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ヒステリック・ナーバス  作者: ななめー
7/8

その7

クライマックスです(*´ω`)


 2089年2月20日 10時30分  LQPA構内 光子加速研究所


 怒りは何も生まない。恨みで人は救えない。それはよくわかる。それでも湧き上がる感情全てをコントロールできない生き物が、人間だ。


 青年の頭の中で先日の記憶がまだ焼き付いている。


『・・・咲季』


『どうした?』


『・・・落ち込まないでね』


怒りを抑制できるなら誰も選択を間違ったりしないし、全人類が人を許せるなら争いなんて最初から起こらない。


『未来?』


『ワークス・メディア名誉顧問の光子加速研究所の教授ね、咲季の知ってる人なの』


彼女の細い声が名前を告げる。


「邪魔するぜ」


咲季はノックはせずにドアノブを回した。リノリウム張りの床に革のブーツの音が響く。いつもより無愛想で、その瞳の光は炎のようにたぎる力を宿していた。


「ノックくらいはしてもらいたいな」


部屋の長は咲季の訪問に少しも驚いた様子がなかった。


 室内は整然と片付けられ、そもそも圧倒的に物の少ない研究室だった。本棚もなく、デスクには書類だの論文だのの類は一切ない。その窓際に置かれた唯一のデスクと革張りの椅子に、咲季の良く知る人物がまるで彼を待っていたかのようにそこにじっと座している。


「俺がここに来た理由は、わかってるんだろ? オンブズマン」


白人の紳士にいつものような明るさはなかった。顔に深く刻まれた皺を微動だにせず、ドアの前の青年にただ何かを訴えているようだ。


「ああ、思っていたより早かった。さすが咲季だな」


自嘲気味に笑みを浮かべ、オンブズマンは立ち上がった。


「あわよくば・・・君が気付かないでくれないかと願っていたんだけどね」


「・・・」


「けれど、ここに来たって無駄だよ。今さら何も変えられないんだ」


咲季は黙って聞いた。怒りに燃えるその瞳にオンブズマンも気づいている。それでも彼は続けた。


「私がLQPA陽子実験所の教授をする傍らで、光子加速研究所の教授をやっているのを聞いたんだね。LQPA・光子加速研究所・エネ研、これらは国家の一大プロジェクトだ。失敗することは許されない。その為、各研究所間の教授・研究員で構成された理事会がある。君も存在は知っているだろ?」


オンブズマンは右腕の時計に目を落とし、時計を擦るように撫でた。それは彼の癖だった。


「私も共同理事会の一員でね、理事会の意向は絶対なんだ。どんなに理不尽だとわかっていても、逆らえない」


「理事会に言われたら、あんたは平気で人を殺すのか」


咲季の厳しい口調に、オンブズマンは肩をすくめた。


「まさか!」


「・・・昨日リラに差し向けたやつらのことも、とぼけるつもりか?」


「あれは・・・」


一瞬ためらいの色が瞳に映る。


「あんたがやってることは人殺しと変わらない!」


「・・・」


青年は拳に力を込めた。詰め寄って今すぐ眼前の男性を殴ってしまいたかった。それで解決できるのなら、悩むことなく殴っただろう。それをしないのは、彼をどうこうしても現状は変わらないとわかっているからだ。


「人聞きの悪いこと言わないでくれ」


「・・・あんたには、失望した」


それは咲季の正直な気持ちだった。オンブズマンとは長い付き合いで、彼がその道の優秀な研究者だということも知っていた。咲季の尊敬する研究者の一人だ。その彼を前に、咲季は自分の判断が未来にどんな影響を引き起こすのか、一瞬考えを巡らす。そしてすぐに吹っ切れる。


「決めた。あんただけじゃない。こんなことを黙認している理事会連中にも今一度自覚してもらうことにする。自分たちが、何をしてるのか、よく見るんだな」


咲季が尋常ではない速さで疑似空間を構築していく。今までインターネット上に表示されていたオンブズマンのIDが強制オフラインになる。


「・・・咲季?!」


ダークレイヤーの空間はどんどん広がる。暗がりは無限に続き、どこまでも虚無がむき出しのまま彼らを取り囲んでいる。イントラネット上にはオンブズマンのIDがオンライン表示される。例えるならそれは巨大な闇が圧縮され濃度を濃くしていくように、巨星が爆発によって輝きを失うように、何かの終りに大きく世界が変わるような変化。


 咲季の構築は終わらない。空間には無数の言語が飛び交い、徐々にID表示が増えていく。どのIDも強制的に青年の手でログインさせられているらしく、虚無の空間上に現れる彼らは皆一様に驚愕の表情を浮かべている。


