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凡人枠シリーズ

チートの勇者パーティが全員過労死ラインだったので、前世が社会保険労務士だったから普通の労務管理で魔王討伐の働き方改革をすることにした

掲載日:2026/04/17

 勇者パーティーの勤怠記録を見て、私は絶句した。

 直近四ヶ月の稼働日数、百二十日。

 ゼロ、ではない。百二十日ぶっ通しで、休みがゼロだ。

 一日あたりの平均稼働時間——二十三時間。

 年次有給休暇の取得記録——空欄。

 定期健康診断の受診記録——未実施。

 労災発生時の報告記録——欄自体が存在しない。


(——前世でブラック企業の案件を多数扱ってきたが、この水準は見たことがない。この世界に労働基準監督署があっても、たぶんドン引きして帰る)


 私は書類を机に置いて、こめかみを押さえた。

 王立勇者労務院、労務管理課。ここに私が配属されて三日目の朝だった。

 前任者の引き継ぎは一枚の紙きれだった。


「以上、勇者パーティーの労務管理は常識が通用しないため、本人の自主性に任せる方針で対応されたし。前任者記」


(——自主性、という単語が、これほど恨めしい響きを持ったのは久しぶりだ)


 私の名前は高田隆一。前世、日本で社会保険労務士を独立開業二十年。享年五十八歳。

 ——死因は過労死だ。

 他人を休ませる仕事をしながら、自分を休ませられなかった。皮肉な話だが、この業界ではそう珍しくもない。


 転生窓口で、胡散臭い神様に言われた。


「高田さん、ですね。社労士さん、前世でご活躍でしたね」

「……そう言っていただけるのは有り難いのですが」

「ちょうど人手不足でして。あちらの世界に、今、社労士さんが必要でして」


(——『ちょうど』という言葉が口から出る時点で、すでに労務管理は破綻している。前世のクライアントも、だいたい『ちょうど繁忙期で』と言ってから倒れていた)


「必要、と言いますと」

「まあ、現地に行ってからのお楽しみ、ということで。——あ、申し遅れました。わたくし、転生窓口担当のツクヨと申します」

「はあ」

「以後、お見知りおきを」


 とんがり帽子の先端が傾いていた。名札の字が薄れていた。杖の「MAGIC」の刺繍は、ほつれかけていた。


(——この神様、どう見ても過労だ。天界に36協定があったとして、間違いなく上限超過。さらに言えば、制服の手入れも勤務時間内でやらせてあげたい)


 そう思った時点で、私は負けだった。

 気がつくと、王都の労務院で机に向かっていた。


「リュウイチくん」


 声を掛けられて顔を上げる。

 労務院長のエーリヒが、部屋の入口に立っていた。白髪交じりの、しかし姿勢の良い老人だ。


 着任初日、この人から事情を聞かされていた。——王家に『異国より来たる労務の賢者を迎えよ』との神託が下り、王立勇者労務院が受け入れ窓口になった。神託と、転生窓口で聞いた『ちょうど人手不足でして』という一言が、王都で一枚の辞令書に結実していた。書類上、私の肩書きは『異国招聘労務顧問』。署名欄の字がほんの少し震えていたのは、たぶん院長も半信半疑だったのだろう。


(——天界も、現地への根回しだけは、一丁前にやる)


 着任から二日間、私はひたすら書類を読み込んだ。そして今朝、勇者パーティーの勤怠記録に辿り着いた。


「勇者様の勤怠記録を見ているのか」

「はい。——院長、これは異常値です」

「勇者様は、神に選ばれた特別な存在だ」



 私は一拍置いてから答えた。


「神に選ばれても、過労で倒れます」

「……ほう」

「前世のクライアントに、大手企業の取締役がいました。その方も『自分は特別だ』と仰っていました。——脳梗塞で倒れられて、半身不随になりました。ご子息が相談に来られた時、私は書類を書きながら謝罪しました。もっと強く休暇を勧めるべきだった、と」


