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ヒステリック・ナーバス  作者: ななめー
2/8

その2

第2話です(´ω`*)


2089年2月9日 13時8分 レプトン・クウォーク加速実験機構 構内


 現在の地球上活動人口は、およそ40億人。この数字はピーク時の半数以下となっていた。人類にとっては決して小さくないその変動には、もちろん明白な理由がある。


 太陽はちょうど真南に位置する頃、咲季は構内の並木道脇、ベンチに座し誰かを待っていた。日は照っているが、北風の冷たい時期、人通りは少ない。右手には研究棟の無機質なビル、左手には原生林、と拙い絵でも見ているかのようなアンバランスな風景は、咲季の慣れ親しんだものだった。


 場所は物理学素粒子実験の最高峰、レプトン・クウォーク加速実験機構、通称LQPA、地表・地下直径600キロメートル圏内に設置された各実験設備により、最先端物理学の実験が日夜行われている。設備自体が巨大都市と化す、このLQPAの中で、咲季は働いていた。


 履き慣らされた革のブーツの先に、小太りの少し落ち着きのない歩き方をする白人男性を見つける。男は他のものには目もくれず、一目散に咲季の許までやってきた。


「忙しいところ悪いね」


咲季は小さく頷いた。


「かめきちも寒い中すまないね」


「咲季は忙しくないよ♪」


中年男性はハハッと人の良い笑みを浮かべた。


「ちょっと歩かないかね?」


咲季は立ち上がり、彼の隣りを並んで歩いた。


「咲季、また痩せたんじゃないかい? 君は実験に没頭すると寝食を忘れるタイプだから心配だよ」


自覚があるのか、青年は口の端を緩めてみせる。


「オンブズマンこそ、少し痩せた?」


「あぁ、まあね。今年はどうも色々と忙しくてね」


「実験はひと段落したんじゃなかったのか?」


実験の方はね、とオンブズマンは辟易した表情を浮かべる。


「回りくどいのは柄じゃないから、サクッと話すけどね、その件で君の手を借りたくてね」


咲季は少しだけ驚きの色で年長の男性を見つめたが、すぐに視線を元に戻した。決して無表情ではないのだが、咲季は感情の起伏が乏しい。その為、誤解を生むこともままある。


「まぁ、見てもらいたいものがあってね。話はそれからだ」


オンブズマンは咲季のその表情を了承という意味で受け取ると、バンバンと彼の背中を叩き、自身の研究室へ促した。


 人類は驚くほど寛容になった。どんな在り方も、どんな生き方も、許容される世界。現在、地球上では人間の脳をCPUと定義し、人のCPUをいくつもネットワーク上で繋げ、仮想集積CPUとして生活のあらゆる演算処理に活用している。そして世界の半数、およそ20億人がこの仮想集積CPUに参加する世の中となった。仮想集積CPUに参加する人間は、休眠状態に入り、その間のCPUは約八割を演算処理に充てられ、残りの二割で自身の理想的な世界を脳内で構築し、その中で生きている。一種の夢の世界とも言える。


 仮想集積CPU自体は流動的で、多くの計算・演算処理に使用される。理論上ネットワークで繋げられれば、地球上全ての人間が参入可能だし、離脱も簡単だ。目を覚ましさえすればいい。現時点で世界中に散らばる20億人が構成する一つの莫大なCPUは、もっぱら数学者と物理学者が使用している。咲季もその内の一人だ。


 オンブズマンの研究室は散らかっていた。山積みされたフィールドワーク用の資料と、仮想集積CPU演算結果のコピーの束が、我が物顔でデスクを占拠している。


「相変わらずで安心した」


咲季は笑った。


「紙資料を現役で使うなんて、なかなか前時代的だろ?」


「そうだな」


「まずはこれを見てもらいたいんだ」


オンブズマンはデスク前の椅子に腰掛け、引出しからこれまた紙の束を差し出した。トレース紙の質感を確かめながら、咲季は紙をめくる。


【2088年11月29日 0時32分  理化学総務研究所 敷地内発電設備より出火。それに伴い一時停電など、周辺住宅一千戸および給電を行う各研究所・国立研修所へ影響が生じた。原因は同機関により調査中だが、火元は建屋の複数個所に及び、人為的なものと見られている。尚、・・・】


