その3
(*´ω`*)
三
2089年2月10日 16時40分 レプトン・クウォーク加速実験機構 実験室
『D区画実験班より管制官へ、D班実験作業終了です』
『管制室よりD区画実験班へ、了解しました。これより管制室より全班へ、終了確認を行います』
リラは淡々と実験後の復旧確認をこなしていった。
基本的な素粒子実験は日中十時から十六時までの六時間で、それが毎日繰り返される。実験班は二、三週間単位でローテーションされ、ものによっては年単位で行われるものもある。
『実験班、復旧確認完了。実験班、お疲れ様でした。続いて、加速器班復旧確認を行います』
『加速器班より管制官へ、超電導コイルの電源断、確認。放射区画の放射レベル測定・・・』
これらの実験には、莫大な消費電力がかかってしまう。その為、以前は一般生活使用量確保の為、電力会社に実験期間に制約を設けられていた。特に電気需要の増える夏季・冬季に実験が行えなかったので、一年の半分は実験が行えなかった。
『・・・加速器班以上、復旧完了です』
『加速器班、復旧確認完了。加速器班、お疲れ様でした。最後に素粒子発射班、お願いします』
それを踏まえ、年間を通して実験ができる環境を整える国家プロジェクトが発足した。それがLQPAだった。
リラの擬似音声が発射装置室に響く。彼女の音声にかめきちが順次返答していた。
『・・・発射班、以上復旧完了です~♪』
『発射班、復旧確認完了。発射班、お疲れ様でした。以上、全工程終了確認。次の実験は、来週月曜日、午前十時開始です。各動員よろしくお願いします』
LQPAの構内では、約三万世帯の人間が暮らしている。その内約六割がLQPA内の生活に関する職務に就いており、衣食住・公共施設・教育設備・建設・インフラ、その他必要なものは全てLQPA内で完結すると言っていい。また、その他の約三割が実験施設・設備機器のメンテナンス、通信・電子機器のエンジニアであり、素粒子実験に直接的に関わる人員はその他の一割程度だ。いわば国家プロジェクトの精鋭中の精鋭。
咲季が発射装置の三重扉を開放し、各所を点検しているそのとき、オペレータパネルから別の回線通信が入った。
『咲季、いる?』
リラだ。その声は仕事中の声とは少し違った。
『いるよ♪』
『ちょっと、プライベートネットまでオフラインってどういうことよ? あんたと話すためには直接会うしかないわけ?』
彼女はあきれたような声を出した。
咲季は手を休めず、かめきちに中継を頼んだ。
『かめきちが伝えるよ♪ 用件はなに~?』
『ええと・・・、今週末、どこかで一緒にごはんでもどうかと思って・・・』
「咲季、どうする?♪」
咲季は一瞬手を止めて、目を丸くしながらオペレータパネルまで歩み寄った。
『・・・どうした? 俺の聞き間違いか? もしくは鬼のかく乱か・・・』
『どういう意味よ!』
『いや・・・』
そのままの意味だが・・・と言いかけて、咲季は言葉を選んだ。
『リラって、あまりに淡々と仕事するから、飯食わないのかと思ってた』
リラはこれ見よがしのため息をついて、
『咲季が言うと本気で言ってるみたいに聞こえるからやめてよ』
少し拗ねたように言う。
咲季はグローブをしたまま頬をかいた。乏しい表情にもほんの少し変化が起こる。
『あぁ、悪い。明日の夜なら、大丈夫だと思うけど・・・』
『じゃ明日ね。食べたい物とか、ある?』
『え? う、う~ん・・・』
珍しいものでも見るかのように、かめきちがじっと咲季の顔を見つめている。
『思いつかない・・・』
『あはは。じゃあちょっと考えといて。私も考えとくから。時間も後で連絡するね』
『ああ』
淡白な返事を最後に、通信が切れる。
青年はどこか居所の悪い顔をして、手に持っていたレンチを作業台に置いた。じっと見つめてくるかめきちに気づいて、目をそらす。
「・・・なんだよ」
「咲季、だいじょうぶ?♪」
「・・・べ、別に、飯食いに行くくらいいいだろ。仕事仲間だし。他意はないし」
「そうじゃなくて、顔汚れてるけど・・・♪」
「あ・・・」
