現れた置手紙の謎
二泊三日の京都旅行から下宿先のアパートに帰ってくると、部屋の中に知らない物があった。
もちろんと云うべきかなんと云うべきか、僕に同居人なんて高尚なものはいないし、鍵をかけないで外を出歩くほど僕は不用心でもなければ忘れっぽくもない。
確かに部屋の戸締りをして、京都へ行ったのに――京都は素晴らしかった――帰ってきたら、以前は無かった物が存在している。これはおかしい。おかしいったらおかしい。僕が云うんだから嘘じゃない。
僕はおののきながら机の上に置かれた物に視線を向ける――白い紙に見える――っていうか白い紙だ――。
大きさは一万円札程度(一万円だったら良かったのに)で、厚さもそのくらい。果たしてこれは何なのか?
僕の脳裏に、かつて愛読していた怪盗ルパンの姿がよぎる。いや、あれは怪人二十面相? べつにどちらでも構わない。
――異変を察知した探偵が部屋に飛び込む。と、そこにあるはずの宝石がなくなっていて、その代わりに置手紙があるのだ。
『わはははは! 宝石《ドラゴン・アイ》はこの怪人二十ルパンがいただいた! 部屋を密室にしてガードするという発想は良かったが、今回は私のほうが一枚上手だったようだね!』
云々。
もちろん僕の部屋に《ドラゴン・アイ》なる宝石もいかなる宝石も無いけれど、ともかくこれはその類の置手紙なのではないか? タンス預金が三万円ほどあったはずだが。
僕は震える手でくだんの紙を裏返す。そこには――おお――予想した通り、何事かの文句が書かれている。残された言葉はたった一つ。
『ごめんなさい』
「――と云うことがあったんだ」
「便利なセリフだね、それ」僕の正面に座った瀬能武司は南国トロピカルパフェなる物をつつきながらそう云った。
武司と云うといかにも勇ましい名前だが、瀬能は女の子である。叙述トリックが仕込めそうな感じである。面倒だからしないけど。
「で、瀬能の感想は?」
「遠山くんの説明は」と細長いスプーンで僕を指す。「要領を得ないね。そんなんじゃワトスンくんにもヘイスティングズ大尉にもなれないよ?」
「べつに、なれなくてもいいから」
大尉って階級にはすこし興味があるけど。
「うーん……置手紙ね、置手紙」と瀬能。
「そう、置手紙、置手紙」と僕。
「それで、二万円だか三万円だかのしょっぼいタンス預金は無事だったの?」
「無事だった。それどころか、なにも無くなってなかった……え、しょぼい?」
「なにも盗まれたわけじゃないのに、『ごめんなさい』と書かれた手紙が残っていた。しかも現場は密室……フム」
「全然しょぼくないと思うんだけどな? って云うか全然しょぼくないだろ? しょぼくないよなあ」
「基本的なこと確認したいんだけど、鍵は確かにかかってたの?」
「うん、それは間違いない」
「じゃあ、合鍵を持ってる人は?」
「そんな人はいない……あ、でも大家さんが持ってるのか」
「じゃあ、置手紙を残していったのは大家さん?」
チン、とスプーンでパフェの入っていたガラス容器を叩く瀬能。
縁起が悪い……じゃなくて行儀が悪い。
「いや、大家さんじゃないと思う。あの人に限ってそれはあり得ないな。なんでも以前、あんまり反応のない下宿人を心配して合鍵を使ったことがあったんだけど、その下宿人ってのは全然元気で、それどころかプライバシーの侵害だってんで一ヶ月分の家賃をタダにさせられたんだってさ。それに懲りて、もう何があっても合鍵は使わないと決めたって云ってた」
「大家さんの合鍵の管理はどんな?」
「肌身離さず」
「なるほど」瀬能は頷き、やおらメニュー表を開く。「ア、スイマセーン、ナンゴクマシマシユビキタスプリン一ツ!」
よく食う。
「謎はもうほとんど全部解けたと思う」瀬能が唐突に云った。
「へ?」
「あとは確認の段階だよね。と云うことでプリン食べたら遠山くんのお家に行きます。大丈夫、どんな物が有ってもこれ以上きみの評価は下がらないから」
「は?」
「ところでここってきみの奢りだよね? わたし今日財布持ってないヨ」
「あ?」
と云うことで、再び僕の部屋。
くだんの置手紙はそのまま。
謎もそのまま。
「なんだ、結構綺麗にしてるじゃない。感心感心」
「そりゃどうも……」
置手紙に飛び付くかと思いきや、瀬能は自分の携帯電話と睨めっこしていた。
「……なにしてんの?」
