26.本当の気持ち
スラム街の中心に通る道に積もった雪には、足跡一つ残っていなかった。氷竜の雄叫びはここまで響いてきている。誰もここを通っていないということは、動けずにいるか、或いはもう誰もいないかのどちらかである。
少女は色々な状況を考慮して、後者だろうと思った。嘗て少女がここで女性と暮らしていた時も、誰かとすれ違うことも無ければ見かける事も無かった。道の足跡は少女と女性のものだけだった。
もしスラムに誰かがいたとして、何度かはここから店のある通りへと出なければ生きていけないということは、少女は身を持って経験したため分かっていた。
このスラムで口にできるのは雪のみ。草の一本もここには生えていない。しかし当然だが雪を食べても栄養が足りずに遅かれ早かれ死ぬことになる。そのため、女性のように町へ出て何かしらの方法で食べ物を手に入れなければならないのだ。そして、スラムを出て店のある場所へ行くにはこの道を通る以外に方法は無い。このスラム街は壁で取り囲まれるようにして存在しており、出入り口はこの道の両端にしかないのである。つまり生きていくにはこの道を通る必要がある。
この道を通れば足跡が残る。ドロクの町は全域に常日頃から雪が舞っているが、一日二日で足跡が消えるような量ではない。元々積もっている量が深いため、一度踏めば数十センチ程度の深さの足跡になるためだ。数日程度なら薄らと残っているだろうし、何日かに一度位は食べ物を集めに行かなければならないだろう。
即ち、少女以外の足跡が無いこのスラムは、長い間誰も出入りしておらず、人が住んでいないということになる。
そう、今このスラムにいるのは少女ただ一人だ。
少女は氷竜がくるのを待った。この町の他の人々は皆犠牲になってしまうのだと考えると心苦しくもあるが、氷竜を止め、被害をこの町だけで食い止めるには、これ以外に方法が思いつかなかった。
もしも、氷竜が少女を気に留めなかったら。もしも、少女の声が氷竜に届かなかったら。
少女の中には最悪の結末もいくつか浮かんでいた。氷竜が果てるその時までこの悲劇が続くのだと思うと、息が詰まりそうな思いであった。
やがて、氷竜の羽音が大きくなり、吹き付ける冷気が強くなる。少女は覚悟を決めた瞳で、こちらに向かって飛んでくる氷竜を見つめた。
ふと、二人の視線が合った。
今だ、と少女は思った。そして、精一杯声を張り上げ、氷竜に呼びかけた。
「お願い母様、目を覚まして!
本当はこんなこと、望んでいないんでしょ!?
負けないで、母様……優しい母様に戻って!」
少女が呼びかけると、氷竜は一瞬動きを止め、目を細めた。それから、少女を目掛けて高度を下げながら近付いてきた。
駄目だったのか、と少女は恐怖から目を固く瞑った。少女の瞼の向こうでは、氷竜がその口を開き、今まさに喰らいつこうとしている様子が浮かび上がっていた。
だが、次の瞬間少女に触れたのは、鋭い牙でも、巨大な舌でもなく、頬を撫でるひんやりとした鱗の感触であった。
「母、さ……ま……?」
少女は恐る恐る目を開き、すぐ隣にある氷竜の顔を見やった。そこにあったのは、いつもと変わらない、優しい目をした氷竜の顔であった。それを見た瞬間、少女は全身が熱くなったように感じた。
『ありがとう、お前が我を呼び戻してくれたのだな』
穏やかな声が少女に語りかける。少女は耐え切れなくなり、氷竜の顔に抱きついて涙を流した。それから少女が泣き止むまで、氷竜はそのまま少女に抱きつかれていた。
落ち着きを取り戻した少女は、氷竜になぜこんなことをしたのか、と単刀直入に聞いた。これが氷竜の本心ではないということをはっきりさせたかったのだ。氷竜は一つ頷いてから、話し始めた。
『これは、「呪い」だったのだ。
以前話した「やむをえない事情」があった時、その時にかけられた呪いだ。 人への憎しみ、怒りが際限なく増幅される呪い。
だから我は人間達を遠ざけた。 それ以外の理由もあるが、それが一番大きな理由だ。 もし僅かでも憎しみか怒りの感情を抱いてしまえば、我は人間を殺してしまうと分かったからだ』
それを聞いて少女は絶句した。まさか氷竜が呪いに掛けられていたとは思いもよらなかったからだ。氷竜にそんな呪いをかけたのは誰なのか、どうして呪ったのか、見当もつかなかった。
『だからあの日、お前が我が子を庇って倒れた時、我は悩んだ。 助けるべきか、立ち去るべきか、とな。
だが、結局我はお前を見捨てることができなかった。 ずっと、ずっと長い間、人間と会いたくてたまらなかったのだ。 だから、僅かな時間だけでいい。 お前と共に過ごしたかった。 元気になったら返せばいいと考えていた。
だが、お前には帰る場所が無かった。 ここにいたいと言った。
──あの時、我は嬉しかったのだ』
そう言った氷竜の顔は酷く穏やかで、温かい笑みを浮かべていた。少女は思わずまた泣きそうになって、さっと目を伏せた。
「怖く、なかった?」
『怖かったな。 いつお前を殺してしまうか分からなかった。
だが、お前は優しかった。 素直で、まっすぐで、我を純粋に慕ってくれた。
憎めるわけ無かろう?』
少女の問いに、氷竜は当然だというように答えた。それは紛れも無く氷竜の本心であり、その語調はとても嬉しそうに聞こえた。
『だからお前が我に呼びかけてくれた時、本当に救われたのだ。
目を覚ませと、負けるなと。 もしもお前の言葉が無かったら、我はお前すらも殺めていたのだろう』
最悪の事態は避けられた。だが、氷竜は親愛なる人間をその手で葬ってしまった。それがどれ程の苦痛か。
少女は自分が、自分の意思とは関係なく女性を手にかける想像をしかけて、無理だと頭を振った。本能的に拒絶してしまったのだ。
恐らくそれ程辛いのだと思うと、少女は氷竜の苦しみが想像もつかないものなのだと知った。