青年は埃で汚れた顔を雑に袖で拭い、そそくさと後片付けを終わらせ、実験室を後にした。
2089年2月10日 19時13分 LQPA構内
十九時を数分過ぎた頃、高層ビルの隙間風が急速に宵の温度を低下させていく。街灯の少ない路地の一角、取り立てて目印になりそうなものもないその場所に、ある意味とても目立つ人物が、じっと人を待っていた。人影を見つけ、その銀髪の青年が手を挙げる。壮年と呼ぶには若すぎる、しかし落ち着きのある物腰には大人の品位が感じられた。
「場所、わかりにくかったかな」
返事もせず、少し離れたベンチに腰かける咲季に対し、特に非難することもなく隣に腰かける。石造りのひんやりとした感触が体温を奪う。
「・・・わざとそうしたんだろ」
「心外だ。咲季君の実験室に近い場所を探したら、ここがちょうど良かっただけだよ」
微塵も顔を引きつらせることなく、きれいな笑みを浮かべてみせる。
「・・・やっぱりあんた、俺のこと嫌いだろ」
まさか、と秋野は首を振った。厚手のグレーのカシミヤコートは非常によく彼に似合っていたが、そのせいで何故か余計に胡散臭さが増している気がした。
咲季はブルゾンに顔を埋めて、白い吐息に目を落とした。
「昨日も言った通り、私は君を尊敬しているんだ。だからこうして協力を仰いでいるわけだし。・・・改めて昨日の一件については謝ろう。すまなかった」
秋野も咲季から目を外し、正面を向く。
「・・・で、協力って具体的に何をしたらいいんだ?」
秋野から笑みが消える。
「・・・一連の事件については、諜報局捜査グループでも意見が割れている。テロリストによる綿密な計画を練られた犯行か、はたまた素人による行き当たりばったりの犯行か。そもそもこれらの事件に関連性があるのか。関係があるとして、一体何が目的なのか。・・・グループの方針が全く合わないので、現在は個々であらゆる可能性を探っているところだ」
「あんたはどう見てる?」
相変わらず咲季の表情に変化はなく、端的な言葉しか発しない。
「私は・・・、事件に関連性はないと考えている」
「嘘だな」
間髪を入れずにそう答え、咲季は真っ直ぐ秋野を見つめた。
「あんたは一連の事件が全て同一犯によるものだと確信している」
咲季のその言動に少しだけ青年の瞳が揺らいだ。しばらくして、秋野は溜め息をつく。
「食えないのは、君の方じゃないか? どうしてそう思うんだ?」
「第一に、あんたはテロリストのスペシャリストだ。テロリスト心理をよく理解している。そのあんたが一貫性を見出せないから、誰かの手を借りてでも事件を解決したいと考えている。さらに協力を仰ぐ相手は嘘か本当か、元ハッカーテロリストだ。言わば敵に手を貸してもらってまで情報を得たい、ってことは少なくとも相手は素人ではなく、テロリストだと想定しているってことだろ。素人相手ならそれこそ一般心理を熟知した心理学者を訪ねるだろうよ」
咲季は淡々と続けた。
「第二に、個々の事件でみれば様々な業界で起こっている事件なのだから、捜査自体は多岐にわたる。動機だってそれぞれ無数に考えられる。ここ数年で起こった軽微な事件・事故なんかを調べれば関係ありそうな事件ももっと見つかるんじゃないか? まぁ膨大な量にはなるかもしれないけど、それらを逐一調べていけば、共通点も見つかるかもしれない。でもそれをしないのは、これらの事件の、ある一点を重要なファクターだと捉えているからだ。どの事件も“物理的な破壊”によって引き起こされている。これがあんたの一番の関心事だ」
「なるほど」
「そして最後に、まぁこれが一番の理由だけど、協力者にわざわざ『ヒステリック・ナーバス』を選んだってことだな」
秋野は降参の仕草で、しかし何故か少し嬉しそうに言った。
「さすがは私の惚れ込んだ男だよ、君は。その通りだ」
「けど、一つ訂正しておくと、俺、あんたが惚れ込んでるハッカーじゃねえよ」
秋野はそのセリフは想定通りと言わんばかりににこりと笑った。
