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二百年間退任しない大統領ですか? では、歴代九人分の給与明細をご提出ください

作者: シオン
掲載日:2026/09/09


そうしてエミリアたちは、南方共和国へ向かうことになった。


南方共和国アルカディア。


二百年前、九人の若者によって建国されたと伝わる国である。


それ以前のアルカディアは、太陽王朝と呼ばれる一族によって支配されていた。


王族と一部の貴族だけが豊かに暮らし、民には重い税が課せられていた。反抗した者は地下鉱山へ送られ、二度と戻らなかったという。


そんな王朝を倒したのが、後に「建国の八英雄」と呼ばれる者たちだった。


軍を率いた将軍。


国民へ武器を届けた商人。


王都の門を開いた騎士。


食料を集めた農民代表。


王朝の不正を暴いた官僚。


新しい法律を書いた学者。


負傷者を治療した医師。


反乱軍へ情報を流した王宮侍女。


八人は革命を成功させ、王政を廃止した。


その後、八人が順番に大統領へ就任し、共和国の基礎を築いた。


公式の歴史ではそう記されている。


しかしエミリアの手元にある共同宣言書には、九人分の署名があった。


最後の署名だけは、名前が削り取られている。


さらに裏面には、赤い文字でこう記されていた。


『九人目は、まだ生きている』


その人物は二百年前から現在まで、アルカディア共和国の議会へ出席し続けているという。


表向きの役職は、終身建国顧問。


歴代大統領よりも強い発言権を持ちながら、選挙へ立候補することはない。


外見は二十代のまま。


大統領給与と同額の報酬を毎年受け取り、その総額は約一千二百万金貨。


にもかかわらず、共和国の公式記録には名前が存在しなかった。


「生きているのに、歴史から消されている」


馬車の中で、研究員ニコが共同宣言書を見つめる。


「女英雄アルマと同じでしょうか」


「まだ分かりません」


エミリアは九人の署名を確認した。


削られた部分には、文字の痕跡がほとんどない。


署名を書いた後に削ったのではなく、名前そのものが紙から抜き取られたように見える。


「記憶魔術でしょうか」


「その可能性はございます」


「では、記憶王事件の残党が?」


「結論を急いではなりません」


エミリアは共同宣言書を閉じた。


今回の同行者はニコ、魔術史家レオン、国際騎士団のセシル。


さらに共和国制度を専門とする法学者マルタが加わっている。


母リディアは、帝国へ残った。


出発前、エミリアへ二百年分の給与総額を記した書類を渡している。


ただし、その下には赤い文字で注意書きがあった。


『給与を受け取ったこと自体を、不正と決めつけないこと』


同一人物が二百年間働き続けているなら、給与を受け取る権利があるかもしれない。


問題は、職務の内容。


任命の根拠。


金額を決定した手続き。


そして本人が、本当に同じ人物なのか。


「お母様が先に注意書きを入れるとは珍しいですね」


「リディア様は、あなたが請求書を出すことを心配なさったのでしょう」


マルタが笑った。


「まだ出しておりません」


「鞄へ入っておりますが」


「念のためです」


「十枚も?」


ニコが尋ねる。


「現地で増刷する手間を省くためです」


セシルが窓の外を眺めながら口を開く。


「今回、剣の出番はありそうですか?」


「ないことを願っております」


「最近、わたしの役目が扉を壊すことになっている気がします」


「壊してよいとは一度も申し上げておりません」


「今回は鍵を借ります」


「最初から、そうしてください」


一行を乗せた馬車は南へ進んだ。


国境を越えると景色が変わった。


白い石造りの家々。


赤い屋根。


果樹園。


風に揺れる黄金色の麦畑。


街道は整備され、商人の馬車が何台も行き交っている。


共和国は豊かに見えた。


しかし王都へ近づくにつれ、不自然なものが目立ち始めた。


あらゆる役所に、同じ若い男性の肖像画が飾られている。


広場にも。


学校にも。


裁判所にも。


議会堂の正面にも。


黒髪に金色の瞳を持つ、美しい青年だった。


肖像画の下には、名前ではなく肩書だけが記されている。


『共和国の父』


『永遠の建国者』


『九人目の初代大統領』


「名前がございませんね」


エミリアがつぶやく。


街の案内人へ尋ねても、返ってくる答えは同じだった。


「建国顧問閣下です」


「お名前は?」


「建国顧問閣下です」


「それは役職です」


「存じております」


「では、個人名を」


案内人は口を開いた。


だが声が出ない。


何度試しても、喉から空気が漏れるだけだった。


最後には苦しそうに首を横へ振る。


「申し訳ございません。思い出せません」


「名前を知らないのですか?」


「毎月、議会でお姿を拝見しております」


「呼びかける際は?」


「閣下、と」


「お手紙の宛名は?」


「建国顧問閣下です」


国中が、一人の男の存在を知っている。


顔も。


役職も。


二百年間生きていることも。


しかし、誰も名前だけを知らない。


「消されたわけではないのかもしれません」


レオンが肖像画を調べながら言った。


「初めから、名前を持っていなかった?」


「人間ならば、何らかの呼び名はあったはずです」


エミリアは肖像画の瞳を見た。


描かれた青年は、見る者を値踏みするように微笑んでいる。


共和国議会は、巨大な円形の建物だった。


中央に議長席があり、その周囲へ議員の席が並ぶ。


もっとも高い位置に、建国顧問専用の席があった。


現在の大統領より上である。


「共和国でありながら、一人だけが上から全員を見下ろすのですね」


セシルが言った。


出迎えた議長が顔を引きつらせる。


「建国の功労者ですから」


「ほかの八人は?」


「すでに亡くなっております」


「肖像画は?」


議長は議場の壁を示した。


八人の肖像画は、建国顧問の席より低い位置に並べられている。


「九人全員が同じ立場で建国したのでは?」


エミリアが尋ねた。


「建国顧問閣下は特別です」


「何をなさった方なのです?」


「共和国を作られました」


「具体的には?」


議長は黙った。


「軍を率いた?」


「それは初代大統領のガレオンです」


「法律を書いた?」


「第四代大統領のミネルバです」