『ど、どういうことだ・・・?!』


『・・・なんだ、ここは?!』


連れてこられた人々は事情を飲み込めていないが、オンブズマンにはわかる。咲季は理事会理事全員を招集するつもりだ。目の前に理事たちのメンツが揃い、彼らの慌てふためきを尻目に青年の本気度合いを認識する。


『なんだね、君は!』


『オンブズマン教授! どういうことです?!』


『人の人権を侵し、何の罪の意識も持たない、オメデタイあんたらに集まってもらったのはほかでもない。ミス・ガーランドの件について語ってもらおうと思ってさ』


咲季はその場に集った役員たちにスポットライトを当てた。壇上には十人の理事とオンブズマン、そしていつの間にかそれを取り囲むようにヒステリック・ナーバスの面々、秋野、リラがいた。

 秋野が進み出て言う。


『初めまして。特別諜報局員の秋野と申します。皆様のことはすでに調べさせていただいております。皆様、陰で人には言えないことを沢山してらっしゃるみたいですが、今日は時間もありませんので、単刀直入にお尋ねします。LQPA・光子加速研究所・エネ研共同理事会は、仮想集積CPUの無断独占不正使用を行い、リラ・ガーランドの人権を侵害しています。これは国際憲章に反し、刑事罰の対象となります』


『なんのことかね?』


『まずこんなことをして許されると思ってるのか!』


理事たちの中でもどよめきが起こる。おそらく理事会の中でも賛否は分かれているのだろう。数名が秋野に食って掛かる。


『黙って聞けよ! クソジジイ!』


咲季は声を荒げた。一瞬、空間が歪み強烈なノイズが走り各々の耳を聾する。秋野に詰め寄っていた数人も耳を押さえうずくまる。


『あんたらがリラを仮想現実に閉じ込めて彼女のCPUを理論物理学研究に不正利用してるのはとっくにバレてんだよ』


エイムが続ける。


『それに、リラ・ガーランドのCPUが理化学総務研究所・国務通信網整備局・量子回路工場で起こした三つの事件、これらを隠蔽する為にワークス・メディアに多額の賄賂贈ってることだってバレバレなんだからね!』


『仮想集積CPUの不正使用についても全てイントラネット上にログが残っているので、言い逃れはできませんよ』


『だったら・・・』


痩せ型の神経質そうな中年男性が数人の理事たちを押しのけ進み出た。笑っているかのように目を細め、しかし表情は決して笑っていない。


『だったらなんだって言うんだ! 君たちは、何の権限があってそんなことを言ってるんだ? それで我々をどうこうできるって言うのかね?』


ここまで言われても諦めない理事長の村田をオンブズマンが押さえる。


『理事長! もうやめましょう!』


『オンブズマン! 元はと言えば隠ぺい工作は君がもっとしっかりやるべきだったんだ。君の責任だぞ・・・!』


オンブズマンに対峙する彼の眼に冷たく険しい光が宿っている。まるで毒針のように、見る者を毒で制するように。


『・・・!』


オンブズマンの制止を振り切り、村田は続けた。


『それに、君たちはさっきから何か勘違いしてるんじゃないのかね? リラ・ガーランドの仮想集積CPU? 彼女は目の前にいるじゃないか!』


村田は鼻で笑ってリラを指さす。その嫌味な笑顔と大げさな仕草に村田の人となりが伺える。

 リラは何も言わず、ただじっと、糾弾の的の彼らを見返した。他の理事たちはほぼ諦めたのか、皆一様に視線をそらし、目も合わせようとしない。


『・・・認めたな、彼女がリラ・ガーランドだって』


静かに咲季が呟く。


『・・・何?』


『理事長さん、なんでその子がガーランドさんって知ってるのかな~?』


村田の目が一瞬泳ぐ。


『なんでって、彼女は高名な理論物理学者だ。顔を知っていたって不思議じゃない・・・』


たじろぐ理事会の長ともあろう者が、こんなにも行き当たりばったりに不毛なやり取りをしていいのかと、第三者の方が不安になる。


『彼女はリラの記憶データを移植されたAI。本物のリラ・ガーランドの容姿とは全く違うぜ』


リラは口を開いた。


『この姿は私の記憶を騙すためにあなたたちが本物の私に似せて作った姿。本物の私を知っている人間は今のこの姿を見ても、私がリラ・ガーランドだって気付けないわ』


『・・・!』


村田の言葉が止まる。逃れる道は当に塞がれているのに、それを認められないのは人間の浅はかさの表れか。村田は静かに呟いた。


『・・・だったらなんだっていうんだ』


『・・・』


『だったらなんなんだ』


村田は徐に咲季に詰め寄った。


『彼女のCPUは理論物理学の宝庫だ。理論物理学の将来に必要不可欠なんだよ。我々は理論物理学の未来を守っているにすぎない』


スポットライトのせいか、額に浮かんだ汗を細い指で拭い、村田は開き直った態度をとった。咲季の顔をまっすぐに見据えた眼には、手段は選ばない冷たさがありありと浮かんでいる。


