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ヒステリック・ナーバス  作者: ななめー
6/8

その6

もうそろそろ終わります(*´ω`*)


 2089年2月19日 14時30分  LQPA構内 並木道


「・・・」


「・・・」


(気まずい・・・)


よく晴れた乾燥した空気が肌に痛い。隣を歩く長身の男性をちらりと見上げる。銀髪の紳士は少し難しそうな面持ちで、何かを考えているように見えた。


(そもそも、なんで秋野さんが私のお使いに付き合っているのか・・・)


「こういうことは良くあるんですか?」


「え?」


秋野の問いに不意を突かれ、リラは考える。秋野の言う“こういうこと”とは何を指すのか。いや、逡巡して思い直す。


(普通に考えて、お使いのことだよね?)


「そうですね。うちの研究室、私が一番日が浅いから教授も私に頼みやすいのかもしれませんね」


「そうですか・・・」


腑に落ちないのは、ぽつりぽつりと会話するも内容にさらさら興味がなさそうなこの生返事だ。先刻から秋野はリラが何を言おうと、ほぼ似たような返ししかしてこない。

煮え切らない態度に痺れを切らし、リラは聞き返す。


「あの、秋野さんは今日はなんでここに?」


「え、あぁ、ええと・・・その、咲季から頼まれごとがあって・・・」


「・・・じゃあなおさらもう行った方がいいのでは?」


「いや、頼まれたのは、君のことなんだ・・・」


秋野は眉間に皺を寄せ、言葉を選んでいるようだった。その端正な顔には、例え歪んでも計算されたかのような均整さがあった。


彼の瞳が揺れ、秋野は足を止める。足が重い。風は強く、リラの長い髪がなびく。不思議と寒さは感じなかったが、胸の奥がひんやり冷たくなるような、そんな嫌な感じがした。

リラは少し重くなった足を止めないよう前を向き直り並木道を歩く。人通りの多い時間は過ぎたが、ちらほらと人々が行き交う。


(なんだろう・・・。聞きたくない)


気まずさとかではなく、単純に彼女の頭がそれ以上の会話をシャットアウトしたがっている。


「なんて言ったらいいか、その・・・」


「秋野さん、ごめんなさい。私ちょっと用事を思い出しちゃったので、お話はまた今度聞きますね」


リラは乱れる髪を耳に掛け直し、にこりと笑って踵を返した。


「え、あ、あの、ちょっと待って・・・」


その笑顔は作られた壁。ある程度社交辞令を受け答えしてきた人間にとっては、むやみに超えることはできない見えない鉄壁だ。大人になればなるほど、その壁を打ち破ってずかずかと踏み込むことは躊躇われる。彼女自身それをよく理解した上で、秋野にそれをしていると、彼にもわかった。


 リラは小走りで、今来た道を戻る。秋野は逡巡し、周囲を気にする様子を見せた。そしてすぐに思い直して彼女の後を追う。内心嫌な予感を拭いきれない彼女は、ちらっと後ろを確認し、鼓動が速くなる感覚を覚えた。


(なんなの・・・?)


秋野がこちらに向かってくる。リラは速度を上げた。


「リラ!」


幸い職場付近のこのあたりの道は彼女の方が詳しい。リラは実験棟と研究所の間の小道に入り、その先の古いアーチ橋下の地下通路へ足を向けた。地下通路と言っても脇の小川に沿って通っている簡素な通路の為、反対岸からは丸見えだ。ただ、橋自体今は通る人間は少なく、リラが階段を降り切ったその時も通行人は見えなかった。


 動悸を押さえ、はぁはぁと肩で呼吸を整えるリラ。やり過ごそうとちょうど橋の真下で体を隠す。ドキドキとうるさいのは鼓動だけではない。彼が呼び捨てで呼んだことにも驚いたが、こうやって追いかけてくるとは思ってもみなかった。胸の奥で警鐘が鳴っている。後ろで彼の足音が聞こえるが、どうやら彼女を見失い、橋を渡ろうとしている。


 リラは静かに息を殺し、再び階段を上ろうと段差に足を掛けた。と、その時、


「っ!」


後ろから駆け寄ってきた人影に口元を押さえられる。


 必死に抵抗するが、奇襲に完全に気が動転してしまった女性の力など、たかが知れていた。


「んー!」


声もくぐもった通路で霧散していく。リラは悪あがきに身をよじって自身の口をふさぐ人物の顔をのぞく。


「うーっ!」


見知らぬその顔は、リラの顔をはっきりと見返し、腕に込める力を強めた。


(誰!? なんで!?)


