114.銀貨一枚の話
目が覚めて落ち着いたリエティールは、氷竜とエフナラヴァの亡骸に小さく微笑んで「またね」と言うと、空間から出ていった。
そしてすぐに、もう夕暮れだというのにすっかり目が覚めてしまったことに気がつくと、どうしたものかと頭を悩ませることとなった。
空腹感を感じたため、とりあえず果物を一つ取り出し齧りながら考えて、一つ思いついて靴を脱ぎ揃えた。以前手袋にしたように、また魔法を掛ける作業を今やってしまおうと思ったのである。
鱗を引き抜いて、声にならない悲鳴をあげる。氷竜があの時何の気無しに引き抜いたのを思い出し、全ての力を引き出すことができれば、これくらい何ともなくなるのだろうかとなどと考えつつ、引き抜いた場所を涙目で優しく摩った。
深く深呼吸をし、掌に乗せた鱗を見つめながら、リエティールは力を抜いていく。やがて一度閉じられた瞼がぼんやりと開くと、鱗が光りながら浮かび上がり、輝く糸に姿を変えて靴へ向かって飛んでいく。
全ての糸が靴の元で消え、暫くしてからリエティールの意識が戻る。呼吸を荒らげて膝をつき、ベッドに寄りかかるようにして呼吸を整える。
靴を見ると、キラキラとした輝きに雪の結晶の文様が浮かび上がっており、無事に成功したようであった。靴は服や手袋のような生地ではなく、革がベースになっていたため上手く行くのか心配が無かった訳ではないが、どうやら問題なく編みこめたようである。
疲労感を和らげるため、そのままベッドで横になりごろごろして時を過ごしたが、一向に眠気は来ず、本を取り出して読むことにした。元々窓が壁向かいで薄暗かったので、ランプにマッチで火を灯し明かりとして、オンボロの机で本を読むというのは、意外にも中々趣のある様であったのだが、それに本人が気がつくことはなく、彼女は黙々と本を読み続けた。
幾許かして、彼女がふと顔をあげて窓を見ると、外はもうすっかり暗闇であり、向かいの壁さえ殆ど見えないほどであった。にも拘らず未だに眠くならないので、リエティールは少し悩んだ後、部屋から出た。
カウンターの前まで行くと、ナーツェンがグラスを磨いているところであった。彼はリエティールに気がつくと声をかける。
「ん、どうした? こんな時間に外に出るのは良くないじゃろ。 眠れんのなら何か飲んでいくといい。
ま、酒は出せないがのぉ!」
ひょひょひょ、と笑いながら、ナーツェンは手早く飲み物を用意し始める。特に外へ出る用事もなかったので、リエティールは有り難くその提案に乗ることにした。
出されたのはアコクで、甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐり、早速小さく一口飲むと、ふうと息をついた。
「お前さん……そういえばまだ名前を聞いておらんかったの」
ナーツェンにそう言われ、はっとして名乗ると、彼は満足そうに頷く。
「うむ、してリエティールよ。 こんな時間にどうしたんじゃ? もう寝ていい頃合じゃろうて」
まさか正直に話すわけにも行かないので、リエティールはただなんとなく眠れないのだと答える。ナーツェンは「ふむぅ……」と呟き、
「ま、深くは聞かんわい。 退屈だというのならこの老いぼれと話でもするか」
と言った。リエティールは折角の機会だと思い、疑問に思っていたことを尋ねた。
「あの、どうしてこんな目立たないところにお店を作ったんですか?」
すると彼は「良い質問じゃ」と笑うと、徐に語り始めた。
***
今じゃこんな老いぼれじゃがのぅ、昔は一端のエルトネじゃった。可もなく不可もなく、極めて普通のエルトネじゃった。
そんなワシも駆け出しの頃、王都に憧れて身の程知らず、金もないのに飛び出してきた。その頃も今と変わらず高級な店ばかりでの、ひよっこには到底泊まれそうにない宿ばっかりじゃった。