『やっぱりあんたが諸悪の根源か』


『彼女が仮想集積CPUから離脱するのを阻止したのもあなたですね?』


『そうだよ。仮想集積CPUに入ると言ったのはまさに彼女自身なのに、何を血迷ったのか、今さら物理世界で生きたいと言い出したんだ。そんなのただの我儘じゃないか。・・・だから彼女の記憶だけAIに移し、彼女の自意識を誤魔化すことを考えた。予想通り、物理世界に戻って来た彼女は仮想集積CPUで眠る自分自身のことをすっかり忘れて物理世界を謳歌してたみたいじゃないか。まぁ、おかげでこっちは、今までインターネットで隠れて使用せざるを得なかったところを心置きなくイントラネットで独占できた訳だし、扱いやすい天才でこちらとしては助かってたのにな』


『てめぇ・・・!』


咲季は拳に込めた力を強めた。

その侮辱は許してはならない。自らのエゴの為に誰かを犠牲にすることに何の躊躇いもないその行為に、他者を蔑み自分の思い通りに物事を動かそうとするその傲慢さに、激しい憤りを感じる。咲季は目の前の男のスーツの胸倉をつかんだ。


『彼女と同じ痛みを味あわせてやってもいいんだぞ・・・!』


『咲季!』


周囲の制止の声が青年の最後の砦だった。咲季は寸でのところで握り拳をとめる。それを見て村田は挑発的な声をやめない。そこにはどうせ彼が殴ったところで生身の自分は痛くもかゆくもないと高をくくっている心が見え透いていた。


『はっ。やれるもんならやってみろ!』


『・・・』


咲季は怒りにたぎる瞳をそのままに、制止の声を冷静に受け入れていた。そして、握ったままだった右拳を思い切り村田の顔にぶち込んだ。


『がはっ!』


『咲季!』


『あ~あ、やっちゃったよ』


『・・・今回はわたしちゃんととめたのに』


各々の反応もそこそこに、咲季は衝撃で倒れこんだ中年男性を真剣に見据えた。当の村田は痛みでうめき声をあげている。


『うぅ・・・、な、なんで・・・』


『痛いか? リラの痛みはこんなもんじゃないからな』


人は想定の範囲の中では決して驚かないし、自分のテリトリーの中で好き勝手言い放ち生きていくことは、他者との関わりを無視して生きていくことと同義だ。他者の痛みを解ろうともしていない人間に青年の気持は理解できないのかもしれない。


 うずくまる理事長のフォローをする者は皆無だった。誰も彼も男性に手を差し出さない。口の端からは血が滲んでいる。それを目にした途端、戦意を喪失したのか、村田が口を閉ざした。


『俺としては、リラを殺そうとまでしたあんたに掛ける情けなんてこれっぽっちもないんだけど・・・』


咲季は不意にリラの方を見る。リラは心配そうに青年を見返しているが、ここに来る前に交わした会話を思い出し、何かに答えを出す。


『彼女が自分を殺そうとしたやつらにまで同情するもんだから、これくらいで勘弁してやる。リラに感謝するんだな』


そして思い出したように言う。


『あぁ、言ってなかったけど、当然この空間で話した内容は綺麗にログとして残してるからな』


咲季のその言葉に、村田はついに言い逃れを諦めたようだった。うずくまったまま、その場に力なく顔をうずめた。他の面々も似たようなもので、少し違うとしたら、その表情にはどこかほっとしたような安堵の色が見えた。誰も動けないその場で、唯一オンブズマンが咲季へ歩み寄った。


『・・・咲季』


『・・・』


オンブズマンはすっと手を差し出した。


『止めてくれて、ありがとう』


咲季は怒りを宿した目を閉じ、ふっと息を吐いた。


 目を開ける。その表情に怒りはもはやなかった。


『・・・彼女に謝るのが先だろ?』


言われてオンブズマンはリラに深々と頭を下げた。


『それに、あんたには最後の仕事が残ってる』


『・・・罰なら受けるよ』


『いえ、その前にやっていただきたいことがあります』


秋野の言葉にオンブズマンは頷いた。

 例えば誰かが罪を犯したとして、それを許すのは誰の役目なのか、答えのない問いに、いや生きる人間の数だけ答えがあるような問いを前に、咲季は疑似空間の解体を始めた。




 2089年2月28日12時30分  南極 国際条理締結機構 仮想集積CPU研究所 南極支部


「南極ってもっと寒いところだと思ってた」


暖かい室内に入り、未来が言う。


「・・・じゅうぶんさむいけど」


いくら日の光で照らされても、積もりに積もった雪と分厚い氷が解けずにそこかしこにあるということは、少なくとも日本よりは寒い。咲季もそれに続く。先導するオンブズマンは一足早く奥の監視室へと消えていった。


