05_友達だよ
メリィは駆けていた。
荒い息で転びそうになりながら、自分がどこへ向かっているのかもわからないまま、ただ必死に走る。
何度か視界がぼやけた。瞳から何かがこぼれ落ちそうになるのもわかった。
だが──必死に我慢した。
絶対に嫌だった。この顔だけは絶対に彼に見せたくはなかった。
──絶対、絶対追ってくる。でも、この顔だけはいや!
メリィは確信していた。
絶対にこのあと彼がどんな行動に出るのかも。
だからこそ、逃げたいと思った。
わざわざ街を超えてここまでやってきたのに、今のメリィはエクスに絶対に会いたくなかった。
ここに来る前に絶対にそれだけは──涙だけは見せないようにしようって、そう思って来たのに、でも今、暖かい何かが瞳の奥から溢れそうになっている。
メリィは、エクスに対してこの顔だけは見せたくないのだ。
何故ってそれは……──
『やはりこっちに来ていたか。私の感覚を信じてよかった』
──不意に声がした。
メリィははっと顔を上げる。
そこは──空の真ん中だった。
薄暗闇に青と赤、二種の月が浮かぶ夜空が、メリィの視界いっぱいに広がっていた。
前も見ずに一心不乱に走っていたら、いつの間にか、屋上に来てしまっていたらしい。
『とりあえず落ち着いてくれ、あんまり走ると危ないぞ』
その中心に、白い肌の少女が立っていた。
剣士である。烏の濡れ羽を思わせるつややかな髪に、太く凛々しく形の良い眉。
長身で均整の取れた身体をローブで雑にくるんでいる。
そんな奇妙な出で立ちの少女が、まっすぐにこちらを見ていた。
『──と言っても、きっと君には私の言葉はわからないだろうな』
ローブが吹きすさぶ風に揺らればさばさと音を立てる中、少女は知らない言葉で何かを言った。
少なくとも共通語ではない。当然、メリィには理解ができなかった。
「……貴方、ロードブリッジ君の部屋にいた」
だが、そのことは理解できた。
月明かりの中照らされるその顔は、しばらく忘れないだろう。
綺麗で、美しい人だった。
この人がエクスの部屋にいたこと。それの意味することを思うと、メリィの胸の奥が締め付けられるように苦しかった。
だけど──でも、それは仕方ない。それはエクスが決めることなのだから。
そうでも──
『言葉がわからずとも伝えよう。
君とエクスの関係に私が変に割り込んでしまったのだろうな。
言いたいことは色々あるだろうがまず──』
少女がなんと言っているのかはわからない。
だが彼女はそこでぺこりと頭を下げて来た。
その意図は明白だった。ごめんなさい、と彼女はこちらに伝えているようだった。
「──このっ!!」
その時、メリィはカッと頭に血が昇っていた。
明確な怒りが、新たに湧き出ていた。
理性ではわかる。別に彼女が謝る必要はない上で、ここまで追って来たのだ。
だが、ここで謝られるなど──これ以上の屈辱があるか。
「バカに──バカにしないでよっ!
この……! この……! このぅ……!
なんで貴方に! 貴方なんかに私が謝られないといけないの!」
言葉にならない。
ただただ怒りと悔しさ、そして情けなさが胸から湧いて来ていた。
「私は……っ! 私は別に、そんな想いでここに来たんじゃないの!
ロードブリッジ君が──エクス君が好きなのは、それは間違いないけど!
でも、でも! でも!」
違うの、とメリィは言った。
「学院をやめるのだって、彼がここに来ることだって──貴方を選ぶことだって、本当は別にいいよ!
それは私じゃなくてエクス君が決めることだから。私が止める権利なんて、ないと思うから」
独白なのか、目の前の少女に向けた言葉なのか、自分でも判然としなかった。
そもそも彼女にこの言葉が通じているかなんて、もはやどうでもよかった。
「でも──何で、私にも言ってくれないのよ!