「調べもの。もう終わるけど」携帯電話を鞄にしまう。「さてさて、隠し扉も無さそうだし、手紙を投げ入れられるような都合のいい隙間もなさそうだし、針と糸のトリックも無理そうだし、これはいよいよわたしの推理が正しそうだね」
「手紙は見なくていいのか?」
「どこ?」
僕は机の上の置手紙を指差す。
瀬能がそれを手に取る。
「なるほど、『ごめんなさい』だけだ。しかも手書きだね。紙はどこにでもある感じ。こういう事もちゃんとわたしに伝えるべきだと思うけど……ま、いいや。指紋を調べたら、きっと出てくるんだろうなあ」
「あ、指紋。それは考えてなかった」
「遠山くんとわたしの指紋も検出されるよね。今回はいいけど、ワトスンくんやヘイスティングズ大尉を目指すのならもっと気を付けるべきだよ」
「だから、目指してないって」
手紙を机の上に戻すと、瀬能は厳しい目付きを床に向け、なにやらおっかなびっくり歩き出す。
「カーテン開けていい?」と瀬能。
「どうぞ?」
瀬能がカーテンを引っ張る。
部屋の中に太陽の光が入ってくる。窓の向こうは物干し竿のあるベランダ、それから空きの多い駐車場……。駐車場の向こう側には別のアパート。
僕の部屋は一階だ。景色の良さなんて望むべくもない。
「やあ、綺麗な窓ガラスだねえ」
「虚しくなるから止めてくれ……」
「ここからなら出入りできるよね。普段の生活でベランダに出なきゃいけない訳だし、ここは一階だから、外からベランダに入ることもできる」
「窓の鍵がかかってなかったらな」
「なるほど、今はかかってる」内側からなら鍵がなくても開閉できるクレセント錠を見ながら瀬能が云う。「でも、京都から帰ってきた時もかかってた? 京都に行く前も、かかってた?」
「ちゃんと確認したよ。どっちも、完璧に、かかってた。それが瀬能の推理だって云うのなら、残念だけど外れだね」
「焦らないの、これも確認に過ぎないから。ふふん――世の中の多くの出来事は、細部を詰める事で完成に至るのだよ、ワトスンくん!」
「は?」
「今のはわたしのセリフだけどね。ワトスンくんじゃなくてモナミのほうが良かった?」
「まるで意味が分からないんだけど」
「謎は解けたってこと」瀬能はそう云ってにっこり笑う。「さてさて、それでは解決編といきましょうか」
「本来なら関係者全員を集めたいところなんだけどね、それはまあ、次の機会と云うことで」瀬能は胸を張って自慢げに語りだす。
僕はなんとなく正座する。
「今回の事件の謎は、ずばり密室ということです。犯人――便宜上犯人と呼ぶけど――犯人は、いかにして鍵のかかった部屋に忍び込み、手紙を置いて出ていったのでしょうか? まさか人が煙のように消えるわけにはいかないからね」
「うん、まあ、概ね異論はない」
「概ねだって! カッコつけちゃってさ!」
「…………えっと」
「外から、何らかの方法で、手紙だけを部屋の中に送りこんだのでしょうか? でもこれは違いますね。手紙だって物質なので、壁をすり抜けることはできません。ここまではいい?」
「いいと思うけど」
「さてさて、人の出入りが可能な場所が、この部屋には二か所あります。玄関のドアと、ベランダに通じる窓ですね。でもどちらも鍵がかかっていて、外から開けることはできません。唯一合鍵を持っている大家さんも、絶対に使わないと決めたそうです。さあ、となると、犯人は一体どうやって部屋のなかに忍び込んだのでしょうか?」
「それを推理したんじゃないのか?」
「うん……ところで遠山くん、紙の辞書持ってる?」
「え? まあ、持ってるけど……」
僕は本棚を指でさす。
本棚の上に、厚さ五センチくらいの『新明解国語辞典』がででんと直立している。スタンドアロンだ。恰好いい。
「ちょっと借りるよ」瀬能はそう云うと新明解を両手で持ち、なにか調べる素振りも見せずにニヤニヤしだす。
「どうしたんだ? 頭、大丈夫?」
「紙の辞書がいい、いや電子辞書がいい、なんて色々云うけど、今からすることは明らかに紙の辞書じゃないとできない。――密室の謎は、電子辞書には解けない」
「はあ」
「あ、遠山くん、危ないからちょっと下がって」
「え? ああ、分かった」
部屋の隅のほうに移動すると、瀬能は部屋の真ん中に仁王立ちする。そしてハンマー投げ選手のようにぐるぐると回り始めた。ハンマーについては新明解国語辞典が代役を果たしている。
とうとう頭がおかしくなったのか?
