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四四 決着

 日が沈み切り、森全体が漆黒の闇に包まれた頃。


 未だ慌ただしく人が行き交う金狼族集落の広場の片隅で、一本の木の根元に腰を下ろし物思いに耽っている一人の影があった。


 亜人族の里には到底似つかない……人間の姿をした彼女は、エルフ達の魔法によって灯された広場の明かりに、後ろで纏めた金髪と凛とした顔を淡く照らされながら、物悲しそうに人々の営みを眺めていた。


 そんな彼女――――フォルテの後ろで、動かぬ筈の影が揺らぐ。


「……こんなところで、なにしてるの?」

「む、君か。いきなり現れるのは心臓に悪いから止めてほしいな」


 不意に掛けられた声に振り返った先には、見知った顔が居た。銀糸の髪が美しい吸血鬼の少女、エリスだ。フォルテにとっては因縁の相手――と言えるかどうかは怪しいが――である。どうやら【影化】を使い、辺りの闇に溶け込んで近寄ってきたらしい。


 そんな彼女の不意な登場に、気恥ずかしそうな苦笑いを浮かべるフォルテ。


「いや、始めは皆の作業を手伝おうとしたのだが……断られてしまってな。やることも無いから、こうして暇を持て余していた訳だよ」

「……ふぅん?」


 フォルテは、金狼族と人間のハーフだ。その上見た目は人間のものと変わらないのだから、亜人族の輪の中では忌避されることだろう。


 限に近くを通って行く人々のフォルテを見る目は、とてもではないが好意的とは言えない。良くて無視、悪くて憎悪だ。


 そして冷たい目を向けられる度、ガクリとフォルテの肩が落ちる。時期が時期故に仕方が無いとは言え、やはり堪えるらしい。


 その姿に思う所あったのか、エリスは、ほんの少し悲しげに目を細めて呟いた。


「……随分と、同胞に嫌われているみたいね」

「むぅ……。嫌われていると言うより、“同胞”と思われていないんだよ。何せ私は――――」


 フォルテは自虐的に笑い、言葉を続ける。


「“半端者”、だからな」


 ……と。


 彼女は、亜人でもなく人間でもない、まさしく中途半端な存在なのだ。一族ごとに集落を成して暮らしている亜人族からすれば、それは相当に特異な存在であると言えるだろう。


 それ故、フォルテには友と呼ぶべき相手が居ないし、こうして所在無げにしているのだ。


「……ここに戻ってくる意味は、あったの?」

「ここは私の故郷であり、母が眠る地だ。そして多くの“同胞”が居る。それだけで私にとっては十分だよ」

「……変人」

「い、言ってくれるな」


 エリスの言い分も尤もだ。客観的に見ても、フォルテが亜人族の里に帰郷する意味は無い。フォルテ自身もそれは理解していた。


 答えとしては、「知ったことか」の一言に尽きる。彼女自身にとって亜人族は掛け替えのない同胞であり、ここは掛け替えのない故郷なのだ。周りがどう思おうとそれは変わらない。


 そんな具合で刺のある言葉に一瞬、苦い顔をしたフォルテであったが、直ぐに普段の様相を取り戻して質問を返す。


「君は私を変人と言うけどね、君は故郷に帰ろうとは思わないのか? 帰る場所も理由もあるだろうに」

「……どうして、そう思うの?」

「君は私と違って、同胞に慕われる存在なんじゃないかな」

「……私が、慕われる?」


 表情の読めない顔で再び尋ねるエリスに、フォルテはこくりと頷いて続ける。


「君には“力”がある。吸血鬼族を統べ、そして導くに足る絶対的な力が」

「……そうね」

「“力”とは正義であり、この世界における全てだ。力のある者が上に立ち、弱者は虐げられるのみ。いや、場合によっては生すら許されない……。その点、君の力は凄まじいだろう? それこそ、“吸血鬼”の常識を覆す程に。魔族の社会は特に実力主義の色が濃いと聞くからな、きっと君には何人もの臣下が居て、さぞ慕われたことだろう」


 フォルテの言う通り、この世界は基本的に力が全てだ。勿論その力とは、腕力だけの話ではないが。


 腕力だけある亜人族は、数や魔法と言ったまた別種の力を持つ人間には敵わない。故に帝国では亜人族の奴隷が使われている。強きを助け弱きを挫くは世の道理。逆が出来るのは、ほんの一握りの存在だけなのだ。