私はずっと隣にいたのに。隣にいたつもりなのに──大切なことは何も言ってくれなかった。
君を助けたかった。私を必要として欲しかった。だって──寂しかったから」
それは最初に会った時からずっとメリィが思っていたことだった。
みんなに置いていかれて迷い込んだ図書館で会った彼は自分とよく似ていて、だからこそ、彼のことはよくわかるつもりだった。
メリィは一人だった。エクスも一人だった。
だからこそ、二人になれるはずだった。必要としてくれるって、そう信じていた。
だからせめて、言って欲しかった。
自分の前に去る前に──助けて、と手を握って欲しかった。
「何度言葉を重ねても届かなかった……。
私が君に向けた言葉は、きっとそよ風のようなものでしかなかったんだ。
意味のない、ただの乾いた反響音。すぐ、消えて無くなるようなもの。
でも、それでも私は君に──」
『泣くといい』
途中、また少女がわからない言葉を告げた。
『思い切り泣くといい。私は君の言葉がわからない。
でもその涙は別に、隠すものじゃないと思う。
隠したところで──君の想いは十二分に響いてしまう』
その言葉はやはりメリィにはわからなかった。
だが、彼女のその眼差し、穏やかな口調、凛然とした佇まいに、メリィは何かを受け取った気がした。
「……伝わっているよ」
そして、背中から声が聞こえて来た。
「僕が貴方の想いに気づかない筈がないだろう。
いつだって貴方は強くて、格好良くて、僕の前に居てくれた」
風の中、彼の──エクスの言葉ははっきりと耳に聞こえてくる。
やっぱり彼はやってきた。
その言葉の響きは、どういう訳かひどく懐かしいもののように思えた。
「貴方の言葉は伝わっていた。伝えることができなかったのは、僕の方だ」
知っているかい、と彼は問いかけた。
「僕は、この僕は貴方を助けたいって、ずっと思っていたんだぜ。
初めて会った時、あの図書館で、迷子でボロボロなくせに貴方は僕に手を差し伸べてくれた。
その時、思ったんだ。いつか、今度は僕がこの人を助けよう、助けられるぐらい強くなろうって」
彼はそこで恥ずかしそうに笑った。
きっと彼はらしくない言動に、自分でも気恥ずかしさを覚えているのだろう。
「でも──貴方は強かったからさ。
学院に入って、貴方はうまくやっていた。
それで馴染めない僕に対して、変わらず手を差し伸べてくれる。
僕が出る幕がなかった。僕は──本当は僕の方が、貴方に助けてって言って欲しかったのかもしれないな」
必要として欲しかった。
ずっと一人でやっていけるように見えた君と手を繋ぎたかった。
ひどく傲慢で、幼くて、情けない感情だった。
だがその感情がどれだけ痛切なものか、メリィにはよくわかっていた。
「僕なりに頑張っていたつもりなんだけど、その頑張りが貴方を傷つけていたのかもしれない。
だからその、あれだ──」
──ありがとう。
彼はそう短く、だがはっきりとした言葉で告げた。
「これを言いそびれていたって思ってね、最初に会った時から、僕はずっと感謝してるんだ、ホントはさ。
だからこそ、貴方を頼ることができなかったのかな」
「……バカみたい」
メリィはそこで少しだけ笑った。
「バカじゃないよ、僕は一応天才なんだ。貴方も知っているだろう──メリィ」
笑って、振り向いた。
月明かりの中、瞳に流れる暖かいものも、きっと見えてしまっただろうな、と思う。
「僕はもう学院をやめたからさ、できれば、また元の名前で呼んでほしいな。エクス君、ってさ」
「……ちょっと恥ずかしいけど、いいよ。エッくん」
「そこまで遡れとは言ってない。それホントにホントに最初の時じゃないか!」
「いいじゃない。もうここは学院でも図書館でもないんだから」
そうして二人は笑った。
たぶんようやくだが、半年前に言えなかった言葉をお互い言えたのだろうな、と思う。
『うむうむ……雨降って地固まる。
イチャイチャモードに突入した二人のこのあとはいうまでもない。
泊まりに来たが、さすがにこれ以上の野暮天はできんな。私はそぅーっとお暇して……』
ひゅううううう、と風が吹いた。摩天楼の屋上には、ひどく冷たい風が吹いている。
「はっくしょん!」
その時、メリィは初めて少女の言葉がわかった。
言葉というか、くしゃみがわかった。
彼女は何かに納得したような顔のまま、不意に大きな音を立てて倒れていった。
『あ、おい! 大丈夫!?』
「お、お姉さんじゃなくて、どろぼー猫の姉さん!ってじゃなくて!」
あ、しまった本音が出た、とメリィは己の失言に気づいた。
◇
……如月刀花。
昼間から迷宮にソロで挑戦し、そのまま休むことなくこの摩天楼を登りきった。
体力も限界だったところに半裸で薄布一枚で、水浸しで風に晒される。
結果として彼女は倒れ、数日寝込むことになった。
必然的に。
エクスの部屋に宿泊の約束が、一晩から数日単位で伸びた。