11.決意
少女は茫然自失のまま数日を過ごした。眠ったまま動かない女性の横で座り込んだまま、食事も睡眠も摂らずに、まるで夢か幻でもみているかのように朧げな目をしていた。クズ野菜の煮込みはすっかり冷えて、なかば凍り付いている。少女の体にもまた、舞い散る雪が張り付き、まるで雪像にでもなってしまったかのようであった。
それから更に時が経ち、ようやく気持ちが落ち着いてきた彼女に体の感覚が戻り、眠気と空腹、そして寒さが一気に襲ってきた。覚醒した意識の中で少女は自らの体を抱く。放置された炉はもう火種すら燻ってはいない。
ああ、こんなはずでは無かった。と、少女は俯き顔を覆う。
女性が自分に願ったではないか。「つよく生きて」と。ここから脱してほしいのだ。だから女性は一式の服を残し、十分な食料を残してくれたに違いない。こんなところで何もせずに死ぬことなど望んでいない。
彼女は全てを悟って、それでいてなお諦めず全てを託してくれたと言うのに、このままでは寒さに凍え死ぬだけだ。これでは見せる顔が無い。せめて、何か一つでもいい。女性に胸を張って話せるようなことを成し遂げたい。ここまで育ててくれたお礼に、ここから出て、一人で何か成し遂げたという事実を返してあげたい。そうしなければ、死ぬに死ねない。
少女は不器用だ。女性のように服を作って売ることはできないから、これ以上何かを得ることはできない。
少女は非力だ。この町を出て行くことには危険が伴う。万が一魔操種にでも会えばひとたまりも無いだろう。
少女は無力だ。火を起こす事ももはやできまい。女性が火を起こせたのは、かつてある人が、万が一の時暖を取れるようにとくれた火を起こす道具を、裁縫道具と一緒にしまって持ち歩いていた残りがあったからだという。少女にはそれも無いのだ。
それでも、いかなくてはならない。
思い立った少女は、瀕死の体を無理矢理動かして女性が残してくれた服に着替えた。コートを着終えて、少女は女性に抱きつくように、自らの体をぎゅっと抱きしめた。
次に、床に広げた布の上に女性を静かに横たえた。弱った少女には意識の無い女性の体を動かすのも一苦労であった。なんとか綺麗な姿勢で寝かせ、その体に布をかける。小さな布の有り合わせで不恰好だが、仕方が無い。そうして布の上から次は雪をかけて隠すように覆っていく。そしてその傍らには裁縫道具を綺麗にしまった手提げ箱を添える。
以前女性から聞いた、死者を弔う方法は二つあった。一つはできるだけ高温の炎で焼き、灰と骨を地面に埋める。そうすることで魂が肉体からスムーズに解放され、穏やかに自然へ帰ることができるのだと言う。
もう一つは、光の魔法を使い直接魂に浄化を働きかけて解放する方法だ。こちらは肉体を傷つけず場所を選ばないので、自室やお気に入りの場所で弔いたい人が選ぶのだという。しかし光の魔法を使える者は殆どいないため、この方法をとるのは貴族や王族のような、身分が高く豊かな人ばかりらしい。
しかし今は炎も無ければ、土を掘って埋める力も無い。そういう時は、その人が生前慣れ親しんできた物や自然の物で体を覆うのだと、女性は少女に教えた。だから少女は布と雪を選んだ。これが今の少女にできる、精一杯の弔いであった。
少女は最後に女性の顔を見た。その顔は本当にただ眠っているように穏やかで、今にも目を開いて「おはよう」と声を掛けてくれそうだ、と彼女は思った。
「いってきます、おばあちゃん」
掠れた声でそう言い、女性の顔にそっとキスをした。そして、顔を布と雪で覆うと、残された食料を手に取り、家を出、スラムを出、町を出た。
目指すのは禁足地。氷竜に会うために。
***
女性は色々なことを少女に教えてくれた。色々な言葉、簡単な読み書き、一般常識やこの世界のこと。暇さえあれば少女は知識を求め、女性はそれに答えるように知る限りのことを教えてくれた。
例えば、植物には野菜以外に花という見て楽しめるものがあるということ。
この町から離れると、魔操種という人間を襲う恐ろしい生き物がいること。
自然の世界には魔力が漂っていて、それが集まると精霊種という不思議な存在に変わるのだということ。
それら魔操種や精霊種よりも、ずっと強大で神聖な、古種という生き物が存在すること。
そしてこの町が寒いのは、その中の一体である「氷竜ドラジルブ」がそばに住んでいるからだと言うこと。
スラムの世界しか知らない少女は、町の外の話を聞くことが何より楽しかった。その知識欲は女性も気おされるほどのものであった。女性もまたこの町から出た事は無いのだが、かつては町で人と話したり、本を読んだりしたことがあるため、色々と教えることができた。しかしその内教えられることが無くなり、最終的には読み書きの練習以外することがなくなってしまうほどだった。
様々な話の中でも特に、古種の話は少女の心を強く掴んだ。人間がこの世界に生まれるよりずっと昔、この世界が生まれた頃から存在していると言う古種に、何か神秘的なものを感じ、そして何よりその内の一体がすぐそばにいるという事実が、少女の心を一層掻き立てた。もっと知りたいとせがむ少女に、女性は詳しく知らなくてごめんなさい、と言ったのだった。
だから少女は行くことにした。たとえそれが命の危険を伴うのだとしても、そもそもこのままではどのみち死ぬのだから、と。
氷竜に一目でもいい、会いたい。そして知りたい。古種という存在が一体どれ程のものなのかということを、身をもって知りたい。そうして、今度は自分が教えてあげるのだ、と。
そう決めた少女にもはや迷いの類は一切無かった。冷え切った干し肉を齧り、切る必要の無くなったパンを噛み千切る。それは未練を断ち切る決意であった。
睡眠も食事も足りていないと言うのに、少女はその弱りきった体を気力だけで動かして歩いた。町の中で静かに降り続けていた雪は、禁足地に近付くたびに勢いを増し、風は少女の体を叩きつけ、視界を遮るようになる。骨肉は悲鳴を上げ、とうに限界を迎えているというのに、動きを止めることはない。
目印も無く吹雪の中を歩くこと。普通であれば道に迷って遭難する状況の中で、少女はまるでその強い意思に引かれるように、ただ一点だけを目指して歩き続けた。
吹雪は少女の足跡をできた端から消していく。それは少女の姿もろとも飲み込んで、まるで少女という存在を消してしまうかのようであった。




