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…僕は夢の中にいる。では夢の世界の出来事を丹念に描き出してゆくべきでしょうが、しかし夢魔の動態を逐一あらわしてみたところで、僕の生活史を知らなくては肝要なことは伝わらないのかもしれません。
たとえば台所に見える二丁のフライパンです。
…ひとつはふちがチョットだけヘコんでいてサマにならず、かといって捨てるのも忍びないという理由から、いまだ新たなピカピカのもうひとつと並べられ、不完全な夫婦をなしている、それら二丁。
…それから食卓に載っている青いフタの消毒液のマキロン。その隣にある流菜の子ども用ハモニカ。
それぞれは僕の〈自我〉という神話にとって、精妙な意味を持つ歯車であり、どんな小さな歯車が欠けても時計が動作しないのと同様で、いっけん無意味にうつるそれらさえ、僕の精神には輝かしく重要なパーツのひとつびとつなのでした。
冷蔵庫、洗濯機、テレビ、…凡庸な中産階級家庭を特徴づける調度品。
…父母が離婚をして、僕ら兄妹がいまのURにうつる前の住まい。
夢の中の僕は透明な肉体をもち、十歳になるやならずやの頃に住まっていた古巣に佇んでいます。
そこは無人でした。
…だあれも、いない。一家四人、留守にしているのだろうか。気体のような僕が透き通りつつ、佇むばっかり。
ただ夏の穏やかな日和の風が、開いた窓から差している。
サウダーヂ、というのか。
耐えがたい郷愁に僕は滂沱としました。グチャグチャと涙があふれて海を成します。だけれどアストラル体さながらの僕の、無形な・透明な涙をみる者もない。
夢の時間は音もなく織られて流れ、やがて。
やがて変化が兆します。
玄関のドアがギイと開く。
…そこから。
雪木さんが入ってきたのです。雪木サオリさん。僕の憧れの御方。
まさしく夢。時系列はセイダイに歪んでいるのでした。十九の僕が憧れているひとが、おおむかしの記憶の部屋に入ってくるのだから。
バイト先のヴィデオ屋と同じデニムづくめの格好をして、僕の精神の閨に押し入ってくる。しろい肌。長い髪は束ねられて濡れ濡れと、くろい。瞳も同色です。背は十九の僕と同じくらいだが、その均整した肉体が過去の部屋の中ではやけに大づくりに感ぜられるのがみょうなモノ。子供時代の部屋に、大人びた色恋の世界の住人が立ち入るサマは、なんだか不思議な感覚です。
彼女は血を流しています。
何故か。
そう。
彼女は血まみれ。
真っ赤に染まって歩いている。
レンタル・ヴィデオ屋で制服にしているデニムの上下が、血濡れた魚のウロコに見える。
緋色の人魚姫だ。
なんと、むごくて、うつくしいのか。
…僕は陶然とします。恍惚。背筋を走り抜ける稲妻。まるで血液のにおいが麻薬のけむりであるかのように。
僕は官能のための唾液を流しました。