 フォルテは以前、“奴隷上がり”と言っていた。ならばきっと、力が無かった為に涙を飲んだ経験もあることだろう。彼女がヤケに力に固執し、そして帝国を過剰に恨むのも、それに起因するものだと推測が付く。


 ともすれば、その“力”を持ったエリスにも思う所はあるのだろう。あくまでも表には出さないが。


 それを察したエリスは、心底、悲しそうな表情を浮かべた。


「……お前とは、分かり合えないみたい」

「……ほう? それはどう言うことだい?」

「……“異端児”と“半端者”の私達(・・)は、きっと、似た者同士。だから、少しは話が分かると思ったのに……」


 エリスは心底残念そうに息を漏らし――――


「……興醒め」


 鋭い刺突剣(エストック)を突き付ける。


「っ……! 決闘を申し込んだのは私とは言え、こうも好戦的に来られると流石に困るな……」


 その切っ先がチクリと、フォルテの喉元に紅い一滴の雫を生み出した。


 漂って来た芳醇な香りに、エリスはピクリと鼻を鳴らして紅い瞳を爛々と輝かせる。


「……決めた。お前は、お前の言う“力”を以って……私の非常食にしてあげる」

「ふ、良いだろう! 私が勝ったら婿殿の隣は頂くぞっ!」

「……できるものなら」


 フォルテは叫んで喝を入れるや否や一瞬で剣を抜き、刺突剣を払い飛ばした。更に返す刃で猛然と斬りかかるが、それは虚しく虚空を斬った。滑るように下がることで距離を取られたからだ。


 エリスはそのまま、森の奥へと入っていく。流石に広場でやりあうのは目立つ為、場所を変えるつもりらしい。闇夜の中に浮かぶ銀と紅は、まるで人を地獄の底に誘う死神のようだ。彼女が物理的に浮かんでいるのは、重力魔法のお陰だろう。


「逃がすかッ!」


 軽い身体強化の魔法を施したフォルテは、その銀と紅の影を追って疾風の如く駆け出す。黄金色のポニーテールを、文字通り尻尾のようになびかせて。後方で広場の野次馬が騒いでいるが、今は放置しておいていいだろう。


 スルリスルリと宙に浮かんだまま滑るように木々を縫っていくエリスだが、フォルテも負けてはいない。勝手知ったるは故郷の森。流れる金狼族の血に任せ、まさに獣のように地面を蹴り、隆起した木の根を蹴り、時には幹をも足場にして加速することで、幾つかの小規模なクレーターを作りながら刹那の内に肉薄する。


 夜のヴィルト大森林は月明かりも無く漆黒の闇に覆われているが、夜の住人であるエリスと狼の血を引くフォルテにはさしたる問題ではない。彼女達の紅眼と碧眼は、互いを真っ直ぐに見据えている。


 森の中を駆け巡る黄金の迅風となったフォルテ。それを目前にしたエリスは……


「……ふっ」


 口角を少しだけ吊り上げる。


 とその瞬間、【直感】によって嫌なものを感じ取ったフォルテは、地面を軽く砕き割り勢い良く跳び上がった。


 すると一拍遅れて、ガチンッ! と金属製の牙を持った無機質な顎が虚空を噛み砕いた。エリスによって生み出されたベアトラップだ。それも、もしマトモに引っかかっていたらドラゴンの足でも捥ぎ取ってしまいそうな代物である。


「戦場はここで良いんだなっ!」

「そう言うこと……《鮮血の極刑(カズィクル・ベイ)》!」


 何も捕らえず終いのベアトラップには目もくれず、エリスは手に持った刺突剣を指揮棒の如く優雅に振るう。途端、彼女の周囲から伸びた幾本もの幾何学的な杭が、空中に舞い上がった獲物(フォルテ)に襲いかかった。


 身体強化の光を纏ったフォルテは冷静にも空中で身体を捻り、迫る杭のギリギリを掠めながら、目にも留まらぬ速さで直剣を振るう。無属性魔法による強化が施された刃は石の尖杭達をバラバラに斬り崩し、瞬く間に術者への道を切り拓く!