短髪の体格のいいその男性は、明らかに彼女を狙ってきていることは、彼女にもわかった。日陰の中でその特徴的な茶褐色の肌が目に焼きつく。


 リラは必死にもがき、足をばたつかせる。偶然に短髪の男性の足にそれがあたり、男性が態勢を崩す。


「こらっ、あばれるな!」


一瞬彼女の口を押さえる手が離れる。


 リラは精一杯の声で叫ぶ。


「助けてっ!」


強張った身体から発せられたその声は、決して大声とは呼べなかったが、秋野の耳に届くには十分だった。


「リラ!」


秋野が振り返り、リラの姿を見つける。すかさず彼は橋の上から走り、三メートルほどの高さをものともせず、地下通路へジャンプした。その流れでリラを取り押さえる男の腹部に蹴りを入れる。


 体躯で比較しても秋野より一回り大きいその男が、衝撃で後ろへのけぞる。その隙に秋野はリラの身体を抱きとめ、全速力で走りだした。


「な、何が起きてるの?!」


「説明は後でする。だから、俺を信じて走ってくれ!」


懸命に手を引き走るその姿に、自然とリラは頷いた。


『秋野さん、次の角にもう二人追手がいる。右手に逃げて撒いてくれ』


『了解!』


疑似通信が二人を誘導する。


「今のは・・・孝太郎?」


リラはネット上の通信IDを確認し驚く。


『リラのCPUへのサイバー攻撃は俺様が完璧に防いで守っとくから、あんたは物理的にリラを守ってくれよ』


『ああ、わかってる』


秋野はうろたえるリラの手を強く握る。


「大丈夫。絶対に君を守ってみせる」


「秋野さん・・・、わかった」


リラも握る手に力を込め、孝太郎が通信で寄越した逃走経路を秋野に促した。


「こっちよ」


角を曲がる瞬間、先刻の忠告通り左手から二つの影がこちらに迫ってきた。


 二人は速度を上げる。だが、追っ手の方が幾分速く、その距離が徐々に縮められていく。


「!」


前から歩いてくるフードを被った人影に危うくぶつかりそうになり、リラがよろける。


「ご、ごめんなさいっ!」


「秋野、実験棟の屋上に上れ。そこなら人目につきにくい」


「咲季!」


フードを取ったその顔は、二人の良く見知った人物、咲季だった。


「それから、二人ともインターネット回線を切れ。代わりにこっちのイントラネットに入ってくれ」


「わかった」


二人は再度走り出し、実験棟へ向かった。


 咲季の構築した疑似空間が二人の目の前に広がっていく。それは現実のLQPA構内とそっくりそのままの空間だった。実験棟・研究所の配置、彼らの走る並木道の位置まで、何から何まで同じ。唯一違うのは、そこを行き交う人間は彼ら二人だけということだった。物理世界と疑似空間がリンクする。


『どういうこと?』


『ここは俺に任せて、あんたらは早く逃げろ』


咲季の声が聞こえる。


 振り返ると追ってきた短髪の男に加えて、二人の追っ手も咲季の作った疑似空間へ強制ログインされている。彼らの目の前には咲季が対峙し、秋野たちはそれを尻目に彼の指示に従った。何が起こっているかはわからない。しかし、確実に自分を取り巻く状況が大きく変わろうとしている。いや、変えられようとしている。それを秋野や咲季が救ってくれようとしている。


