28.崩れる涙
少女は困惑し、目の前で微笑む氷竜の真意が分からずにいた。
「でも、そんな……だって、私は、人間で……」
人間である少女には、氷竜の後など継げる筈が無かった。けれど氷竜はなんの問題もないというように言う。
『お前にはもう、資格がある。 我が保証しよう
……何故か? それは、お前がこの数年、毎日我の魔力をその身に宿し続けたからだ』
少女は氷竜の言っている意味が分からず、今までの毎日のことを思い返した。しかしそこに特別なことは思い当たらなかった。少女がなおも戸惑っていると、氷竜は優しく答えた。
『水だ』
「あ……」
少女は、毎日飲んでいた水のことを思い出す。食べ物は氷竜が保存していた人間が作ったものだった。しかし水は、氷竜が魔法で作り出したものだ。確かにあれを飲むと少女は力がみなぎるのを感じていた。けれどもまさか、あの水が魔力そのものであったなどと誰が思おうか。
つまり少女は、人間の魔術師が毎日命玉の薬を飲むように、しかもそれより遥かに効率的に、氷竜の魔力を取り込んで、知らず知らずのうちに適応していたのだ。
『薬の作り方は知らぬが、魔力を無理の無い程度で吸収すれば良いということは理解していたからな』
氷竜は悪びれた様子もなく、あっけらかんとそう言う。少女にしてみれば衝撃の事実だ。知らず知らずのうちに氷竜の後を継げるといわれるほど、とんでもない力を与えられていたのだ。
「そんな、じゃあ、最初から?」
『いや、偶然だ。 お前に後を継がせるつもりなど無かった。
だが、我の水に魔力を与える効果があるのは分かっていたから、お前に魔力が宿ることは分かっていたがな
……本当は、お前に後を継がせるのは心苦しい。 お前にはお前の望むように生きて欲しかった。
今朝目覚めた時点では、お前の名前もまだ確定できていなかった。 お前には普通の人間としての名を与えるべきか、と考えていたのだ。
それに、無事に継承できたとて、その時点でお前はもう普通の人間ではいられなくなってしまうだろう。
だから、嫌であれば継がなくてもいいのだぞ』
少女は前半の言葉に若干の呆れのようなものを感じつつも、後半の言葉には悲しみと怒りが混ざったような気持ちになる。
「そんなの……!」
継ぐに決まってる、と少女は言う。
大切な氷竜が自らの全てをかけて望んだ後継ぎだ。たとえ継ぐことで苦しみや不自由があろうと、人間でいられなくなろうとも、拒否するわけがない。
少女のその言葉に、氷竜は目を細めて笑みを浮かべ、「ありがとう」と言った。
そんな少女の目の前に、何かが落ちる。それは先ほど飛び立つ前に見たのと同じ、何かの破片だった。それが、次から次へと、土壁が崩れるように落ちてくる。
そして見上げた少女は、それが氷竜から剥がれ落ちる鱗であると気がついてしまった。
氷竜は攻撃など受けてもいないはずなのに、その鱗はひび割れ、至る所から血を滲ませていた。美しかった翼や尾先の鰭部分も、気がつけばすっかり輝きを失い鮮やかさを失っていた。
少女はそれが何を意味するのか知っていた。
それは以前、古種と魔操種の、命玉以外の共通点を聞いたときのことであった。
古種と魔操種の共通点。その最大のものは魔力を持つこと。精霊種もいるが、それは魔力そのものであって、最初から生き物であるのとはわけが違う。
この二種は基本的に、魔力を持たない人間や無垢種よりも寿命が長く頑丈な肉体を持つ。その肉体を支えるのもまた魔力である。
頑丈にする他、体内に保有する魔力を抑える役目も持ち、肉体を構成する魔力は必要最低限度の魔力であり、無意識にこの分の魔力は温存される。魔法を使い魔力を使い切った、と感じてもこの分の魔力は残され、また意識して使うこともできない。
だが、もし何らかの要因でこの肉体の魔力を消費してしまうと、それは肉体の崩壊、即ち死へ直結する。肉体が急激に脆くなり体表が荒れ始め、全身に傷が走り血が流れ出す。血が流れればやがて体力が無くなり、そのまま意識が遠のき、斃れるのだ。
今少女の目の前で起きているのは、まさしくそれであった。先ほど氷竜に乗った時感じた違和感は、常に冷気を発しているはずの鱗が冷気を発していなかったからだ。恐らくその時点で、氷竜の体は限界を超えて悲鳴をあげていたはずだ。
理解した途端、少女はどうすればいいのか慌て始める。だが、氷竜は自身が死に向かっているというのに平然と、穏やかな笑みを浮かべている。
「どうしてっ……なんで、笑ってるの……」
少女が焦燥しきった様子で責めるように言う。それでも氷竜の笑みは絶えない。
『やっと、後継ぎの心配が無くなった。
お前の肉体は継ぐ資格を得、精神も十分、まだ幼くもある子どもとは思えないくらい落ち着いている。 それに何より、お前自身が継ぐと言ってくれた。
そして、継承における一番の心配事であった呪いも最早消え、引き継がれることは無い。
死が、目前に迫っているというのにな。 我は今、とても晴れやかな気分だ』
その笑顔のなんと眩しいことか。少女は直視できなかった。
また、また失うのか、と少女は自分の運命を恨んだ。何故、自分を愛してくれる存在をこうも簡単に失ってしまうのかと、少女は苦しくてたまらなかった。
もしかしたら、自分と出会わなければ、氷竜は死なずに済んだのではないかと思ってしまう程の自己嫌悪に陥る少女に、氷竜は残酷なまでに優しい笑顔を向ける。
『人の子、否、我が子よ
最期に、お前を愛せて、良かったぞ』
氷竜は優しい口調でそう言って、少女の額に鼻先を当てる。それは氷竜なりの、少女に向けた親愛の口付けであった。その瞬間、少女の目から大粒の涙が溢れてとまらなくなった。
少女を見つめる氷竜の顔は、この上なく幸せそうだというのに、顔から崩れ落ちる鱗はまるで涙のようであった。
少女に言葉を継げた後、氷竜は天へ向かって吼えた。その声は美しく、世界中に響くであろう程の大きさでありながら、近くにいる少女の耳にはとてもやさしく聞こえた。
長い咆哮の後、氷竜はゆっくりと、雪の上へと斃れた。
この地で生きているのは、少女ただ独り。少女の哀哭の声だけが、静かな町に響き渡った。