「はあぁぁああッ!!」


 そして気合の掛け声と共に重力加速の勢いを乗せ、一閃!


 迸った刃の軌跡は地面ごとエリスの身体を両断し――――いや、手応えは無かった。目の前には真っ二つに分断され、ユラユラと霞むように消えていくエリスの姿があると言うのに。


 闇夜に揺らいで溶けていった少女の姿に舌打ちしつつ、即座に振り返って刺突剣の一撃を弾くフォルテ。甲高い金属音と共に火花が散った。


「先程のアレは幻、かっ」

「……ん、《夢想の儚焔(トロイメライ)》」


 事の種は、火属性魔法による陽炎と、姿を自在に変える吸血鬼特有の技能【影化】を組み合わせた、幻影投写の魔法だ。ジックリと観察すれば、微かな揺らぎや気配の違和感で幻であると看破することは可能だが、それでも何気に強力で厄介な代物である。


「まだまだこれから、楽しませてね……」

「ご所望とあらば!」


 近接戦ではやはり、騎士として戦う腕を磨いて来たフォルテの方が有利だ。強化魔法まで乗った彼女ならば、剣のリーチに入ってきた魔法使いなど瞬時に切り伏せることが出来る。


 故に刺突剣は数度の撃ち合いの果てに容易く弾き飛ばされ、大きく姿勢を崩したエリスは、鋭い踏み込みと共に放たれた袈裟の一撃によって豆腐の如く両断される。


 そのエリスもまた、陽炎の如く揺らぎ……消えた。


 苦い顔をしつつ、隙無く構えて辺りを見回すフォルテ。エリスの姿は何処にも無かった。あるのは――――そう、何処かから響いてくる年端もいかない少女の笑い声のみ。


「ふふ……この時間は、夜は、“私”の領域。戦いを挑んだこと、後悔させてあげる……」


 反響するように全方位から聞こえてくる声は、その出処を悟らせない。もしくは、文字通り全方位から語りかけて来ているのかもしれないが。


「ッ!!」


 瞬間、ゾワリと感じた悪寒に任せて振り返りざまに剣を振るえば……消えゆく陽炎と引き換えに、フォルテの頬に一筋の紅い線が刻まれた。


「ぁは……ハズレ……。残念でした……」

「チッ、流石は創世の時代に最も“闇”と適合した種族。全く恐ろしい、なッ!」


 側面に姿を現したエリスが、鋭い呼気と共に斬り捨てられる。当然手応えは、無い。


 その影が消えたと思ったら……今度はなんと、周囲を取り囲むように無数の幻影が姿を現したではないか。


 皆一様に、銀の髪と白い肌を闇夜に薄ぼんやりと浮かび上がらせ、紅い双眸を怪しく輝かせている。全員同じ顔をフォルテに向けているのだから、当の本人からすれば相当に恐ろしい光景だろう。


 夜の森に、クスクス、クスクスと少女達の小さな笑い声が木霊する。


「ねえ、私はどこ? 私はどれ?」

「ここ? あそこ? 前? ……それとも後ろ?」

「横かもしれないし、上や下かもしれないわ」

「私は何処にも居ないし、何処にでも居る」

「これが吸血鬼……これこそが、吸血鬼(ヴァンパイア)

「さぁ……踊りましょう? 楽しく、愉しく……。さもないと……」


 ――――串刺しね?