「そうか。じゃあ君は知らないかな・・・。七年前、軍事兵器・軍部の通信ネットワーク・物流・戦略解析用の量子コンピュータと世界大戦に関するありとあらゆるオペレーティングシステムが、一夜の内に一斉に使えなくなったことを。世界は一瞬で大パニックになり、経済にも大きなダメージを与えた。テロリスト専門部隊の屈指のハッキング空しく、何が原因か一切わからなかった。けど、不思議なことに戦場では驚くほど混乱が少なかったそうだ」
咲季は何も答えない。首をすくめて秋野は続ける。
「今やどんな小さな拳銃だって、オペレーティングシステムを使った自動標準搭載だ。オペレーティングシステムが使えなくなれば、そりゃあ全ての武器が、戦場ではがれき同然だからね。武器がなくなったことで、いとも簡単に休戦協定が結ばれた。しばらくして、それが全て『ヒステリック・ナーバス』によるハッキングの仕業だとわかった」
「その話自体は当時ニュースかなんかで聞いて知ってるよ。でも、何でそれと俺が結びつくんだ?」
「・・・当時私はアメリカの軍事施設で働いていたが、そのハッキングに使われたプログラム解析の手伝いをする機会があった。プログラム自体は高度でさっぱりわからなかったけど、プログラムの出自・修正履歴からは君にたどり着けたよ」
咲季は興味なさげにかぶりを振った。
夜風が冷たい。彼らの体温を容赦なく奪っていく。
「知らないな。そんなに言うなら、証拠見せてくれよ。俺のIDとSIMカードにそんな情報があるとでも?」
現代世界においては、人は生まれて間もなく自己認証IDフィルムと通信用のSIMカードを体内に埋め込まれる。どの国で生まれようと、いつどこでだれと何をしたのか、逐一履歴を取られることとなった。監視社会だと揶揄されることもあるが、もちろん良いこともある。犯罪を疑われたとしても、ほとんどが自身の履歴から身の潔白を証明できる。冤罪はほぼ撲滅されつつあった。
「確かに、君のIDとSIMには怪しい履歴はないさ。君は至って真面目に義務教育を終え、物理学エンジニアの高校を優秀な成績で卒業。大学ではわずか二年で修士号を取得し、そのままLQPAに籍を置くようになった」
秋野は流れるように彼の経歴を語る。普段は至って冷静な口調だが、時々年下の咲季なんかよりよほど起伏のある若者のような喋り方をする。
特に吹きすさぶ風に気をとめることもなく、楽しそうに続ける姿勢から、案外彼が咲季を尊敬していると言ったのは、あながち間違っていないのかもしれない。
「けどね、それこそ君が、ヒステリック・ナーバスだという証拠の一つだ」
「・・・」
「ヒステリック・ナーバスはその巧妙で理路整然とした手口で、あっという間に世界を変えた。言わば最小挙動で大きな成果を上げた、完璧主義者だ。もちろん、去り際も完璧で、立つ鳥跡を濁さずの通り、証拠を何一つ残さず姿を消した。君の履歴は七年前の運命の日を境に全く人が入れ替わってしまったかのように大きく変わった。今まで何度も学校を遅刻し、下校時に寄り道しない日なんてなかったのに、あの日を境に君のIDとSIMは驚くほどきれいになったよね。君の行動からは、“なんとなく”や“ついやってしまった”みたいな理由の一切が消え去ってしまった」
ほぼ全ての一般人はヒステリック・ナーバスが具体的に何をしたのか、知らない。ほぼ全ての一般人はヒステリック・ナーバスがもたらした功績を知らない。彼らが知っていることは、ヒステリック・ナーバスが世の要職に就く人々を震撼させた天才ハッカーテロリストだということだけ。
「なんなら具体的に履歴を指摘していってもいいよ? 時間はかかるけど、最終的にヒステリック・ナーバスのハッキングプログラムにたどり着くからね」
秋野の調子が良くなればなるほど、咲季はげんなりしてあからさまにいやな顔を彼に向けた。
「そんなの言いがかりじゃねーか・・・」
「いやいや、ちゃんと物的証拠もあるよ」
「・・・」
秋野は徐に内ポケットから通信端末を取り出し、スイッチを押した。二人を疑似空間が包む。
昨日の空間とは打って変わって、そこには簡素な書斎のような閉ざされた空間が鎮座している。
