一 日常の終わり
ぐらりと揺らぐ意識の中、彼は足場が崩れて行くのを感じていた。
(完っっっ全にやられた……。くそっ、まさか今このタイミングで動いてくるなんて)
もはや彼にそこから脱出する術は無く、轟音を轟かせる崩落に巻き込まれる以外の道は残されていない。
――――ォォオオオ、と一足先に落ちて行ったゴーレムの慟哭が響き渡る。
(ちくしょう、もう二度と面倒事には手出ししねえ……)
彼はそう決意した。しかし無常にも、度重なる負荷に耐え切れなかった石橋は、その二度目を奪い去らんと仄暗い奈落の底へ落ちて行く。
“フォールン大空洞”の闇が、一人の少年を呑み込んだ。
◆
「なぁなぁ、西田ぁ。ちょーっとさ、購買でパン買ってきてくんね?」
変わらない日常に、西田宗介は心の中でうんざりしたように溜息を吐いた。またか、と。
教室の隅で静かに昼食を摂る宗介にそのようなお願いをしてくるのは、彼のクラスメイトである北池誠だ。非常に不本意ながら、全くもって不本意ながら、見知った仲である。
「俺も頼むわ、唐揚げパンな」
「あ、アイスよろしく!」
その北池の友人二人も、宗介にお願いしてくる。彼は口に含んでいたものを呑み込み、三人に尋ねた。
「お金は……俺のポケットマネーだよね」
「そりゃもう、当然! 俺ら、友達だもんな、奢ってくれるだろ?」
友達、という部分を強調した北池の言葉に、宗介は苦笑いを返すことしか出来なかった。
(奢り返してもらった記憶が無いんだよなあ、奢り合いなら大歓迎なのに。はぁ、あまり暴力を振るわれないだけマシだけどさ……)
内心で愚痴りながら、彼は財布をポケットに入れて席を立つ。
どうせあと半年ほども耐えればこのクラスからおさらばできる。ならば、この理不尽なお願いなどに抵抗し、事を荒立たせる必要もない。
そんな日本人の姿を体現したような事なかれ主義である宗介は、北池達のパシリにされる現状を甘んじて受け入れていた。勿論、算段が立てばどうにかするし、いつか見返してやるつもりではあるが。
「ギャハハハ! よろしくな西田ぁ」
「あぁ、ついでに炭酸も頼むわ。五分以内な!」
「ひゃはは、ひっでえの!」
三人の下品な笑い声を背に受けながら、宗介はそそくさと教室を後にした。
一際大きな溜息を残して。
◆
人で溢れる食堂をひっそりと通り抜け、購買のおばちゃんから唐揚げパン三つを受け取り、アイスと炭酸飲料を適当に買い占め、それらを抱えていざ教室へ――――という時。
「宗介くんっ!」
不意に、宗介の背中に声がかかった。ピクリとその声に反応した彼は肩越しに声の主の姿を確認する。
「あぁ…………楠木、さん」
「むっ、長い付き合いなのに、いつまで経ってもその他人行儀な呼び方は変えてくれないの?」
「いや、その……」
楠木葵。宗介のクラスメイトであり、一応の幼馴染だ。クラス内での地位が低い宗介にも仲良く接してくれる数少ない人物の一人でもある。
いわゆる“クラスのマドンナ”で、大和撫子を体現した美しい容姿と性格は成る程、彼女にしたいランキング堂々一位の威厳を感じさせる。絶えない微笑と艶やかな黒髪は、正しく女神様であった。
そんな美少女が、教室への道を歩く宗介の隣に並ぶ。すると当然、周りに居る男子からは嫉妬の眼光が突き刺さる。“男子E”辺りの奴がクラスのマドンナと会話しているのだ、無理もない。
なんとも居た堪れない気持ちになった宗介は、しかし無下に扱うと男子女子から大バッシングを受ける未来が目に見えている為、いつも通りに若干頬を引きつらせながら言葉を交わした。
「食堂で昼飯摂ってたんだ」
「露骨に話を逸らしたね?」
「いや、別に……」
むっとする葵に、宗介は目を逸らす。
「まあいいけどね。それで、今日もまた北池くん達の……?」
葵の視線が宗介の腕の中へと向かった。パンとアイスと炭酸飲料が抱えられた腕だ。
幼馴染でありクラスメイトという立場に加えて、生来の面倒見の良さを持つ葵には、宗介の現状を見て見ぬ振りで放置するのは耐え難いようだ。
だが、宗介本人は手助けなど求めては居ないため、「いや、まぁ、別に」と言葉を濁す。
「宗介くんはそうだよね。やっぱり、わたしから北池くん達に言ってあげようか? 毎日、毎日、されるがままで……見てられないよ」
葵の言葉に、宗介は一瞬申し訳なさそうな顔を浮かべた。
気持ちは嬉しい。その優しさには本当に頭が下がる思いだ。だが、宗介はその気遣いを切り捨てる。
「無駄な心配も、無用な手出しも、別に要らないよ。どう考えても今より立場が悪くなるだけだし」
「……だよね。軽率だったよ、ゴメンね」
こういうものは、下手に手を出すと状況は悪化する一方なのだ。葵もそれは分かったらしく引き下がり、とりあえず状況の悪化は防げたな、と宗介は安堵した。
安堵したのだが……。
「その言い方は無いんじゃないかい? 葵は君のことを考えて言ってくれたんだよ?」
同時、宗介の背に軽い怒りを孕んだ声がかかった。やはり一応、知った声である。
「……あー、うん、確かに言い方は悪かったかも。ごめん」
全くの正論に、宗介は大人しく葵に謝った。と言っても葵本人は気にしていないようだが。
