281.晦冥の底の心痛
大勢の人間が集まっていた。その手には各々の得物を携えていた。剣や槍を構えるその中には、農具を手にする者もいた。何もなく、石を握り締める者もいた。
その背後には彼らの守るべき人々もいた。ただ怯え、どうすることもなく身を寄せ合っていた。
立ち向かう彼らの顔はただ一点を見つめ、勇ましくも見える。だが、その手足は恐怖に震え、握り締めた手や顰めた顔には汗が浮かんでいた。
皆一様に見つめるその先に佇むのは、一体の恐ろしい魔操種であった。
山のような体躯は強靭な鱗に覆われ、天を覆いつくすような翼を広げて影を落とし、その顔には凶悪な牙がずらりと並んでいた。
あまりにも異質、脅威のみしか感じさせないその存在を前に、人間はただ自分を奮い立たせ虚勢を張ることしかできなかった。
瞬間、音が消えると、その僅かばかりの支柱は脆くも儚く崩れ去った。
瞬きすらできないその一瞬で、魔操種は人間達の群れの間に現れて、巨体で潰し、あるいは喰い、またあるいは引き裂いた。
シンと静まり返った後、人々は悲鳴を上げて逃げ回ることしかできなくなった。
無理だと、敵うわけがないと理解してしまった。勝つどころか、傷の一つ、触れることさえ不可能だと悟ってしまったのである。
その魔操種は、人間を滅ぼすための、史上最悪の魔操種であった。
皆持っていた武器を投げ捨てて、先ほどまでは守ると決意していた者さえ押しのけて、我先にと走っていく。その魔操種の前では、どこへ逃げても無駄だということを理解しても、逃げる以外にとることのできる行動はなかった。
正しく阿鼻叫喚、地獄のような光景であった。
それを見て、心臓が締め付けられるような痛みを感じる。奥歯を噛みしめ、もどかしさに身を震わせる。
自分ならば助けられる。倒せずとも、救うことはできる。だが、そうすることはできない。
人々を救うためにしていることが、今人々を見捨てることになる。自己矛盾、自家撞着に頭が痛くなりそうだ。
目の前で愛する人々が死んでいく。守ることができるのに、手を伸ばすことさえできない。キリキリと痛む。歯が砕けるのではないかと思うほど悔しさに食いしばる。
この判断が正しいのかわからない。もしも本当に人類が滅ぶ直前になったなら、決意を捨てて守りに行くしかないとは考えている。
今この瞬間を救うべきか、それともただ脅威が去るのを待って、未来に掛けるのか。決心がつかず惑うことしかできない己の弱さに怒りさえ湧き起こる。
すまないと、今は耐えてくれと、心の中で何度も謝罪する。
すると、人々はその顔を一斉にこちら向けた。
「死にたくない」
「何故助けない?」
「目の前で苦しんでいるのに」
「見捨てるのか?」
「信じていたのに」
「裏切るのか?」
あたりが真っ暗になる。光のない目が無数にこちらを睨んでいる。
頭の中に失望と恨みの言葉が何度も反響する。自分の謝罪の言葉さえかき消してしまうほど強く。
違う。こんなはずではなかった。
違う、違う、違う……。
何も見えない。見えるはずのものが見えない。
違うはずなのに、違うと否定する勇気も消えていく。
心が押しつぶされていく。
「お前さえいなければ」
真っ暗闇に、二つの人影が見えた。自分よりはるかに大きい人影がこちらを見下ろしている。
「お前は要らない子だ」
「静かにしていろ」
威圧的に怒鳴りつける。言葉の意味は理解できるはずなのに、頭に入ってこない。ただ恐怖だけが広がる。
助けて、と言いたくなった。
だが、その言葉を発することはできない。助けを求めている人々を見捨てたのは自分なのだから、言う権利が無いと。
何も言ってはいけないのだと。逆らってはいけないのだと……。
「大丈夫」
不意にそんな声が聞こえてきた。
見上げると、二つの影をかき消すように、闇を割くように、一筋の光が差し込んでいた。
「あなたは何も悪くない」
求めていた言葉がかけられる。思わず涙が溢れた。
「手を伸ばして」
本当にいいのだろうかと躊躇する。自分のような望まれていない存在が手を伸ばしていいのかと、腕が震える。
「あなたを待っている人がいる」
その言葉に目を見開いた。
本当に?と、心の中に浮かんだ言葉に答えるように、差し込む光は優しく揺らめいた。
震える手を、そっと光の中へ差し入れると、温かい何かに包み込まれるように、光の中へと引き上げられていった。
「リエティールっ!」
「フルルッ!」
ばっと、目を覚ますと同時に抱きしめられ、リエティールは戸惑う。数度の瞬きの後、自分がベッドの上にいて、抱きしめてきたのはルディカであると理解する。すぐ隣には心配そうに見つめているロエトがおり、その背にはムブラがしがみついている。
「えっと……」
まだ頭がぼんやりとしていて状況が理解できないリエティールは戸惑いに言葉を漏らす。動けないまま目を動かすと、周囲にはトファルドとフルールもおり、皆一様に安堵の表情を浮かべている様子が見えた。
そして、自分の寝ているベッドのすぐそばに、真っ白な衣服に身を包んだ見慣れない人物がいることにも気が付いた。
「無事に目が覚めたようで何よりです」
その人物はそう言って優しい笑みを浮かべた。