「何やってんの?」
と僕が云った瞬間、新明解国語辞典が部屋の中から外へと飛び出した、瀬能に投げられて、窓ガラスを突き破って。
ガラスの砕け散る音が部屋に響く。
「うひょーいいかんじ!」
「……え? 何やってんの?」
「さて、かくして密室は打ち破られたというわけです。クオト・エラド・デモンストランダム」
「ちょっと待って」
「今回の実験では内側からでしたが、原理としては外側からでも同じですね。外側から紙の辞書、あるいはそれに類する物体を投げ込み、窓ガラスを打ち破る。割れた窓から手を差し入れて、鍵を外す。そして部屋の中に入る……これが真相です。簡単でしたね」
割れた窓から吹きこんでくる風が冷たい。
「ちょっと待って」
「あれ、難しかった?」
「お前の頭がおかしいとかはもうなんかどうでもいいんだけど――」
「お前? 頭がおかしい?」
「――でもさ、僕が京都から帰ってきた時は窓ガラス割れてなかったぞ」
「それはたぶん、直したんだね」と云って、瀬能は鞄から携帯電話を取り出し、誰かと通話を始める。「こんにちはー。窓ガラスの修理をお願いしたいんですけど……ええ、割れちゃって。できますか? 住所は――」
云々。
瀬能は携帯電話を鞄に入れる。
「さっき携帯で調べたんだけど、この辺りで窓ガラスの修理を請け負ってるのは一軒だけなんだよね。ここの住所を告げたら、『あっれー昨日直したばかりですよねえ』だってさ。心当たりある?」
僕は首を横に振る。
「そう、もちろん、昨日に窓の修理を依頼したのは京都にいた遠山くんじゃない。では誰か? 犯人だねえ。そして昨日のうちに窓ガラスは修理された。だから今日、遠山くんが帰ってきた時には窓は割れていなかった。オッケー?」
「まあ、すじは通ってる」
「犯人の行動を時系列順に並べると、まず、紙の辞書か何かで窓ガラスを割る。窓から部屋の中に入る。ガラス片の掃除をする。で、『ごめんなさい』と書いた手紙を机の上に置く――この手紙はこの部屋で書いたんだと思う、紙も筆記具もなんとでもなるしね。紙の辞書か何かを持って、窓から外に出る。割れた窓から手を差し入れて、鍵をかけ直す。窓屋さんに電話して、窓を直してもらう。そうしたら犯人は修理代を窓屋さんに払って、どろん」
「でも、なにも盗まないなら何でそんな意味のないことをしたんだ? さっきの話だと、修理代払ってる分だけ犯人は損してると思うんだけど」
「動機については完全に推測になっちゃうんだけど、一つめの行動は犯人の意志によるものじゃ無かったんだと思うな。紙の辞書か何かで窓ガラスを割る――ってやつ。そこがアクシデントだったとすると、犯人の行動にも意味が見えてくるよね。つまり、アクシデント以前の状態に戻したかったんだよ。部屋の中に入ってしまった紙の辞書か何かを自分の手元に戻すこと、破れた密室を元どおりの密室に戻すこと」
「はあ……?」
「紙の辞書か何かなんて云ってるから分かりづらくなってるけど、これを野球のボールかサッカーボールだと考えると分かりやすくなるんじゃない? このアパート前の駐車場、いい感じに空いてて、遊びやすそうだよね」
僕は駐車場に目を向ける。
アスファルトの上に無残に転がった新明解国語辞典……いやそうじゃなくて。
昨日、たとえばそこでキャッチボールをしていた人がいたとする。キャッチボールだから二人だ。一人のコントロールがある瞬間に、なんらかの理由で狂う。ボールは僕の部屋の窓ガラスを突き破り、部屋のなかに入る。彼らはどう思っただろうか? 僕も昔にキャッチボールをしていた時期がある。よく人の車にぶつけて怒られたものだっけ。
「あれ?」
怒られる? キャッチボール? 昔にしていた?
「さて、ここで問題」と瀬能が云う。笑顔。「犯人は――と云っても犯人なんて便宜上の表現だからね――どんな人でしょう?」
今なら僕にも分かる。
「ひょっとして、子供?」
「ま、子供っていうのはとても曖昧な表現だけど、そうだと思うね。小学生くらいじゃないのかなあ」
「ああ、そう……」
「そうだとすると、むしろしっかりした子だよね。逃げ出したりしないで、窓の修理を頼んじゃうくらいなんだから。最近の子供はおカネ持ち、なのか、もしかしたら親に泣きついたのかもしれないけど、ともかく修理代だって自分で出してるんだ。ちゃんと謝ってることだし、許してあげたら?」
「謝ってる?」
瀬能は置手紙を僕に示す。そこに書かれた言葉。
『ごめんなさい』
なるほど。
「……まあ、別に、誰も許さないなんて云ってないから」
「ツンデレツンデレ」
「は?」
「いやあ、かくしてハッピーエンド。物語も人生もこうでなくちゃね」
「ハッピーエンド?」
「ところで遠山くん、京都旅行のおみやげは?」
「八つ橋が袋の中に……」
「ニッキ? 抹茶? 桜? それとも焼いてあるの?」
「メロン……」
「げ。メロン、メロン味の八つ橋か。絶対まずいに決まってる。まあいいけど。おみやげは何だってありがたく戴きますよ」
「なあ、ところでさ」
「しめしめ。袋ってこれか。ん、なに?」
「ものすごく常識的な話で、聞くのすら失礼になるようなことを聞くんだけど、窓の修理代って瀬能が出すんだよな?」
「わたし今日財布持ってないよ」