10.静かな朝
ある日の朝のこと。その日の朝はいつにも増して静かだった。少女はゆっくりと目覚め、眠い目をこする。視界の端で小さな炎が炉で揺れている。
昨日は女性が夜遅くまで服を作っていた。いつもなら遅い時間までお互いに声を掛け合って、何度か寝たり起きたりを繰り返して火の番をしていたのだが、その日は女性に、火は見ておくからぐっすり眠りなさいと言われたのだった。
よく寝たのは久しぶりだったため、少女は大きく欠伸をして伸びをする。ふと女性のほうに目を向けると、椅子に座って木箱にうつぶせたままじっとしている。
遅くまで服を作って疲れているのだろうと少女は思い、女性をそっとしておいて食事の準備をする。今日は特別だ。いつものクズ野菜の牛乳煮込みだけではなく、干し肉とパンがあるのだ。女性が服がよく売れたからと、昨日特別に買ってくれたのだ。干し肉は今までに数度食べたことがあったが、パンを食べるのは初めてだった。パンを買うと聞いたとき、少女は飛び上がって喜んだ。
少女は火にかけた鍋の様子を見ながら、干し肉とパンの用意をする。紙袋を開いて初めて、量が多いことに気がついた。干し肉は少しずつ食べれば一週間は持ちそうだし、パンは一切れ二切れなどではなく、一つの塊だった。
それを見てよりそわそわし出した少女は、干し肉を一枚取り出して火で炙り皿に置く。パンも分けようとして、硬くて手では千切れないということに気がつく。噛み付けば噛み千切れるが、自分だけで食べるわけではないので少女は困ってしまった。パンを切るための包丁なども無い。
料理ができたら起こそうと思っていたのだが、これではパンが食べられないからと、助けを求める為に女性を起こしに行った。
「おばあちゃん、起きてー」
そういって少女は女性の肩を持ち軽く揺する。けれど女性は起きない。よほど深く寝入っているのかと思った少女は、より強く揺すった。
するとどうだろう。女性は揺すられた勢いで床に倒れ込み、尚も目を開けないのだ。
「え……?」
少女は困惑した。慌てて抱き起こそうと腕を回した時に触れた肌は、雪のように冷たかった。
「おばあ、ちゃん……? やだ、冷た、い……っ! だめ、だめ……!」
いよいよ混乱した少女は、暖めなくてはと布をありったけかき集めて女性を包む。火で暖めた手で女性の手を包んで擦る。
煮立ったクズ野菜を一掬い、食べさせようと唇に当てる。けれど口は開かない。無理矢理口を開いて匙を入れるが、引き出すと同時に開いたままの口からスープが零れた。
「だめ、食べて……食べなきゃ、しん、じゃ、う……」
嘘だ、と強く思いながら、少女は食べさせるのをやめない。けれど何度やっても女性が目を覚ますことは無く、ぽろぽろと零れるスープとクズ野菜が服に染みを作っていくだけであった。やがて少女の目からはとめどなく涙が溢れ、更に染みを広げていく。
まだ全てを受け止め切れない少女は、ふと目をやった机代わりの木箱の蓋がずれていることに気がつく。深く考えることも無く、ただ思うがままに蓋を開ける。そこに入っていたのは、少女に宛てた服と書置きだった。
少女は震える手で書き置きを手に取る。白い布に木炭で書かれた文字は難しいものは使われておらず、少女が女性から教わった文字だけが使われていた。その筆跡はとても弱弱しいものだった。
『ずっといっしょにいてあげられず、ごめんなさい。
この服を、わたしだと思って大切にしてね。 ずっとそばにいます。
きのう買ったたべものは、あなたにぜんぶあげます。
わたしのところへきてくれて、ほんとうにありがとう。
つよく生きて。
しあわせになってください。あいしているわ。
おばあちゃんより』
少女は表情が固まったまま、箱の中を見る。ずっと着ていた白のワンピースは綺麗に仕立て直され、それに加えて黒い厚手のタイツに、同じく黒い大きなコートが入っていた。
ぽた、ぽた。
少女の涙が音を立てて落ちる。書置きは握り締められてくしゃくしゃになり、文字が滲んでいる。体の震えが止まらない。堪えきれずに嗚咽が漏れる。
「やだ、やだよ……起きてよ……おばあちゃん……あ、ああ……」
一人だ。
捨てられていたあの時に戻ってしまった。おぼろげな記憶の中、自分を抱き上げてくれた女性の温もりがぼんやりと思い出される。
一人は、怖い。
一人から救ってくれたあの優しい手は、もう動かない。呼びかけてくれた愛しい声は、もう聞こえない。
冷たい雪の、その一部と成り果ててしまった。
少女は声を上げて泣いた。いつもと同じ雪の降りしきる、いつもよりも静かなスラムの朝に、その慟哭は誰に届くでもなく、染み入るように消えていった。