『・・・自分たちから俺たちを誘い込むなんて、どういうつもりだ?』


短髪の男性が咲季に尋ねる。そこには、予想外の事態にも動じない強い敵意を感じる。後ろに控える二人からも同様の色が伺えるが、その様子には所々に隙が見えた。相手はその道のプロかもしれないが、勝機の機会は大いにあると、咲季は前を見据えた。


『簡単さ。あんたらにリラは渡さない。あんたらの雇い主にもこの報いは受けてもらう』


咲季は三人を取り囲む疑似空間を歪ませる。


『!』


整然と並ぶイチョウの木がひとりでにへし折れ、宙に浮く。


『はっ、疑似空間で何をしたところで、こっちは痛くもかゆくもないぜ!』


『それはどうかな?』


咲季が言うのに合わせて、イチョウの木々が後ろの二人目掛けて飛んでいく。二人は咄嗟によけるが、木々は二人の影を追跡するようにスピードを上げた。そして直撃する。


『うわぁぁああ!』


『!!』


疑似空間内で痛みにのたうちまわる二人。さらに現実でも二人の出血がうずくまる体の下に赤い跡を残している。行き交う人々のざわめきが聞こえる。当の本人の二人も短髪の男も信じられないようにその光景を見つめている。


『何をした!』


滴り落ちる液体が石畳の上に血痕となっていく様子を観察し、次第に冷静さを取り戻していく。血の量そのものは多くないが、よく見ると血は彼らの耳から流れている。


『どうして・・・?』


二人は木々が直撃した胸を押さえて未だに痛みに表情を歪ませている。


『この疑似空間はお前らの意識、つまりCPUそのものを引きずり込んでいる。簡単にいえば、この疑似空間はお前らのCPUと物理的に繋がっている。ここで自分の意識に強い衝撃を受ければ、CPUに傷がついたり外的影響を受ける』


『・・・お前、何者だ』


対峙する男性の目の色が変わる。咲季は肩をすくめ、にやりと笑う。


『ただのエンジニアだ』


褐色の男性が咲季目掛けて走り寄る。


 瞬時に間合いを詰められ、咲季は後ろへ飛びのいた。間合い一メートル弱の距離で、男がさらに利き手を咲季の顔へ延ばす。その手にはきらりと光る刃物が見えた。


『素人は引っ込んでろ!』


『!』


間一髪咲季が顔を背け、ナイフが青年の頬をなぞっていく。血が滴る。男はそのままの勢いで、咲季をかわし実験棟へと足を向けた。


『そうはさせるか!』


咲季も態勢を立て直し、男の後を追う。


 手を翳し空間を構築するレイヤーを引っ剥がすと、それを男性に目掛けて放つ。レイヤーが光を帯び、まるで植物の蔓のように伸びていく。走りながら交わす咲季。


『その素人に背中を向けてるのはどこの誰だか?』


挑発的な笑みで返す。


 もちろんこの世界で怪我を負ったらタダですまないのは咲季も同じだ。諸刃の刃で戦っているはずなのに、なぜか絶対的な自信を感じる。


『くっ・・・!』


男は不気味に思いながら、それでも行く手を阻む青年に標的を定めた。走りながら咲季の様子を伺う。


 咲季は先行する男を追いながら、さらに木々を倒し放っていく。その一本一本を器用に避けていくその様は、確かに慣れた動きだった。まともに戦っては咲季の分が悪いことは一目瞭然だ。くるっと宙返りをして咲季の後ろに回り込む。追跡する木々が男を追いかけ、咲季の方へ方向転換する。


『ぐっ!』


咲季は自分の周りのレイヤーを解き、盾を形成する。咄嗟に作り出したその青白い盾は、完全には木々の衝突を受け止めきれず、木々の破片・枝が咲季の身体に無数の傷をつけていく。衝突によって木々はデジタルの粒子に分解され消滅していく。


