8.仕立て屋の娘-3
笑顔の溢れる世界に目に見えて影が落ちたのは、結婚から六年目。当主の一言がきっかけだった。
「まだ跡継ぎはできないのか?」
「父上……」
青年がその言葉に眉を顰める。そして隣で表情を暗くした、妻である娘の肩を安心させようと抱く。重苦しい空気に、誰も笑顔など浮かべられるはずが無かった。
結婚してから暫くは皆手放しで二人を祝福してくれた。真面目でまっすぐな青年と、気立てがよく努力家な娘は、いつも穏やかな表情で、見る者の心を暖める陽だまりのようだった。その仲の良さは理想の夫婦だと憧れ話す者もそれなりに見られる程であった。
だが、当主である青年の父だけは、過ぎていく時間の中で納得できなさそうな硬い表情をしていた。
彼は自分の息子が、跡継ぎのことを考えていないのではと訝しんでいたのだ。最初は二人の仲の良さを見、娘の性格も良いことを認め、静かに見守っていた。だが、三年、四年、そして五年と時が経ち、未だに子を身篭った報告が無いことに苛立ちを見せ始めていた。そしてついに、六年目。二人に向けて言い放ったのであった。
結婚当初、青年は17歳で娘は24歳。今は23歳と30歳だ。青年はまだ若いが、娘は30を迎えていた。結婚してからもそれなりに年数が経ち、そろそろ子を身篭っていてもおかしくないだろうと当主は言った。
青年は勿論、自身が貴族の当主の息子で、時期当主となる身である事は分かっていた。だから何もしていないことはなかった。結婚してから二人は何度も肌を重ねた。何度も愛を囁きあった。であるから、彼自身何かおかしいことには気づいていて、焦りもあった。当然、娘の方も同じだった。しかし、口にしてしまえば、何か見えない恐怖に襲われてしまいそうで、ずっと黙ってきたのだった。
そのため、当主の言い放った言葉は、鋭い刃のように二人の心へ刺さった。追求する冷たい視線に二人は押し黙り、その代わりと言うように婦人が口を開いた。
「あなた、あまり厳しいことは言わないでください……。 二人も分かっているはずです」
「だからなんだというのだ。 分かっているのならなぜいつまでも変わらないのだ。 時間は有限だ、そういつまでも待てん」
婦人の二人をかばおうとする言葉に、当主は厳しく言い放ち、そして娘を睨みつけるように視線を向けると、こう言い放った。
「子を産めぬ女は息子の嫁とは認めん」
その言葉に、娘は目を見開くと、次には顔を歪めて部屋を飛び出した。青年もすぐにそれを追い駆け出し、婦人は二人の出て行った扉を不安そうに眺め、当主はまるで何事も無かったかのように自らの机の上にある資料へ目を落としていた。
娘は自室に鍵をかけて篭り、自らの体を抱きかかえるようにして部屋の隅で蹲った。扉の向こうで名前を呼ぶ夫の声も何も聞こえなかった。
自分のせいだ、と嘆いた。自分が子どもを産めないせいで、当主の怒りに触れた。自分のせいで夫を苦しめた。自分のせいで、自分の──
その日から、あれほど溢れていた笑顔は消えてしまった。二人の間の会話は減り、周囲から向けられるのは憐憫と疑念の目。婦人はかける言葉を見つけられず、当主は何も言わなかった。娘の心は徐々に病み、青年は現状を脱する手立てを見つけられずにいた。
数日が過ぎ、その真夜中、娘は徐に立ち上がり、クローゼットを開いた。その中から一着、その日の前日の夜に作り上げ、まだ誰にも見せていない服を取り出した。彼女はそれに着替え、机の上の裁縫道具の入った手提げ箱と僅かばかりの硬貨を手に取ると、窓から外へ出た。警備の目があるが、長い間、夜の窓辺で外を見ながら服を仕立ててきたことで、窓から見える範囲であればどの時間に何人どこにいるか、いつ移動するか等は熟知していた。
そうして娘は屋敷から姿を消した。翌朝、いつまで経っても出てこないどころか、何の反応も返さない娘を心配した青年が、合鍵で部屋を開き、誰もいないことに気がついて膝から崩れ落ち、急いで兵を集めて周辺を捜索させたが、娘は見つからなかった。一般住民の住む地区、商人の集まる商店街まで下り捜索しても、何の手がかりも得られなかった。スラム街まで手を広げようとして、当主は青年を止めた。貴族ともあろうものがスラムまで出向くなど、と。
恐らくそれは建前で、当主にとっては跡継ぎの産めない邪魔な娘が消えたのは都合の良いことだったのだろう。彼にとっては夫婦の幸せよりも家の存続の方が重要だったのだ。
しかし青年にとってはもうそこにしか希望が無かった。青年はその時初めて父親である当主に反抗した。しかしやはり敵わず、青年は軟禁されることとなった。そして当主の決めた相手と強制的に結婚させられた。
娘の父と母も縁を切られ、残されたのは娘のいなくなった以前の生活。二人は娘を探したが、老いてしまった二人だけでは捜索を続けることは難しかった。協力を募る当ても金も無いまま、二人はただ娘の無事を祈ることしかできなかった。
自分が去った後のことを、娘は知らない。ただ、自分があの場所にいてはいけないのだと、そう思いながら生きた。
***
「ねえおばーちゃん、わたしもなまえほしー」
少女がこの小屋に来てから数年が過ぎた。彼女はもうよく喋るようになっていた。言葉も色々覚え、「ばあば」ではなく「おばーちゃん」と呼ぶようになった。だからだろう、不意にそう言ってきた。自分に名前が無いことに気づいてしまったのだ。
女性は思う。もしも自分がこの子に名前をつけてしまったら、この子を縛り付けてしまいそうだ、と。
あの日、幸せだったあの頃。夫と二人で子どもができたらなんと言う名前をつけようか、と話したときのことを思い出してしまう。
「もし女の子が生まれたら──」そのとき話した名前をつけてしまいそうになる。別の名前を考えようとしても思い浮かばない。もし別の名前をつけたとしても、ふとした瞬間に呼び間違えてしまうのではないかと思う。名前を呼ぶたびに、幸せだったあの頃を、苦悩に支配されたあの日を思い出してしまいそうだと思う。
だから、
「ごめんなさい、私にはあなたに名前をあげられないの」
「えー、なんでー?」
不満そうに少女は言う。
「あなたを縛ってしまいたくないの」
もう一度、ごめんなさい、と言い女性は少女を抱く。この少女は自分の子ではないと、親代わりであって、本当の親子ではない、と自分に言い聞かせる。そうしないと、自分と言う鎖で希望のあるこの子の世界を縛り付けてしまいそうだから。
突然抱きしめてきた女性に驚きながらも、少女はやがてぎゅっとその体を抱きしめ返した。
鎖ではなく、この腕で。
女性は優しく、包み込むように、暫しの間少女を抱き続けた。やがて、心地が良かったのか少女がうつらうつらと首を傾げるまで。