「逆にどんだけ寒いと思ってたんだよ」


最後尾の孝太郎が部屋に入り、ドアを閉める。

 監視室では秋野とオンブズマンが何やら話している。


「・・・」


その傍らで不安げに監視パネルを見上げるリラ。これですべてが解決するはず。その場にいる全員がそう信じて、日本より遠く離れた南極までやってきた。


「不安か?」


咲季はリラに率直に聞いた。


「・・・そうね」


自身の現状をすんなり受け止められるほど、彼女も達観していない。それでも、こうするべきだということ、それを自分も望んでいるということは、彼女も理解できる。ただ彼女を躊躇わせるのは、仮想現実の中の自分がそれを受け入れてくれるのかということ。


 そして、


(・・・私の記憶を、すべて本物の身体に戻したら、私の意識はどうなるんだろう)


もしかすると、この場に立つ自分の意識は消えてしまうかもしれなかった。それは彼女にとっては死と呼んで差し支えない。今の自分が残ったとして、仮想現実に取り残された自分はどこへ行くのだろう。

 咲季が悲しさや寂しさでもなく、迷っている彼女の顔を覗き込む。


「・・・心配するな。必ず俺たちの許へ帰ってくるって強く信じていれば、帰ってこれる」


見透かされたのはどの部分だろう。頭の中だろうか、それとも心の中だろうか。


 リラは根拠も何もないのに、青年がそう言うとその通りになる気がした。うん、と頷き、笑った。


「根拠もないくせに」


「根拠・証拠を求めたがるのは物理学者の悪いとこだぞ」


軽口には軽口で返す咲季。


 そうこうしてる内に、オンブズマンが管制官との話を終え、咲季の許へ歩み寄った。


「手筈は整った。まずはミス・ガーランドの記憶を彼女の身体へ戻す。そこから彼女を仮想現実から離脱させる」


秋野が口を開く。


「リラにもこれから準備してもらうことになるけど、大丈夫かな?」


「ええ。どうしたらいいのかしら?」


「一旦君にもCPUポットへ入ってもらいたい。そこでまずインターネットに繋ぎ、イントラネット上の、つまり仮想現実の中の君へ記憶を移送する」


彼女の身体自体は義体だが、認証IDは本物のコピーを使用している。同じネット上に同じIDは存在できないため、直接イントラネットに繋ぐことができないのだ。


 作業の進め方についてオンブズマンと秋野から説明を受け、リラは無菌室へ準備に入った。その間に咲季たちもクリーンルーム着に着替え、CPUポット格納エリアへ向かう。格納エリアは広大で、ここ南極支部が全世界で最多人数を収容している。全てが番地で管理され、何万何千人の仮想現実が一堂に会しているのに、その中で交流を持つ人間は皆無という、なんとも不思議な空間には、それでも人間の呼吸が聞こえる気がした。咲季たちが現地に到着する頃にはリラは既にポットの中で仮眠状態となっていた。あとはCPU参入処理が終わるのを待つのみだ。


