね。大きさは合ってないだろけど、取りあえず嵌めておけば大丈夫だから。んー、よし、俺からの準備は終わったかな。何か質問ある?」
アヤからすれば現段階で既に質問というか問いただしたいことは山ほどある。
多数ある内、アヤの口から出たのは最初に思ったことだった。
「ロンは、なんでこんなにいろいろな魔導具を?」
他にもっと優先的に問いただす点はあったが、一番に思った疑問がこれだったのだから仕方がない。
魔導具というのは制約があるとはいえ、施された魔術であれば無詠唱で展開できるという優れた利点がある。
その反面、施すのが初級魔術だとしても、高い技術力が求められるため、魔導具は簡単に作成できるものではない。
それ故に、作り手は限られているので魔導具というのはかなり高価なものだった。
そんな代物をぽんぽんと出すロンは流石三大貴族の子どもということだろうか?
アヤは金銭的な意味でそう考えたのだが、ロンの答えはその予想を大きく上回るものだった。
「あ、これは俺が作ったやつだから。材料さえ揃えれば作れるよ」
「これを、ロンが!?」
「うん。ちなみにその認識阻害の術式はコウが考えて、俺が施したものだからかなり凄いよ。コウが言うにはあいつが展開する認識阻害と同等の効力があるんだとさ」
コウの認識阻害と言えば、感知の魔術によって探られなければ、肉眼で見るのはほぼ不可能というレベルであるということだ。
もしそれが本当ならアヤが手渡された指輪を売ったりすれば、とんでもない額がつくだろう。
そんな術式を考案するコウもコウだが、それを施したロンの技術もかなりのものだった。
アヤが先ほど考えた「流石は三大貴族の子どもだから」というのは意味は違えどある意味正しかった。
【技】のスティニア家のロンは、アヤが思っていたよりもかなり優れた人物だった。
アヤは驚きを隠すことなくロンを見つめた。
「それ無くしたり売ったりしないでね? コウとの約束で信頼出来ない奴に渡しちゃいけないことになってるから」
確かにこの指輪が心ない者の手に渡れば、恐ろしいことになるだろう。これを使った犯罪などいくらでも思い浮かべられるような代物だ。
「そ、そんなことしない!」
「まぁ、アヤちゃんはそんなことしないと思ってるから、それを貸すんだけどね」
言葉を額面通りに受け取るのであれば、アヤのことを信頼しているとロンは言っていた。
そのことに気づいたアヤは、むず痒いような不思議な感覚に襲われた。
「うぅ……、お、襲うと言っても、そんなことしたらいくらコウ殿でも危険なんじゃ?」
不思議な感覚を誤魔化すため、咄嗟に言ったことだったが、よくよく考えればそれは真っ先に考慮すべきことだった。
しかし、それはロンがあっさりと否定する。
「それは大丈夫。あいつ強いから」
「いや、そうは言ってもこの指輪を使って襲いかかったら、いくらなんでも……」
「甘い! そんなんじゃ、あいつは討ち取れないよ! もう、ばっさりと切り捨てるつもりでいかないと!」
討ち取ってどうするのだとアヤは思ったが、その後も何を言ってもロンは同じようなことを言うだけだった。
なので、仮に行くことになったら最悪寸止めすれば良いかと考えて、アヤはそれ以上は何も言わないでおいた。
「他に質問はない? じゃあ、これで準備は完了かな? 決行は早いほうが良いだろうし、明日にしようか」
話はまとまったとばかりのロンだが、アヤは手の中にある指輪は見て思う。
確かにこれならロンの言う秘密の場所というのに行くことは可能だろう。
しかし、疑問は残った。
「ロン」
「ん?」
「私は、別にコウ殿に仕返しをしたいわけじゃない。ただ……」
「俺は」
アヤの言葉をロンは遮った。
驚くアヤを余所にロンは自信満々に言う。
「コウは身内に対して裏切るようなことを絶対にしたりしないと思う」
「……どうして?」
何故そう言い切れるのか。
前に聞いたが、ロンとコウの付き合いは約一年、高等部一年になりたての頃に出会ったのが切っ掛けだという。
たかだか一年の付き合いでそこまで信頼で出来るものだろうか。一年という期間はアヤにそんな疑問を抱かせてしまう期間であった。
そんなアヤに対して、ロンは笑みと共に答えた。
「友達だから」
「えっ?」
「友達だからだよ」
アヤはこのやりとりに既視感を覚えた。それはいつだったか。アヤは思い返す。
そう、前にこの喫茶店でコウとリーネが全く同じやりとりをしていた。
思い出したアヤはロンを見つめる。そこにある笑みは意味ありげなもので、ロンが分かっていて言ったことは明白だった。
アヤの視線を少しの間受け続けたロンだが、急に恥ずかしくなったのか誤魔化すように口を開く。
「まぁ、友達なら別に誰でも信頼出来るってわけじゃないけどね」
「それは、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。あいつだから信頼出来るのさ。何か分かんないけど、あいつにはそう思わせる不思議な魅力があるんだよ。もしかしたら、リーネちゃんもそれにやられたのかもね」
そう言うとロンは立ち上がる。まるでやるべきことはやっとばかりに。
「最終的にどうするかはアヤちゃん次第だけど、もしも決行するなら頑張ってね」
「……行けば、私の答えは見つかる?」
「そればかりは分からないかな。俺は俺が出来ることをしただけだよ」
ロンは机に置かれていた伝票を手に取ると、立ち上がりそれから伝票を確認して首を傾げた。
「あれぇー? 何で俺が頼んだ分しか書かれてないの?」
「あ、私のはマスターからのサービスらしくて……」
「へぇー、なるほど、流石マスター。粋な計らいだね」
感心したのかしきりに頷きながらロンは受付に立つウエイトレスの元行くと、会計を済ませて店を出て行った。
アヤはどうするか迷い、しばらく手の中にある二つに指輪を見つめて考え込んだ。
そして、そろそろ閉店の時間に近づいて、ウエイトレスが躊躇いながら声を掛けようとした時、アヤは決心した。
「よし!」
「うわ、びっくりした! 何、悩みは吹っ切れたの?」
客と店員とは思えない、すっかりフランクな調子で話しかけてくるウエイトレスに、アヤは宣言するように答えた。
「その悩みを吹っ切りに行くんです!」
コウを信じていいのか分からないと言ったアヤに対して、それに対しての明確な答えを言わずに、自分はコウを信じるとロンは言った。
それは結局の所、信じるかどうか、信頼するかどうかはアヤ自身の問題であるという意味だったのだろう。
だったら、自分は行くべきなのだ。アヤはそう思った。
迷いを振り切ったのかよく分からないアヤの言葉に、ウエイトレスは面食らったが、それでも笑顔で言葉を返した。
「そう、じゃあ頑張れ!」
「はい! いろいろありがとうございました!」
ウエイトレスに、そして奥にいるマスターに一礼するとアヤは店を後にした。
勢いよく店を出たアヤの調子はまだ空元気と呼べるものだろう。
しかし、それは決して悪いことではないはずだ。
落ち込んだ時、元気のない時に無理矢理自分を奮い立たせることも、時には大切なのだから。
こうして、アヤはコウのことを襲うことになったのだった。
なんだか、アヤの女子力が低下してるような気がします。
これは不味い……?
次話は回想後から始まる予定です。
お読み頂きありがとうございました。
暇つぶしに貢献出来たなら幸いです。
2011/08/29追記
※誤字・脱字発見したので一部文章を弄りました。