『策士策に溺れるってな』


男はにやっと笑い、すかさず咲季の背中に拳を打ちつける。


『うっ・・・!』


咲季が衝撃で石畳に体を打ちつける。物理世界の咲季も膝をつき、痛みに顔が引きつるのを感じる。脂汗が額を伝う。


『咲季っ!!』


振り向くと未来が男の後頭部に石を打ちつけている。


『なにっ!?』


いつの間に現れたのか、全くその気配もなかったせいか、男は不意打ちに顔を歪める。だがすぐに態勢を整え、後ろの人物に目をやる。力の弱い彼女の攻撃は大したダメージにはなっていないが、二人を相手に戦うには骨が折れる。


 未来は咲季に駆け寄り、体を支える。


『咲季! だいじょうぶ!?』


『ああ、ありがとう』


(この疑似空間を自在に操る能力、さすがに厄介だ・・・)


次の瞬間、男はまた走り出した。向かう方向は実験棟。


『待てっ! 孝太郎、あの二人のこと頼む』


『オッケー。咲季、追っ手はもう一人いるぞ。気をつけろよ!』


孝太郎との擬似音声通信を終えると、咲季と未来も実験棟へ足を向けた。


 一方秋野もリラも随分と走り、物理世界でも疑似空間でも実験棟の外階段を上っている最中だった。咲季の言ったとおり外階段は非常用経路の為、そこを通行している人間はいなかった。


『リラ、大丈夫か?』


走りっぱなしで息切れしている彼女を気遣う秋野。


「・・・ええ。大丈夫」


「もうちょっとだから」


彼女を励まし、秋野は階段を上った。


「!」


そして次の階に見える人影に息をのんだ。


『おとなしくそいつを渡してくれれば、手荒なことはしないぜ』


先刻の男とは対照的に線の細い青年が、目の前に対峙する。秋野は無意識にリラの前に手を翳し、彼女を庇うように青年を見返した。


『できない相談だな』


『じゃあ遠慮はしないぜ!』


男は頭上から秋野に刃物を向けて飛びかかった。秋野は少ない挙動で、最短の防御を行う。左腕で刃先を数cmそらし、リラに被害が及ばないよう階段の手すりに男の右腕を打ちつける。


『!』


衝撃で男が手を開いた瞬間に、手すりの隙間から刃物がするりと落ちる。カツンと金属音を響かせながら、階下へ落ちていく様子を伺いながら、秋野は男の右腕をひねり上げる。


『うわァ!』


自然に相手の懐に入り込む姿勢を取り、段差を利用して相手を背負い投げる。階段にもろに体を打ちつけ、男が痛みに悶える。


『今のうちに屋上へ!』


『うん!』


リラを先へと促す。


『そうは、させるかぁ!』


『!』


男が倒れこんだまま、足で秋野を蹴りあげる。その反動で立ち上がる。秋野も痛みを物ともせず男に拳を打ち込む。


『てメェ! 調子乗んな!』


男も負けじとやり返すが、秋野は顔色一つ変えず、それをいとも簡単に受け止める。


『!』


そして男の胸倉を掴み、階段の手すりから外側へ押さえつける。


『疑似空間で、ここから落ちたらどうなるんでしょうね?』


秋野はにこりと笑って言う。


『くそっ!』


『死にはしないでしょうけど、物理世界でも落ちてしまったらさすがに死んでしまうかもしれませんね』


『このやろっ!』


男は体をよじるが、秋野の手から逃れられない。

 とその時、階段を駆け上がる音が響く。


『!』


後ろから振り下ろされるナイフの殺気に秋野は瞬時に飛び退く。


『あんたの方が戦闘慣れしてそうだな』


褐色の男が秋野にナイフを向ける。


『これが私の仕事なんでね』


秋野は真顔に直り言った。


 狭い階段では近接武器を避けるのは難しい。一瞬の判断で形勢は簡単に逆転してしまう。秋野は男の様子を伺い、その意識を彼の持つナイフに集中した。


『ま、俺には関係ないけどな!』


『!』


男は秋野のその様子を逆手にとり、正面から秋野にナイフを振り下ろした。秋野はそれを受け流し、男の手を掴みあげる。


『?』


いとも簡単に腕を掴めたことに違和感を覚え、秋野は訝しげに男を見遣る。

 男は想定外に笑っていた。


『俺らの目的は最初から一つなんでね』


『しまった!』


秋野が気付くも一足遅かった。細身の男が秋野を飛び越え、屋上へ上っていく。すぐに秋野も後を追うが、スピードが違い過ぎる。男はみるみる階段を飛び越えて、屋上のリラの許へ駆け寄る。