咲季はもう一枚紙をめくる。


【2088年10月2日 2時54分  国務通信網整備局で一時爆発騒ぎ。・・・設置された爆発物は、いずれも通信設備に施されており、日本国内の限定通信網に通信障害が発生した。とりわけ物流専用のトランスレーターに渋滞を引き起こし・・・】


さらに紙をめくる。


【2088年7月29日 1時14分  24時間稼働の量子回路工場で、大幅な通信障害が発生しました。原因は量子盤にSIM付番を行う製造ラインで発生した爆発によると、関係者は証言しています。(当局調査)影響として、関係するラインへの連携が数日に渡りストップしており、全工程の製造再開目処は一カ月程度と・・・】


 咲季は手を止めた。


「・・・どれも、去年のニュースの抜粋みたいだな」


「読んでみてどう思う?」


「率直に言って、ニュースを抜粋するならデータでほしかった」


「これは失礼した」


オンブズマンは今日一番の笑顔で笑ったが、内心は咲季の面倒くさそうな顔をしてやったりだと思っていた。


「内容は至ってシンプルだと思うんだけどね。どの記事も重要施設の爆破、あるいは爆破未遂事件。最近では、あまり用いられない昔の活動家の起こすテロ手法の一つ。・・・ちょっと妙だと思わないかい?」


「あぁ、ここ最近じゃ、インフラやら施設なんか物理的な破壊をしなくても、ネットワークとソフトウェアへダメージを与えた方がより致命的だし、コストも安い。テロといっても現地へ赴く必要もなく、温かく快適な自宅のベッドで寝ながら世界中にあらゆる人間のCPUにウィルスを走らせることもできる」


オンブズマンは心底不思議そうに、なぜこんな回りくどいことをするのかわからないよ、と嘆いた。


「オンブズマンはなぜこれを・・・?」


咲季はもう一度、先頭ページから順に目を落としながら、窓の外を眺める紳士に訊いた。


「私も依頼されたんだよ。特別諜報局からね」


「特別諜報局・・・?」


「聞いたことくらいはあるだろ? 国家機密に関わるテロだとか事件について、情報収集するテロリストのスペシャリストだとさ」


咲季はふうんと、さも興味なさげな声を出した。彼の肩上で一人遊びをしていたかめきちがバランスを崩し、バタバタと背中を転げていったことの方がよほど気にかかっている様子だった。