「王都の門を開いた?」


「第二代大統領です」


「食料を集めた?」


「第五代大統領です」


「では、建国顧問は何を?」


「八英雄を導かれました」


「どのように?」


議長の額に汗が浮かぶ。


「精神的に」


「記録は?」


「歴史書にございます」


提出された歴史書には、建国顧問が八人を導いたと書かれていた。


しかし具体的な会話や行動はない。


危機に陥れば助言した。


人々が迷えば道を示した。


革命が失敗しそうになれば全員を励ました。


抽象的な表現ばかりだった。


一方、当時の日記や軍務記録には建国顧問の姿がない。


「八英雄本人の記録にも、登場いたしません」


エミリアが指摘する。


「秘密の協力者だったのです」


議長が答える。


「議員の皆様は、そう信じておられるのですか?」


「学校で教えられております」


「学校で教えられる前の記録を尋ねています」


議長は答えられなかった。


そのとき、議場の扉が開いた。


黒髪に金色の瞳を持つ青年が入ってくる。


肖像画と同じ顔だった。


外見は二十代半ば。


二百年を生きた者には見えない。


彼が現れると、議員たちは一斉に立ち上がった。


大統領まで席を立つ。


「よく来た、アルヴェインの歴史家」


青年はエミリアを見て微笑んだ。


「お名前を伺っても?」


「私に名は必要ない」


「記録に必要です」


議員たちの間から、不安げなざわめきが上がる。


建国顧問へ名前を尋ねること自体が、不敬とされているらしい。


「共和国の民は、私が誰かを知っている」


「役職しか存じ上げません」


「それで十分だ」


「では、歴代の建国顧問は何名ですか?」


青年の目が細くなる。


「私一人だ」


「二百年間、同じ人物であるという証明は?」


「私が、そう言っている」


エミリアは小さく息を吐いた。


「証拠にはなりません」


「私を偽物だと言うのか?」


「確認したいと申し上げています」


「何を調べたい」


「二百年前から現在までの身体記録、魔力紋、署名、任命書。そして、給与明細です」


最後の言葉で、議場が静まり返った。


青年は初めて、わずかに顔を引きつらせる。


「給与?」


「はい」


「歴史を調べに来たのではないのか?」


「歴史上の人物が現在も公職に就き、報酬を受け取っておりますので」


「私の報酬へ疑問があると?」


「疑問があるから確認するのです」


「私は建国者だ!」


「それは労働内容ではございません」


隣に立つニコが、必死に笑いをこらえた。


青年は議長席へ視線を向ける。


「この女を議場から追い出せ」


誰も動かなかった。


エミリアは正式な国際調査証を掲げている。


調査を要請したのは、ほかでもない共和国議会だった。


「結果が気に入らないからと、調査官を追放なさるのですか?」


「私への侮辱だ!」


「どの発言が?」


「給与明細を出せと言った!」


「公金から支払われているのでしょう?」


「当然だ!」


「それでは公開すべきです」


「建国者の報酬を、民へ説明する必要などない!」


議場に重い沈黙が落ちた。


共和国の建国理念は、公金の使途を民へ公開すること。


王族が税を私物化した反省から、八英雄が定めた原則だった。


建国者を名乗る男が、その理念を自分で否定したのである。


「代表者への敬意と、監査を受けない特権は別です」


エミリアは青年を見た。


「明日の正午までに、必要な資料をご提出ください」


「断る」


「拒否として記録いたします」


「好きにしろ」


「調査へ協力しない場合、一時的に報酬の支払いを停止します」


青年の笑みが消えた。


「何?」


「公職に就いていることを証明できない方へ、公金を支払い続けることはできません」


「私の金を止めるつもりか!」


「共和国の金です」


「私が共和国を作った!」


「それなら、共和国の財産は国民のものだとご存じでしょう」


青年は返事をしなかった。


その日の午後。


エミリアたちは、共和国中央金庫を訪れた。


歴代大統領の給与支払い記録は、すべて保存されていた。


八人の初代大統領は任期を終えると、報酬も停止されている。


一方、建国顧問への給与だけは二百年間、一度も止まっていない。


金額は大統領給与と同額。


十年ごとに特別功労金。


五十年ごとに建国記念金。


専用官邸の維持費。


使用人の給与。


馬車、衣服、食事、警護費。


すべてを合わせると、一千二百万金貨どころではなかった。


「一千八百四十万金貨です」


監査官マルタが計算書を置いた。


「土地や官邸の提供分を含めれば、二千万金貨を超えます」


ニコが息をのむ。


「小国の国家予算何年分です?」


「約六年分です」


エミリアは支払い承認書を確認した。


承認者の欄には、その時代の大統領と議長の署名が並ぶ。


ただし、百二十年前から形式が変わっていた。


建国顧問本人が、自分の報酬を承認している。


「なぜ、このような制度になったのです?」


金庫長は戸惑いながら答えた。


「建国顧問閣下には、大統領の決定を拒否する権限があります」


「いつ定められましたか?」


「百二十年前です」


「法改正の記録は?」


出てきたのは、緊急建国令と呼ばれる文書だった。


共和国が国家存亡の危機に陥った場合、建国顧問は一時的に大統領権限を代行できる。


期間は三十日。


議会の承認を得て、一度だけ延長可能。


それが本来の条文だった。


ところが百二十年前、次の一文が追加されている。


『国家の危機が続く限り、建国顧問の権限は継続する』


「国家の危機とは?」


「建国顧問閣下が判断します」


「権限を継続するかどうかを、権限を持つ本人が決めるのですか?」


「はい」


「危機が終わったかどうかも?」


「はい」


「給与額も?」


金庫長の声が小さくなる。


「はい」


ニコが額を押さえた。


「共和国より、絶対王政に近くありませんか」


「王には任期がございませんから」


マルタが皮肉っぽく答える。


「こちらの建国顧問にもございません」


緊急建国令が初めて使われた百二十年前、共和国では大規模な疫病が流行していた。


建国顧問は混乱を収めるため、一時的に大統領権限を得た。


疫病は二年で終息した。


しかし彼は、次は経済危機があると言った。


経済が回復すると、隣国との緊張。


それが終われば、凶作。


