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短編

君とは違う、僕

作者: 三千

君とは違う、僕


壁も床も。

何もかもが白い部屋。

その白い部屋から見えるのは、高い高い青い空。澄み切ったブルーに、白くて立体的な雲が映える。

もくもくもく、と形容できる雲の形。


夏。

時々、聞こえてくる遠雷と、ふとした瞬間に鳴き止んでしまう蝉の声に。もうすぐ雨が降るのだろうかと、気が急いてくる。


白いシーツで敷き詰められたベッドに腰掛けているのは、君。


サイドテーブルにちょこんと乗っかっている桃をひとつ取って、丁寧に指で皮を剥き始める。

産毛の立ったほんのりと薄いピンクの皮が、血管の浮き出た君の細い手によって、すうっ、すうっと剥がされていく。

僕がしばし、その様子を見ていると。


ふうわりと、桃の甘い香りが漂ってくる。

僕はこの匂いを、ずっと覚えているのだろうな。


夏。

君と過ごした、この夏を。

さあ、君が桃の皮を剥き終わるまでに、僕は話してしまわなければならない。


君とは違う、僕の話。

そして。

君の話。


✳︎✳︎✳︎


僕がこの高校を選んだのは、ただ学力がそれぐらいだったというだけではなく、家から比較的近かったというのもあったけれど、何と言っても君がこの高校を受験すると小耳に挟んだからだった。


花乃かのちゃん、どうして公立なの? 別に私立でもよくない?」


中学ももうすぐ卒業という時、廊下でひとり、開いた窓からぼんやり外を眺めていると、隣のクラスから甲高い声とそれより少し低い声が交わす会話が、耳に入ってきた。


「ううん、私立はない。だって、お金が高いもん。公立の方が、断然安いよ」

「えー、そうなの? そんなお金の話なんて、聞いたことなーい」


花乃の友達の軽い言い方に、少しだけの嫌悪を覚えた。

世間知らずめ。

父子家庭で育った僕の背中が、嫌味な声を上げそうになる。けれどまあ、僕の背中が叫んだのだから、当の本人には聞こえないし、僕に罪はない。


「だから公立」

「そっかー、うん、そっかー」


もう一度背中が叫びそうになったが、それと同時に首の後ろがそわっとして、僕は手のひらでそれを押さえた。そうだよ、僕んちも決して、裕福じゃない。

(……だから、おんなじ公立の高校に行こう)

僕は僕の中で、小さく決めた。


僕と花乃。

君とは違う、僕。


同じ中学だけど違うクラス。同じ市内だけど違う町内。同じ委員会だけど、違う役職。

君と僕はすれ違う。これでもかというほどに、「違い」がある。僕と君の距離も、近づきそうで近づかない。

けれど。

僕は君のことをよく知っている。

それは、ひとつだけの共通点があるからだ。


同じ病院に通っている、同じ病気に罹っている、同じ主治医の先生、入退院を繰り返す同じ人生。


僕たちは、同志だ。

けれど、そう思っているのは僕だけで、そこにも相違があるのかな。


あの夏。

桃を剥きながら、君は「無理してでも生きたいとは思わない」と言った。


甘い香りが、否が応でも鼻の奥へと入ってくる。

君が剥いてくれた一切れの桃が、僕の舌の上でとろけて、そして甘い香りとともに消えていったのを、今でも思い出す。


✳︎✳︎✳︎


「……同じ高校だね」


僕がそう言うと、花乃は指でくるくるといじっていた髪をそのままに、不思議そうに僕を見た。


「確かにけいくんとは同じ高校だけど、また中学みたいに違うクラスばっかかもよー」


悪戯っこのようににやりと笑うと、花乃は頬づえをついて、僕を見た。

高校入学前の春休み。春休みの、学生たちの喧騒の中の、ハンバーガーショップ。


「……もしそうでも、同じ敷地内にいるんだからいい」


女々しい言葉はいつも僕の口からだ。


「…………」


花乃はエビバーガーのふちを指で食べやすいように潰すと、ネズミのように齧っていった。


花乃がいつまで経っても何も言わないので、僕は痺れを切らして、嫌味のような言い方をした。


「……そんな食べ方して美味しいの?」


「別にこんなもの、美味しいもくそもない」


出た。

花乃はムカつくと、途端に口が悪くなる。

これ以上うるさく言うと、こっちのテリヤキバーガーの味までくそみたいな味になるので、僕は次に言おうと思っていた言葉を、冷えたシェイクで喉に流し込んだ。


✳︎✳︎✳︎


「先生、私たち。いつまで生きられる?」


花乃は容赦ないという言い方で、すっぱりと訊いた。


ベッドは直角とまでいかないけれど背もたれがくの字に曲げられていて、その上で横になっている花乃は目を見開いていた。

僕は花乃の横に置いたイスに座っていて、スマホから伸びているイヤホンを耳から外したばっかりだった。


(「私たち」?)