『!』


リラは体力の限界まで走った後ということに加え、恐怖により身体が硬直していくのを感じる。


『な、なんなの・・・!』


『大人しく死んでくれ!』


男はリラ目掛けて刃物を振り下ろした。


『・・・っ!』


(助けて!)


リラは思わず目をつぶる。

 しかし痛みは感じない。ナイフが振り下ろされた感触が一向にやってこない。


『・・・?』


ゆっくりと目を開ける。


『・・・あ』


声が声にならない。目の前、ほんの数mmのところをナイフの刃先が自分に向けられ止まっている。見れば秋野が素手でナイフの刀身を握り、振り下ろされるのを必死に抑えている。


「・・・秋野さん」


刃先に触れたリラの長髪の一部がいびつな長さで切られ風に飛んでいく。


(・・・!)


「・・・くっ」


秋野の表情が苦痛に歪む。それに比例してナイフを掴む手に力を込める。


『彼女の髪の代償は重いぞ!』


『・・・な、くっそっ!』


男も手に力を込めるが、秋野に抑えられた刃先はびくともしない。コンクリートの屋上に血が滴る。

 後ろから褐色の男もやってくる。褐色の男は動くに動けない秋野を脇目に、リラの許へ一直線に進んでくる。手にはきらりとナイフが光る。


『これで終わりだ!』


『!』


『だめー!』


未来の声が男の背後から聞こえる。


『なに!』


未来は男の首に掴みかかり懸命に抑える。驚きにたじろぐが、やはり力に圧倒的な差があり、抑止力には全くならない。


『お前っ、どっから湧いて出てくるんだよっ!』


男は片手で未来の細い腕を掴み、粗雑に振り投げる。


「きゃあ!」


未来はいとも簡単に体を打ちつける。


『・・・ったく、気味が悪いぜ』


そしてリラに向き直る。さすがにもう追っ手の二人も笑う余裕もないようで、真剣な眼差しが彼女に刺さる。それは紛うことなき殺気。生まれてはじめて殺されるかもしれないという恐怖を感じる。


「・・・!」


とその時、バツンっと大きな電磁音のような音が響き渡った。落雷のような電撃が男を包む。

 次の瞬間、秋野の目の前の男が気を失って倒れこむ。疑似空間から姿が消え、物理世界でも力なく倒れこんだまま一切動かない。


『!』


そしてもう一度同じ音が響き渡ったかと思うと、褐色の男も同じようにして倒れこんだ。彼も自分の身に何が起きたか、全く把握する間もなく、意識を失った。疑似空間から姿が消え、物理世界でかろうじて体を動かそうとしたが、一切力が入らない。瞼さえ動かせず、何もできないまま暗闇の世界へ落ちて行った。


『咲季! やりすぎだ!』


孝太郎の声がしたかと思ったら、先刻まで姿の見えなかった咲季が未来の身体を抱きとめてそこにじっとしている。


「咲季・・・?」


『今のは・・・?』


咲季は答えない。だが髪の隙間から窺える瞳の色は怒りに燃えている。


『未来、だいじょうぶか・・・?』


(咲季が、やったのか)