「ッッ!?」


 不意に後ろから抱きつかれ、耳元で囁かれた言葉に、背筋が凍るような戦慄を覚えるフォルテ。


 咄嗟にその腕を振り払い、間違いなく実体のあった少女を斬りつけようとするも、楽しそうな笑い声を残して消えていく彼女を捉えることは出来なかった。


 そうこうしていると、横合いから幻影の一つが刺突剣を構えて飛び出して来た。


 その切っ先を、フォルテは直剣の腹で受け止め弾き返す。刺突剣自体は重力魔法で制御されているのか、確かな実体があった。


 つまり周りを取り囲む彼女達が持つモノも、同じく致命の刃であるということ。それを理解したフォルテに、さあ本番だと言わんばかりに幻影達が飛びかかる。


 紅い瞳と、鋭い犬歯をギラつかせて。


「く……これは、流石に……っ!」


 全方位から同時に、もしくはほんの少しタイミングを変えて迫ってくる鋭い刃の群れ。操っているのは全てエリス一人である以上、その連携は完璧だ。


 それ故、フォルテの身体には幾つもの浅い切り傷が増えていく。必死に捌いてはいるが、剣一本ではどうしても無理があった。


 ……亜人族の血を引くフォルテと、生粋の魔法使いであるエリスの格闘技術は、正直言って天と地の差だ。だとしても、“数の暴力”とはかくも偉大なモノである。何せこれがあるからこそ、魔法を使えない亜人族達は、帝国の奴隷という立場に甘んじる他無いのだから。


 いや、それでも致命傷は確実に避けながら幻影を一つ一つ潰して行くフォルテは、かなりの実力者であると言えるだろう。ただ――――幻影魔法と重力魔法、そして刺突剣を生み出す地属性魔法を涼しい顔で並列行使するエリスが規格外に過ぎるだけで。並の人間なら十秒も保たずに串刺しだ。


 それでもやがて、ギリッと歯噛みするフォルテの頬が一層深く抉られ、鮮血が散る。


「ッ……! クソッ、やってくれるよっ」

「ふふ、満身創痍ね……。でも、まだまだこれから……耐えてみて?」


 同時にカウンター気味に斬り伏せられた幻影など目もくれず、また別の幻影がタクトのように刺突剣を振るう。ダンスミュージックを奏でるかの如く。


 するとそれに触発され、フォルテの真下から鋭い杭が飛び出した。辛うじてその一撃は、【直感】任せにクルリとターンして躱したが、その後も幻影達の猛攻は続く。それに加えて杭撃も彼女を襲う。


 このままでは駄目だ。どうしても勝てない。


 そう判断したフォルテは、今まさに鼻先へと迫る尖撃に対し……静かに瞼を伏せた。


 諦めたか? と訝し気に目を細めるエリス。しかしその目は、直後、驚愕の為ほんの僅かながら見開かれることとなった。


「……ふぅん」


 何故なら――――目を閉じたフォルテが、自らに迫る攻撃を見もしないまま木の葉のように揺れて躱したからだ。


「……中々やる」


 幻影達は間髪入れずに追撃を試みるが、それらも全て、両腕をダラリと下ろし目を伏せたままギリギリで避けられる。地面から飛び出す杭も、物は試しと追加で飛ばした礫弾も、全て尽く、フワリフワリと揺れるフォルテを捉えることは無かった。


 答えは単純、【直感】だ。外界から五感を通して得られる情報を、あえて極限まで遮断することで、【直感】をフル稼働させたのである。もはや野生の勘と本能だけで動いている為、あらゆる害意は彼女に届かない。


 まさに“踊る”ように攻撃を躱すフォルテ。やがて生まれた一瞬の隙を見逃さず、身体強化の光を纏いながら独楽の如く一回転し……


「――――《白金の戦乙女(ディ・ヴァルキューレ)》」


 ズバンッッ!!


 神速の回転斬りを放った。


 三百六十度全てを斬り払った斬撃は、無属性の魔力によって作られた刃を飛ばし、周囲の木々ごと幻影達を上下に両断する。感心したように口を開けたエリスの影達は、一人残らず霧散していった。