 エーリヒが黙った。

 室内に、羽ペンの走る音だけが残った。


「——勇者様本人が、休みたくないと言っている」

「そういう本人の意思で過労死した例を、前世で何件も見ました」

「神託に逆らうのか」

「神託を出した神に、後で確認します」


 エーリヒが眉を寄せた。

 私は書類を閉じて立ち上がった。


「院長。勇者パーティーに面談を申し込みます。まず、現場を見ます」


 ——働く前に、まず休ませる。

 二十年間、私はそれを仕事にしてきた。



    ◇



 王城の勇者待機所。

 扉を開けた瞬間、私は二つ目の絶句を経験した。


 床に三人、倒れている。

 いや、倒れているのではない。装備をつけたまま、壁に寄りかかって仮眠している。甲冑の隙間から、浅い呼吸が聞こえる。


 そして——部屋の中央に一人だけ、立っている人物がいた。

 銀髪の女性。二十代前半。整った顔立ちだが、目の下に濃いクマが広がっている。肌が血の気を失って白い。

 彼女は私に向かって、きちんと姿勢を正して立っていた。


「王立労務院のリュウイチと申します。労務管理の面談に参りました」

「……どなたですか」


 聞き返された。聞いていなかったのだ。疲れすぎて、耳が処理を止めている。


「労務院のリュウイチです。面談に伺いました」

「……ああ、面談、ですか。承知しました」


 彼女が私に向かって深く頭を下げた。頭を下げる動作が、まるで崩れ落ちるように見えた。


「勇者、アリスと申します。お忙しいところ、ありがとうございます」


(——忙しいのはあなただ)


 私は室内を見回した。

 壁に寄りかかった三人。


 一人目——魔法使い、ライラ。若い女性。のどを指差して、首を振る。声が出ないらしい。詠唱を酷使しすぎた結果だ。

 ——前世で、電話営業で声をつぶした新人を見たことがある。魔法使いの職業病も、存外、コールセンターに近い。

 二人目——剣士、ベルン。中年の男性。右肩が不自然に下がっている。肩を動かそうとして、顔をしかめて動きを止めた。

 ——前世の『肩が上がらなくなったデスクワーカー』と、症状の出方が完全に同じだった。剣と書類で、人体が壊れ方を区別してくれるわけではない。

 三人目——斥候、アルダー。若い男性。片目を眼帯で覆っている。新しい傷らしい包帯の痕が見えた。


「……皆さん、いつから稼働されていますか」

「四ヶ月前から、この布陣で。——他の討伐部隊が相次いで編成解除になり、私たちが彼らの任務も含めて全部担当しております」

「その四ヶ月の間、お休みは」

「ありません」


 即答だった。

 ——むしろ、この質問をされたこと自体に驚いている顔をしていた。


「休む時間はありません。魔王軍が明日にでも攻めてきたら、国が滅びますから」

「魔王軍は、明日来ません」


 私は静かに言った。


「倒れた皆さんを迎えに来ました」


 アリスの表情が凍った。

 反論を探すように目が動いて、結局、何も言わなかった。


「アリスさん。一日のうち、何時間稼働されていますか」

「……えっと、二十三時間、くらい、でしょうか」

「残りの一時間は」

「食事と、装備の手入れです」

「睡眠は」

「必要ありません。——加護で、眠らなくても動けますので」


(——それはチートではない。呪いだ)


 私は鞄から書類を取り出した。


「今日から、応急処置として、一日の稼働時間を十八時間に変更します。恒久対策の協定案は、後日改めて提示します」


(——十八時間でも、前世の過労死ラインを三週分まとめて踏み抜いている。本来なら今すぐ全員救急搬送相当だ。だが、ここで八時間と言えば、この人は首を縦に振らない。段階を踏むしかない。——段階を踏むだなんて、過労死した男の台詞としては皮肉が利きすぎているが)


「……検討、させていただきます」

「検討ではなく、実施してください。これは労務院からの業務命令です」

「……それでは、魔王軍が——」

「魔王軍の動向は、労務院が別の部署と調整します。あなたが二十三時間動くことで国を守れているのではありません。あなたが明日も動ける状態でいることで、国が守られているのです」