「これは私のプライベート研究用イントラネット。正規のインターネット上から自分のIDを遮断することなく、イントラネット上でも自分のIDをオンライン表示できる空間。つまり、IDが二重存在できる空間だ」
デスク上に置かれた開かれた書物に、ひとりでに羽ペンが走る。秋野諒のIDがオンラインであるとログを残す。
一方で白い空間の外、実在の夜風が吹き荒れる街灯下のオペレータパネルでは、全世界共通のインターネット回線上でも、秋野諒のIDがオンラインであることを表示している。物理世界で例えるなら、日本にいながら同時にアメリカにも存在することができないように、世界共通のインターネット上にいながら、イントラネットにログインすることはできない。逆にIDは必ずどこかのネット環境に属しているとも言い換えられる。インターネットにもイントラネットにも属さずにいるということは、世界に存在しないということと同義だ。
「・・・」
「もうバレてると思うけど、この空間構築にも君の、いやヒステリック・ナーバスのプログラムを拝借しているよ」
秋野は立ち上がり、疑似空間の壁面設置の書棚まで歩いて行き、こちらに不敵な笑みを浮かべる。
先刻まで彼が座っていたベンチにも、残像のようにして同じ姿勢のまま咲季へ笑みを見せる秋野がいた。
「けどおかしいよね。確かに君本人はここに存在しているけど、君のIDはどっちにも存在していないね。今ここにあるネット環境はこの二つだけなのに。君は一体どこに存在しているのかな?」
「・・・なるほどな。だからこんな人通りもなく、他のイントラネット使用のない場所を指定してきたってわけか」
咲季は勝ち誇った顔で見下ろしてくる青年をまっすぐ見つめ、そして逡巡した。
「反論があれば今ここで私のイントラネットに入ってもらってから聞こうかな」
「・・・やっぱ一人で来るんじゃなかった」
それを咲季の敗北宣言ととった秋野は、心底嬉しそうな笑顔を咲季に返した。
「君がなかなか潔い人間で助かったよ」
確かにこれだけでは、咲季が単純に自己認証IDに細工をしているという証拠にしかならない。けれど秋野には、これを見せただけで咲季が自分が元ハッカーだと認めるだろうと踏んでいた。完璧主義者という生き物は、どんな小さなミスでも許せないものだ。全てを指摘できなくとも、一点だけミスを突くことができれば、主導権はこちらにあるも同然だ。それは秋野が幾多のテロリストと対峙して学んだ経験則だった。
「・・・まぁこれで、あんたの手の内は大体わかった。これ以上の証拠は出せないんだろ。だからCIAに情報を売ったところで決定打にはならない。だったら、野放しにしとくくらいなら、最大限有効活用しようと」
秋野は渋々頷いた。
秋野が通信端末のスイッチを切ると、書棚前に立つ彼の姿が消え、ベンチに座した姿だけが残る。また暗がりに包まれる二人。
「もちろん、協力してくれるならそれ相当の報酬をお支払いしよう。まぁ、君の性格からして報酬で心動かされるとは思ってないんだけどね」
「・・・とりあえず、さむい」
「え?」
秋野は想定外の声を出す。その様子を見て、お前雪国育ちなの? と質問で返す咲季。
「さむすぎるから場所変えるぞ」
咲季はブルゾンのポケットに手を突っこんだまま立ち上がって、そそくさと繁華街の方へ足を向けた。後ろから青年の笑い声が聞こえてきた。
しばらくして、
「おい、もう笑うのやめろ」
咲季はむっとしながら言った。先刻から何を言ってもニコニコしている秋野の様子が不愉快らしい。
「笑ってないよ。心外だな。で、どこへ行くんだい?」
「まずは事件の詳細を知る必要がある。それには俺だけじゃ力不足だ」
繁華街は週末の賑わいを見せていた。繁華街と言ってもさすがにLQPA構内なので、いかがわしい風俗店はないが、普通の風俗店やバーなんかはそれなりにある。
「それなら心配いらない。私のチームから人手は手配できる」
するりと人の波をかき分け先導する咲季に、遅れまいと足早に歩く秋野。人混みの中ではその抜きんでた長身の体躯は不利だった。向かって歩いてくる酔っ払いに何度も足を止められる。