怪訝に思う。


僕はスマホが入っている右のケツポケットにイヤホンをぐちゃと適当に突っ込むと、ベッドの傍らに立つ僕たちの主治医を見た。

先生は聴診器を持って近づけようとしていた手を止めて、苦々しい顔を浮かべてる。


(僕の寿命のことまで、なんで花乃が訊くんだよ)


僕にはどうやっても訊けなかったことを、花乃は何のためらいもなく、訊いた。まあそうだな、一応。花乃の勇気に敬意を表す。


でもな。

ほら、先生も困っているぞ。それに、そんなこと他人の前で言えるわけがないんだ。今の時代は、個人情報が優先される。

僕は頭の中で、そう言葉を矢継ぎ早に続けながら、けれど先生の回答を待った。質問の答えに先生がどう答えるか。それが気になったからだ。


「花乃ちゃん、そういう話は、診察の時にしよう」


ほらみろ。

僕は先生の返答が自分の思い通りだったことで、花乃に勝ったような気になった。それが顔に滲み出ていたのだろう、いつ間にか花乃が僕の顔をじっと見ていて、そして言い放った。


「圭くん、あんたも知りたいって言ってたじゃん」

「え、僕はそんなこと一言も……」

「言ってたよ。「違う」のは嫌だ、一緒に死にたいって」


ぎょっとした。いや、僕もだが、先生もだ。


「ちょ、花乃ちゃん、そんなこと言うもんじゃないよ」


先生が持っていた聴診器を、結局は首に掛けた。


「言ったのは、圭くんだってば」


僕はおろおろしてしまって、どうしていいのか分からなくなった。


「花乃ちゃん、病気は治そうとしなければ、治らないもんなんだ。そんなこと考えていると、良くならないぞ」


これぞテンプレというような医者の言葉を聴けて、ちょっとだけドラマのようだな、なんて不謹慎なことを思った。


「学校は楽しい?」

先生が慌てて話題を変える。


花乃は、ぷいっと顔を背け、決して僕を見ない。僕が援護射撃をしないので、裏切られたと思っているのだろうか。


「……別に何がどうってこともない。高校なんて、中学と何もかもが一緒」


その言葉に、ようやく僕は反論した。


「一緒じゃないよ。やっと同じクラスになれたんだ」


「ばっかじゃないの。そんなことで、人生変わる?」


花乃の投げやりな言葉に、僕はムッとした。

先生がポケットに両手を突っ込んで、僕らの様子を苦笑しながら見ている。


「変わるだろ。友達とか恋人とか、大切なんじゃないの?」

「はあ? あんた私たちは同志だって言ってたじゃん。間違っても、うちら恋人なんかじゃないからね」


こいつは先生の前だってこと、忘れてるんじゃないか?


「うっせー、ただの例え話だろ」

「あんたみたいな、へなちょこ彼氏なんて、絶対イヤだからっ。無理だからっ」

「こっちだって、お前みたいなの、」

ガタッと音をさせて、立ち上がる。僕は次に来る言葉をあやうく言いそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。