特に大きな問題がない年には、未知の危機へ備える必要があると主張した。


結果、共和国は百二十年間ずっと「非常事態」だった。


「何も起きていないことを、建国顧問のおかげだと説明したのですね」


「はい」


金庫長はうつむいた。


「災害が起きれば、権限が必要だった証拠。起きなければ、権限によって防いだ証拠と」


どちらへ転んでも、建国顧問の正しさが証明される。


反証のできない主張だった。


それでも議会が受け入れた理由がある。


歴代大統領の多くは、問題が起きるたび建国顧問へ判断を任せていた。


失敗すれば顧問の責任。


成功すれば大統領の功績。


自分で決断するより楽だったのだ。


やがて誰も、建国顧問がいない国を想像できなくなった。


「大統領は、何のために選挙で選ばれているのでしょう」


ニコがつぶやいた。


金庫長は答えられなかった。


翌日になっても、建国顧問から資料は提出されなかった。


代わりに届いたのは、エミリアの共和国追放命令だった。


ただし署名した大統領は、命令を出した記憶がないと主張した。


「署名は本物ですか?」


エミリアが尋ねる。


鑑定官がうなずく。


「魔力署名まで一致しております」


「では、大統領が嘘を?」


「違います!」


現在の大統領マティアスは、青ざめていた。


五十代の、穏やかな男性である。


「わたしは昨夜、建国顧問閣下から報告書へ署名するよう求められました」


「内容は?」


「国境警備に関する報告だと」


「読まなかったのですか?」


マティアスは目を伏せた。


「建国顧問閣下がおっしゃることですので」


「署名欄しかない紙でしたか?」


「本文は、確かにございました」


「内容が後から書き換えられた?」


「おそらく」


魔術史家レオンが文書を調べる。


紙の縁から、微弱な魔力が検出された。


「文章転写の術式です」


「署名前には別の文章が?」


「はい。署名された後、指定された内容へ変化します」


マティアスは椅子へへたり込んだ。


「わたしは、何に署名させられてきたのだ」


過去十年分の文書を調べる。


同じ魔力が使われているものが、三百十二件見つかった。


議会の予算承認。


建国顧問の報酬増額。


官邸の改装。


顧問へ反対した議員の解任。


新聞社への発行停止命令。


歴史資料の封印。


すべて大統領自身の署名入りだった。


「閣下にだまされた!」


マティアスが叫ぶ。


エミリアは静かに彼を見る。


「最初の一度は、そうかもしれません」


「最初の?」


「内容を確認せず署名する行為を、十年間続けた責任は大統領にもございます」


「ですが、わたしは信頼して」


「国民から預かった権限を、ご自身の信頼だけで他人へ渡したのですか?」


マティアスは何も言えなかった。


「被害者であることと、責任がないことは同じではございません」


声は厳しくなったが、エミリアは彼を悪人と決めつけなかった。


大統領は建国顧問によってだまされた。


それは事実だ。


同時に、読まずに署名し、判断を任せ続けた。


それも事実である。


「今から、すべての文書を再調査してください」


「わたしが?」


「ご自分の署名です」


「何年かかるか」


「だから何でしょう」


マティアスは長くうつむいた。


やがて顔を上げる。


「分かりました」


言い訳を続けるか。


責任を認めるか。


その選択で、彼は過去の愚かな王子たちとは違う道へ進んだ。


「わたし自身が、議会と国民へ説明します」


「不利な内容も?」


「はい」


「大統領の地位を失うかもしれません」


「選挙で選ばれた者が、選んだ国民へ判断を返すのは当然です」


エミリアは初めて、わずかに微笑んだ。


「では、始めましょう」


調査によって、建国顧問の権力構造は明らかになった。


だが、もっとも大きな謎が残っている。


彼は何者なのか。


なぜ老いないのか。


九人目の署名は、誰のものだったのか。


手がかりは、建国当時の共同宣言書だけだった。


署名が消された裏面には、魔力の痕跡がある。


レオンは三日間かけて術式を解析した。


「名前を隠す魔法ではありません」


「では?」


「契約魔法です」


九人は共同宣言書へ、血と魔力で署名していた。


互いに権力を独占しない。


王政を復活させない。


大統領職を世襲させない。


国の財産を私有しない。


この四つの誓いが記されている。


契約を破れば、署名者は共和国のすべての公職と歴史から名を失う。


「九人目は契約を破ったため、名前を失った?」


「おそらく」


「では、本人は不老ではなく」


エミリアは、共同宣言書に残された魔力を見た。


「契約が終わるまで、死ねないのですね」


九人目の署名者は、国の記録から名前を失った。


しかし、公職に居座り続けた。


契約違反状態が二百年間続いているため、契約が彼を死なせない。


罰は不老ではない。


終わることのできない生だった。


「なぜ、わざわざ契約を破ったのでしょう」


ニコが尋ねる。


「本人へ聞きましょう」


建国顧問官邸は、共和国議会の裏手にあった。


白い大理石で作られた巨大な建物。


建国当時の王宮を改装したものだという。


共和国が王政を倒した後、王宮は病院や学校へ変える予定だった。


しかし、九人目の建国者が自分の住居として受け取った。


入口には衛兵が並んでいる。


「建国顧問閣下は、面会を拒否しております」


衛兵隊長が告げた。


エミリアは捜索令状を示す。


「共和国法務院と議会監査委員会の命令です」


「建国顧問閣下の命令が優先されます」


「法的根拠は?」


「緊急建国令です」


「現在の非常事態は?」


「外国の調査団による内政干渉です」


「わたくしたちを招いたのは共和国議会です」


「建国顧問閣下は認めておりません」


マルタが前へ出た。


「緊急建国令の発動には、大統領と議会の同意が必要です」


「閣下が必要と判断されました」


「百二十年前に追加された条文は、正当な投票を経ておりません」


「何?」


「署名転写術式による偽造の可能性があります」


衛兵たちの表情が変わる。


「したがって建国顧問に、緊急権限はございません」


「ですが、我々は命令されて」


「今、違法である可能性をお伝えしました」


エミリアは衛兵隊長を見る。


「それでも妨害なさるなら、ご自分の判断となります」


隊長は官邸を振り返った。


