白い孤独
どこまでも広がっている平地は、雪が降り積もって白く、空は星一つない黒。ただ欠けた月だけが、白く世界を照らしていた。風もなく音もなく、変わることのない景色。白と黒の世界。
何の前触れもなく、気付けばそこに誰かがいた。雪のような、否、雪そのものの身体をもった1人の少女だ。大人になりかけの、女性と少女の中間。それを雪像にしたかのような姿。真っ白な彼女は、戸惑うように辺りを見回した。
ー此処はどこ?私は誰?
陳腐な、それこそ使い古された言葉が、手で触れられそうな焦燥感をもって響いた。
ーわからない。何もわからない。何か大切なものを持っていたはずなのに、想っていたはずなのに。何も思い出せない。
何処かへ行かなければならない気がする。だが、それが何処かはわからない。
何かを探さなければならない気がする。だが、それが何かはわからない。
欠けた記憶が満ちたなら、この気持ちは晴れるのだろうか。それはまだ、わからない。
何もない真っ白な雪原を、少女は歩き始めた。欠けてしまった想いを見つけるために。進んだ先に答えがあるような気がして。
雪の身体は寒さを感じることはない。それでも少女は震えていた。
欠けた月が彼女を見下ろしていた。
◇
どれだけ歩いたのかもわからない。景色は相変わらずの白と黒。辺りに響くのは足音だけ。さくり、さくりと音を立てる。振り返ってみると、点々と、何処までも続く彼女の足跡。少女が歩いたことの証明。それがなければ、無為に過ぎていく時間に彼女の心は折られていただろう。膝を折り、倒れて、雪の下に沈み込んでいったかもしれない。
ー行かなくちゃ、行かなくちゃ。
ただひたすらに歩き続ける。何処へかは知らない。ただ前へ進む。足を止めてしまえば、またあの寒さがやってくるから。
だから、何処までも、何処までも、歩き続けなければならない。
雪原には、足音だけが響いている。
◇
欠けた月に見下ろされて、雪の少女は震えていた。何処まで行っても、何処にも行けない。わからない。何もかもが。立ち竦む。
空は相変わらず黒いのに、雪が降ってきた。
ーもう諦めたら?歩いて、歩いて、疲れたでしょう。ゆっくり休んでかまわないよ。
視界が真っ白になり、何処からともなく誰かの声が聞こえてくる。それは、疲れ切って震える少女を慰めるようなものだった。
ーうん、もう疲れたよ。どうして、私は歩いていたのだろう?何もわからないはずなのに。
ーもういいよ。何も考えず、休めばいい。きっとそれが幸せなんだよ。
「しあわせ」。たった四文字の言葉がどうしても心に引っかかった。
ー…そう、かな?それで、本当に幸せになれるのかな?
ー眠ってしまえばいいよ。そうすれば、何も気にならなくなる。
声は、まるで少女を引き留めるかのように響く。
ー…幸せなんて、知らない。わからない。わからないはずなのに、知らないはずなのに、私はそれを欲しがっている。
だから進まなくてはならない。そう口にした少女に、雪のように冷たい言葉がかかる。
ー進んだ先が、幸せかどうかもわからないよ。
そんな事はわかっている。いや、わからない。何もわからないのだ。だったら、進むしかない。諦めるわけにはいかないのだ。なぜならそれは、何もわからない少女が最初に決めたことだから。心の内から自然に生まれた答えだったから。
だから、言う。
ーそれでも。此処では、きっと幸せにはなれないよ。だから、行きます。
いつの間にか雪原に倒れていた少女は、半ば雪に埋もれていた。
少女の側にはまるで誰かが居たかのように、そして崩れてしまったかのように、小さな雪の山があった。
立ち上がった少女はそれを見て、小さく笑って呟いた。
ー行ってきます。
ー行ってらっしゃい。
再び歩き出した少女の後ろで、雪の山はさらさらと消えてしまった。
震えは、もう止まっていた。
◇
月は既に沈んでいた。白む空に最後に見えた月が彼女には満月に見えたような気がした。
上も下も白くなって、やがて太陽が静かに昇り始める。
初めて感じる日差しは暖かくて、涙がこぼれるようだった。
欠けた想いは取り戻していた。“行ってきます。“と誰かに伝えることができたのだから。彼女が求めた暖かさを手に入れていたのだから。
空に手を伸ばす。太陽の光が眩しかった。
ー世界は、こんなにも美しかったんだ。
周りを、世界を見回せば、光が雪に反射して、どこもかしこも輝いて見えた。
にこりと笑った少女の身体は溶けて崩れ落ちていく。
ーさよなら。
ひらりと誰かに手を振って、少女は世界から消えた。
ーええ、さよならね。
欠けた月は、もう何処にもなかった。