秋野は現実に倒れこんだ二人に歩み寄り、脈を確認する。幸い脈はあるが、極めて衰弱している。血も流さずに瀕死の縁に立つその二人を見て、孝太郎に呼び掛ける。


『乃木坂君、救急車を頼む』


『もう手配してるよ。秋野さん、みんなを頼むよ。この状態で誰かに見つかったら正当防衛じゃすまないからさ』


『ああ、わかった』


秋野はリラを支えて立たせてやる。


 咲季のあの様子を遠巻きに見て、改めて咲季の底知れない何かを感じ取る。


「咲季、わたしはだいじょうぶだよ」


咲季は未来の言葉を聞いても彼女を抱きしめる腕の力を緩めはしなかった。さらに力を込める。

未来は咲季の背中を撫でてやる。傍から見るとどちらが慰めているのかわからない。


 その様子を見て、秋野もリラも彼になんて声をかけて良いのか躊躇った。彼のそんな姿は見たことがなかった。


『もー! 咲季! あんたは未来のことになると手加減ってもんを知らな過ぎなんだよ!』


不意に疑似空間にエイムがログインする。


『・・・エイム』


エイムは咲季の頭をバンバンと叩き、ずけずけと言う。


『・・・悪い』


『ちょっとはあたしたちのことも考えて動いてくんない?!』


怒って頬を膨らませるその姿が、その場の空気を和らげる。咲季の表情からも怒りが消える。


『かめきちも! 咲季が暴走しそうになったらちゃんと止めてやってくれよ!』


『ごめん・・・』


咲季の胸ポケットの中から声だけが聞こえる。


『あと未来! お前も咲季と一緒になってはしゃぎ過ぎだから!』


『・・・ごめん』


エイムに怒られすっかりしおらしくなったヒステリック・ナーバスの面々は、秋野の知るいつもの彼らの姿だった。


『乃木坂君、ありがとう』


秋野は心の底からお礼を口にした。


『今はエイムって呼んでよね! 雰囲気ぶち壊しじゃん! ・・・でも、秋野さんがいてくれて助かったよ。あんたがいなきゃリラを守り切れなかったと思う』


エイムは少しはにかんで見せた。そして疑似空間からログアウトする。


「秋野、すまなかったな」


咲季はかすり傷のたくさんついた頬を掻きながら気まずそうに言った。


「いや、いいんだ。私の方こそ助かったよ」


「あいつらの素性はわかった。完全にプロだったな」


「雇い主も掴めたのか?」


「・・・ああ」


ゆっくりと口を動かす仕草に、言いにくそうな印象を受ける。


「・・・リラ、説明もなしにこんなことに巻きこんで、すまない」


リラが口を開く。


「ううん。私も大事なこと、思い出したから」


「リラ?」


「秋野さんのおかげで、思い出したの」


「・・・」


リラは秋野の血まみれの右手を手に取り、俯いた。

 簡単に内容を伝えられないのは、互いのこの先が大きく変わってしまうことへの恐怖からだ。秋野も黙って俯く彼女の気持ちを汲み、自分も関係が変わることを恐れ別のことを口にする。


「君の綺麗な髪が、台無しになってしまった」


「そんなの、いいの」


お互いにお互いの身を案じるその姿には、いつにない真剣さがあった。


 秋野はすっかりいつもの調子に戻っている青年に向き直り、倒れこんだ二人を見据えて言った。


「これからどうする?」


「・・・決着、つけに行こう」


咲季は疑似空間を解きながら、ことの決着をつける決意を固めた。




 2089年2月19日 13時48分 南極 国際条理締結機構 仮想集積CPU研究所 南極支部


『ハッチ開きます。エーテル排出開始。現地、状況確認お願いします』


一年間稼働を続け、熱を持ったCPUポットがポット内の冷気を受け急激に冷やされていく。


『現地、異常なし。エーテル排出完了まで、あと一分』


田辺は無菌室の中でいつもの仮想集積CPU離脱処理を進めていく。


 仮想集積CPU離脱は参入よりも単純だった。単に本人の目が醒めさえすれば離脱できる。しかし人間は体の構造上活動に適した環境になければ、目を覚ませない不便な生き物である。CPUポット内は常に-100℃に保たれ、中の人間は疑似冬眠状態である。その為そのままでは自発的に目を覚ますことができない。CPUポットから出て一日二日はベッドの中で眠り続ける。処理は簡単だが、本人の目覚めを待つ方が田辺にとっては精神的な負担を感じる作業だった。