 ……そう、一人残らず。


 つまり、“此処”には居ない。それを【直感】で見抜いていたフォルテは、倒れてくる木々の間を縫って足場にしながら、凄まじい勢いで空へと駆け昇る。


 満月を背にしながら宙に腰掛け、妖艶に微笑む姫君を見据えながら。


「くふ……正解、せいかい、大正解、よく出来ました。ご褒美に――――堕としてあげるっ」

「舐めてくれるなよ、鮮血姫!」


 エリスが指を振るえば、満月の周りで魔法陣を組むように、無数の炎弾と投擲槍が並べられる。全て威力は桁違い、当たれば即死だ。【直感】がそう教えてくれる。


 今すぐにでも発射されそうなそれらに、フォルテは臆することなく倒れて来た木の幹を踏み、蹴り砕く勢いで空への一歩を踏み出した。


 そして――――もう一歩。


 バリンッ! というガラスが割れるような音と共に、空を踏み締めて舞い上がる。その足元では砕けた半透明の魔力塊が、煌びやかに舞い散る。


 簡単に言えばこれは、大気中の無属性の魔力を収束させて空中に足場を作ったのだ。乱用は出来ないが、ほんの数回、多段ジャンプを決めるくらいは出来るらしい。


「……凄い」

「私とて日夜成長しているという事だ!」


 狼族の脚力と、人間の魔法が合わさった結果出来上がった唯一無二の技術に、思わず素直に賛辞を贈るエリス。同時に紅蓮の焔弾と鈍く月光を反射する投擲槍も贈ってやる。


 ……しかしエリスは、またも驚かされることになる。


「ここ、だっ!」


 フォルテはなんと、宗介が魔法の核をを撃ち抜いて霧散させるように、エリスの魔法を斬り裂いたのだ。よもや核が見えている筈も無いので、恐らく、【直感】による芸当だろう。何と馬鹿げた能力なのだろうか。


「エリスティア、覚悟!」


 霧散する炎と土くれになって風に飛ばされて行く槍の残骸を抜け、再び空中をを踏み締めて突貫するフォルテ。


 自慢の魔法も突破されたエリスは、万事休すだ。よもや【影化】を使って逃げる時間を与えてはくれないだろうし、そもそも、逃げた時点で負けたようなものである。


 故にエリスは、最後の手札を切った。


「やれ」


 ……と。


 瞬間、フォルテの隣から巨大な影が迫る。全長十数メートルはあろうかという、一対の巨翼を持った影だ。


 ――――その影、名を“飛竜(ワイバーン)”と言う。


「ッッッ!? な、何てものを!!」


 咄嗟に空を蹴り、その場を離脱するフォルテ。直後、彼女が居た場所を飛竜の顎門が噛み砕いた。


 なんとか地獄への門に呑まれることを免れたフォルテは、全身に冷や汗を垂らしながら、すれ違う形で大きく旋回する飛竜に目をやる。


 ……頭の天辺から尻尾の先までビッシリと鋭い棘が生えた、赤黒い巨体。飛ぶ為の姿と言うよりは、戦って殺すことに特化した姿だ。禍々しいことこの上無い。しかも全身が月明かりを怪しくする液体で覆われていて、ポタリ、ポタリと赤黒い雫が絶え間無く、蛇の牙から毒液が滲み出すように滴り落ちている。


 加えて、ぎこちなく空を飛ぶ巨体の双眸からはまるで生気を感じない。例えるならば死んだ動物のそれか。


 いや、否、その竜は間違いなく死んでいた。絶命してなお、動いているのだ。言うなれば……そう、屍竜(ドラゴンゾンビ)である。


 まあ正確には、死体の全身に根を巡らせた“杭”をエリスが操ることで、無理矢理に動かされているだけ――飛び出した棘は枝を伸ばした杭の末端部分――なのだが、そんなことは些事に過ぎない。


「……いけ、“バスカヴィル”」


 エリスが命無きペットに命令を下せば、屍竜は首の骨をバキバキにへし折ったような角度で振り向き、死者の慟哭が如き咆哮を上げながらフォルテへと突進する。全身から、赤黒い()を撒き散らして。


「君は、本当に!! いつのまにこんなモノをっ!」


 再度空を蹴り破り、巨体の突撃を躱すフォルテ。“空中ジャンプ”は大気中の魔力を練り上げる精神力が必要なので無駄使いは出来ず、最小限の動きで。


「……上から眺めてたら飛びかかってきたから、返り討ちにしただけ。今ではすっかり従順で……とても良い子」

「くっ、そりゃあそうだろうさ!」


 叩きのめして服従させたのではなく、殺して操り人形にしたのだから、従順なのは当たり前だ。


 いやはや、流石は吸血鬼。やることがえげつない。あまりの所業にフォルテも若干引いている。勿論、全力を出せばこの限りではないだろうが……。


 しかし、如何に顔を顰めようとエリスが、そして命の無い屍竜が手を抜くことは無い。フォルテが突撃を躱せばその瞬間、飛竜はゴキリと嫌な音を立てながら身体を曲げて超鋭角ターンを決めてくる。