 リラが入るCPUポットはすでに準備も完了していて、その縁で作業員が最終チェックを行っていた。彼は咲季たちに気づくと、ポットを降り彼らの許へやってきた。


「どうも、田辺と申します」


「どうも」


咲季と孝太郎、順々に握手をしていいく。


「皆さん若いねぇ。なんでも孫がお世話になってるみたいで・・・」


「孫?」


「どなたかと勘違いされてませんか?」


「いや、彼は、私の祖父なんだ・・・」


秋野の歯切れの悪い言葉に咲季と孝太郎の思考が一瞬止まる。


「ええ?! 秋野さんのおじいちゃん? もっと早く言えよ!」


孝太郎が顔全体の筋肉を使って驚く。


「・・・言われてみると、似てないな」


対照的に、二人を見比べ冷静に言う咲季。


「父方の祖父なんだ。私は母親似らしい。・・・何回か言おうと思ったんだが、タイミングがなくてね」


『みんな、リラさんのCPU準備完了したよ』


管制室の準備完了の旨を未来が知らせる。管制室ではオンブズマンと未来がネット参入処理を、現地では田辺と秋野が現地作業を行う段取りになっていた。


『では現地、エーテル投入を開始します』


秋野がポット内部に充填されていく液体を確認し、オペレータパネル上で作業を行う。


「咲季くん、ありがとうね」


「・・・田辺さん?」


『エーテル充填順調。完了まであと一分』


管制室と秋野がやり取りを行うその横で、田辺は感慨深げに彼らの動向を見守っている。


「そして、本当にすまないことをした。この一年、自分の行ったことを後悔しない日はなかった」


「・・・あなたのせいじゃない」


田辺は首を振った。


「できることはあったはずだ・・・」


田辺の声は自身に言い聞かせる戒めのようで、その間も視線は彼女の眠るCPUポットに注がれていた。多くの仮想集積CPUの参入離脱を見守り続けて来た彼にとっても、相当イレギュラーな出来事だったことは、傍から見ても理解できた。


「・・・それも、今日で終わる」


『エーテル充填完了。ハッチ自動閉確認。CPU参入処理を進めてください』


『了解。秋野さん、それに咲季も聞いているね? 本作業が終了次第、ミス・ガーランドの離脱も一緒に行う。その為CPUポットの移動はせず、仮番地によるCPU参入を行う。ネット参入まで三十秒』


オンブズマンの擬似音声を聞き、咲季たちもCPUポットから数m離れた場所で遠巻きに行く末を見守る。

 CPUポットは稼働を開始し、冷却ファンの音が鳴り響く。ポット背面から排熱が行われ、エーテルの温度がどんどん下がっていくのをオペレータパネル上で確認する秋野。取り込まれた酸素が気泡となってエーテル内を泳いでいく。


『五・四・三・二・一・・・ネットワーク参入』


「・・・」


『現地経過正常』


オペレータパネル上の経過時間は刻一刻と刻まれる。


『これよりイントラネット上のセキュリティゲートを開き、彼女の記憶移植を行う。それまで現地は経過観察を続行してくれ』


オンブズマンはそう言うと、イントラネット上のガーランドCPUへのセキュリティコードを入力していく。共同理事会のイントラネットは幾重にも連なったセキュリティゲートが貼られている。それを知っているのはこのイントラネットを使用するごくわずかな人員だけだった。オンブズマンはこのコードを解除する為に、遥か海を越えてここに呼ばれている。ただ勿論セキュリティを解除するだけなら日本にいながらでも可能だった。それでもわざわざ出向いたのは、やはり彼にも良心の呵責があったからだ。


『セキュリティゲート限定開通。記憶データ移植開始』


CPUポットの稼働音が一段と大きくなる。管制室ではセキュリティゲートの先、本物のリラが眠るCPUが開かれているのをパネル上で確認する。記憶データがネットの波に乗り、セキュリティゲートをいくつも通過していく様子が窺える。


「大丈夫そうだね」


オンブズマンが少しだけほっとしたような表情を浮かべる。いくつものログが量産され流れていく。


「・・・」


隣で同じくその状況を見つめる未来。しかし彼女の目に安堵の色はなく、見つめる先に警戒の光を放ち続ける。


『咲季、エイム、少しポットから離れてて。・・・ちょっと、やな予感がする』


『・・・わかった』


『咲季ってホントに未来の言うことならすんなり聞くよな』


『未来の嫌な予感は的中するから・・・』


孝太郎は大げさに手を広げてみせる。

 その直後、オペレータパネルにアラートが大量に表示される。管制室に響くアラーム。


『緊急遮断。緊急遮断』


擬似音声で流されるは無機質な抑揚のないCPUポットの異常信号。


「リラ!」


咲季は誰よりも早く走りだした。


「なんだ!?」


ポットの中で眠っているはずのリラがいきなり苦しみだす。一瞬遅れて無菌室にもアラームが鳴り響いていることに気付く。咲季はCPUポットに駆け寄り、備え付けの梯子からポットのハッチ部分へと昇る。


「これは・・・!? 何が起きてるんだ!」


秋野はポット脇のオペレータパネルを操作する。


「くそ! 操作が効かない! じいさん、何か対策はないか?!」


「ええと・・・」


うろたえる田辺。


「再起動するか・・・」


「ダメだ!」


咲季はポットの上部から声を張り上げる。


「今再起動しらリラへの酸素供給が断たれる! 孝太郎! なんでもいい、ハッチをぶっ壊せるもの持ってきてくれ!」


そう言うが早いか、自分もポットの作業台を蹴り倒し金属パイプ部分を引っ剥がす。手にしたパイプは三十センチメートル程の細いパイプ。ステンレス製のポットの蓋部分を壊すには心許ない代物だ。