「LQPAも国家プロジェクトの一環だから、ごく稀に諜報局員が内部調査してるって噂もあるし」


「ネットの掃き溜めみたいなとこの眉唾情報だろ? 現にそんな怪しいやつ、俺は見たことないけど・・・」



咲季はひっくり返っているかめきちをそっと隣のソファに座らせてやる。


「・・・で、その怪しいやつが、オンブズマンに一緒に捜査の協力してくれって頼んできたって?」


「そうなんだよ。私の専門には似ても似つかぬ内容なのにねぇ」


白人の紳士の目は大真面目で、ふざけている様子がない。なんだか狐に化かされている錯覚を引き起こす。咲季は目の前で手を組み、少しだけ言葉を選んだ。


「・・・じゃあ、詳しいことは、諜報局員本人に訊いてみようか」


「それが、あいにく彼は今日は来てなくてね・・・」


「オンブズマン・・・、嘘も大概にしろよ?」


「まさか! 本当に今日はいないんだ。君が協力してくれるかわからなかったからね。ただ・・・」


咲季はオンブズマンの言葉を遮った。


「まぁいいよ。ところで、おれがちょっと来ない間に、ずいぶんネット環境が変わったみたいだな?」


「へ? ・・・あぁ、今進行中の研究プロジェクトごとにイントラネットがあるからね」


オンブズマンは少しだけためらい、すぐに素早く自身のCPUからネット構築画面を引き出し、咲季の目と鼻の先、空間上に映し出した。


「でもそんなに多くない。五つだな。どこぞの研究室と比べれば少ない方さ」


「・・・」


確かにオンラインで使用できるネットワーク回線名が五つ点灯している。


 かめきちがソファから落ちた。


「そう? 上から順に数えようか?」


咲季は徐にかめきちをまた自身の肩に乗せ、オンブズマンのネット環境に軽く手をかざした。


「世界共通のインターネットにあんたの研究室専用のイントラネット、プロジェクトごとに三つのイントラネット、その下に隠してあるのも言ってくよ?」


「あ・・・」


彼の手の動きに合わせて隠された文字が浮かび上がる。


「他にもあんたのプライベートネット、それにやたらセキュリティレベルの高い暗号化イントラネットが一つあるなぁ」


「・・・」


「まぁ、プライベートネットは大目に見よう。他人に知られたくないやり取りだってあるだろう。けど、もうひとつは明らかに一般人レベルの暗号化じゃないな」


至極落ち着いた様子の青年を見て、オンブズマンは本当に降参したようだった。


「すまない。君に喧嘩を売るつもりは全くなかったんだが・・・。気を悪くしないでほしい」


諸手をあげて敗北宣言している彼を横目に、咲季は暗号化されたイントラネット回線にアクセスする。意味を成さない多言語の羅列の壁がオンブズマンの研究室を所狭しと広がり続ける。それはまるで増殖するウィルスのような気持ちの悪さがあった。アラートが表示される。


「申し訳ないが、私もその暗号化を解くことはできないよ。パスワードも何も知らされていないんだ。それに私からの接触は認められていないんだとさ」


咲季は楽しそうに笑った。オンブズマンの声に答えたというより、目の前の暗号に純粋な興味を持ったようだ。それはまるでおもちゃを手にした子ども。


「咲季はやり始めたら止まらないよ♪」


いい加減一人遊びに飽きたらしいかめきちは、おとなしく青年の肩上からオンブズマンに言った。


「ただハッキングするのは芸がない。どうせなら本人を呼び出そうぜ」


浮かび上がる文字列から最小動作で文字を次々引き抜いていく。そこに法則性は垣間見えず、引き抜かれる度に増殖し続けていた暗号の波が収縮していく。


「お、穏便に頼むよ」


完全に想定外の事態にたじろぐオンブズマンだが、心の内では目の前で見せられる暗号化コード解読の美しさに驚嘆の声を上げたかった。


 収縮された波は安定し始める。アラートが解除され、通信網の入り口が開く。ノイズのない真っ平らな空間が二人を歓迎した。


『まずは自己紹介でもしてもらおうかな』


『・・・?』


咲季は平坦なデジタルの壁奥に語りかける。応答が返ってくる様子はない。通信上にオンライン表示されているのは、オンブズマンと咲季のIDのみ。


『・・・やっぱり今日はいないんじゃ?』


『いや、確信を持って言える。やつはこの通信を聞いている』


『どうしてだい?』


『この暗号化コード、昔俺が趣味で作ったコードのコピーだった。相手は俺がこのネットワークに気づいて、かつ暗号化を解いてくると踏んで、わざわざそれを確認する為に通信網を作ってきたってことだ。自分の罠に引っ掛かったかどうか確認しない罠師なんていない』


『・・・じゃあ、咲季はわかってて罠に掛かりに行ったってことかい?』


かめきちがオンブズマンに答える。


「おもしろそうだったからつい・・・」


『まぁ、簡単に出てくるとは思ってなかったから、一つ相手が出てきたくなるような餌を提供しようか』

平坦な通信網のなぎは疑似空間の一種だが、その水面下は決して穏やかとは限らない。海水生物を覆い隠す波間のように、1ビットの集合体の隙間はあらゆる信号を含蓄する。


 咲季はくるっと踵を返し、かめきちを邪魔にならないようにオンブズマンのデスク上にそっと下ろした。咲季は軽くなった肩を回してふっと笑った。


『・・・?』


通信ログから咲季のID表示が消えた。


 彼のオフラインログの後には瞬時に膨大なログが走り出す。


『咲季、一体何をやったんだ・・・?』


確かに目の前の通信空間に存在しているのに、通信から遮断された青年を見て、オンブズマンは面食らった。デジタルの波がうねりだす。


 疑似流体が水平線の向こうから、次々と信号を乗せてこちらに向かってくる。波は簡単に大きくなり、オンブズマンの脇、何もない通信空間の壁に激突した。


『!』


衝撃でビット数の壁に亀裂が入る。そこからの崩壊は本当に早い。奥に映る虚無の世界、デジタルの限界値が露わになる。


『この通信網、どうせこっちから使えないんだろ? だったら壊しても問題ないよな』


『え・・・』


『ついでに同じプログラムは二度と使えないようにしてやるよ』


咲季はのんびりと恐いことを言う。


 言うが早いか、いつの間にか空間の四方から崩壊の音が鳴り響く。波も大きくなり、あちこちで音を立ててぶつかりあっている。小さな信号の波が衝突し、互いを打ち消し合うその姿は、どこか素粒子の衝突実験を想起させた。


