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…しかし。つぎの瞬間にはです。雪木さんは赤い色の紙に変化していました。しっとりと、イチゴ色に濡れた紙。折り紙のごとき赤い紙です。一枚の、オトナ等身大の紙です。そこに目鼻を描いてあるきりの、ペラペラの折り紙。そうです、事実、折り紙でしかない。
僕の好きな隻眼の女性、離婚がこころのキズとなった僕のミッシングリンク、まるで理想のお母さんのような女性、彼女は一枚の赤い折り紙となって、夏の日のアパルトメントで、風にそよいでいる。
パタリ、
パタ、
パパ、パタ、パタ、
パタパタリ、
奇術の手管さながら、それは遠近の感覚を失わせつつ、赤い蝶々のかたちに折られてゆくんです。
生きているようにやがて紙は翅をうごめかして、生きているように浮遊します。
赤い蝶はひかりの中を舞い、僕の手元へ。
遠近をへだてたまんま、物理法則を無視して拡大されずにこちらに寄ったそれは、僕のもとではただ折り紙いちまいのサイズをしているばかりでした。そうして、
けむりのごときだった僕の手には、いつのまにかワイングラスが握らされていて、紙の蝶はそのふちにとまると、
クシャ、
と他愛なく潰れてしまうのでした。潰れながら、雪木さんがいつもしている義眼を、
ポロ、
と吐き出します。同時につるつると滴り落ちるイチゴの果汁。それどころか、蝶それ自体が液体に変わり、みごとな流動のムーヴマンをなしながら、グラスを赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い水で満たしたのですね。
一も二もなく、僕はそれを飲み干すのでした。
「甘露」
僕はシタツヅミを打つ。
それは甘い甘い赤い赤い赤い赤い甘い血の味がしました。
…陶酔感のあまり真上をあおぐと、黒いいぬが天井に立っていて、
「その味をあじあいたいのだろう。ウロボロスのごとき因縁の相手の。もうじきに賞味させてやろう」
と、声なき声で告げるのでした。
✳︎✳︎✳︎
リザードマンが出るというので、這々のテイで引き上げるところでした。第一に目的の鏡は手に入れましたからね。そもそもこんな蕃神を祀った廃墟に長居は無用。シンキくさいばかりです。シダ植物に覆われた一双の獅子の像、なかば破損した巨大なアーチ状の建造物を眺めていると、なにか郷愁と虚無感が綯いまぜになったような不思議な不快感に支配されるのもあり、そうそうに脱出したいところです。
…それに、
空は鈍色に移ろいはじめ、雨も降りそうでしたからね。雨が降れば湧いたように出てくるのがヤツらの習性ですから。実際、金属片を思わせる卵の殻も、さきほどから敷石床にチラチラと散見されていました。まさにリザードマンの孵ったあとでしょう。おぞけをふるう光景です。でくわしたら勝ち目はほぼ無い。頭数こそ六人揃っている我々でしたが、所詮は遺跡荒らし目的の烏合の衆ですからね。手のひらが、イヤな汗でぬめりました。
遺跡というところのツネで、ほかにもどんなモンスターが潜んでいるか分かりません。成り行き上、一攫千金をオダイモクにする命知らずのトレジャーハンターたちに手を貸してはいますけれど、実際の戦力になりそうなのはテレキネシスを使えるらしい白髪隻眼の、ガリガリに痩せた少女ひとりきりで、彼女にしてからが、
「超能力の源たる、グラシア・ボラスの加護はもう先程から途切れてる、あまりにもアストラル拠点から離れすぎているからね。磁場がもたないんでしょう。せいぜい鉄槌を放てるのは一撃か二撃ね」
と、こころぼそいコトを開陳する始末ですから、まあイザかちあってしまったら、逃げるが勝ちと決め込むしかない。そんなコトを考えていたら、ススギというその少女は僕に向けてニィと口角を上げました。読心術でしょうか。それにしてもまだアドけない顔立ちに反して、存外にヨコシマな笑み。背筋がぞくりと粟立ちました。そう感ずるや、
(お兄さん、聴こえるかな? 今、お兄さんの心に直接に話しかけてる。私はススギよ。前方に注意。ひい、ふう、みい、三体のリザードマンが黒樫の樹陰に居るわ…、私以外は気づいていない。十中八九、このまんま前進すりゃ即全滅ね、そこで提案があるんだけどさ、)
精神にじかに響く声。ススギは表情を作らず、まるで詐欺師のように冷徹な能面をたたえてます。ハッとした僕に、
(ねえ、お兄さん、アンタは莫迦じゃないよね? 気取られるようなソブリを見せないでね。ちょっとした提案よ。何食わぬ顔で聞いていてね。この一群の四人はエサにしようと思うの。生きた囮ね。いま、鏡を持っているのはお兄さんよね? この声が聞こえてるようだから感受性もありそうだし、二人なら瞬間移動も可能だから、エサを蒔いたら、二人で逃げない? どうせアナタも神官のクセに悪心を起こして、こんな破落戸に同行してんでしょ。毒を食らわば皿まで、よ)
その言葉には有無を言わせないモノがあります。酷薄そうに、ふたたびニィと…、こちらを見ずにススギはほほ笑みました。そうして、ただ一つきりの目が、怜悧に、小さな月のごとくに輝くのです。
✳︎✳︎✳︎
「…ちゃん、」
頭が痛い。ガンガンする。
「…ちゃん、お兄ちゃん、…意雄お兄ちゃん」
妹の。流菜の声がします。ひかり。室内灯。みなれたURの蛍光灯が、まぶしく角膜をうちます。
「クン、クン」
…いぬの声。もうナツいてしまったのか。どうやら昏倒してしまった僕にすり寄り、ひたいのあたりでハナを鳴らしていました。無意識に前膊をさすると、そこに違和の液質感はまるでなく、血濡れてもいなければグチャグチャ絖をまとうてもいません。すべてはマボロシだったのでしょうか。
「大丈夫かしら? おクスリ、飲む?」
「ああ、流菜ちゃん。驚かせたね。僕も驚いた。倒れたのは久しぶりだ。ウン、屯用薬を持ってきてくれるかな? お水と」
「わかった」
と透き通ったコップ水を片手に、すでに制服から家着にきかえた流菜が戻ってきてくれます。
…僕はその透明な液体を嚥下しながら、夢魔の味あわせた甘美な赤色を想起していました。