顔を向けると、そこに先生の姿はない。

ほっとして、もう一度座ると、ケツポケットからスマホとイヤホンを出して、操作し始めた。


「……やっと一緒のクラスになれたのに」


僕がイヤホンを耳につけながら小さく呟くと、花乃は布団を引き上げて、ぷいと向こうを向いてしまった。いつのまにか、ベッドは平らになっている。


「私は同じクラスなんて、嫌だった」


僕はスマホの音量を上げた。


✳︎✳︎✳︎


「はあああ、病院のベッドばっかじゃ飽きちゃうしね。とりま退院できて良かった。病院のうっすいごはんも……ねえ」


教室の片隅。いつもの光景。

退院した花乃と、机と机とをくっつけて、僕らは弁当を食べている。


「病院食より、マシだっつーの」

父親が作った弁当を、ディスるのも心苦しいが、なんとなくそんな風に格好をつけてみたかった。箸で少し茶色い卵焼きをつまむ。


「なにそれ、お肉の」


花乃が自分の箸を差し向けてくる。


「肉巻きだよ。オクラを肉で巻いてあんの。冷食だよ」

「美味しいの、それ」


野菜嫌いの花乃が、自分のウィンナーを口に入れながら訊いた。


「別に普通」


向かい合わせに机をくっつけているので、僕の視界の中心は花乃だから、教室の周りの人目などは気にならない。

最初はひゅうひゅう囃されたが、別に普通の恋人同士ならこういうことも普通だろと思って、気にしないようにした。

まあ、花乃は僕のことなんか恋人などとは、微塵も思っていないけれど。


弁当を見る。冷たくて、美味しくない。

いや、不味くはないが、特段美味しくないという意味だ。

ごはんはやはり、温かく生かされているものが美味しいに決まっている。


「こんなに席が離れるとは思わなかった」


花乃が何気に言う。


「うん、僕もまさか教室の端と端になるとは思わんかった。しかも、対角線上に」

「だって、委員会だってさ。圭くん、喋れないくせに放送委員なんかになるからあ」

「僕だってまさか、花乃が図書委員やるとは思わないだろ。本なんか、読まないくせに」


僕が不服そうに言うと、くすっと花乃が笑った。

花乃の笑った顔は、菫だ。菫だなんて、分かりにくいかもしれないが、向日葵とは違うと言えば、その雰囲気が掴めるだろうか。


病気のこともあって、花乃の肌は透けるように薄い。

身体は細く、体力もあまりない。

じっと花乃の顔を見る。

伏せた瞼の皮膚も薄く、時々、ふるっと震えることがある。それが、病気の後遺症なのだと知ったのは、少し後の話。


「なに見てんのー」


花乃が目を上げる。けれど僕を見るその瞳は、いつも力強く、生命力に溢れているのだ。


「別に」


返答とは裏腹に、今日も花乃の顔をじっくり眺めることができたと思うと、僕は満足して、もごもごと動かしていた口にペットボトルのお茶を流し込んだ。


「しっかし、委員会とか趣味とか診察時間とか、こんなにも見事にかぶらんとは。うちらほんと、仲が良いんだか悪いんだか」


僕がいつも痛切に思い知らされる、花乃との「違い」。君がそうやって、少しでもその「違い」とやらを気にしてくれているなら、まあそれで良いやって気になる。


花乃が僕のオクラの肉巻きに、ぶすっと箸を指して、口の中に放り込んだ。


「んまっ」


その様子を見ていた僕も、最後に残った肉巻きを口へと運ぶ。


「うん、まあまあだな」


花乃がそう言うなら美味しいのだろうと思う。こうして冷めた弁当でも、美味しいと思えることもあるんだな。花乃のその一言で、味覚ががらりと変わった。

僕は弁当の蓋を閉めてから立ち上がると、誰のかは知らない机を元に戻した。


✳︎✳︎✳︎


秘密を共有するのには、僕らは若すぎると思う。もっと大人なら、痛みは和らいだのかも知れない。


血液検査を受けるたび、チクっとする注射の針の痛みも、大人になれば和らぐのかもと、いつも思ってしまう。今だけの痛みだからと、我慢我慢。そう自分に言い聞かせたりもした。


二人の残りの人生があと二年だと知ったのは、注射の針の痛みをまだそうやって、言い聞かせては我慢していた時期だ。僕が大人だったなら、余命の宣告を知ってもどうってなことなかったのかも、とは思ってみるが、こんな残酷な現実は大人になってからでもきっとキツイのに変わりないだろう。


こうしているうちにも僕や花乃の中に生きる腫瘍は、大きくなるばかりで決して小さくはならない。


腫瘍をよくドラマやマンガなんかで「時限爆弾」に例えているのを見ると、そんな感じじゃないなあ、と思う。だからと言って、「地雷」とか「ダイナマイト」というわけでもない。