エーテル排出を待つ間、何気なく窓の方へ眼を向けた。窓からは渡り廊下が見え、その中にふと見知った人物の姿を見つける。老齢のその人物はひらひらと気楽に手を振っていた。一年前、田辺が再参入処理を行い、つい先日離脱を終えたばかりの佐伯だった。


 田辺も彼のその無邪気な姿につい手を振り返す。そして手で合図をする。佐伯は通路奥を指差し、歩いて行った。田辺にはそれが休憩室で待ってるという彼の合図だとすぐわかった。ここ数年、年に一回こんな風にして彼と話をしている為、それは暗黙の合図だった。


 歳も近く、異国の地で同じ日本人ということもあり、田辺は佐伯に仕事以上の関わりを感じていた。


「やぁやぁ、久しぶりだね、田辺さん」


「そうですね。外の世界は、どうです?」


佐伯は休憩室のソファに腰掛け、コーヒーを啜っていた。


「やっぱり、外の世界に出ると、重力を体感しますな。はっはっ、急激に年をとったような感じがして、体が重いのなんの」


ははっと佐伯は身体の節々の痛みを訴えたが、その姿はどこか少し嬉しそうだった。


 マスクを取り、クリーンルーム着から私服へ着替えた田辺も佐伯に言う。


「私もクリーンルーム着を脱ぐと、生きた心地を取り戻しますよ」


二人は古くからの友人のように笑った。そして時間を忘れて互いの近況を語り合った。田辺の専らの関心ごとは仮想現実がどんな所なのかに尽きた。外から毎日CPUポットを覗いている身としては、仮想の現実がどんな世界なのか想像がつかなかった。


「佐伯さんは、仮想現実で何をしてるんです?」


「今年一年はとにかくいろんな国に旅行に行ったねぇ。・・・昔、妻とよく旅行したんだけどね、その場所に、もう一度行ってみたくてね」


懐かしそうな眼差しに曇りはなかった。朗らかなその表情に、田辺は訊く。


「その場所へは奥さんと一緒に訪れるんですか?」


「いや、仮想現実には妻はいないよ。全部一人で回るんだ」


「・・・どうして? 一緒に行きたかったんでしょう?」


「仮想現実でわしが生み出す妻は、わしの想像の範囲の中でしか動かない。ただの思い出なんだよ。・・・本物の妻を超えることは絶対ない。そんなの、むなしいだろ? だから一人で回って、思いっきり楽しんでやろうと思ってな」


「・・・」


「それから・・・、思い出の中の妻じゃなくて、本物の、もう先に天国に行ってる妻に、その土産話を持ってってやるんだ。一人でも、こんなに楽しんで来たぞって」


人にはいろんな生き方がある。AIが普通の人間と同じように生活する横で、人間は多種多様な生き方を選択できるようになった。それこそ、生きる世界さえ、選べる世の中。それでも根本的なことは、何も変わっていないのかもしれない。


 大事な人がいて、自分を大事に思ってくれる人がいて、時には誰かと衝突し、時には誰かを心配し、人は自分以外の誰かの存在によって生かされている。


「・・・」


「どうしたの、田辺さん。今日はあんまり元気がないねぇ」


(・・・私は、今彼のように胸を張って生きているか?)


「心配症のあんたのことだ。また何か悩んでんのかい?」


佐伯はまたはっはっと笑った。


(・・・これで良いのか)