「っ、何だそれはっ」


 物理的に不可能だろうと言うような関節を無視した制動には、目を剥く他なかった。翼もあからさまに捻じ曲がっているが、そもそもの姿勢制御は重力魔法で行っているのだろう。全く堕ちる気配は見えない。


 加えて全身を覆う棘。これが、触れるだけで鮫肌のように傷付けてくるものだから、ただの回避にも細心の注意を要求される。お陰でフォルテは防戦一方だ。


 躱す、躱す。飛び退き、血飛沫が舞った。


 ほんの一瞬魔力の扱いを間違えば足場を踏み外し、瞬時にズタズタに引き裂かれる。本来得意ではない魔法を巧みに操りながら、その中で先の先の更に先まで行動を読み回避する。


 そんな戦いが、長く続く筈も無く。そして、エリスがジッと戦いを眺めている筈も無く。


 およそ十度ほどフォルテと屍竜の身体が交差した時、エリスが、決着を付けるべくその右手を静かに掲げた。


「……そろそろ、終わりにしてあげる。――――《ひれ伏せ》」


 そして、静かな命令と共に、死神が鎌を振り下ろすかの如く振るわれた。


「ッ!? ぐ……っ!」


 途端、フォルテの身体に凄まじい重圧がかかる。地面に墜ちるどころか、そのまま地の果てまで引き摺り込まれそうな超重力だ。当然、全力で抗うが、その場に留まるだけで精一杯と言ったところか。


 重力魔法によって動きを止めた、止めてしまったフォルテ。待ってましたと言わんばかりに、屍竜が大口を開いて突進する。


 それを眼前に、顎が割れそうな程に歯を食いしばって重力に抗うフォルテは……最後の魔法を唱えた。


「これしきの、事でっ! 私は、止められらしない! 《戦姫(ブリュンヒルデ)》ッ!!」


 瞬間、彼女の身体を膨大な量の魔力が取り囲む。金のポニーテールが重力に逆らって大きく揺らぐ。


 そうして煌めく魔力を纏ったフォルテは、屍竜の顎に呑まれる寸前で、ズドンッッ!!! と言う破砕音と共に高く高く飛び上がった。


 舞い散ったガラスのような魔力片は牙が生え並んだ大口に呑み込まれたが、フォルテはもはやそこには居ない。その上空で、淡い輝きを放つ半透明の大剣を構えている。無属性魔法で直剣の刃を伸ばしたのだ。


 両手で高く剣を掲げたフォルテは、全力で叫び、下方へと向けてその刃を勢い良く振り下ろす。


「安らかに、逝けっ!!」


 ――――斬ッ!!!


 振るわれた軌跡にそって飛翔した半透明の三日月が、屍竜の首を、斬り落とした。真っ二つに。


 今だ体内に残っていたらしい鮮血が、断面から勢い良く噴き出す。巨体の頭が、慣性と重力に則って落下していく。


 やがて、首無しの胴体もその後を追って……


「……甘い」


 あろうことか、上空のフォルテに向かって、空に向かって落ちた(・・・)


 あり得ない事態に剣を振り下ろしたまま静止しているフォルテは、唖然としたまま、頭を失ってなお迫ってくる巨体を眺める。


 どうやら魔法の使い過ぎによる披露で動けないらしく、飛んできた死体の尻尾による一撃をモロに喰らって、轟音と共に地面へと叩きつけられた。


「が、ハッ……」


 咄嗟に腕で身体を守ったもののダメージは絶大。出来上がった小規模なクレーターの中心で、肺の空気と共に血が吐き出される。


 そんな彼女を空から見下ろし、「ん……よくやった、バスカヴィル」と屍竜の首筋を撫でたエリスは、その死体を指輪に回収して空から降りてくる。御丁寧に、フォルテが起き上がれないよう重力魔法で圧力をかけながら。


 そして、大の字になる彼女の傍にフワリと降り立つと、いつの間にやらその手に握った刺突剣を突きつけて宣言した。何処かホッとしたような表情に思えるのは、宗介の隣という場所を死守できたからだろうか。


「……惜しかったけど、私の勝ち」

「……あぁ、そして私の負けだ。ワイバーンは卑怯だろうとか、色々言いたいが……私から果たし状を叩きつけ、そして油断の果てに負けた。煮るなり焼くなり好きにすると良い」