 アリスは書類を受け取った。

 手が震えていた。彼女は、それに気づいていなかった。



    ◇



 労務院に戻って、私は改善案を起草した。


 一、勇者パーティーの稼働時間を一日最大十時間、週最大五十時間、月最大百八十時間に制限する。

 二、年次有給休暇を月一日以上、強制取得とする。

 三、定期健康診断を三ヶ月ごとに実施し、異常所見があれば即時休養を命じる。

 四、予備兵力を編成し、交代制を導入する。

 五、労災発生時の報告を義務化し、隠蔽を禁ずる。


(——前世で、何百枚似たような文書を書いただろう。——もっとも、『適用範囲:勇者パーティー』という一行を書いたのは、人生で初めてだ。前世のクライアント一覧に『勇者』の欄は無かった。この一行が王国の役所を通るかどうかは、私の社労士人生二十年における新しい挑戦である)


 紙の上で手が勝手に動いていた。就業規則の第何条を引用すればいいかまで、指が覚えていた。

 私は案を持って、院長室に向かった。


「——十時間?」


 エーリヒが案を読んで、最初に発した声がそれだった。


「そうです」

「現在、二十三時間稼働している。それを十時間に減らせと」

「はい」

「魔王軍は、減った十三時間を待ってくれるのか」

「魔王軍の動向は別途調整します。軍務省との連携、予備兵力の育成、交代制の整備——」

「予備兵力の育成には、最低五年かかる」

「倒れたら、五年かかってもゼロです。それに、五年分の離職票を一度に発行する業務負荷も、労務院としては避けたいところです」


 エーリヒは案をテーブルに置いて、両手を組んだ。


「リュウイチくん。君の言い分は分かる。だが、これは現実的ではない」

「非現実的なのは、現状です」

「勇者様は、神に選ばれた特別な——」

「院長」


 私は遮った。

 二十年、取締役の前で改善案を説明してきた声で。


「一つ、確認させてください。——過去に、任期中に倒れた勇者は、いましたか」


 エーリヒの顔色が変わった。

 ほんの一瞬、視線が左下に逃げた。前世で何百回も見た、嘘をつこうとする人間の目の動きだ。


「……記録はない」

「労務院の資料室を、確認します」

「リュウイチくん」

「勇者の労務管理を担当する以上、過去の事案の確認は職務上、必要です」


 私は一礼して、院長室を出た。

 背中で、エーリヒが長い息を吐く音がした。


 資料室——と呼ぶには、あまりにも狭く、あまりにも埃っぽい部屋だった。

(——労働安全衛生法の照度基準、まず通らない。書庫自体が労務違反という皮肉)

 奥の棚、一番下の段。「歴代勇者関連記録」と書かれた箱が、三つ、重なっていた。


(——見ていない、のではない。見ないように置いてある)


 私は箱を引き出した。

 紙が黄ばんでいた。一番古い記録は、五十年前のものだった。


 一人目——勇者ガルフ。任期三年目、二十八歳で死亡。死因「原因不明の衰弱」。

 二人目——勇者エリス。任期四年目、二十六歳で死亡。死因「原因不明の衰弱」。

 三人目——勇者クラウス。任期二年目、二十四歳で死亡。死因「原因不明の衰弱」。

 四人目——勇者ミラ。任期三年目、二十五歳で死亡。死因欄に、うっすらと鉛筆で書かれ、上から墨で塗り潰された文字——「自死」。塗り潰しきれていなかった。


(——塗り潰しの仕事が雑だ。前世なら、証拠隠滅未遂の懲戒事由である)


 ——四人とも、勤怠記録は添付されていなかった。

 あるべき場所に、空白があった。


(——労災隠しだ。五十年分の。——自死は、労災認定のハードルが一段上がるが、過重労働の立証ができれば降りる。降りない理由は、書類が一枚残らず散逸しているからだ。散逸したのではない、散逸させたのだ)


