186.水底の光
翌朝、リエティールは朝食を取ると、女将に感謝を告げて宿を後にした。
その後、昨日目星をつけていた崖のところまでやってくる。そして周囲に人がいないのを確認すると、ロープの柵を乗り越えて、崖の下を目指して慎重に下っていった。
そり立った崖に捕まりながら下りるというのは、いくら力が強いとは言えども、普通の人並みの域を出ないリエティールにはきついものがあった。
恐らく落ちたところでコートに守られて無傷で済むのだろうが、積極的に落ちたいとは思えない。それに、海に落ちてしまえば無事で済むのかわからない。なにせ、彼女は自分が泳げるのかすら知らないのである。
腕を震わせながら懸命に下を目指したが、結局半ばまで来たところで力尽き、ごつごつとした岩場に背中を打ち付けることとなった。
痛みに悶えたが、すぐに回復すると、立ち上がって波打ち際に近付いた。岩にぶつかって弾ける白波は、そこまで高くは無い。タイミングを見計らえば、ここからでも海に出ることは十分可能だろう。
リエティールは念のため、もう一度誰もいないかと周囲を見回した後、海面に向かって魔法を行使した。
すると海面の一部が凍り、そこから曲線を描くように縁の部分が上へ向かって伸びていく。そういしてあっという間に、氷の簡易的な船が完成した。安定感を重視して幅は広めに作られている。
リエティールはそれに乗り込むと、海図と羅針盤を取り出した。
「……よし!」
そう声を出し、意を決して海原へと船を漕ぎ出す。動力は彼女の魔力である。浮かせたり急な動きさえしなければ、魔力の消費が抑えられるため、移動するだけであればそこまで疲労感は無く、自然回復だけでも十分に間に合うだろうという目算であった。
海図と羅針盤、そして実際の海の様子を見ながら、リエティールは慎重に船を進めていく。思い通りに船を動かせる自信は無いものの、海竜の禁足地は範囲が広い。よほど大きく逸れない限りは、接近することはできるはずであった。
沖に進み、ついに島の影さえ見えなくなるところまで来ると、リエティールは本格的な心細さに見舞われた。
どこまでも続く海原の上には何も無く、深い海の底は覗いても何も見えない。波の音以外も聞こえてこず、リエティールは一人で海に出ることがここまで恐ろしいものだとは思わなかった。
気を紛らわせるために、一層集中して海図と羅針盤を見つめる。これがある限りは、何も頼りがないわけではないのだと自分に言い聞かせ、ただ前だけを見て船を進めた。
恐怖にさえ飲まれなければ、船旅は順調に進むと思われた。その矢先、雲行きが怪しくなってきた。
上空に黒い雲が浮かび、波が少し高くなる。やがて雨が降り出し、辺りには嵐が巻き起こった。
リエティールは海図と羅針盤を、なくさないようにと仕舞いこみ、船に身を伏せてしがみついた。しかし嵐は収まるどころか徐々に強さを増し、船を激しく揺さぶった。
「あっ……!」
一際高い波が音を立てて彼女の船に襲い掛かると、抵抗もむなしく彼女は船ごと波に飲まれ、暗い海の中へと沈んでいった。
──オオオォォォ……。
何も聞こえない空間に、聞こえてきたのは歌声のような、楽器のような、そんな鳴き声であった。
暗闇の中、リエティールがぼんやりと目を覚ます。不思議と息苦しくは無く、自分が呼吸をしていることに気がつく。
(海に落ちたはずじゃ……)
不思議に思い、より目を開くと、目の前に浮かぶ存在に気がつく。
それは視界に収まらないほど大きく、青と白の体を輝かせた、神秘的な美しい生き物であった。
「エボル、エラ……?」
リエティールが呟くと、答えるようにその生き物は再び鳴いた。
驚きで目が覚めたリエティールは、自分の周囲を見回す。辺りは真っ暗で、確かに海の中であったのだが、自分の回りだけが泡のような何かに包まれていることがわかった。
「あなたが助けてくれたの……?」
問いかけると、それは肯定するようにゆっくり瞬きをした。その目はまっすぐにリエティールを捉えているが、そこに怯えはなく、愛しむような優しい色だけが浮かんでいた。
エニランの言う通りであれば、エボルエラは魔操種ではなく無垢種のはずである。無垢種は魔力に敏感で、目が合えば何かしら大きく反応するはずであった。
それに加え、リエティールを泡で包むような特殊な能力は、無垢種には無いはずであった。魔法が使えるのは魔操種か魔術師か、古種か精霊種及び霊獣種だけのはずであるからだ。
「じゃあ、もしかして……霊獣種なの?」
リエティールの問いに明確な反応を示さずに、それはゆっくりと、リエティールの入った泡を自身の方へと引き寄せる。そして、そのまま背に乗せると、
「オオオォォォォ……」
と鳴きながら、上へ上へと上がっていった。
やがて明かりが見えてきて、程なくして海面を割って空が姿を現した。
「……」
リエティールは驚きのあまり暫しの間呆然としていたが、はっとして、
「ありがとう」
と言うと、エボルエラの姿をしたそれは嬉しそうに歌った。