長年、建国顧問を守ってきた。


共和国を作った偉大な人物だと信じて。


だが給与は三か月遅れている。


官邸改装費が優先され、衛兵の装備は十年前のままだった。


それでも異議を唱えれば、共和国の父へ逆らった反逆者とされた。


隊長は剣を外した。


「我々は共和国の衛兵です」


「はい」


「建国顧問個人の私兵ではございません」


「そのとおりです」


「捜索へ同行します」


官邸の扉が開かれた。


内部には、二百年間に集められた財宝が並んでいた。


歴代大統領から贈られた絵画。


外国の宝石。


英雄たちの遺品。


建国当時の王冠。


革命後に民へ返還されたはずの王家の金貨。


「共和国の所有物ですね」


マルタが目録を作り始める。


財宝だけではない。


地下金庫からは、歴代大統領や議員の秘密を記した文書が出てきた。


不正。


過去の失敗。


家族の問題。


公表されたくない病。


建国顧問は、それらを使って政治家を従わせていた。


「忠告のためだ」


背後から声が聞こえた。


建国顧問が立っている。


「彼らが間違った判断をしないよう、弱点を把握していた」


エミリアは振り返った。


「本人の許可は?」


「必要ない」


「なぜ?」


「国を守るためだ」


「秘密を公表すると脅した記録がございます」


「政治家は弱い」


「だから、あなたが決める?」


「私だけが二百年間、この国を見てきた」


「だから、正しい?」


「そうだ」


青年の声には、迷いがなかった。


「大統領は次々に替わる。議員は自分の選挙区しか見ない。民は目先の利益へ流される」


「あなたは?」


「国全体と未来を見ている」


「官邸と報酬のことも?」


「私は共和国の象徴だ!」


「建国時の記録に、あなたの功績はございません」


青年の顔が強張る。


「記録から消されたからだ」


「何をなさったのです?」


「すべてだ」


「具体的に」


「八人を集めた」


「その記録は?」


「ない」


「軍を動かした?」


「将軍へ命じた」


「将軍の日記には、ご自分の判断で軍を率いたとあります」


「私の助言を忘れたのだ!」


「法律を書いた?」


「学者へ方向性を示した」


「学者の記録には、一年かけて市民から意見を集めたとあります」


「私が参加を許した!」


「王宮の内部情報を集めた?」


「侍女に命じた」


「侍女は家族を処刑された恨みから、自分で反乱軍へ接触しています」


「全員が、私の影響を認めなかっただけだ!」


エミリアは青年を見た。


彼は八人を導いたのではない。


同じ場所にいただけだった。


革命の会議へ参加し、意見を述べたことは事実だろう。


だが、ほかの八人も意見を述べた。


誰か一人だけが、全員を導いたわけではない。


「あなたは、九人目の英雄として扱われなかったことへ不満を持った」


「私は誰より優れていた!」


「だから、共同宣言を破ったのですね」


「違う!」


「王宮を自分の官邸とし、共和国の財産を所有した」


「象徴として必要だった!」


「任期のない公職を作り、権力を独占した」


「国の安定のためだ!」


「大統領へ署名させ、議会の決定を無効にした」


「愚かな判断を止めた!」


「共同宣言には、権力を独占しないとあります」


「私のような優れた者まで制限するとは思わなかった!」


部屋が静まり返る。


青年はようやく、自分の発言へ気づいた。


「つまり」


エミリアは共同宣言書を掲げた。


「規則は他人だけが守るものだと?」


「私は建国者だ!」


「八人も建国者です」


「私が一番だった!」


「何をもって?」


「私だけが今も生きている!」


「契約違反の罰によって」


青年の顔から血の気が引いた。


レオンが共同宣言書を広げる。


九人目の署名跡と、青年の魔力紋を比較した。


完全に一致する。


「あなたは不老なのではありません」


レオンが告げる。


「共同宣言の義務を果たすまで、死ぬことも、老いることもできない状態にあります」


「私は祝福を受けた!」


「罰です」


「違う!」


「契約術式には、名誉と人生を返還するまで、署名時の姿で存在し続けると記されています」


エミリアが老いない青年を見た。


「あなたが返さなければならないものは、何でしょう」


「何もない!」


「共和国の財産?」


「私のものだ!」


「大統領権限?」


「私が持つべきだ!」


「八人の建国者から奪った功績?」


「私が導いた!」


「建国顧問の地位?」


「永久に私のものだ!」


「名前は?」


青年が黙った。


共同宣言へ署名した際、確かに彼には名前があった。


エミリアは削られた部分へ記憶石を置いた。


わずかに残る記憶が浮かび上がる。


九人の若者が円卓を囲んでいる。


誰も玉座には座らない。


全員が同じ高さの椅子に座っている。


八人が署名した。


最後に、黒髪の青年が立ち上がる。


「私は、君たちと同じではない」


若き日の彼は言った。


「私がいなければ、革命は始まらなかった」


将軍が答える。


「最初に王へ不満を口にしたのは、あなただ」


「ならば、私が指導者だ」


「不満を口にすることと、行動することは違う」


「私が考えたことを、お前たちが実行した!」


学者が尋ねる。


「では、反乱が失敗した場合も、あなた一人が責任を負うの?」


青年は答えなかった。


「成功したときだけ、自分が指導者になるの?」


侍女が問いかける。


青年は怒りに任せて署名した。


同じ立場なら、同じ責任を負う。


それを証明してやると言って。


彼の名は、ルシアン。


共和国の小貴族の息子だった。


特別な魔力もない。


軍を率いた経験もない。


法律を学んだこともない。


だが話すことは得意だった。


自分の考えを大きく見せ、ほかの者が実行した後には、それは自分の指示だったと言う。


革命後、ルシアンは初代大統領へ立候補した。


八人のうち、彼だけが自分へ投票した。


選ばれたのは将軍ガレオンだった。


ルシアンは受け入れなかった。


自分こそ革命の発案者であり、全員の上に立つ資格があると主張した。


そこで彼のために作られたのが、建国顧問という名誉職だった。


任期一年。


無給。


政治的な権限はない。


八人は仲間への感謝として、せめて席を一つ用意しようとしたのだ。


しかしルシアンは、与えられた名誉職を生涯の権力へ変えようとした。


