181.海の魔操種
全ての荷物を運び終え、いよいよ出港の時を迎えた。
船を港に繋いでいた縄が解かれ、全員で帆を上げるための縄を引っ張る。帆が開き風を受けると、船体は加速しながら進み出し、商人の一人が操舵輪を手にとって船の針路を操り始めた。
「わあ……!」
ゆったりと揺れる船の上で、リエティールは初めての体験に目を輝かせていた。船の縁に駆け寄ると、縁に掴まって身を乗り出し、水しぶきを上げる海面をじっと見つめた。
「ほら、危ないぞ」
そんな彼女の肩を、後ろから近づいてきてロッソが抑えて声をかける。リエティールが「ごめんなさい」と言って振り返ると、彼のもう片方の手に首根っこをがっちりとつかまれつつ、うっとりとした表情を浮かべているエニランの姿が目に飛び込んでいた。
「はぁ……かわいい……」
彼女はため息とも独り言ともつかないような、謎の言葉をぶつぶつと呟きながらリエティールを見つめており、その様子は異様であった。
「あの……エニランさんはいつもこんな感じなんですか?」
怪訝そうな顔をしてロッソにそう尋ねるリエティール。そんな風に言われているにも拘らず、都合の悪いことを聞こえていないとばかりにエニランの反応は無い。
「まあ……そこまで違わないが……いつもはこいつの弟が程よい按配で嗜めるから、ここまで酷くはない。 普段から接しなれてるってこともあるだろうなぁ。
嬢ちゃんとは会ったばかりだし、弟よりも小さいし、あと女の子だって言うのもあるだろうな」
そんな彼女の様子にため息をつきながら、リエティールの問いに答えるロッソ。呆れた様子ではあるが疲れはなさそうなため、そこには慣れがあるのだろうことは理解できた。
「戦いとなったら流石に……と、早速お出ましだ」
「魔操種だ! 頼む!」
彼が話している途中、船体がぐらりと大きく揺れた。それと同時に舵を取っていた商人が叫んでロッソ達に助けを求める。
ロッソは頷いて、腰の鞄から小さな小瓶を取り出した。その中には赤い色をした粒状の何かの塊が幾つか入っており、彼はそれを適当に取り出すと、船の外へとばら撒いた。
「それは何ですか?」
「これか? 無垢種の血を固めたもんだ」
その答えにリエティールが驚いた様子で「血?」と聞き返すと、彼は頷いてこう説明を続けた。
「海の魔操種は血の匂いに敏感なんだ。 このまま放っておくと船底に攻撃を続けられて、壊されちまう。 でも、こうして血を水面に溶かすことで、やつらはこっちに誘き出されてくるって訳だ。
そんで、俺達人間の存在に気がつけば、こっちに集中するって流れさ」
直後、彼の説明を肯定するかのように、巨大な水しぶきを上げて宙に影が飛び出した。それはまさしく海の魔操種であり、頑丈そうな鱗を日の光で輝かせ、巨大な鰭を翼のように広げた、恐ろしい魚のような姿をしていた。
鳴き声こそあげないものの、大きく開かれた口からは鋭い牙が除き、体を奇妙にくねらせ、鰭を複雑に動かすその様子は、まるで踊っているかのようにも見えた。
魔操種は三人の姿をその目に捉えると、鰭を翼のように広げて滑るように突進してくる。
そこに素早くエニランが踏み込み、その目に目掛けて槍を突き出す。だが、そのまま大人しく喰らうわけも無く、魔操種は激しく体をくねらせて狙いをそらす。
硬い音を立てて穂先がはじかれるものの、エニランはすぐさま二撃目を繰り出す。今度は口の側に突き刺さった。
しかし魔操種は痛覚がないのか、ギョロリと目を動かすだけで動きは止めず、激しく身をくねらせて逃れようとする。
「そりゃぁっ!」
大きく動けない魔操種目掛けてロッソが剣を振りかざす。しかし流石に危険を感じたのか、それが直撃する前に、自らの身が抉れるのも意に解さず一層激しく暴れると、無理矢理エニランの槍から逃れて床を叩いて跳ね上がり、大きな音を立てて海の中に落ちた。
血を撒き散らしながら海に入り、海面には煙のように血が浮かぶ。
見ていたリエティールは、逃げたのだろうかと思ったが、ロッソもエニランも警戒を解いてはいない様子を見て、そう簡単に撃退できる相手ではないのだろうということが想像できた。
海は深く波が立っているため、少し深く潜られるとすぐにその姿が見えなくなってしまう。まだ血は出ているだろうが、海面に届く前に拡散されてしまうため、手がかりにはならない。
再び三人で船の中央に集まり、全方向を警戒する。その最中、リエティールはそっと疑問を口にした。
「あの魔操種は逃げないんですか?」
その問いに答えたのはロッソではなくエニランであった。
「魔操種って言うのはね、傷を負うほど凶暴になるの。 一度ここに人間がいるって分かった以上、そう簡単に諦める生き物じゃないのよ」
そう言う彼女の口調は、リエティールに対するものとは思えないほど真剣で落ち着いていた。我を忘れて豹変するほど好きな者を目の前にしていても、戦闘の最中は反応もしない。その姿はベテランのエルトネらしい風情であった。
そんな風に言葉を交わしていると、リエティールの丁度見ている正面から、魔操種が再び飛び上がった。
「!」
ここは自分が活躍するべきだ、とリエティールは思い、二人よりも早く、反射的に走り出し、いつでも槍を突き出せるよう構えを取りながら立ち向かう。
初めての海の魔操種相手と言うこともあってか、その時のリエティールは多少冷静さを欠いていた。ここが海の上であり、不安定な船の上と言うことを忘れていたのだ。
「危ないっ!」
「え? ……きゃぁっ!」
背後からエニランの叫びが聞こえてきた。その声に一度動きを止めかけるが、一歩間に合わず、彼女は水しぶきで濡れた床に足をついた。丁度そのタイミングで船が波によって普通より大きく揺れたため、リエティールは姿勢を保てず転んで尻餅をついてしまった。
そんなリエティールを目掛けて、魔操種は空中を滑空する形で飛び込んできていた。リエティールは驚くが、槍を手放してはいなかったためすぐさまそれを突き出して向かい受ける。
まっすぐ突き出された槍に、魔操種はまるでそれを飲み込むかのような形で突き刺さった。
だが、魔操種の体長はリエティールよりも大きかった。槍の長さはリエティールよりやや大きい程度であり、魔操種が真っ直ぐ突き刺さると、それは丸ごと飲み込めてしまう程度であった。
「ひっ……」
魔操種は槍の穂先で中心を貫かれながら、自重によって尾の付け根までずぶずぶと飲み込んでいき、口元は槍を持っていたリエティールの手まで到達していた。