「いや、俺は単なる“手”がほしいわけじゃない。視野を広げてくれる仲間がほしいんだ」
「・・・仲間?」
「あんたの幻想を打ち砕いて申し訳ないけど、ヒステリック・ナーバスは一人とは限らないんだぜ?」
咲季は飲み屋の入り口影になっている路地裏へと入りこんでいった。
路地裏の奥、隣の区画との境目あたりに唐突に出てきた看板。風に揺られるブリキ製の看板には、『Bar Quasar』と書かれていた。
2088年3月30日 7時53分 某所
朝日が目にまぶしい。乾燥した空気が肌に刺さる。
(静かだ)
登校途中の学生の話し声、窓に当たる風の音、表の道路を走行中の車の排気音、彼女の耳にはたくさんの音が響いてきている。
(静かだ・・・)
いつもの聞き慣れたその音色に、彼女は静寂を感じていた。
周囲の人々が忙しなく、今日という一日をスタートさせているこの時間に、彼女は部屋着のまま、ぼーっとコーヒーを飲み窓の外を見つめるという、何とも贅沢な時間の使い方をしている。
(休暇中にやろうと思ってたこと、半分も終わってないな)
コーヒーカップをサイドテーブルに置き、ベッドに倒れこむ。いつかやろうと思っていると、先延ばしになり結局やらずに終わる、なんてことは往々にしてあることだ。
冬休み休暇が終わるまで、あと二日。姿勢そのままに卓上カレンダーに目を向け、ため息をつく。
(・・・もういいや。どうせ全部終わらないなら、今日は好きなことして過ごそう)
悪い方向へ踏ん切りがついてしまった彼女は、決意の途端てきぱきと身支度を終え外に出た。
外の空気は澄んでいて、鬱々としていた気持を少しだけ軽くしてくれる。空には雲ひとつなく、山の端が綺麗に映る。ごく小さな生活圏内で生きてきた、彼女が一番好きな場所は、物心ついてから二十年弱ずっと変わっていない。国立大学附属図書館。
昔からあるそれは、木造四階建ての国の指定文化財で、繰り返し修繕を行い今もその姿を残している。一部の床は表面がはがれ、壁にもへこみなんかが目立つけれど、利用者は学生に限らず、近隣住民に開放されている為、いつ行っても混んでいた。図書の半分は持ち出し禁止の学術書だが、児童書や雑誌等、幅広いジャンルの本が置かれてあった。幼少の頃はまだ本を読んでも意味なんてわからなかったのに、その“わからない”という感覚が妙に好きだったのを覚えている。今でもその思いは変わっていないが、わからないという感覚を覚える機会は極端に減ってしまった。
彼女は長い黒髪を首の後ろ辺りで一つにまとめ、書棚から適当に抜き出した本を数冊、いつもの特等席へと持っていく。窓際の日差しが暖かいカフェスペース。観葉植物のマウンテンアッシュの葉が、彼女の読む書物に影を落とす。
大学附属の図書館なので、当たり前だが大学関係者が多い。さらに彼女のいる閲覧コーナーは物理学書籍のエリアの為、一般人は彼女くらいのものだろう。彼女は時間を気にせず本を読んだ。
このあたりの分野の本は飽きるほど読んでいる。同じ本を繰り返し繰り返し手に取り、その度に自分の中で咀嚼し直すその行為は、積んでは壊しまた新たに積み直すブロック遊びのような楽しさがあった。同じ発見でも新鮮に感じることもあり、不思議と読み直す度に読んで良かったと思えた。そして心のどこかで、またあの“わからない”感覚を味わえないかと期待している自分がいた。
日差しの向きが変わり、すっかり体が凝り固まってしまい、大きく伸びをする。
読み終わった本を返しに立ち上がったところ、彼女は少しの違和感を覚えた。周囲に何も変化はないのに、いや、何も変化がないことに違和感を感じたのか。理由はよくわからない。ただこの“わからない”という感じは、彼女の好きな感覚とはまるで別物だった。
自分を気に留める人間など皆無の状況で、どこかから見られているような気味の悪さ。彼女は嫌な思考を振り払うかのようにまた新たな書物を取りに書棚へ向かった。閲覧室を奥へ奥へと進んで、どんどん人気のない方へ向かう。
突然左手の書棚から、がたん、と音がする。
不意を突かれ思わず立ち止まってしまった。ばさばさっと後追いの音も聞こえてきたその方向では、棚一段分の書物が床に散乱している。