――――声の主は、天谷悠斗。宗介に言わせれば“さわやか勇者気質”で、クラスどころか校内でも一、二を争う美男子。文武両道で正義感も強く、その人気は留まるところを知らない。
また、彼は葵の幼馴染でもある。美男美女でお似合いと言ってもいいだろう。一応、その幼馴染という枠の中には宗介も入っているが、明らかに一人だけ場違いであった。
「けどよ、西田。お前はどうしたいんだ? 北池の嫌がらせと言ったら正直目に余るから、俺達もどうにかしたいんだが」
「私達には手出しするなって言う割には、自分から動こうとしないものね。貴方が手を貸してほしいって言うならいつでも力になるわよ?」
そう言うのは、悠斗や葵の友人である周防将大と槍水瑠美だ。外国人張りの巨漢と、クールビューティーな女子である。宗介からすれば、幼馴染の友人という何とも微妙な立ち位置のクラスメイトだったりする。
どうやら葵は、この三人と食堂で昼食を摂っていたらしい。そこで宗介を見つけた葵が一足先に抜けてきて、三人がその後を追ってきた形だ。
「き、気持ちはありがたいんだけどね。色々考えてはいるんだけど、こればっかりは……」
宗介は手元の荷物に目を落とす。
「どうにかしたいなら、方法はいくらでもあるだろう? 例えば……身体を鍛えるとか。弱いままじゃあ、駄目だ」
「まあ、そうだけど……」
悠斗の言葉は、やはり正論であった。
弱いままじゃ駄目。全くもってその通り。弱者たる宗介であってもその考えには賛同せざるを得ない。
だからといって、趣味に費やす時間を割いてまで身体を鍛える等というのは、どうにも受け入れ難かった。それに身体を鍛えて強くなった頃には、学年が上がってクラスが変わっているだろう。
そして何より、自分はなにも悪くない――――これに尽きる。
弱きは悪、それは良い。だがそれ以上に、真の悪は北池達なのだ。何故自分があんな奴らのために努力する必要があるのか? いや無い。放置しておけば解決するのなら、それでいいだろう。
これが、宗介の基本思考なのだ。変化を望まず平穏を好む宗介は、静かに過ごせればそれでいいのである。
面倒事など、まっぴらごめんだった。
「まあ、いつかどうにかするよ……っと」
いつの間にやら教室の前まで着いていたらしく、両腕が塞がっている宗介は脚で扉を開け、葵達と分かれて自らの席へ向かう。
クラスの中心メンバーと共に帰ってきた宗介を、北池達は苦虫を噛み潰したような表情をして睨んだ。
(あー、やらかしたな……。というか俺の椅子と机、占領されてるし。何処で弁当の続き食べれば良いんだ。人の机に座るなよ……)
若干の現実逃避に走りながら、宗介は北池達に買ってきた物を渡す。三人とも不機嫌気味だ。
「お前さ、何なの? 当て付け?」
「いや、別にそういうわけじゃ。楠木さん達と会ったのは偶然で……」
「ふーん? あっそ、まあ良いけどよぉ」
北池は、宗介の腕からひったくるようにパンを取る。
「ま、唐揚げパンに免じて許してやるよ!」
「西田も最近、俺らの好み分かってきたよなぁ。超グッジョブ」
取り巻き二人はさほど気にしてはいないようだ。反応に困った宗介はただ苦笑いを返す。
これが、宗介の日常。数ヶ月前から何も変わらない、変えようとも思わない学校生活。
その筈だったのだが――――
その日常を打ち砕くかの如く、教室中が光に包まれた。
「っ!? 何だ、これ……」
光源は、足元。教室の床だ。
そこに浮かび上がった円環模様が、光り輝いているのだ。
明らかに異常である。何の変哲もないワックス塗りのフローリングには、そんな幾何学模様など刻まれていない。
理解が追いつかない事態に、宗介や北池達を含むクラスメイト達は、皆一様に混乱の渦に呑まれた。
「お、おい西田ぁ! なんだよこれっ! オタクなら分かるんじゃねえのか!?」
普段はあまり焦りなど見せず、強気に振舞っている北池ですら、この異常事態には戸惑いを隠せないようだ。
「そんな、俺に聞かれても……っ」
分からない。そう言おうとした宗介は、ハッと言い淀んだ。
北池が言う通り、宗介はいわゆるオタクである。ちなみに割と幅広く手を出しているタイプだ。アニメは幅広いジャンルのものを見るし、ゲームは広く浅くプレイする。本に関しては一般小説からライトノベルまで読んでいる。
そうして幅広く手を出した結果に得た知識が、彼の頭の中で渦巻き、今の状況に一つの仮説を導き出したのだ。
即ち――――これは“異世界召喚”ではないのか、と。
「そんな馬鹿な、あり得ない……」
しかし、仮説は仮説。そして非現実な仮説はただの妄想に過ぎない。面倒な日常から一人現実逃避をすることこそあれど、妄想世界に逃げ込む趣味は宗介には無かった。
故に頭が、それを必死に否定する。
「み、皆、落ち着いて!」
「直ぐに避難をっ」
荒れる教室に悠斗と葵の声が響く。
が、もう遅い。
その“魔法陣”はクラスメイト達を引き摺り込まんと、一層輝きを増して行く。あまりの眩しさに宗介が目を瞑り手で顔を庇ったのと、魔法陣の光が爆発したのはほぼ同時であった。
(嘘だと言ってくれ――――)
そんな宗介の心の声は誰にも届かずに。
光が晴れた後にクラスメイト三十人余りの姿は無く、嵐が去ったように荒れた、静かな教室だけが残っていた……。