王宮を占拠。


王冠や財宝を自分のものとした。


大統領の命令を無視し、自分へ従う私兵を集めた。


その瞬間、共同宣言の契約が発動した。


彼の名前は、公的な歴史から消えた。


だがルシアンは反省しなかった。


名前がなくなったなら、新しい肩書を自分の名前にすればよいと考えた。


建国顧問。


共和国の父。


永遠の建国者。


その肩書を二百年かけて、人々へ覚えさせた。


「名を失ったのではありません」


エミリアは記憶石を置いた。


「ご自分で名前を捨て、肩書だけを残そうとなさったのですね」


ルシアンは記憶の映像をにらんだ。


「昔のことだ」


「二百年、続いております」


「私は国を守った!」


「何から?」


「愚かな大統領から!」


「選んだのは国民です」


「国民は間違える!」


「あなたも間違えました」


「私は特別だ!」


「その根拠は?」


「二百年も生きた!」


「契約違反の結果です」


「私は建国者だ!」


「九人のうちの一人です」


「私が、一番偉い!」


「ご自分しか、そう記録しておりません」


何を言っても、ルシアンは同じ場所へ戻る。


自分は特別。


自分は正しい。


自分が認められないのは、周囲が愚かだから。


彼が本当に欲しかったのは、共和国の繁栄ではない。


自分こそが共和国を作ったと、全員に認めさせることだった。


「ルシアン様」


エミリアが名を呼ぶ。


青年の肩が揺れた。


二百年間、誰からも呼ばれなかった名前。


「その名で呼ぶな」


「なぜ?」


「私は建国顧問だ!」


「それは役職です」


「共和国の父だ!」


「共和国はあなたの子ではございません」


「永遠の建国者だ!」


「建国は二百年前に終わっております」


エミリアは一枚の書類を差し出した。


建国顧問職の原始規定。


任期一年。


無給。


投票権なし。


助言を求められた場合のみ会議へ参加できる。


「こちらが、あなたへ与えられた本来の役職です」


「偽物だ!」


「八人全員の署名があります」


「私の署名がない!」


「顧問職を受け入れる際の同意書にございます」


次の書類。


確かにルシアンの署名があった。


「読んでいなかった!」


「二百年前から同じ言い訳が続いているのですね」


「私をだましたのだ!」


「署名時の記憶には、学者ミネルバが全条文を読み上げています」


「難しくて理解できなかった!」


「では、分からないまま署名したご自分の責任です」


ルシアンは書類を破ろうとした。


セシルが手首を押さえる。


「おやめください」


「離せ!」


「証拠の破壊となります」


「私の国で、私へ命令するな!」


「共和国はあなたの所有物ではございません」


ルシアンは暴れた。


しかし二百年の大半を命令するだけで過ごしてきた男に、騎士を振り払う力はない。


あっさりと拘束された。


「私を捕らえれば国が滅びる!」


「なぜです?」


エミリアが尋ねる。


「すべての判断を、私がしてきた!」


「では、最近決めた政策を三つお答えください」


「国境警備の強化!」


「五年前、議会が決めました」


「港の拡張!」


「十二年前、市民投票で決まりました」


「農業支援!」


「建国顧問が予算を削減したため、規模が半分になりました」


「報告が間違っている!」


「では、正しい記録をお示しください」


ルシアンは答えられなかった。


彼が行っていたのは、決まった政策を後から自分の助言だったと言い張ること。


失敗しそうな政策を止め、成功すれば始めから賛成だったと記録を書き換えること。


そして自分の報酬を増やすことだけだった。


「あなたを拘束しても、共和国は一日も止まりません」


エミリアは静かに告げた。


「むしろ、止まっていた議案が進み始めるでしょう」


「違う!」


「本日、建国顧問によって保留されていた法案が、十三件可決されました」


「私の許可なく?」


「元から許可は必要ございません」


ルシアンは力なく首を振った。


「私は必要なはずだ」


その声には、初めて怒りではない感情が混じっていた。


恐怖だった。


自分がいなくても国が動く。


自分がいなくても誰も困らない。


その事実を、二百年間恐れ続けていたのだ。


だから権限を集めた。


大統領を弱くし。


議員を脅し。


自分へ判断を求めなければ何も決められない制度を作った。


必要とされる人物になるのではなく、自分なしでは動けない国を作ろうとした。


「最初は、必要とされたかったのですね」


エミリアが言った。


「黙れ」


「八人と同じように、英雄と呼ばれたかった」


「黙れ!」


「大統領になりたかった」


「当然だ! 私が最初に革命を口にした!」


「ですが、自分で兵を率いませんでした」


「私は考える者だ!」


「法律も書かなかった」


「学者の仕事だ!」


「食料も集めなかった」


「農民の仕事だ!」


「人々を治療しなかった」


「医師の仕事だ!」


「それなら、共和国を作ったのは、それぞれの仕事をした方々です」


ルシアンは口を閉じた。


「あなたが何もしなかったとは申しません」


エミリアは続ける。


「仲間を集め、最初の会議を提案した。そのことには価値がございます」


ルシアンが顔を上げる。


「ならば」


「しかし最初に提案した者が、最後まで全員の主人になるわけではございません」


「私が始めたのだ!」


「始めた功績は、始めた功績として記録すればよいのです」


「足りない!」


「なぜ?」


「私は、もっと偉大であるべきだった!」


「誰と比べて?」


「八人だ!」


「その答えを、自分で決めることはできません」


ルシアンは何も言えなかった。


彼の問題は、歴史から名を奪われたことではない。


ほかの八人と同じ一人として記録されることを、受け入れられなかったことだった。


調査結果を公表するため、共和国中央広場で公開議会が開かれた。


大統領マティアスは、自分が内容を読まずに文書へ署名し続けた事実をすべて認めた。


「わたしは建国顧問を信頼したのではありません」


彼は国民の前で告げた。


「判断する責任から逃げるため、信頼という言葉を使いました」


広場が静まる。


「知らなかったことは事実です。しかし、知ろうとしなかった責任はわたしにあります」


マティアスは大統領印を机へ置いた。