 私は記録を抱えて、部屋を出た。



    ◇



 翌朝、私はアリスを労務院の面談室に呼び出した。

 彼女は指定の時間ちょうどに現れた。鎧を脱ぎ、簡素な服装で来てくれていた。顔色は相変わらず悪い。


「お疲れさまです。座ってください」

「はい」


 彼女が座る。椅子の背もたれに背中がつかない。前世、面談に来たクライアントで、背もたれを使わない人は、だいたい追い詰められていた。


「今日はお見せしたい資料があります」


 私は机に三枚の紙を並べた。

 アリスが目を落とす。


 最初の紙を読んだ瞬間、彼女の呼吸が止まった。

 二枚目。

 三枚目。


「……この方を、存じています」


 アリスの声が掠れた。


「勇者エリス。私の、憧れの勇者でした。子供の頃、物語で読みました。——病気で若くして亡くなった、と聞いていました」

「病気ではありません」


 私は静かに言った。


「過労です」


 長い沈黙が落ちた。

 面談室の壁掛け時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……私も、倒れるんでしょうか」


 アリスの声が、小さく震えていた。


「倒れる前に、休みましょう」


 彼女は三枚の紙を見つめたまま、顔を上げなかった。


「——チートがあれば、倒れないと思っていました」


 アリスは三枚の紙を見つめたまま、少しためらってから、顔を上げずに続けた。


「リュウイチさん。——転生者、ですよね」


 私は一瞬、息を止めた。


「なぜ、そう思われますか」

「書類の運び方が、こちらの方のものではないので。——行間の使い方も、数字の並べ方も、エリス様の時代の記録とは、微妙に違っていました。私も、そうなんです」


(——前世勇者が、前世社労士の書類の癖を見抜く。異色の人事面談である)


「ご明察です。——アリスさんも、でしたか」

「はい。ミツハ様、という神様に、『あなたは特別に選ばれた勇者です』とお言葉をいただいて、チートを授かって、こちらに来ました。——五歳のころの話ですが」

「ツクヨさんとは、別の神様ですね」

「ツクヨ様、という方は存じません。神様ごとに、担当が分かれているのかもしれませんね」


(——天界の転生事業部、縦割りらしい。これは労使協定を結ぶ相手が部署ごとに違うということだ。前世の、子会社ごとに就業規則がバラバラだったクライアントを思い出す)


「ミツハ様は、『倒れてはいけません』としか仰いませんでした。休み方は、教えてくださらなかった。——『特別に選ばれた』という言葉を、支えにしてきたんです。支えだったはずなのに、気がついたら、鎖になっていました」


(——ここだ)


 前世でも、何度もこの瞬間を見てきた。

 クライアントが「自分は大丈夫だ」という思い込みから、「自分も例外ではない」という認識に移る一瞬。ここを逃すと、相手はまた殻に戻る。


「アリスさん」


 私は出来るだけ柔らかい声で言った。


「チートは、倒れないための道具ではありません。ここでは、休めなくする呪いです」


 アリスの肩が跳ねた。

 ——図星だったのだ。


「加護があるから、休む必要がないと言われ続けてきました。休むと、甘えだと。加護の無駄遣いだと」

「加護は、あなたの体の代わりにはなりません」

「……はい」

「加護の分まで、あなたが働く必要はありません。加護は、あなたが人並みに働きながら、魔王に勝つためのものです。あなたを人以上に働かせるためのものではありません」


 アリスの目から、一粒、涙がこぼれた。

 彼女自身、それに気づいていないようだった。


「私——休み方を、知らないんです」


 掠れた声。


「物心ついたときから、戦っていました。両親は魔物に殺されて、国に保護されて、加護の適性が見つかって、そこから訓練漬けでした。休日の使い方を、教わったことがないんです」


 私はうなずいた。


「大丈夫です」

「——何が、大丈夫なんですか」

「休み方は、覚えられます」


 アリスが初めて、顔を上げた。

 涙で濡れた目で、私を見た。


「本当、ですか」

「本当です。——教わる権利が、あなたにはあります。二十二歳の勇者にではなく、二十二歳の女性にです」


 彼女は机の上の三枚の紙を、そっと指で撫でた。

 憧れだった勇者の記録を、弔うように。



    ◇



 一週間後、労使協定の調印式が行われた。


 場所は、王立勇者労務院の会議室。

 勇者側代表はアリス。使用者側代表は労務院長エーリヒ。立会人として軍務省の担当官と、魔王討伐案件の統括官が同席した。


 私は書記として、協定書を机の中央に置いた。

 表題には「魔王討伐業務に関する労働時間及び休日に係る協定」と書いてある。


(——前世で何百本も締結してきたが、表題がこれほど不穏な協定は初めてだ。『魔王討伐業務』が労働時間規制の対象になる日が来るとは、社労士冥利に尽きる)


