184.海で生きるもの
ロッソが船上の道具の中から取り出したのは、ロープで作られた網であった。袋状に編まれ、先のほうには錘がつけられており、それはまさしく漁に使う投網のような形状であった。
エニランが魔操種の意識を引きつけている間に、ロッソはそれを手に持ち構えると、エニランに合図を送る。エニランが離れると、彼は慣れた手つきで網を投げ入れた。
「グォゥッ!?」
突然自身の体を覆った物体に、魔操種は驚きの声を上げるが、すぐに鬱陶しそうに暴れ出す。しかしそうして暴れることで却って網からは逃れられなくなり、魔操種はものの見事に動きを封じられた。
逃れられないとわかると、魔操種はすぐにロープを噛み千切ろうと口を開く。
それを黙って見ているわけも無く、ロッソは網を引き始める。エニランとリエティールもそれに協力し、揺れる船の上でなんとか踏ん張り、重い魔操種を引き上げることに成功した。
引き上げたことで魔操種が大人しくなることはないが、こうなればもう逃げることはできない。網の中で踠く魔操種に対して、ロッソは容赦の無い剣の一撃を喰らわせる。
「ギャウッ……!!!」
魚の魔操種と違い、痛みを感じて悲鳴を上げる。だが剣はすぐに喉まで達し、それを引き裂くと声は途切れ、空気の抜ける音だけをさせ、力尽きて横たわった。
「ふう……」
ロッソは額の汗を拭いながら一息吐き、エニランとリエティールもまた安心して力を抜いた。離れた場所に身を隠していた商人達も、決着がついたことを知るとほっとした顔で様子を見に戻ってきた。
それから、重たく巨大な魔操種の亡骸を協力して網から引きずり出し、エニランが解体作業を始める。今回もリエティールが見学したいと申し出たため、彼女がロッソより先に手を出していた。
「そういえば、あの網はどうしてこの船にあったんですか?」
解体作業を眺めながら、リエティールがロッソに尋ねる。
この船は漁船ではなく商船であり、本来であれば投網のようなものは置いておく必要は無いはずである。
「ああ、あれは俺達の方から置いて欲しいって頼んだものなんだ。 今回みたいに海獣系の魔操種を引き上げるために、わざわざ用意してもらったんだよ」
「魚の魔操種には使わないんですか?」
続けてそう尋ねると、ロッソは「そうしたいのは山々なんだが……」と、困ったような顔をしながら訳を話し始めた。
「魚型は鱗が固い上に、鰭が棘みたいになっているだろう? その上海獣型よりも噛み付いて網を切りやすい歯をしてるんだ。
だから、あいつらに網を使うと逃げられる可能性が高いし、なにより無事に倒せても網がボロボロになりやすくてな……直すのも大変なんだよ」
その話にリエティールがなるほどと頷いていると、
「ちょっとリーちゃん! 私の話もちゃんと聞いてよ!」
と、エニランが叫ぶ。頬を膨らませわざとらしく怒った表情を浮かべていた。
リエティールが「ごめんなさい」と謝ると、彼女は解体に使っていたナイフを投げ捨ててリエティールに抱きついて、
「んー! かわいいから許しちゃう!」
と頬ずりをした。
そんな彼女の様子を見て、ロッソは呆れ顔になり、
「おいおい、そんなことしたら嬢ちゃんに血がついちまうぞ」
と言いながら、放られたナイフを拾い上げた。エニランはと言うと、その言葉に慌てて身を離し「ごめんね!? 汚れてない?」と、リエティールの周囲をぐるぐると回っていた。
それから魔操種の襲撃は無く、船はルアフ島に向かって順調に進んでいた。
もうそれ程時間も掛からないだろうというところまで来たようで、ここまで来ればもうほぼ魔操種は出ないといってもいいと、商人はリエティールに教えていた。
その言葉に安心したリエティールは、船の縁に身を寄せて景色をのんびりと眺めていた。島に近付いている証拠に、遠くの方には他の船の影もちらほらと見かけることができた。
ロッソとエニランもまた、近くに腰掛けてリラックスしており、周囲には波の音と帆をはためかせる風の音が鳴っていた。
リエティールがぼうっと海面を眺めていると、煌く波間に何かの影が見えた気がした。
「ん……?」
見間違いかと一層目を凝らしてみると、それは見間違いなどではなく、確かにそこに何かがいるということを確信した。
まさか魔操種だろうかと一瞬身構えるも、先ほどの商人の言葉と、その影がこちらに向かって泳いでこないことをあわせて考え、おそらく無垢種ではないか、と思い、じっと様子を伺うことにした。
それは船と並走しながらゆっくりと近付いてきており、徐々にその姿がはっきりと見えてくるようになった。
その大きさは船よりやや小さいくらいで、色は頭部の方が明るい青色をしており、後ろの方は白い。形ははっきりとはわからないものの、先ほどのどちらの魔操種とも違っていることだけはわかった。
リエティールがじっと何かを見ていることに気がついたのか、エニランが近づいてきて「どうしたの?」と声をかけた。
「そこに何かが──」
リエティールがそう言いかけた矢先、二人の目の前で大きな水しぶきが上がった。その音に、ロッソや商人達も驚いて、皆一様にそちらに顔を向けた。
水しぶきをもろに浴びたリエティール達が、顔をぬぐって何事かと向き直ると、目の前には美しい生き物が姿を現していた。
「うわあ……」
その姿に、リエティールは思わず感嘆の声を上げる。
丸みを帯びた長い体のそれは、青と白の綺麗な色を輝かせ、鰭はベールのように波に揺れている。周囲には鳴き声なのか、未知の楽器を鳴らしたような音が響き渡っていた。
「羽衣鯨だわ……!」
その姿をみたエニランがそう呟く。リエティールが「えぼるえら?」と尋ねると、彼女はこう言った。
「とても珍しい無垢種よ。 警戒心が少なくて、とても綺麗な体をしているせいで、昔は乱獲されていたの。
数が減って絶滅してしまう恐れがあったから、今ではもう捕獲することは世界中で禁止されているのだけれど、あまり数が増えていないからこうして見られることは滅多に無いの」
そういう彼女は、うっとりとした顔で泳ぐエボルエラを眺めている。気がつけばロッソや商人達も感動の表情を浮かべてその姿を見入っていた。
「おっと、ルアフ島が見えてきましたよ」
操舵をしていた商人がそう声を掛ける。前方を見ると、そこには島の姿がはっきりと見えていた。
「オオオォォォ……」
その直後、エボルエラは一際大きく鳴くと、棲み処へ戻るのか再び海の中へとゆっくりと沈んでいき始めた。
「ばいばい」
リエティールがその背に小さく声を掛けると、エボルエラは返事をするかのように短く潮を噴き上げた。