『・・・想定以上ですね』


その声は唐突だった。通信IDが浮かび上がる。


『・・・』


『いえ、結果的にだまし討ちみたいな行為になってしまって、申し訳ありませんでした』


波間の向こうに見えるその姿には、余裕の表情が伺える。長身の、銀髪の青年。言葉とは裏腹に、そこには謝罪の意思は感じられなかった。


『いつか、はるか昔、現在では考えもつかなかったような争いが、世界各地で起こっていました』


青年の端正な顔立ちは若く見えたが、疑似空間においては容姿に物理的な真実味はなかった。むしろ疑似空間でアバターを使用していない人間の方が少数派だ。


『・・・』


通信の波にノイズが走る。キラキラと光るその飛沫は、熱量を持った何かのように、青年のつなぎに軌跡を残して霧散する。もちろん物理的な軌跡ではなく、刹那の命、数秒後には跡形もなくなってしまった。咲季の膝下にしぶきが飛ぶ。


『争いは日に日に高度化し、世界大戦という名前の通り、星をまたいで行われていた争いは歴史に新しい』


青年はすたすたと歩を進め、咲季の目の前に対峙する。咲季は黙ってそれを見つめる。


『・・・』


『高度化した大戦は、もはや国の力をもってしても止めることはできないと思われていた。しかし、今から七年前、たった一人の少年がいとも簡単に、その大戦を止めた・・・』


『悠長に話してるとこ悪いんだけど、この空間、もってあと三分ってところだぜ? 俺に用事があったんじゃないの?』


『これは失礼。私はその大戦を止めた少年に心底惚れ込んでいてね、彼が使ったプログラムを使ってみたかったんだ。そしてそれを、本人に見てほしくてね』


にこりと微笑む。


 咲季も応えるかのように口の端を引っ張ってにやりとしてみせる。普段笑わない咲季には、その挑発的な笑みがよく似合った。


『・・・あんたの言いたいことはわかった。要するに、さっきの記事にあった事件は、その世界大戦を止めたっていうテロリストが起こしてるんじゃないかってことだな?』


『とんでもない。・・・誤解されているようだね。私はただ、その天才ハッカーテロリストに事件捜査の協力をしてもらいたいだけなんだよ』


あくまで笑みを崩さずに流暢に話すその様からは、全てが彼の予定調和のようだった。


『ふざけるな。何が天才ハッカーだよ。今でもやつは国際指名手配の犯罪者じゃないか。そもそも、今見た限り、あの事件、テロリストの協力が必要なほど大した事件じゃないだろ』