「あ・・・」
ざっと二十冊ほど散らばっていただろうか、分厚い本が多く、重量も結構ありそうだ。彼女がぽかんとそれを見つめていると、
「あ・・・」
同じようにしてぽかんとする大人びた少年。
少年はこちらに気づき会釈をしてきた。彼女は自然と彼を手伝う形で、書籍を本棚へと戻した。小声ですみません、と詫びる彼の表情からは感情が読み取れず、何を考えているのかわからない。
二人とも何かを言うわけでもなく、無言で書籍を一冊また一冊と手に取る様子は、傍から見たら滑稽だったかもしれない。
「ありがとう」
最後の一冊を拾い上げ戻しながら彼女に微笑する少年。この時、彼とは何故か初対面ではない気がした。
この得も言われぬ既視感は、違和感とはまた違い、確かに自身の記憶の奥底から聞こえてくる声のような何かだった。
「いえ・・・」
もうこの場にいる必要なんてないのに、声のような何かは彼女に行かせまいとしている。
彼女はためらった。
「・・・?」
「あ、あの、その本・・・」
とっさに少年を呼び止めようとして、彼の持つ本をだしに使ってしまうあたり、素直ではないなと反省する。もっと素直になれたら、もっと素直に生きられたら、彼女の人生も変わっただろう。
「え? ・・・あぁ、これ借りるの? はい、どうぞ」
「・・・ど、どうも」
少年は踵を返し、その場を立ち去った。
なんてありきたりなシチュエーションなんだ、と声にならない声を上げる。気恥ずかしさと反省の念で押しつぶされそうだ。
(いやいやいや、まさかこの歳でそれはない・・・)
急速に沸き起こる、何とも言えない羞恥の感情は、まるで思春期を思い起こさせ、余計に彼女は恥ずかしくなった。思い直して彼の去った方向へ顔を向けたが、少年の姿はもう見当たらなかった。彼女はぼうぜんと立ち尽くし、ここが図書館だと忘れてしまいそうだった。
しばらくして、手の中の本のことを思い出す。
(『素粒子加速器実験における超電導コイルの段階的巻き数可変装置による影響と対策』著者 九重 咲季・・・)
はっきり言って、彼女の守備範囲外の分野だった。帯の文言に第五十二回サイエンスコンクール受賞論文とある。
先刻少年に対して感じたあの既視感が蘇る。
(サイエンスコンクール・・・?)
彼女は何か、大事なことを忘れている気がした。
2089年2月10日 20時01分 Bar Quasar
バーには数人、先客がいた。入口から数段下りた店内フロアに、カウンターとテーブルが数脚確認できる。週末の二十時にしては少ない人数だったが、静かにゆっくりお酒を飲みたい人間が集う空間なのだろう。昔懐かしい白熱球の明かりと、落ち着きのあるレコードの音色が、ここをどこだか忘れさせる力を持っていた。
「おかえりなさい、咲季」
カウンターでお酒を飲む少女が咲季に声をかけた。
「おかえりなさ~い♪」
カウンターに鎮座するかめのぬいぐるみも少女に倣って青年を迎い入れた。
「ただいま」
咲季は軽やかに階段を降り、当たり前のように彼女の隣りに腰かける。
「あんたも突っ立ってないで来いよ。俺のおごりだ」
秋野は想定外の光景に一瞬ためらいを見せたが、すぐに笑顔を作り彼らの隣りに歩み寄った。
「お隣、よろしいですか? お嬢さん」
少女は笑顔でどうぞ、と促した。
人の良さそうな老齢のバーテンダーが訊く。
「何にします?」
「それじゃあ、私はマティーニを」
「マスター、俺ビールで」
バーテンダーはにこやかに返事をすると、グラスハンガーから磨き上げられたグラスを取り出す。
「かめきちもビール飲む♪」
「お前は飲めないだろ」
もちろんぬいぐるみのかめきちには消化機構がないので、食べたり飲んだりはできないのだが、咲季が飲食しているのを見ると羨ましいようだった。
「すみません、こいつにチョコレートもお願いします」
白髪のマスターは手慣れた手つきで、ビールとマティーニを二人の前に差し出した。そして特別小さな小皿にチョコレートを出して、かめきちの前に置いてやった。
「わーい♪」
