5
さておいて、父親の帰宅はおそい筈でした。
くだんの黒いぬについては、それまで保留ということに決めました。
なにより、深奥に萌芽しはじめた新感覚にたいして僕のこころは向いていましたから。
…そう、血にまつわる覚醒感です。僕はまるで新しい種類の吸血鬼であり、その吸血鬼は経血の洗礼によりサナギから孵るのです。
勿論、まだ朧げなモノではあれ、あたかも霧の中でサード・アイが開かれた気分でした。
だから…、
いぬのコトなどどうでも良いのでした。
トイレを使ったあとでも、紺のブレザーを身にしている流菜に、
「なんだか分からないが、追い出したり、保健所に連れていくのも忍びない。可哀想にサツ処分になってしまうだろうからね。
マズこの汚れっぷりじゃあ、飼い犬という感じもないし、いや、そりゃあ早計かな? 長の放浪の身の、迷いいぬかも知れんしね?
まあオヤジが帰ったら相談することにしようね。
それより流菜ちゃんも着替えてはどうだろう? まだ学校の制服のまんまじゃないか。
このコは僕が見ておくよ。 どれどれ? ハラを空かしているようだね。まあ食パンやミルクでも与えておこうよ」
やや饒舌に畳み掛けます。ひとりになり、官能の輪郭を確かめたかった。
さっさとマスターベーションに耽りたいので、女親を追い払う童貞少年さながらといったところでしょうか。
「え? お兄ちゃん、いぬはニガテなんじゃないの? それにあんまし人間の食べ物をあげると具合が悪くなるのよ。ワンちゃん専用のフードでないと」
「大丈夫、大丈夫。うかつに流菜ちゃんが触ると、恐ろしいマダニをウツされるだろう。僕はこういうコトに詳しいんだから任せておきなさい」
「ヘンなお兄ちゃんねえ、今日は。じゃ、まあ任したわ。流菜、着替えてくるね。ゴハンは私が買ってくるからテキトーにあげちゃダメよ。いぬには毒なものもいっぱい有るんだから…」
「分かった分かった」
***
僕は病気だろうか。精神の、ではなく、カラダの。妹を宥めて空かし、自室のドアを開こうとしたら、違和の感覚。ドアノブがヌルリと空転したのである…、
…前膊からタナゴコロまでを盛大に覆う漿液のせいでした。
体液、と思った。拭き取らなくては、と思った。しかし目を移せば最早さきほどと色調がかわり腕の先は血達磨ッ赤なので、こりゃあ救急車だな、とそう思いました。
且つ。
文字通り、血の気がひくという慣用句を体現している僕なのでしたが。
シトドしたたる赤い雫を、尾してきていたあのいぬはスウと舐め。
まるで淫婦さながら、目を細め。
僕の耳へ…、まざまざリアルな幻聴を吹き込んだではありませんか。
「…ABRACADABRA…、余の名はグラシア・ボラス。冥府の伯爵である。爾、処女の紅き瑠璃の香を以て余を喚びよせたであろう。宜い、宜い。希いをかなえて進ぜようか…」
きゃっと叫び、…暗転。