「任期途中ではありますが、辞任いたします」


反対の声もあった。


顧問にだまされただけだ。


国が混乱する。


最後まで務めるべきだ。


それでもマティアスは首を横へ振った。


「辞任して逃げるつもりはありません」


「では、なぜ?」


「職務を離れた上で、わたしが署名した三百十二件の文書を調べ、被害の回復へ参加します」


大統領として命じるのではない。


失敗した一人の公務員として、自分の仕事をやり直す。


「その後、国民が再びわたしを選ぶなら、選挙へ立候補します」


「選ばれなかったら?」


市民の一人が尋ねる。


「それが、共和国です」


マティアスは答えた。


次に、ルシアンが広場へ連れてこられた。


人々は彼の姿を見て戸惑っていた。


二百年間、共和国の父として敬ってきた人物。


教科書では誰より偉大な建国者とされている。


その男が、簡素な服を着て拘束されている。


「私は、だまされていた!」


ルシアンは開口一番に叫んだ。


「共同宣言へ、罠が仕掛けられていた!」


エミリアが尋ねる。


「どの部分が罠でしたか?」


「権力を独占すれば名を失うという部分だ!」


「署名前に読み上げられています」


「私は意味を正しく説明されなかった!」


「説明を聞いた記憶も残っています」


「八人が私を陥れた!」


「八人も同じ契約へ署名しております」


「彼らには、私ほどの才能がなかった!」


「ですから?」


「権力を独占する必要がなかったのだ!」


市民たちの間から、あきれた声が上がる。


「結局、自分だけは特別だと言いたいのか」


「二百年間、俺たちの税から金を受け取っていたのに?」


「父などと呼んでいた自分が恥ずかしい」


「私を侮辱するな!」


ルシアンは群衆へ怒鳴った。


「お前たちが豊かに暮らせるのは、私のおかげだ!」


「どの政策が?」


一人の女性が尋ねた。


「すべてだ!」


「私の村の水路を作ったのは、第五代大統領です」


別の男性が手を上げる。


「港を整備したのは商人組合です」


「学校制度は第四代大統領が作りました」


「疫病を止めたのは医師団です」


「国境を守ったのは兵士たちだ」


ルシアンは言葉を失った。


「お前たちは、私を忘れるのか」


「違います」


エミリアが答える。


「事実どおり、記録します」


「私が建国者であったと?」


「最初の会議を提案し、革命への不満を言葉にした九人目として」


「共和国の父だ!」


「それは記録しません」


「なぜだ!」


「共和国には九人の建国者と、参加した多くの民がおります。あなた一人から生まれた国ではございません」


「永遠の指導者だ!」


「百二十年間、違法に緊急権限を占有した者として記録します」


「英雄だ!」


「公金を自分の報酬へ流した事実も記します」


「名前を残せ!」


「もちろんです」


エミリアは共同宣言書を掲げた。


「ルシアン・ヴァレリオ」


広場にどよめきが走る。


二百年間、誰も呼べなかった名前。


「共和国建国会議を最初に提案した人物」


ルシアンの目に、わずかな光が戻る。


続く言葉が、自分をたたえるものだと思ったのだろう。


「そして、共同宣言を破り、仲間の功績を奪い、共和国を私物化した人物」


光が消えた。


「やめろ!」


「どちらも事実です」


「悪事だけを残すな!」


「最初の功績も記します」


「英雄として書け!」


「強制される理由はございません」


「では、悪人として書くのか!」


「それを決めるのは、記録を読む方々です」


「卑怯者!」


「ご自分に都合のよい結論を、歴史へ命じられないことが不満なのですね」


ルシアンは拘束を振りほどこうとした。


その瞬間、共同宣言書が光った。


消されていた九人目の署名が、ゆっくりと戻る。


ルシアン・ヴァレリオ。


名前が戻ると同時に、青年の体に変化が起きた。


黒い髪へ白いものが混ざる。


滑らかだった肌へしわが刻まれる。


背が曲がり、指が細くなる。


二百年分の時間が、一度に押し寄せたのだ。


「助けろ!」


ルシアンは地面へ膝をついた。


レオンがすぐに駆け寄り、老化を緩和する魔法を使う。


「なぜ助ける!」


ルシアンが驚いたようにエミリアを見る。


「裁判を受けていただくためです」


「私は死ぬのだぞ!」


「医師が治療します」


「助ければ許す!」


「あなたから許していただくことは、何もございません」


「ならば、なぜ!」


エミリアは老いた男を見た。


「罰を受けさせるために、命を救うのではございません」


「では」


「死にたくない方を助けることと、その方の罪を裁くことは別だからです」


ルシアンは、それ以上何も言えなかった。


治療によって急激な老化は止まった。


外見は八十歳ほどになったが、命に別状はない。


共同宣言の契約は、彼の名が本来の記録へ戻り、独占していた権力が返還されたことで終了した。


だが、二百年間の行為は残った。


裁判には半年を要した。


公金の不正受領。


公文書の改ざん。


大統領署名の偽造。


議員への脅迫。


国有財産の私物化。


違法な緊急権限の行使。


正当な調査への妨害。


罪状は分厚い書類となった。


弁護側は、ルシアンが共和国のために働いた期間も考慮すべきだと主張した。


裁判所はそれを認めた。


二百年間、彼が実際に行った公務を調べたのである。


会議への出席。


外交使節との面会。


災害時の一部の助言。


疫病対策への協力。


正当な仕事として認められた金額は、合計八十六万金貨だった。


本人が受け取った財産は、二千三十万金貨相当。


差額は、一千九百四十四万金貨。


判決の日、エミリアは一枚では収まらなかった請求書を、分厚い冊子として提出した。


「一千九百四十四万金貨?」


ルシアンの声が裏返る。


「正当な報酬は差し引いております」


「返せるはずがない!」


「官邸、別荘、宝石、土地、絵画、王家の遺物を返還してください」


「私が二百年かけて集めたものだ!」


「共和国の公金で購入されています」


「贈り物もある!」


「公職上の贈答品は、国の財産です」


「私個人へ贈られたものだ!」


「帳簿では建国顧問宛てです。建国顧問は公職でしょう?」


ルシアンは黙った。


「個人として正当に贈られたと証明できる品は、除外します」


「全部だ!」


「証拠を」


