138.台風一過
「退屈させてしまってごめんなさいね。 そろそろ出て、写し絵を見に行きましょうか?」
エゼールの問いに頷き、リエティールはその手を繋ぐ。
すると、会場の入り口から一人の男性が近寄ってくる。エゼールを招待したセノであった。
「ああ、もしかすると丁度お帰りになるところでしたか? 招待状を盗んだ者が見つかったので、返却に参ったのですが……不要でしょうか?」
そういう彼の手には、ラツィルク家へ宛てられた招待状があった。
彼の問いに対してエゼールは首を横に振り、
「いいえ、ありがとうございます。 折角なので、記念に持ち帰ります」
と言って招待状を受け取った。彼女は受け取った招待状を見てほっとしたような、嬉しそうな顔をしていた。宛名の部分は手書きであり、恐らくそれはセノの直筆なのだろう。
招待状から顔を上げ、彼女は続けて尋ねた。
「盗んだのは……やはり女性の方でしたか?」
「ええ、国王様に会わせて、などと騒いでおりました。 衛兵に引き渡してあるので、今頃は相当の罰を受けているでしょう」
頷いて答える彼の顔には呆れがありありと浮かんでいる。恐らくこういった出来事は一度や二度ではないのだろう。その心労が窺えた。エゼールは苦笑しつつ、そんな彼を労わる声をかけた。
そんな風に話していると、再び入り口から誰かがエゼールたちの元へ向かってくる。かなり勢いよく走り、他の客を押しのけるような勢いで、
「エジー!」
と大声で言いながら、その人物はやってきた。服は白地なのだろうが、装飾品がこれでもかと言うほどについており、目に痛いほどの輝きを放っているため、もはや何色か分からない。
それを見た瞬間、エゼールの表情は凍りついた。そして酷く重々しくこう呟いた。
「ネグルドニ様……」
「ああ! 会いたかったよ愛しのエジー!」
エゼールの心の内など微塵も考えることはなく、ネグルドニと呼ばれた艶のある肌の男は、走る勢いのままエゼールに飛びつこうとする。
その飛び付きを、エゼールは見事な身のこなしで躱した。その鮮やかさはそこらのエルトネ顔負けレベルのものであった。
「ネグルドニ様、周りの方の迷惑になるので騒がないでください」
そういうエゼールの顔は、彼の視線が外れているためか嫌悪がありありと浮かんでおり、声も視線も冷ややかであった。
しかし彼女のそんな態度もお構い無しと言った様子でネグルドニは大げさな動作で振り返る。振り返った瞬間、エゼールの顔は直前までの真顔に戻る。恐らく、本当は作り笑いでも浮かべたいのだろうが、真顔にするのがやっとなのだろう。
「エジー、そんな他人行儀じゃなくて、僕のことはドニーと呼んでおくれと言っているじゃないか!
僕らはいずれ結ばれる運命なのだから!」
「はぁ……」
ため息がやっとと言った様子でエゼールは顔を俯ける。
成る程、この人が以前言っていた「あの人」か、とリエティールは頭の中で結びつける。エゼールが嫌がるのも頷けると、心のうちでエゼールに同情する。
隣にいるセノはと言うと、単純に彼の振る舞いが気に入らないのか、その顔はやや険しくなっている。
そんな彼の後から送れてプレホンがやってくる。
「やあやあエゼール嬢! 無事に会えてよかった!」
「プレホン様……どうして……」
困り顔で彼のほうを向くエゼールに対して、プレホンはにこにこと機嫌が良さそうである。
「なに、そちらの御父君から昨日文書が届きましてな、エゼール嬢は城のパーティに招待されているとかかれておられたのです。 行けば会えると知ると否や、ネグルドニが行かなければと騒ぎ出してしまいましてね。 少々伝を使いまして」
その話を聞いて、エゼールは再びため息を着く。恐らく心の内では父親に対して悪態をついていることだろう。
「ところでエゼール嬢。 急ぎの用があるとおっしゃっておられましたが、そちらは?」
その問いかけに、リエティールは内心焦る。急ぎの用はエゼールが咄嗟に着いた嘘であり、ばれてしまったらどうなるかと、ひやひやしていた。
だがエゼールは焦りを見せず、普通の顔をして答える。動揺を見せてしまってはいけないと心構えをしていたのだろう。
「ええ、最初の用事は済みまして、今は一段落着いたところです……」
「なら! 今晩は僕の家に泊まりにおいでよ!」
エゼールが答えた瞬間、ネグルドニが食い気味にそう言う。顔を近づけてきた彼から後ずさりつつ首を横に振り、
「いえ、既に数日分の宿泊予定を取っているので……」
と答えるが、ネグルドニはさらに詰め寄り、
「問題ないさ! キャンセルすれば良い! キャンセル料は勿論僕が払ってあげるからさ!」
と彼女の言葉を遮って答える。エゼールはここで負けるわけにはいかないというように、
「いえ、お金の問題ではありません。 宿泊先に迷惑はかけたくありませんから……」
と彼の申し出を拒否する。しかしネグルドニも負けじと反論する。
「そうか、エジーは優しいね。 なら、僕がその宿泊施設に泊まればいいだろう?」
その言葉に、エゼールは首を全力で横に振る。
「とんでもありません! それこそネグルドニ様に迷惑が掛かります! なにより、私の泊まっている宿は男女で一つの部屋に止まることはできませんので!」
そこまで言ってようやく、ネグルドニは「そうか……」と諦めた様子で呟く。どうやら同室に泊まる気でいたようだ。彼が漸く折れてくれたことに、エゼールは心から安堵した。
しかし、次の瞬間には彼は再び元気を取り戻し、
「ああ、でもこうして会えたのだから、せめて親愛の口付けを……!」
と言って急にエゼールの手をとった。
エゼールは反射的に「ひっ!」と短く悲鳴を上げ飛び退いた。それでもなおエゼールに手を伸ばそうとするネグルドニの前に、それまで静観していたセノが割り込んだ。
「申し訳ありませんが、他の参加者様方の迷惑になりますので、これ以上騒ぎを起こさないでいただけますか?」
そう言われたネグルドニは、明らかに不快そうな顔をし、セノに食って掛かる。
「うるさい! 彼女は僕のフィアンセになる女性だ! コミュニケーションを図って何が悪い! そこをどけ!」
そう言ってセノに掴みかかろうとした。セノは警戒を露にし、彼をすぐにでも捕縛できるように構える。
しかし、ネグルドニの手がセノに到達する直前で、プレホンがその手を掴んで止めた。
「こら! 城の兵士の方に手を出してはいけない! 場内でそんなことをすれば大変なことになるぞ!
それこそ、エゼール嬢との婚約も叶わなくなるぞ!」
「ぐぅ……」
プレホンにそう言われ、ネグルドニは力を緩めるが、その顔にはセノに対する明らかな敵意が剥き出しになっていた。
だが、すぐにエゼールに向かって笑顔を向けると、
「残念だけど、今日はここでお別れだ。 また会おう! 今度は是非我が家に泊まりに来てほしい! それじゃあ!」
と言い残して、まるで先程までの騒ぎなど無かったかのように、優雅な足取りで会場を去っていった。
後に残された三人は、一様に安堵の表情を浮かべていた。