「スライム……かな」


花乃がポップコーンをバリバリと食べながら、呟くように言う。


「え、なにそれ」


まだ映画の予告宣伝も始まっていないのに、見てるこっちがお腹いっぱいになってくる。


「ん、ん、んー」


ポップコーンを持つ手を僕の目の前にねじ込んできて、食べるの? 食べないの?、みたいな態度を取られると、もうそれだけで口の中がしょっぱくなる。

もちろん、ポップコーンは定番の塩味だ。そこは譲れない。


「スライムを一匹、頭ん中に飼ってる感じかな」


腫瘍は細かく飛び散っていて、少しずつ領地を増やしている。

僕はなんだか納得したい気分になった。


「ははん、なるほどね。スライムね」

「どう? 良い表現でしょう?」


ドヤ顔で言われると溜め息の一つも吐きたくなるが、すぐにベルが鳴って場内が暗くなったので、花乃のドヤは見えなくなった。


おい、食うペースが早過ぎるだろという僕の予想通り、映画の本編が始まる頃にはポップコーンは全部無くなった。持っていたゴミ袋に容器を捨てる。


花乃の両手がようやく空いて、花乃は塩のついた手を、ぱっぱっと払った。もちろん、飲みかけのコーラはドリンクホルダーにすっぽりとはまっている。


僕はその花乃の手を、攫うように握った。


「なによ」


いつも一言、言わなきゃ気が済まない花乃の、棘のある声。

けれど、僕は構わず手を握る。ぎゅっと指に力を入れると、やり返すようにぎゅっと返される。


「手汗かいても離さない」

僕が言う。

「うわっ、いやっ」

言葉とは裏腹に、花乃の指が僕の指に絡められる。


すると僕の心臓は、途端にどきどきと跳ね上がっていった。それを見透かされたのか、薄暗闇の中、花乃の肩がくくく、と揺れる。


(しょうがないだろ。こうしていないと、不安になるんだ)


女々しい僕の胸の内。


この暗闇の中。もし突然、花乃が死んでしまったら? 僕の心臓が、その鼓動を止めたら?


「あーあ、同時に死ねたらいいのにね」


僕の気持ちを代弁するように、花乃が言う。

周りの空気がしん、と冷えた気がした。


「それでもあと、二年は一緒に生きようね」


そうだね、寿命は全うするもんだ。

そう心で言って僕は、座り心地の悪い尻をずらしてから、始まった映画のスクリーンに目を移した。


✳︎✳︎✳︎


教室で先に倒れたのは、花乃の方だった。


救急車のサイレンが校門の前の道、その曲がり角を折れ、校庭に入ってきたのを見ると、なんだなんだと外野がたくさん寄ってきて、説明するのも鬱陶しかった。


僕も花乃の側に居たけれど、花乃の面倒を見ていたのは、保健室の養護教諭だ。

花乃は、先に連絡がいっている主治医の待つ国立の病院へと運ばれていった。


僕は動揺しつつも、それでもちゃんと授業を受け、放課後に自転車で病院へと向かった。


いつもなら。僕は自分の検査の時には、学校を休んで家から病院へと直接行く。

けれど今日は。学校から病院への道は、いつもの道と風景が違っていた。


僕はそれだけで新鮮な気持ちになった。


花乃がとりあえず無事だということは、本人からスマホで連絡貰っていて、知っている。


教室で崩れるように倒れた姿を見た時は、心臓が止まりそうになったけれど、けれどそうやって僕の心臓も止まってしまえば、僕はもしかしたら花乃と同時に死ねるかも、などと思ったりした。


今は病院のベッドで寝そべっているとわかっているから、自転車を漕ぎながら、そんなことをあれこれと考える余裕があった。


生きるのも死ぬのも、花乃と一緒だと思うと、世界が違って見えるのだ。


自転車を漕ぐ足を止める。

銀杏の並木道が、綺麗だ。


救急車に乗った花乃はこの道を見ていないだろうから、この素晴らしい景色を見せてやろうと思って、僕はスマホを出して、銀杏のトンネル風の感じで写真を撮った。


その時。


季節は秋だというのに。落ち葉の香りに秋の匂いすら、感じるというのに。


それなのに。僕の鼻は、あの夏、花乃が剥いてくれた桃の香りを思い出したのだ。


僕は、向けていたスマホを下ろした。


この世界は美しく、もし今日、花乃がいなくなり、明日、僕がいなくなっても、何ごともなかったかのようにこの銀杏の並木道もここに存在し続けて、そしてこの後、何ごともなかったかのように黄金色の葉をはらはらと落としていき、そして枝だけのと木となるのだろうな。


冬を迎え、春を過ごし、そして花乃に出逢った、僕にとっては特別な夏が来たとしても。


夏。


桃が出回る頃、店頭に並ぶその桃のひとつに、誰かが手を伸ばす。そっと鼻先に持ってきて、桃の香りを堪能し、優しい手つきで買い物かごに入れるのだろう。


ただ、それだけのことなのだろうな。


僕はスマホを斜めがけにしているカバンへと仕舞うと、爪先立ちして傾けていた自転車のハンドルを握りしめた。がくんと首を回していたハンドルを真っ直ぐに戻すと、ペダルに掛けた足に力を入れる。