手をパタパタさせて喜ぶかめきちを脇目に、秋野にグラスを差し出す。秋野もそれに気付き、グラスを上に上げる。
「お近づきの印に」
「とりあえずよろしく」
二人の間に挟まれる形で、少女も乾杯に参加する。
「かんぱーい」
喉を潤し、ようやく気を落ち着ける。
「秋野、こっちは鳥生未来。俺の彼女だ。それから・・・」
秋野が咲季の二の句を継ぐ。
「秋野諒です。はじめまして、鳥生さん。こんなに可愛らしい方が彼女だなんてうらやましい限りです」
幼い雰囲気の残る小柄の少女は、はにかんで答えた。
「お酒も飲める歳ですから、ご安心ください」
丁寧な口調で未来はグラスをかたむけた。その言葉からしてよく未成年に間違われるのだろう。ベルベットのワンピースがよく似合う女性だった。
「咲季君とは、何と説明したら良いか・・・」
「ああ、心配ないよ。詳しい話はちゃんとする」
咲季はビール片手にかめきちに合図を送った。
突如、疑似空間が開く。咲季は口の端を上げ、秋野に言う。
「さっきのあんたと同じことをさせてもらうよ」
かめきちがオペレータパネルを表示させる。そこにインターネット情報と共に咲季たち三人のIDがオンラインと浮かび上がる。店内のぼんやりとした照明とは別に、ブルーレイヤーで構築された階段が出現した。
「~~~♪」
かめきちがはな唄を口ずさんでいる。
立ち上がった咲季が二人に声をかけ、
『ついてこいよ』
ビールを飲んだままの姿を残し、階下へと消えた。少女も慣れた様子でそれに続く。
(咲季のイントラネット・・・。二重存在の本家か)
秋野はふと真面目な面持ちで、笑顔の自分を残し二人について階段を下りた。後ろからはかめきちのはな唄が小さく聞こえた。
階下はコンサートホールにつながっていた。舞台ではオーケストラの演奏真っ最中だ。演目名の横に、三人のIDが表示される。
客席に座り、未来が口を開く。
『ピアノの曲がいいな』
咲季がリクエストを聞き、指を鳴らすと舞台上の編成が瞬時に切り替わる。オレンジのスポット照明がピアノにあたり、ピアノ協奏曲が始まる。聴衆は三人だけの豪華な空間だった。天井高く音が広がる。三階まで続く大きな客席、大がかりな照明と音響、これらの空間構築だけでも相当高い技術力が求められる。ましてインターネット環境に影響を与えず、誰にも気づかれずに並行世界のようにして通信環境を構築するには、並外れた手腕が必要だ。秋野が先刻咲季に見せたそれとは文字通り次元が違った。
『改めて本題に入ると、未来、秋野は特別諜報局員としてある事件の調査をしているらしい。その事件について、俺たちに協力要請したいんだと。いいかな?』
『うん、いいよ』
言葉少なに少女は頷く。
『つまり・・・、彼女も・・・?』
『ああ、ヒステリック・ナーバスは俺と未来、それともう一人の三人組の組織だ。テロリストのプロでもそれは初耳だったか?』
『ほとんど咲季が主体だったし、無理ないんじゃない? わたしなんにもしてないし・・・』
『自分だけ逃げようったってそうはいかないからな』
未来は肩をすくめる。
咲季は秋野に振り返った。
『まずは事件についてさらっていこう』
咲季が手をかざすと、演奏している舞台の壁面に事件のウェブ記事が表示される。
『問題の事件は三件、どれも去年起こった事件で、対象は電力インフラ・物流・セキュリティ関係。被害は一時的で、長期にわたった被害はない。そしてどの手口も物理的な手法を用いられている』
『なるほど。咲季が引き受けたの、わかった気がする』
『なかなか前時代的だろ?』
咲季は子どもっぽく笑って言った。
『まぁ表向きは特に大きな事件にはなっていないし、影響についてもばらばらだ。けどちょっと気になることもある』
ウェブ記事の出典ソースが明示され、同じニュースを他社がどう報じているのかを表示する。
『現時点で、日本国内の報道機関はざっと三百社。その中で、この事件を報道したのが10社。それらを比較すると内容に明らかな差異がある』
各事件ごとにソートされた30の記事。秋野のグレーの瞳が注意深くそれらを捉えていき、最後に咲季の顔を見る。