『これは心外だな。事件に大きいも小さいもないだろう?』


『こんな手の込んだプログラムまで使えるんなら、わざわざ一小市民の協力なんてなくても解決できるはずだ』


『・・・いいのかい? 私はいつでも、国際指名手配犯がいつどこでどうやって暮らしているか、CIAに情報を売ることができるんだよ?』


『・・・』


青年はさらに一歩前に出て、咲季の肩に手を置いた。


 疑似空間の壁面の亀裂が大きくなってきている。四方から虚無が顔を出し、崩壊の音が近づく。デジタルの波が打ち消し合い、空間として存在できるのもあとわずかだった。


『おとなしく協力した方が咲季君の身の為だよ?』


終始笑顔を崩さないその表情からは何も読み取らせてくれないようだ。


『・・・食えないやつだな、あんた』


『交渉成立だね』


『こっちの話なんて端から聞く耳持ってねえんだもん』


青年は咲季の肩越しにオンブズマンに語りかけた。


『ミスターオンブズマン、ご協力感謝いたします』


『・・・あ、あぁ』


明らかに油断していた声で返事をする。


『咲季君もね。明日午後十九時、改めて捜査協力の詳細を持ってそちらにお伺いするよ』


『おい』


空間がいよいよノイズによって歪みだす。通信信号よりノイズの方が大きくなる。


『あんた、名前は?』


『私は、秋野諒。よろしく頼むよ、咲季』


通信が途絶える。


 疑似空間は完全に消滅し、目の前にはオンブズマンの雑然とした研究室が何事もなかったようにそのまま佇んでいた。


「・・・」


「ふぅ。咲季といると、本当に心臓に悪いな」


咲季はむっとして、ソファに倒れこむように座った。


「ひとつ貸しだからな」


オンブズマンは、ハハハと大きく笑って、コーヒーを淹れなおしに給湯室へ向かった。



2088年3月9日 14時18分  南極 国際条理締結機構 仮想集積CPU研究所 南極支部


「田辺さん、あのおじいちゃんまたCPU再参入希望出したらしいよ」


クリーンルーム着姿で、露出している部分は目とそのまわりだけという出で立ちで、田辺と呼ばれた男は振り返った。


「そうなのかい? あれだけ、もう仮想現実には飽きたって言ってたのに?」


同僚のグレッドは製造ラインの機械を点検しながら、さらにこう言った。


「まぁ、現実には身寄りもないしさ、仮想現実にいた方が幸せなんじゃないかな」


田辺はグレッドが点検した項目を情報端末に入力していく。


 施設内で使用する機器には、自動修復回路が内蔵されている為、人の目でこうして一々点検する必要はないのだけれど、毎日見回ることになっていた。施設管理の日課だ。


「・・・幸せか」


「おいおい、感傷的にならないでくれよ。今じゃ現実も仮想現実もおんなじなんだ。当人が『こっちが本当の自分の世界だ』って選んだ世界を“本物の現実”にできる世の中なんだ。外野がとやかく言うことじゃ、もうないんだよ」


グレッドは割り切った性格をしていた。田辺よりも一回り年下で、それなりに自分の目で世界を見てきた中年の彼にも、思うところはあるようだが、他人に対しては至極ドライな対応をとることが多かった。ここ最近中年太りが気になると言い出し、体を動かす設備点検の業務に積極的に従事するようにしている。


 一方の田辺は、容姿も性格もグレッドと正反対で、ネガティブで心配症の性格が骨身に染みついている。数年前に転職で南極に来てから、その傾向は強くなった気がしていた。


「それに現実世界じゃ、彼らの脳内CPUを使って俺たちは生活してる。お返しに俺たちは彼らの身体的サポートをする。彼らが入る仮想集積CPUポットは、地球上で最も安全な場所だろ。事件・事故はおろか怪我や病気からも守ってもらえる。古い言葉を借りると、正に“WIN-WIN”の関係じゃないか」


「そうだな。やっぱり私は、その、時代遅れの人間だからね、どうしても気になってしまってねぇ」


白く冷たい壁で閉ざされた施設の中は、一部の人間しか構造を知らない。外は豪雪と極寒、中は頑丈なセキュリティシステムで守られた無機質で一度入ったら二度と外に戻ることはできないと呼ばれる仮想集積CPU研究所。元々出入りする人間自体限られているが、それが陰謀論好きに脚色されて、怪しい研究所のように呼ばれている。


 しかし実際にはそんなことはなかった。施設は仮想現実に入る為の人々の受け入れ設備となっていて、彼らが眠る仮想集積CPUポットが収容されている。設備は完全自動化され、故障機器の修復も自動で行う。何か軽微な異変であっても見逃さないので、本来ならシステムの監視もする必要がない。


「田辺さん、人が良いから。そんなこと言ったら、妻に先立たれて子どももいない俺なんか、仮想現実で生きた方が幸せかもしれないよ」


グレッドはハハッと笑った。マスクで顔は見えないが、くぐもった笑い声に自虐の色が伺える。


「いや、申し訳ない。そんなつもりじゃ・・・」


「いいのいいの。こんなこと言ってるけど、実はこの暮らしにも結構満足してるんでね。ハハハ、あ、田辺さんの軍役時代の話を聞くのも好きなんですよ、俺」


点検項目を一通り埋め終わり、製造ラインを後にする。


 二人は広い室内を他愛もない話をしながら進んだ。他ラインへと続く部屋の扉の鍵を開けながら、グレッドは思い出したように言った。


「・・・ああ、そうそう。彼女、ガーランドさんの再参入処理も、よろしくお願いしますね」


「・・・え? 彼女の・・・? でも、規則で・・・」


田辺は煮え切らない返事をした。


「田辺さん、上層部の決定事項ですよ? 俺ら下っ端が規則云々言って何になるんです。今さら逆らえませんって」


同僚のグレッドは田辺の背中を叩き首を横に振った。


 さっさと次の部屋へ進んでいくグレッドだったが、田辺にも彼が納得していないのを感じ、それ以上追及することはなかった。部屋の明かりを消し、田辺は同僚の後に続いて戸をくぐった。


読んでいただきありがとうございました(*'▽')

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