この一年間、その問いに答えが出ることはなかった。自分の胸の内で何かがふつふつと泡立つのを感じることはあっても、そこに何かを見出す勇気は、過去の田辺にはなかった。


「・・・佐伯さん、もしね、自分の納得できないことを自分の手でしてしまったとしたら、あなたならどうします?」


「またいつになく真面目なことを聞くなあ・・・」


佐伯は顎に手をやり、考えるようなポーズをとる。しかしその顔に迷いなんてものはなく、考えにブレはないようだ。


「そうだなぁ。わしなら、妻に対してそれを胸を張って報告できるかどうかをまず考える」


「・・・それから?」


「胸を張って報告できるなら何もしない」


「・・・」


いつの世にいても、誰かが自分を支えてくれていると悟っている人間にとっては、すべての判断基準は自分の中だけでは完結しない。田辺は手元のティーカップに目を落とす。


「報告できない場合は?」


「そん時は、かっこ悪くあがいて、何とか胸を張れるようにするかな」


「かっこ悪くあがく・・・」


末端の自分があがいたところで、大きな歯車の回転方向を変えることはできないと、頭の中で思っていた。それは聞き分けが良いとか、現実的だとかではなくて、単純に心が諦めていただけかもしれない。小さな力で何ができる、その思い込みは、生きた経験の多い田辺だからこそ肥大化していたのかもしれない。目の前の可能性を直視さえすれば、何かの糸口は案外見つかるものかもしれない。


「田辺さん、結果はどうあれ何かやってみたら? 失敗したっていいじゃない。何も変わらなくてもいいじゃない。自分が今のままじゃダメだって感じてるなら、それを覆そうとして何が悪いの」


目の前の老人の瞳はまるで衰えてなどいなかった。


「わしはね、仮想現実に入って、つくづく考えるようになった。小さな自分が何かをしたところで、他人に影響を与えられることは少ない。ほら、現実世界じゃわしのこのおんぼろの身体で世界に貢献できることは少ないけど、CPUの提供でだったらちょっとは役に立ってるかな、とかね。一人じゃ何もできなくても、世界中の誰か一人くらいの役には立てるかもしれない」


はにかんだその笑顔は真に生きた人間のそれだった。


「・・・そうだね。私はいつも諦めすぎてきた。諦めすぎて、聞き分けの良いことが美徳だと勘違いしてきた。・・・もう、自分の気持ちを誤魔化して生きるのは終わりにするよ」


田辺は席を立った。しごく自然に優しい笑顔を佐伯に向け礼を言う。こんなに素直に自分の気持ちを表情に出したのはいつぶりだろうか。


 佐伯はまた来年ここで話をしようと約束を交わし、握手をした。皺だらけの手の感触が、二人の会話が現実だと実感を持たせる。休憩室を出ようとした田辺に向かい、佐伯は少しだけ寂しそうに手を振った。


 田辺は休憩室を出ると、渡り廊下の窓から外の景色を眺めた。白い積雪の中、太陽が照り高く上っていることを確認する。オペレータパネル上で疑似通信の準備をする。


(日本は今の時間、夜かな)


ただ、とにかく、自分の思いを自分の世界だけに留めておくわけにはいかない、そう感じていた。誰かに吐露して何が変わるわけではない。それでもそれが第一歩になる。


 オペレータパネル上の通信IDが点滅し、通信が始まる。


『もしもし? 諒? 今大丈夫かな?』


通信相手の擬似音声が妙に懐かしく田辺の頭の中に響いた。


『ああ、ちょっと話したいことがあってね。聞いてくれるかな』


それは彼にしてはぎこちない会話だった。いつも自分の人生の中では、何か物事を美しく進めることへの強迫観念の支配が強くあった。会話にも美徳が求められた。それは決して誰かに強制されたわけではないのに、長年の自意識に刷り込まれた自分自身の足かせだった。田辺はその錆びついた何の意味ももたない足かせをひとつひとつ外していく。


『え? あぁ、そうかもしれないね。私もね、うまく説明できないかもしれないんだけど、聞いてほしいんだ』


全てを根こそぎ覆すことはできなくとも、それもやってみなければわからない。未来の分岐点がどこにあるかなんて、考えるものでもない。行動した先でしかわからない未来がある。そこに年齢なんて関係ない。ましてどこで生きているかも関係ない。今の自分を突き動かす衝動的な若いその決意は、確かに通信相手に受け継がれていった。


読んでいただきありがとうございました(*´ω`*)

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