 エーリヒがサインをした。次にアリスが羽ペンを取った。

 ペン先が、紙の手前で止まった。手が震えていた。


「どうかされましたか」

「……これに名前を書くと、休まなくてはいけなくなります」

「はい」

「これで、休んでいいんですか」


 ——この質問は、前世でも何度も受けた。

 休んでいいんですか、と聞く人は、だいたい休めていない。休んでいる人は、そんな質問はしない。


「休まなくてはなりません」


 私は答えた。


「これは、権利ではなく義務です」


 アリスが一拍置いて、署名した。

 ペン先が紙に触れた瞬間、彼女の肩から、ほんの少しだけ、力が抜けた。


 ——調印式と並行して、パーティーの残り三人についても、個別の処遇を整えた。

 魔法使いライラには、王宮医師による発声機能の治療と、三ヶ月の詠唱禁止期間を設定した。剣士ベルンには、右肩の運動器疾患として労災認定を受け、整復師による定期治療と軽減勤務を命じた。斥候アルダーの眼帯については、視力の後遺症として労災認定を受け、遠距離索敵を免除する配置転換を行った。

 三人とも、最初は「自分だけ休むわけにはいかない」と渋った。


(——前世で耳にタコができるほど聞いた台詞だ)


 アリスが署名した協定書を見せると、三人はようやく治療に入ることを承諾した。

 リーダーが率先して休むと、部下も休める。——これは前世でも、異世界でも、共通の法則らしい。



    ◇



 協定と並行して、予備兵力の編成を進めた。

 過去に勇者任期を終え、一時貸与のチートを回収された元勇者たち。彼らに、パートタイム契約での再雇用を打診したのだ。


「天賦の剣技は、すでにお手元にはありません。それでもよろしいのですか」


 最初に面談室に来たのは、二十代後半の青年だった。

 前世、私のクライアントにいた「早期退職後、次の仕事を探しあぐねていた元取締役」の顔と、同じ表情をしていた。

(——職務経歴書の『保有資格』欄が空欄で、『特記事項』に「天賦の剣技(消失済み)」と書かれていそうな顔だ)


「天賦なしで、十分です」


 私は言った。


「勇者の仕事の九割は、段取りと判断です。戦闘は残り一割。その一割を現役の勇者に任せて、九割はあなた方に担当していただきます」

「——そうですか」


 青年が、少し照れたように笑った。


「……いや、実は、その話を聞いた時、少し嬉しかったんです。チートなしの自分にも、まだやれることがある、と」


 彼の名前は、ユーリといった。

 前任の勇者だった男だ。


(——ああ、前任のキャリアコンサルタントさんが担当された案件か)


 前世では、同業他社と情報交換をしていた。異世界でも似たようなものだ。案件の引き継ぎは大事にしたい。

(——もっとも、引き継ぎ書類は見当たらない。天界に業務マニュアルという概念があるかどうかは、そのうち確認したい)


「労働契約の条件を説明します。——ただし、一つだけ、守っていただきたい条項があります」

「なんですか」

「労働時間は、守ってください。また倒れられては困ります」


 ユーリが深くうなずいた。

 前の担当者から、同じことを言われたのだろう。



    ◇



 金曜日。アリスの初めての有給休暇。


「……何を、すればいいんでしょうか」


 朝、労務院の玄関先で、アリスが困惑した顔で立っていた。

 私服で会うのは初めてだった。装備を外した彼女は、二十二歳の普通の女性だった。


「自由です」

「自由、と仰いますと」

「何をしても構いません。何もしなくても構いません。——ただし、今日だけは、剣を持たないでください」


 アリスは自分の腰のあたりをぽんと叩いた。

 普段そこにある剣が、今日はない。彼女は少し戸惑った顔で、手を下ろした。


「……落ち着かないですね」

「三日もすれば慣れます」


 私は、彼女を街に連れ出した。

 本当は一人で過ごしてもらうのが理想だったが、初回だけは付き添う必要があった。前世でも、休職明けのクライアントを一人にすると、そのまま自宅から出られなくなる例が多かった。