孝太郎も咄嗟にあたりを見渡すも使えそうなものはない。そもそもステンレスの分厚い金属、人の手で壊すなんて簡単にできるとは到底思えない。


「無茶言うなよっ・・・!」


その間にも咲季はハッチ可動部の金具で固定された部分を力いっぱい叩きつけていく。金属同士の衝突音がアラーム音に紛れ甲高く共鳴する。わずかだが破片が飛ぶ。金属結合部の強度の低い部分は数回叩いた衝撃で壊れ、その役割を二度と果たせない形へ変貌していく。


「・・・正気かよ、あのバカ!」


ただポットの蓋全体にその結合部が何十と付いていることを考えると、壊すのに時間が掛かり過ぎる。

 ポット内のリラは相変わらず苦しんでいるが、低温の液体内の為、思うように動けないようだった。長時間このままにしておくわけにはいかない。


 咲季は諦めずに手を動かし続けている。孝太郎はその姿を中心に見据える。どんなに難しいことも、彼は諦めない。いつも自分のできる最大限を発揮して目の前の問題を解決してきた。彼の昔を知る孝太郎には、そのずっと変わらない姿勢に幾度となく助けられてきた。そして思う。


(毎度毎度助けられてばっかりなんて、かっこ悪いじゃねーか)


孝太郎は改めて辺りを注意深く見渡す。そして天井からぶら下げられたレール台付きクレーンを見つける。


「あれか!」


急いでオペレータパネル脇まで駆け寄り、秋野に言う。


「ちょっと貸してくれ!」


「ダメなんだ・・・、操作が効かない」


オペレータパネルは警報作動中の為か、操作入力が効かなかった。


「おいおい、俺を誰だと思ってるわけ、秋野ちゃん?」


孝太郎が手を翳し、操作を行う。パネル上の情報が次々消えていく。そして代わりに無意味な記号の羅列が上から下へ延々と繋がって表示されていく。孝太郎はその記号の画面のまま、何やら操作を行っていく。頭上のクレーンが動き始める。


「咲季! クレーン落としてやっからそこから降りろ! お前も潰れちまうぞ!」


咲季は孝太郎の声に気付き、にやっと笑って返す。


「リラに怪我させるなよ」


ポットから飛び降りる。

 クレーンはどこかぎこちない動きでポットの上方へ移動し、チェーンのロックが外される。重力を一身に受け、クレーンが落下する。衝突によりハッチの半分が破片となって周囲に舞い散る。


「もういっちょー!」


チェーンがクレーンを引き上げ、再度同じ高さからの落下を行う。完全に蓋としての機能を果たせない形状まで破壊されていたが、中の彼女には影響はなさそうだった。


 すかさず秋野は梯子を昇り液体の中へ潜り込む。クリーンルーム着のまま飛び込んだせいで何もしなくてもどんどん奥底へ沈んでいく。動作こそ緩慢にしかできないが、彼を突き動かす何かの力は物理的な摩擦力に引けを取らなかった。その力は秋野に何の躊躇いも、一切の迷いも与えず、彼は冷たく冷え切った彼女の体をフロアへ下した。


「秋野! 大丈夫か?」


全身ずぶ濡れで水分を吸って二倍以上に重くなった格好のまま、秋野は頷いた。さすがに呼吸が苦しく、マスクと防護キャップを取る。濡れた銀髪から滴る液体が、床に跡をつける。吐く息は肩を上下させたが、彼の顔には疲労よりも緊迫した不安の方が色濃く写っていた。


「それより・・・、彼女を・・・」


「リラ、無事か?」


脱力した彼女の体を受け止め、咲季は彼女に呼び掛ける。


「うぅ・・・」


意識はあるようだが、寒さで全身の筋肉が強張り喋れないらしい。


『未来、何があったんだ? 仮想現実のリラは大丈夫か?』


『リラさんは無事だよ。たぶんだけど、仮想現実に入ってるリラさん本人に記憶データがウィルスだと思われちゃったみたい。今はもうエラーも復旧したよ』


『・・・おい、咲季。このままだとリラの記憶、正規の方法で受け渡せねーんじゃねーの?』


『・・・つまり、記憶を移せないってことか?』


「・・・」


腕の中の彼女は不安げな光を咲季に向けている。彼女は何も悪くないのに、このまま彼女の記憶をもう二度と取り戻せないんて、許されていいのか。震える四肢は彼女を支える青年の腕を掴むことさえできない。