ぐんっと、前へ進む。風が、頬を、襟足を、くすぐっていく。


僕の中のスライムは、自転車を漕ぐ僕の身体と一緒に、左右に揺れているのだろうか。そんなことを考えると、笑いが込み上げてきて、少し吹き出した。


早く病院へ、花乃のもとへ、行こう。


流れる風景を感じながら、僕はペダルを漕ぎ続けた。


そしていつのまにか、桃の香りはどこかへ去っていった。


✳︎✳︎✳︎


そっと病室に入ると、ベッドの手すりに両手でつかまって横になっていた花乃は、枕に頭を寝かせて、病室の南にある窓の方を向いていた。


いつもは一つに結んでいる黒髪がバサッと枕に被さっていて、それが少しだけ異様な光景に見える。

動揺した。

花乃のその姿が、異様に見えてしまう自分に。


それはいつも明るい花乃の顔が見えないからそう見えるだけだと言い聞かせ、その黒髪に慌てて声を掛ける。


「花乃」


起きているかと思ったら、眠っているようだ。ベッドの側のベンチに、花乃の学校の荷物と見たことのないオシャレなカバンを見つけ、僕はそれが花乃の母親のものだと知った。

その母親が、今は不在だが、そのうち戻ってくる。


「花乃、」


もう一度、名前を呼んでみたが返事もなく、僕はもうまもなく戻ってくるかもしれない母親と顔を合わすのを恐れて、その場を離れてしまった。

花乃の母親がヒステリックな人だと知っていたからだ。


まだ二年ある。だから、また明日会えばいい。


そう信じて疑わなかったから、この時が花乃との最後になるとは思いも寄らなかった。


✳︎✳︎✳︎


もう少しだけ、話を続けよう。どうか、聴いてくれないか。


あれは、中学の入学式の日。

僕はその日に限って寝坊してしまったものだから、大慌てで学校へと向かったんだ。


僕の母は、君も知っている通り、僕を学校へと送り出したことが一度もない。家にいないのだから、まあそりゃ仕方がない。父はその日出張で、早朝に僕を起こしてから、家を出た。


僕は眠たい頭で起きたけれど、リビングのソファで二度寝をしてしまい、それで入学式だというのに関わらず、寝坊で遅刻という失態をおかしてしまったわけだ。


マンガなら、僕も遅刻で、君も遅刻。道路の曲がり角でドスンとぶつかって、やいのやいのと言いながら、学校の屋上で式をさぼって空を見て。

けれど、現実にはさ。

僕らはぶつからなかったし、僕だけ遅刻だったし、それで君は入学式で倒れて保健室で眠っていたから、出逢うこともなかったし。


僕は、ただ。君を見かけただけだったんだ。


遅刻の言い訳を考えながら、急いで校舎の裏を横切り、体育館へと向かう時、過ぎゆく窓にふと目を遣ると、そこに君が眠っていた。


白い頬、通った鼻筋、ふっくらとした唇。伏せられた長い睫毛が印象的だった。


保健室のベッドはカーテンで囲ってあるけれど、ベッドは窓際のギリギリまで寄せてあって、校舎裏からならこうしてよく見えるんだな。


知らなかった。

校舎裏からは、保健室のベッドが覗けるということもだけど、君という同志のような存在が、この世にあるなんてことも、その時は。


僕は君を見つめていた。

眠っている、その寝顔に釘づけになった。


その時に好きになったんだと思う。


だから、もう一度、眠った君の顔が見たかった。


二年もあるのだからと思わずに、残された時間を大切に生きれば良かったんだ。


明日があるからなんて思わずに、今日という一日を。今日という、かけがえのない大切な大切な日を。


何にも誰にも恐れることなく、君に好きだと伝えれば良かった。


✳︎✳︎✳︎


さあ、これで僕の話はお終いだ。

君の元へ僕もいく。

お見舞いで貰った果物の盛り籠の中から、君の頬のように色づく桃を見つけたなら、それを二つだけ、大事に抱えていくよ。


甘い香りの中、今度は僕が慣れない手つきでだとは思うけれど、桃の皮を剥いて、君に食べさせてあげたい。


君はきっと、圭くんっ桃が痛むからもう少し優しく剥いてっっとか、ねえちょっと圭くんっ、ちゃんと手を洗ったの? 洗ってないでしょっっ‼︎ やだっっ‼︎ とか、目を釣り上げながら言うんだろうな。


そして、あの夏のこと。

中学の入学式のこと。ポップコーンのこと。銀杏の並木道のこと。少しだけ一緒に通った公立高校のこと。

たくさん、話をしたいんだ。


くどいとかうざいとか言われようとももう一度、君の側にいると決めたから。


もし、天国でまた、君とクラスが違ったとしても。

委員会が、また放送委員と図書委員に別れてしまったとしても。

君と僕との間に、笑っちゃうような新たな「違い」ができたとしても。

そんなものなんかこの右足で蹴り飛ばし、今度は君の隣の席を、奪い取ってやる。


そして、ずっと君の側にいるんだ。

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