「二百年前のことなど覚えていない!」


「では、記録に基づいて判断します」


査定の結果、財産の大部分が共和国へ返還された。


建国顧問官邸は国立病院へ。


海辺の別荘は孤児のための保養施設へ。


地下金庫の金貨は、署名改ざんで被害を受けた者への補償へ使われた。


八英雄の遺品は、それぞれの家族や建国博物館へ返された。


それでも、債務は三百二十万金貨残った。


「働いて返済していただきます」


裁判長が告げる。


ルシアンは杖を握った。


「この老体で?」


「健康状態に合わせた仕事を用意します」


「私は頭脳を使う仕事しかできない!」


「建国記録の整理はいかがでしょう」


エミリアが提案した。


ルシアンは顔を上げた。


「私の功績を正しく書くのか?」


「あなた一人で書くことはできません」


「なぜだ!」


「二百年間、自分に都合よく記録を変えましたから」


歴史院、共和国の研究者、市民代表による監視のもと、ルシアンは建国資料を一枚ずつ整理することになった。


「自分の功績を書きたい場合は、必ず根拠資料を添えてください」


「私の記憶が証拠だ!」


「証言の一つとして記録します」


「ほかの者が否定したら?」


「両方を残します」


「どちらが正しいか決めろ!」


「後世の研究者が判断します」


「私は当事者だぞ!」


「だからこそ、あなたの証言だけを事実にはできません」


仕事の初日。


ルシアンは『革命はすべて自分の計画だった』と書いた。


研究員が根拠を求めた。


彼は会議を提案した手紙を示した。


研究員は記録へ、


『ルシアンは最初の会議を提案した』


とだけ書いた。


「足りない!」


「手紙から確認できるのは、そこまでです」


二日目。


『軍の作戦は自分が考えた』と主張した。


将軍ガレオンの日記には、ルシアンの案を危険すぎるとして却下したと書かれていた。


両方の記録が並べられた。


三日目。


『法律の理念を学者へ教えた』と主張した。


学者ミネルバの手紙には、ルシアンが法律の草案を一度も読まなかったとある。


それも並べられた。


何を語っても否定されるのではない。


証拠のある部分だけが残る。


脚色も。


誇張も。


都合のよい後付けも認められない。


ルシアンは初めて、自分が実際に行ったことの小ささと向き合うことになった。


だが、その小さな功績はゼロではなかった。


会議を提案した。


仲間へ手紙を送った。


革命前の貴族社会で、王への不満を最初に公然と語った。


恐れずに言葉へしたことが、八人の出会いにつながった。


「これだけでは、英雄になれない」


ある日、ルシアンはつぶやいた。


若い研究員が答える。


「英雄になる必要があるのですか?」


「歴史に残らない」


「残っています」


「一行だけだ!」


「一行では不満ですか?」


「当然だ」


「では、その後の二百年で、人々のために働けばよかったのでは?」


ルシアンは口を閉じた。


二百年。


功績を増やす時間は、いくらでもあった。


学校を作ることも。


制度を整えることも。


自分の知識を次の世代へ伝えることもできた。


だが彼は、過去の小さな功績を大きく見せるためだけに時間を使った。


英雄になる機会を奪われたのではない。


自分で無駄にしたのだ。


「今からでも、働けます」


研究員が言った。


「この年齢で?」


「資料の整理はできます」


「三百二十万金貨など返せない」


「全額を返せるかどうかだけが、働く理由ですか?」


ルシアンは返事をしなかった。


すぐに反省したわけではない。


翌日にはまた、自分は共和国の父だと言い出した。


誰も同意しなかった。


その次の日には、ほかの八人が自分を裏切ったと主張した。


研究員は、彼らがルシアンへ何度もやり直す機会を与えた記録を示した。


何十回も同じやり取りが続いた。


それでもルシアンは、少しずつ自分の主張へ証拠を添えるようになった。


証拠がなければ、「自分はそう記憶している」と表現を変えた。


それだけでも、二百年間より大きな変化だった。


共和国では新しい選挙が行われた。


辞任したマティアスも立候補した。


演説で、自分の失敗を繰り返し語った。


「わたしは、建国顧問の言葉を信じたのではありません」


「自分で決める責任を、彼へ渡しました」


「その結果、多くの署名が悪用されました」


対立候補は、その失敗を批判した。


マティアスも否定しなかった。


有権者は悩み、議論し、投票した。


結果、マティアスは落選した。


彼は静かに結果を受け入れた。


「悔しくはありませんか?」


ニコが尋ねる。


「悔しいですよ」


マティアスは笑った。


「ですが、国民がわたしを選ばない自由も守る。それが共和国です」


彼は元大統領の肩書を利用せず、署名改ざんの被害を調査する委員会で働き続けた。


四年後。


すべての文書の再調査を終えた後、もう一度選挙へ立候補した。


今度は、以前より少ない言葉で演説した。


自分が何を失敗したか。


四年間で何を学んだか。


次に同じことを起こさないため、どの制度を作るか。


有権者は彼を再び大統領に選んだ。


建国顧問という役職は廃止された。


代わりに、複数の分野の専門家が任期制で参加する国家助言会議が作られた。


助言者には決定権がない。


大統領は助言を聞いた上で、自分の名と責任で決断する。


助言内容と決定理由は、すべて公開される。


非常事態宣言には、議会、法務院、市民代表の承認が必要となった。


誰か一人が、自分で危機を宣言し、自分の権限を延長することはできない。


建国博物館も改装された。


中央にあったルシアン一人の巨大な肖像画は取り外された。


代わりに、九人の建国者が同じ大きさで並べられた。


その後ろには、革命へ参加した多くの民の名前が刻まれている。


ルシアンの肖像画も残された。


撤去を求める声は多かった。


だがエミリアは、事実どおり残すことを提案した。


説明文には、こう記された。


『ルシアン・ヴァレリオ』


『共和国建国会議の最初の提案者』


『共同宣言へ署名した九人目の建国者』


『のちに宣言を破り、百二十年間にわたり違法な権力を占有した』


『功績と罪の両方を記録し、いずれか一方だけで人物を評価してはならない』


肖像画を見た子どもたちは、必ず尋ねた。


「この人は英雄ですか、悪人ですか?」


教師は答える。


「あなたは、どう思いますか?」