「……それじゃあ、お言葉に、甘えて……」


 エリスはゆっくりと、膝を突いて腰を下ろす。そして、その華奢な両手をフォルテの両頬に這わせた。顔を覗き込む紅い瞳は、何やら期待と興奮で爛々と輝いているように見える。


「……何故、私の顔を見て舌なめずりをするんだ?」

「……いただきます」

「おい待て私の話を――――んむッ!?!?」


 その言葉を遮るように、エリスの唇がフォルテの唇に、重ね合わされた。


 当然、何事かと頬を真っ赤に染めて目を白黒させるフォルテ。対するエリスは、赤い舌で相手の唇を舐め、それでは足りぬと、更に奥へと容易く舌を進めていく。やたらと妖艶な声を零しながら……。


「ん……む、ぁ……」

「ひ、ひひゃま……や、め……!」


 重力魔法のせいでもがくこともできず、フォルテは目に涙を浮かべて顔を真っ赤にし、言葉にならない悲鳴を上げる。


 その口の中では、柔らかなエリスの舌が一個の生物のように這い回り、歯茎を舐め舌を絡め取り、唾液を吸って蹂躙していた。


 そうして、数分経っただろうか。


 エリスは満足したように舌を抜き、唇を離した。二人の間に架けられた赤色混じりの妖艶な銀橋が、タラリと千切れ落ちる。


 お淑やかに口元を拭い、満足そうな表情を浮かべるエリス。フォルテの方は……皆まで言うまい。強いて言うなら大分惚けていた。


「……美味だった」

「う、う、うるひゃい! もう、もう、お嫁に行けない……!」


 同時に重力魔法が解かれたらしく、フォルテは瞬時に真っ赤になった顔を隠す。全身がプルプル震えているのはご愛嬌。


「お、お、おお女同士で、いきなり何をっ!?」

「……血を舐めさせてもらっただけ、だけど?」

「そ、そんな感じではなかっただろうっ!? あんな、デ、デ、ディープなっ! 始めてだったのに、始めてだったのに……っ!!」

「……久しぶりに、穢れを知らない生娘の血を飲んだから、昂ぶっちゃった……かも」

「~~~~っ!? わ、悪かったな生娘でっ!」


 グスリと鼻をすすり、それきり塞ぎ込むフォルテ。


 エリスがいきなりキスをしたのは、彼女の血を飲む為だ。吐血した際に残った血などを舐めとったのである。どうやら、彼女の血が予想以上に美味しかったようで興奮してしまったようだが。


 しかし、エリスにとっては食事でも、フォルテにとってはやたらと過激な初体験である。やはりやることがえげつない。


「うぅ、いっそ殺してくれぇ……」

「……それは無理。お邪魔虫はこれから、私の非常食。もしくは、血液タンク。この決定に変更は無い」

「くっ、確かに負けた私が悪いが……」


 つまりは今後一生、エリスの好きな時に自らの血を分ける生活が待っているということだ。中々に壮絶な生活である。


 しかし逆を言えば、宗介とエリス二人の旅に着いて行ける――付属品とも言うが――と言うことにもなるのだ。殺されなかった上にある意味で公認を得たと考えれば、僥倖とも言えるだろう。


 そう判断したフォルテは、諦めたように溜息を吐いた。


「良いさ、騎士に二言は無い。非常食でも血液タンクでも、何でもやってやろうじゃないか。精々、捨てられないように頑張らせてもらおう」

「……ん、それで良い」


 その言葉に、満足そうに頷くエリス。


 ともあれ、これで二人の仁義なき争いは、エリスの勝ちという形で決着が付いた。これでエリスは今後の立ち位置を保証されたし、宗介も後顧の憂い無く“天空の塔”の攻略に力を入れられるというものだ。


 里の片隅でゴーレムを創って帰りを待っているだろう宗介の為、二人はそそくさと戦場を後にする。


 ――――その時だった。


「うお、なんだこの惨劇っ」

「勇者様が狩り損ねた魔物でも暴れたか?」

「こりゃ場合によっちゃ、明日の作戦にも支障が出るんじゃねえか……」


 鎧を着た人間達(・・・)が、騒ぎを聞きつけてやって来たのは。

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