『・・・移す方法は、あるよ』


未来の声が響く。


『どうしたらいい? 私たちにもできることかな?』


『・・・誰かがリラさんの記憶を持って、仮想集積CPU経由で彼女の仮想現実に入るの。仮想現実の中の彼女本人にその記憶を渡すことができれば・・・』


『でも、それだと今やろうとした方法と同じじゃ・・・?』


『・・・いや、今やろうとしてる方法はリラ本人に気づかれないよう記憶を移植するものだ。これからやろうとしてるのはそんなに単純じゃない』


『でも厄介だぞ。記憶を持参して自分の意識ごとリラの仮想現実に入るってーことだ。無事に帰ってこれねえかもな』


『ちょ、ちょっと待ってくれ。何が何だか分からない。わかるように言ってくれ』


秋野は混乱し状況を整理するも、彼らの行おうとしていることが彼の理解の範囲を超えている。


『だー! 簡単に言うと、今俺たちはリラの記憶をリラん家にねじ込もうとしてるだろ? けどリラん家は強力セキュリティがあって記憶を入れ込む隙がない。だから自分の意識ごと、リラ本人が心を許せる人間に変装して本人にドアを開けてもらって置いてこようとしてるんだよ。もちろんその変装が見破られたり何なりして攻撃を受けたら、意識が破壊されて現実に戻ってこれないかもしれない』


『しかも今のリラさんは過去の記憶を奪われてる。その状態で、彼女が心を許せる人間なんているのかな・・・。誰に変装したとこで、大半は攻撃を受けると思う。それに耐えられるかどうかは、侵入した人の精神力にかかってる。・・・何にせよ、自分のCPUと自己認証ID自体を偽装して意識毎彼女の中に入り込まなきゃいけないから、簡単なことじゃないね』


『なんとなくは、わかった。けど、そんなこと、できるのか・・・?』


秋野は眉間に皺を寄せる。まるで出口の見えないトンネルを潜ろうとしているような気になる。


『五分五分って~とこか。できなくはないけど、リラ本人のセキュリティの強度にもよるだろうしな・・・。少なくとも咲季か俺ならできる』


『そうだな。ただリラ本人には、仮想現実に入りながら他CPUをハッキングしてサイバー攻撃を起こすほどの実力がある。セキュリティも一筋縄じゃいかないかもな』


『仮想現実に入る直前までなら、わたしがサポートするよ』


『・・・どうする?』


『・・・俺が行く』


『言うと思った』


孝太郎はにやっと笑って、咲季の背中を叩いた。


「孝太郎には仮想現実に入ってる間の通信上のサポートをしてほしい。自己認証IDの偽装にかめきちが必要だから・・・」


「はいはい、お前のCPUを普段守ってるセキュリティも開放するから無防備状態のお前を守れってことだろ? わーかってるよ」


「かめきちの出番?♪」


かめきちが咲季の服の中から、もぞもぞと顔を出す。


「かめきち~、咲季をよろしく頼むぜ。現実の咲季は俺様が百二十パーセントの力で守っておくからよ!」


孝太郎は笑ってかめきちの頭を撫でた。


「孝太郎、ありがとう」


咲季は上着を脱ぎ、かめきちをTシャツの中に入れ肌に密着させる。


『未来、あとは任せた』


『うん。・・・必ず、戻ってきてね』


『ああ』


「・・・咲季」


「何辛気臭い顔してんだよ」


咲季は秋野の不安げな顔を見て、思わず噴き出した。傍から見てもわかるくらい表情に出ていたと知り、秋野はハッとした。


「だ、誰が辛気臭いんだよ!」


対照的に青年の表情は思いがけず晴れやかだった。


「あんたが見たがってた自己認証IDの偽装、見せてやるよ」


捨て台詞を吐く余裕さえ彼にはあった。それが彼の絶対の自信の表れなのか、それとも強がりなのか、秋野には判断がつかなかった。

 秋野は震えるリラの手を取り彼女の顔を覗き込む。


「・・・っ」


相変わらず言葉は発せないようだったが、彼女の瞳は驚くほどしっかりと秋野を捉えていた。リラが秋野の手を握り返す。それは弱弱しい力だった。筋肉の収縮による単なる痙攣と言われればそうかもしれない。けれど、秋野はそこに確かに彼女の声を聞いたような気がした。


「リラ、必ずもう一度会おう」


リラが頷く。


「・・・リラを、頼む」


咲季もそれを見つめふっと笑った。青年のTシャツの中でかめきちが淡く光りだす。当のかめきちは上機嫌にはな唄を歌い、咲季はそれを聞きながら静かに目を閉じる。腕の中のリラを抱え、仮想集積CPUの道を開いていく。徐々に脱力していく二人。孝太郎がその二人を抱きとめる。咲季は完全に意識を失う直前、彼の身を案じる仲間たちの声を聞いた気がした。




