13.氷雪の化身
いくら抱いた決意が固くとも、そこに大切な夢がかかっていようとも、肉体には限界がある。元々この世界の中で一番弱いのは人間だと言われるほどで、その中で更に幼い少女であれば尚の事、この厳しい吹雪に耐えられるはずが無かった。
荒れ狂う吹雪の音に、自らの荒い息の音すら掻き消され、四肢どころか体中の感覚が既に麻痺している。凍える寒さに肌は一部青紫に変色し、視界は霞み自らの体が進んでいるのかすらわからない。脳内まで吹雪が侵入したかのように真っ白になり、もう何も考える余裕はない。ちゃんと前進できているのか、後どれくらい歩けばいいのかなどということを考えることはとうにできない。歩くという単純作業を、体は意思とは関係なく繰り返す。
手足はガクガクと震え、歯はガチガチと音を立てる。最早目も殆ど開かない。折角の服さえもう防寒の機能を果たすことはできず、雪が纏わりついて真っ白く姿を変え、厚みを増して動きを阻害する。吐き出す息は出た瞬間に凍りつき、冷気となって吹雪に混ざり消える。もしもこれを人が見れば、「歩く凍死体」などと呼んで恐れたかもしれない。それ程に目も当てられないような凄惨な有様であった。
そうなってまでも、少女はただ前へ前へと進んでいた。
少女の意識が飲まれていく寸前、今までに聞いたことの無い音が彼女の耳に届いた。それにより、薄れていた少女の意識が僅かに回復し、幽かではあるが思考力も戻った。
──グルル……ガアァッ!
激しく雪を掻き分け走る音に加え、そんな凶暴な鳴き声が聞こえてきた。その激しい音に混ざって、どこかか細い「キュウキュウ」という声も聞こえる。
(なにかが、なにかを追ってる……? でも、何……?)
かつて女性が少女に語ったように、この地には魔操種は存在しない。しかし、それ以外の生き物が全く存在しないわけではなかった。ドロクの町で飼育されていた家畜のように、「魔力を持たない人間ではない生き物」である「無垢種」という生き物がいる。
しかしこの極寒の気候に耐えられる無垢種はそう多くは無い。連れてこられて適応した家畜のように、上手く順応することができなければいずれ死に絶えてしまう。しかし、少ないというだけで全くいないわけではないのだ。人間に連れてこられた家畜より前からこの地で生きてきた、屈強な野生無垢種も存在しており、それが今、少女に迫ってきているのだ。だが、今の少女にはただ漠然と「何かがいる」程度にしか認識できない。
「ガアァァッ!」
「キュウッ! キュ、キュウ……!」
はっきりとその声が聞こえるようになった頃、ようやく少女の視界は「何か」の姿を捉えた。
前を走るのはとても小さな白い「何か」。少女の半分ほどの背丈しかなく、全身が雪と同じように白い。降り積もった雪はそれにとっては立ち塞がる壁のように感じることだろう。必死で飛び跳ねながら前に進んでいるが、その速度は遅い。
その後ろを追うのは、こちらもまた白い「何か」。しかしその大きさは少女と同じか、それ以上にも見える。数も2体いるように少女は見えた。ガウガウと凶暴な鳴き声を上げながら、雪などものともせずに走っており、じきに小さな「何か」に追いつくと考えられた。
ただでさえ激しい吹雪の中で、ぼやけた少女の視界には、どちらも雪と同じ色をした生き物としか見えなかった。違いは大きさと鳴き声、そして速度。
もしこれを見たのが少女ではない、ある程度知識のある人物であったら、雪原における野生無垢種の食物連鎖で、自然の摂理であると捉えただろう。そしてそれは、人が手出しするべきものではないとも。
しかし少女はそうは考えられなかった。そもそも思考力が低下している状態に響いてきた、追われている「何か」の今にも泣き出しそうな、弱弱しい必死な声が、少女の心を強く揺さぶっていた。
それはかつて、ぼんやりとだが残る、初めて女性が手を差し伸べてくれたあの時の記憶。寂しくて苦しくて、ただ誰でもいいから助けてほしくて泣いていた自分の記憶に重なった。
「キュウゥ……キュウ……ッ!」
真っ白に閉じられた世界の中、誰か気づいてと言わんばかりに絞り出された声。少女は気がつかぬうちにその小さな「何か」の方へ歩き出していた。
「キュ……?」
小さな「何か」は近付いてくる少女に気がつき視線を向ける。その視線にあるのは戸惑いか、安堵か、それとも恐怖か。「何か」の目さえ認識できない少女には関係の無いことであった。
少女はそのまま小さな「何か」を通り過ぎ、大きな「何か」との間に立つ。そしてそこで歩みを止めると、両手を庇うように広げて立ちふさがった。その姿の頼りないことは、今にも風で吹き飛ばされてしまいそうなほどであった。しかしその目は、先ほどまでの虚ろな様子ではなく、キッと前を睨みつけるかのような鋭い形になっていた。
「グルァアアッ!」
邪魔だ、と言うように大きな「何か」は荒々しく吼え、口を開く。少女には良く見えないが、その「何か」が自分に喰らいつこうとしているのだということはわかった。
(ああ、私、死んじゃうんだ……)
はっきりしない意識の中、そうぼんやりと考えると、少女は覚悟したように固く目を閉じた。大きな「何か」の激しい息遣いが迫るのを感じながら、彼女はただその時を待った。
しかしその次の瞬間、荒れ狂う吹雪き諸共叩きつけるような、強烈な風が上空から吹き降ろし、少女は思わず目を開いて膝をついてしまう。その目が捕らえたのは、大きな「何か」達が慌てたように鳴き声をあげながら逃げ去っていく様子だった。
何がなんだか分からないでいる少女の目の前に、吹き降ろす風と共にその主が現れた。
「……!」
霞む視界の中に、その姿は少女にとってやけにはっきり見えた。
見上げる程に大きな体躯。その全身が氷雪のごとき真白な鱗に覆われ、その背には体を包み込めるのではないかと言うほど巨大な翼。更にその皮膜は光のカーテンのように揺らめき色を変える、まさしくオーロラのような色をしていた。そして少女をまっすぐと見つめるその瞳は、新雪のように滑らかな、青みがかった白銀をしていた。そのなんと美しいことか、一度も見たことが無いというのに、それはまさしく氷雪の化身、氷竜ドラジルブであると、少女は確信した。
「ああ……」
その声は感歎のためか、それとも安堵のためか。思わずといった様子で声を漏らした少女の表情はいつになく穏やかな笑みを浮かべていた。
これで、やっと。そう思うが早いか否か、少女の意識は暗闇の仲へと沈んでいった。