「最初に会議を開いたのは、すごいと思います」


「では、二百年間ずっと偉かったのでしょうか」


「それは違う」


「なぜ?」


「昔よいことをしても、後の悪いことが消えるわけではないから」


「反対に、後で罪を犯したら、最初の功績も消すべきでしょうか」


子どもたちは悩んだ。


その悩む時間こそ、エミリアが残したかったものだった。


簡単な英雄にも。


単純な悪役にも変えない。


一人の人間がしたことを、それぞれ確かめる。


南方共和国での調査を終えたエミリアは、帝国へ戻る船に乗っていた。


甲板では温かな風が吹いている。


ニコが最終報告書を確認していた。


「九人目の初代大統領は、本当に二百年生きていた」


「はい」


「ですが、大統領になったことは一度もなかった」


「はい」


「二百年分の大統領給与を受け取っていた」


「建国顧問給与という名目ですが」


「職務に見合った報酬は八十六万金貨」


「それ以外は返還対象です」


「一千九百四十四万金貨の請求書」


ニコは冊子となった請求書をめくる。


「歴代最高額では?」


「現時点では」


「今後、超える可能性を考えているのですか?」


「不正の規模を争うつもりはございません」


「少し嬉しそうに見えます」


「気のせいです」


帝国の港には、リディアが迎えに来ていた。


「お帰りなさい」


「戻りました、お母様」


「請求書は使いましたか?」


「はい」


「一枚で済みました?」


「冊子になりました」


リディアは満足そうにうなずいた。


「成長しましたね」


「請求書が厚くなったことで、成長を判断しないでください」


母娘は並んで馬車へ向かった。


その途中、リディアが尋ねる。


「九人目の大統領は、どのような方でしたか?」


「一度も大統領ではございませんでした」


「では、建国者?」


「九人のうちの一人です」


「英雄ですか?」


エミリアは少し考えた。


「最初の会議を提案した勇気はございました」


「その後は?」


「ほかの八人と同じ扱いでは満足できず、共和国全体を自分の功績にしようとしました」


「悪人ですか?」


「多くの罪を犯しました」


「それが答え?」


エミリアは首を横へ振った。


「英雄か悪人かを、一言で答える必要はございません」


リディアは微笑んだ。


「あなたらしい結論です」


「お母様なら?」


「不正受領額を先に確認します」


「やはり、そこなのですね」


馬車の中に笑い声が広がる。


南方共和国では、建国記念日を祝う方法も変わった。


かつては、建国顧問一人へ感謝を捧げる日だった。


今では、国を作り続けているすべての人へ感謝する日となった。


二百年前の建国者。


法を守る公務員。


税を納める市民。


道路を直す職人。


子どもを教える教師。


病人を治療する医師。


間違った政策へ反対する者。


選挙へ立候補する者。


投票する者。


そして一度選んだ指導者であっても、必要なら次の選挙で交代させる国民。


共和国は二百年前に一度だけ作られたのではない。


そこに暮らす人々によって、毎日作り直されている。


ルシアンが二百年かけても理解できなかったことを、国民は自分たちで学び始めていた。


数年後。


エミリアのもとへ、一通の手紙が届いた。


差出人はルシアンだった。


内容は短い。


『建国時の会議録、第二十七ページに、私が避難経路を提案した記録がある』


『これは私の功績として追記されるべきだ』


エミリアは資料を確認した。


確かにルシアンの提案だった。


その避難経路によって、多くの市民が王都から脱出できた可能性がある。


エミリアは建国史へ追記するよう指示した。


『ルシアンは王都襲撃の前日、南門からの避難経路を提案した』


それ以上でも、以下でもない。


数週間後、再び手紙が届いた。


『本当に追記したのか』


エミリアは、改訂された歴史書の該当ページを送った。


さらに数日後。


三通目の手紙が来た。


『私の行いが、証拠さえあれば正しく記録されるというのは本当だったのだな』


エミリアは少し考え、返事を書いた。


『功績を大きくする必要も、罪を小さくする必要もございません』


『行ったことを、可能な限りそのまま残します』


ルシアンからの返信は、しばらく届かなかった。


半年後。


公文書館から一冊の資料が送られてきた。


二百年間、ルシアンが自分の命令で行わせた政策の一覧。


成功した政策。


失敗した政策。


自分の助言ではなかったもの。


後から功績を奪ったもの。


すべてを区別する印がつけられている。


完全な資料ではなかった。


自分をよく見せようとする記述も残っている。


それでも以前とは大きく違った。


表紙には、ルシアン自身の文字でこう書かれていた。


『共和国を作ったのは、私一人ではない』


その言葉を書けるようになるまで、彼は二百年と数年を必要とした。


だからといって、罪が消えるわけではない。


債務も残っている。


失われた時間も、傷つけられた者の人生も戻らない。


それでも事実を認めることは、過去を消すためではなく、同じ過ちを繰り返さないための第一歩になる。


エミリアは資料を南方共和国の建国博物館へ送った。


英雄の告白としてではない。


罪人の謝罪としてだけでもない。


自分を主人公にするため、国全体を脇役へ変えようとした男が、ようやく他人の名前を認め始めた記録として。


歴史書の最後には、エミリアによって次の文章が加えられた。


国は、一人の英雄が所有する物語ではない。

最初に声を上げた者も、最後まで働いた者も、間違いを指摘した者も、そこに暮らし続けた者も、それぞれが建国者である。

功績を分けても、一人ひとりの価値は減らない。

むしろ他者の名を認めて初めて、自分の名も正しく歴史へ残る。


九人目の初代大統領は、存在しなかった。


そこにいたのは、九人目の建国者。


一度も選挙で選ばれなかった、永遠の建国顧問。


自分だけが英雄でありたいと願い、二百年間も共和国を手放せなかった男だった。


彼は不老の祝福を受けていたのではない。


自ら破った約束の中へ、閉じ込められていたのだ。


そして共和国が彼の所有物ではないと認めたとき。


ようやく彼の時間は、もう一度動き始めた。


南方共和国編、完。

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