2089年2月28日 15時2分


 真っ白な光が眩しく、咲季は手を翳した。仮想現実への侵入に失敗したのか、成功したのかもわからない。


「リラ!」


大声で呼んでみるも、霧散していく彼の声は、一体どこへ行くのだろう。デジタルの波の中で、多くのデジタルデブリと一緒になり、誰に届くこともなく永遠をさまようのだろうか。


「リラ! 聞こえるか!」


もう一度呼び掛ける。白い平坦な空間には彼の声の響く余地もないようだ。


(これがリラの仮想現実? いや・・・)


もしかすると、彼のいる場所こそネット世界のゴミ箱の底で、咲季自身がデブリと化してしまっているとも限らない。自分のいる場所はどの次元にあっても、一つ高い次元世界からしか正確に把握することはできない。今の彼を正確に認識してくれる人間は果たしているのか。


(リラのCPUまでは未来が繋いでくれたんだ。必ずここにリラがいる)


眩しすぎて何も見えない。それでも彼は仲間の導きを信じる。自分の仲間の持つ力を信頼している。冷たく、温もりを持たない世界で、咲季は未来の温もりを感じた。

咲季は一歩踏み出した。一歩、一歩、見えない恐怖はその一歩にかなわない。小さな一歩だが、大きな恐怖に打ち勝つ唯一無二の方法だ。咲季は見えない世界を進んだ。


仲間が待っている。リラが待っている。ただそれだけを胸に彼は恐怖を進んだ。次第にその一歩は積み重なり、気がつくと咲季は走っていた。涙なんて出るはずないのに、汗なんて出るはずないのに、全てが仮想の世界で、誰かが泣いていて自分はその相手の為に汗を流している。


「リラ!」


声は相変わらず返ってこない。それでもきっと、彼女には届くと、何の根拠もない思いで、その悪あがきを諦めたくなかった。咲季は力を振り絞る。

仮想の自分の限界は自分の想像力で決まる。想像できる自分の限界を今この瞬間にとび越えていく。


「リラ! 返事しろ!」


光が収束していく。薄く紡がれた糸を解くかのように、空間の隙間が見えてくる。光の糸が大きくなり、彼を取り囲む世界を覆していく。隠されていた世界が開かれていく。咲季の行動に比例して世界は彼を受け入れていく。雑音が耳に混じり、どこかから風の音が聞こえる。


 走りついた先は小さなベッドだった。横たわる彼女は眠っていた。


 病院かどこかの一室、窓からは白い雪景色が見える。咲季は息を切らし、ゆっくりと彼女の許へと近づきベッドの縁に腰を下ろす。彼女の黒髪ショートヘアを撫でる。柔らかく癖のある髪が、咲季の手の中で確かな感触を持つ。


「リラ・・・、やっと会えたな」


咲季は自分の思い出の中に、リラを見つける。ベッドで静かに目を閉じる彼女には、何年も前にコンクール会場で出会った少女の面影があった。


 そっと手を離す。彼女が目を覚ます。雪に閉ざされた世界で、時間の止まった世界で、時計の針が動き出す音が聞こえる。


「・・・咲季、やっと、会えた」


眩しそうに瞬きをする。か細いその声からは、どれだけ彼女がこの瞬間を待ちわびていたのかを感じられた。


 起き上がろうとするが、体が思うように動かない彼女に、咲季は無理をするなと彼女の手を取った。そしてそっと抱き締める。


 彼の背に躊躇いがちに彼女は手を回す。心臓の音が聞こえる。自分のものではない、自分以外の生きた人間の心地を感じる。彼女の頬を涙が伝う。声にならない彼女の泣き声で、色のない世界が彩りを取り戻していく。人の温もりに触れたのはいつが最後だっただろう。彼女の孤独に、咲季は彼女の気が済むまで付き合ってやる。薄氷にひびが入りやがて雪解けとともに小川のせせらぎとなって野を巡るように、彼女の凍った世界にもこれで春の季節がやってくる。


 咲季は目を閉じ、もう一人のリラから受け取った彼女の記憶をリラに伝える。


「外の世界で、お前を待ってる連中がいるんだ。早く戻って来い」


リラは何も言わなかった。その代りに、何度も何度も彼の腕の中で頷いた。悲しみと寂しさが浄化されていく。


 これが最後ではない。自分の世界はこれからも続いていく。どこで生きようとも、その世界で自分の人生は続いていく。そして彼女は心から思う。もう一度、咲季に会いたいと。もう一度、彼女を待つ人に会いたいと。外の世界で多くの温もりに触れたいと。


 色づく世界で二人はもう一度現実で会うことを固く約束する。


「必ず戻る。待っててねって彼にも伝えて」


読んでいただきありがとうございました(*´ω`)

次がエピローグになります。

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