結局、何日も路地裏で野宿をした挙句、依頼の一つも受けられないまま、田舎の方へ戻って細々とした依頼を受けて暫くを過ごした。
しかし、王都への憧れというものは無くならなくてのぅ。何年もかけて実力をつけたワシは再び王都へと出ていったのじゃ。
だがまあ何年経っても王都は王都。やはり宿は高くて、依頼の難易度も平均が高い。毎日下の中くらいの依頼をこなすので精一杯じゃったワシには、宿に泊まるなんてできんかった。
エルトネとしての才能があればよかったんじゃが、運動音痴だったようでの……何の武器を使ってみても普通以上にはなれんかった。
それからワシはエルトネをすっぱり諦めて、普通の店で雇われて働いた。するとどうじゃ、最初からこうしていればよかったと思うくらい、安定した生活ができるようになった。
じゃが、何年経っても王都に憧れたあの時の気持ちが忘れられんくてのぅ。そしてあの時の自分と同じように、王都に憧れて飛び出してくる若者に、同じ道を辿って欲しくないと思ったんじゃ。
それでワシは、王都に駆け出しでも泊まれるような安宿を作ろうと決心したのじゃ。
それで上手いこと事が運べば良かったんじゃが、まあそう上手くは行かん。どこも土地は一杯一杯で、空いていたとしてもとんでもない値段じゃった。
そして幾日も探しに探して、ようやくたどり着いたのがここじゃった。大通りからうんと離れた道の、さらに奥まった、案内でもなければ誰も気がつかないような細道の奥の奥、今にも取り壊されそうになっていたボロ小屋を見つけて、その持主を死ぬ気で探して、地に頭を擦り付ける勢いでなんとか買える値段まで交渉したんじゃ。もうここしかない、と思ってのぅ。
そうしてやっとの思いで手に入れたここに、一応人が泊まれるような部屋を用意して、はした金の宿を作ったは良いものの、客は来ない。
そりゃそうじゃ。こんな入り組んだ路地裏にある上、駆け出しのエルトネなんてそうそうくるもんじゃない。広告や看板一つ出すにも金が掛かるせいで、名前を表に出すことすら出来んかった。
結局金もなくして、また田舎に逆戻りかと思っていた頃、デッガーに出会った。奴はまだ子どもで、エルトネにすらちゃんとはなっておらんかった。ボロボロでいかにも浮浪児といった見た目をしていたのじゃが、目には強い意志が宿っているように見えてのぅ。ほっとけなくてタダで部屋に泊めて、食べ物も恵んでやった。
話を聞くと、強くなる為にまともなエルトネになりたいが、金がないから武器の一つ買うことも、身なりを人並みに整えることも出来ないという。残飯を漁って日々を生きるので精一杯だという奴に、ワシは一つ提案をした。
それは、ワシが必要な準備資金を提供する代わりに、エルトネになってこの店の用心棒と広告塔を担ってほしいというものじゃった。
あいつは喜んでそれを引きうけ、見事立派なエルトネになった。十分な収入を得られるようになってからは、ここで毎日酒を飲むようになった。
「……ま、広告塔として役割を果たしたのは今日が初めてじゃったがの! ひょひょひょ!」
宿だったはずが、気がつけばデッガー専用の酒場になっとったわい、と彼は愉快そうに言った。
話を聞き、リエティールはデッガーの身の上が気になった。そしてナーツェンに聞いてみたのだが、彼は曖昧な笑顔を浮かべて「そういうのは、本人の知らんところで話すもんじゃなかろうて」と言い、それ以上話すことはなかった。
しつこく聞いても仕方がないだろうと思い、彼女はカウンターに銀貨一枚を取り出して「ありがとうございました」と言って席を立った。
「ふむぅ? 随分高いアコクじゃのぅ」
「アコクと、お話の分です」
リエティールがそう返すと、彼は顔をまじまじと見た後、心底面白そうに笑った。