『・・・爆発物だと物理的原因を断定しているのは、1社だけだ』
『ああ、3事件の原因をどれも断定しているのは、業界紙のワークス・メディア社だけ』
『・・・ワークス・メディア』
未来が静かに口を開く。
『数学・理学・物理学界の書籍・雑誌を多く刊行している業界最大手の会社。理系の人間で知らない人間はいないし、報道だけじゃなく各業界主催の学会とか実験にはいつも名を連ねる大口のスポンサーとして有名だね』
『その会社だけが、原因を詳細に出せる理由は何か? 考えられる可能性は二つ。ひとつは、どの被害物件もワークス・メディアに世話になっている会社だから、そこだけに詳細情報を下ろした、か。もうひとつは・・・』
『ワークス・メディアのねつ造ね・・・』
声は秋野の後ろから聞こえた。
『エイム』
未来が名前を呼んだ。
ID表示にエイムがログインする。ピアノの演奏に何の配慮もなく、軽快にピンヒールの音を響かせ、エイムが近づいてくる。背の高い茶髪の快活そうな女性だ。振り返った秋野に手を振り、咲季たちにも軽く挨拶をする。
『・・・来れないんじゃなかったのか』
『このあたしが咲季君の頼みを断るはずないじゃない♡ 話は聞いたわ、秋野さん! あたしがヒステリック・ナーバス最後の一人、エイムよ♡』
きゃっきゃっとした声を上げ、咲季の隣りに座るも、咲季はげんなりした表情で秋野の影に隠れた。
『やめろ、きもちわるい・・・』
『何よ! 失礼しちゃう!』
エイムは怒って頬をふくらませて見せた。
『・・・しかし、ねつ造の方は何のメリットが・・・』
秋野はそれをよそに、真剣な表情で顎に手をやった。
『数学・理学・物理学界隈には物理的事件だったと思ってもらいたいってことでしょ』
エイムは腕を組んで答えた。長い髪をツインテールにし、服装も派手な今時の若い子といった印象だが、話し方は妙にさっぱりしている。
『・・・どうして?』
『そこまでは知らん!』
『・・・でもわたしはねつ造だと思うな』
未来はのんびりと言った。咲季はワークス・メディア社のホームページ概要を壁面に映す。
『あたしもそう思う! おもしろそうだし!』
『咲季は、どう思う?』
『・・・判断材料が足りないから、断定はできない。ただ・・・』
『ただ?』
『・・・俺も、ワークスメディアのねつ造だと思う』
咲季は静かに言った。
『ヒステリック・ナーバスの見解は一致というわけか』
秋野は面白そうに笑った。
『君たちは不思議な存在だな。今までどれだけ探しても見つからなかった、幻の存在なのに、ふたを開けてみたらとても完全無欠の天才集団には見えない。それでいて、肝心なポイントでは意見がぴたりと一致する』
『あんたが勝手に買い被ってただけだろ』
咲季は立ち上がると、未来とエイムに向き直った。
『未来はワークス・メディアの役員名簿を調べて経歴を洗ってくれ』
『は~い』
『エイムは各被害物件とワークス・メディアの通信状況を当たってくれ』
『おっけー。咲季は?』
『俺は秋野と一緒に実際の事件現場を見に行く』
『まさか実捜査まで協力してくれるとはね』
『乗り掛かった船だからな』
咲季はいたずらっぽく笑って秋野に言った。秋野も満足そうに笑顔を返した。
『初めて私に笑ってくれたね』
『やるからには、徹底的にやるぞ』
『頼もしいよ』
秋野はほんの少し、数時間を共有しただけなのに、彼らに人を惹きつける魅力を感じていた。
ピアノの演奏が終わり、舞台が暗転する。ID表示盤もエイム・未来とオフライン表示に切り替わる。咲季もホールを背にすると、秋野は彼の背に向かって質問を投げかけた。
『咲季』
青年が立ち止まる。
『君が犯人じゃ、ないよな?』
言ってから後悔する。どう考えても特別諜報局員がする質問じゃない。実際自分がこんな質問をされたら鼻で笑ってしまうんじゃないだろうかとさえ思う。
しかし青年は笑わなかった。秋野に向き直り、対峙する。
『あんたは何て答えてほしいんだ?』
いたずらっぽい微笑の奥のその瞳は自信にあふれていた。
読んでいただきありがとうございました(*'▽')