 街の広場の角に、小さなカフェがあった。

 案内して、温かいお茶を注文してあげた。

 アリスはカップを両手で包むように持った。湯気が彼女の顔に当たっている。


「——温かい」


 ぽつりと、彼女が言った。


「お茶ですから」

「温かいものを、ゆっくり飲んだのは、何年ぶりでしょうか」


 私は答えなかった。

 答えるべきではない問いだった。


 カフェを出て、広場を歩いた。

 パン屋の前を通り過ぎた時、焼きたてのパンの匂いが流れてきた。

 アリスが足を止めた。


「いい匂い、ですね」

「はい」

「私、パン屋の前で立ち止まったのは、初めてです」


 彼女は少し笑った。笑った顔を、私は初めて見た。


「買っていきましょうか」

「——いいんですか」

「休日ですから。何をしてもいいんです」


 パンを二つ買った。一つはアリスに、一つは私に。

 店先のベンチに座って、彼女はパンを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。


「どうかしましたか」

「……食べるのが、もったいない気がして」


(——ああ、そうだ)


 前世でも、同じ言葉を聞いた。

 長期休暇を勧めた役員が、初日に家族と昼食を取った帰りに、私の事務所に寄って言ったのだ。「食べるのが、もったいない気がしました」と。


 当たり前の食事が、当たり前じゃなくなっていた。

 それは、「当たり前」の反対側の言葉——「有り難い」の意味を、彼らは忘れてしまっていたのだ。


 アリスがパンを一口だけ、噛んだ。

 咀嚼している。味わっている。

 目から涙が一粒、こぼれた。


「休むのは、悪いことだと、思っていました」


 掠れた声。


「休んでいる間に、誰かが死ぬ気がして。——だから、休めなかったんです」

「アリスさん」

「はい」

「休むのは、次の仕事をするために必要なことです。あなたが今日休むことで、明日、誰かが生きる確率が上がります」


 アリスは、もう一口、パンを食べた。

 二口目のほうが、一口目より、少しだけ長く噛んでいた。


「——次の休日までに」


 私は言った。


「やってみたいことを、一つ、考えておいてください」


 彼女は、口を動かしながら、ゆっくりうなずいた。



    ◇



 一年後。


 エーリヒ院長は、月例の報告会で、こう総括した。

「——勇者パーティーが一年間、誰も倒れずに任務を継続している。これは、労務院開闢以来、初めての実績だ」

 反対派だった院長が、自ら協定の意義を認めた瞬間だった。彼は私に視線を向けて、小さくうなずいた。その一度のうなずきだけで、保守派の説得に費やした一年分の労力が、報われた気がした。


 アリスの勤怠記録を、私は机の上で整理していた。

 稼働時間、一日平均十時間。協定どおり。

 年次有給休暇の取得、十二日。協定どおり。

 健康診断、四回実施、異常所見なし。

 労災の報告、二件。適切に処理済み。


(——前世で、最も美しい勤怠記録を見ている気がする)


 ノックの音。

 扉を開けると、アリスが立っていた。

 彼女の顔色は、一年前とは別人のように良かった。目の下のクマは消え、頬に血の色が戻っていた。


「面談のお時間、頂戴いたします」

「どうぞ」


 席を勧めて、向かい合った。


「最近のご様子を伺えますか」

「はい。——休日に、絵を描いています」


 彼女が恥ずかしそうに笑った。


「下手ですが。風景画です。——王都の北の丘に、お気に入りの場所を見つけまして」

「素敵な趣味ですね」

「先日、魔王軍の偵察隊を退けました。戦闘は半日で終わりました。——あの日だけは、休まずに働きました」

「労働時間は」

「十四時間です。一日の上限を超えました。——ですので、翌日は丸一日休みました。協定どおりです」


 私は書類にチェックを入れた。

(——本人のほうが、私よりもよほど律儀に協定を運用している)


「完璧です」


 アリスが、少し笑った。


「リュウイチさん」

「はい」

「一つ、質問してもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「——リュウイチさんは、休んでいますか」


 私は、返答に詰まった。


 自分の勤怠記録を、頭の中で計算した。

 直近四ヶ月の稼働日数——百二十日。

 休日——ゼロ。


「……検討します」

「検討では、なく」


 アリスが静かに言った。


「取ってください。私が言えた義理では、ありませんが」


 彼女は、一年前の私の言葉を、そのまま私に返した。

 ——前世のクライアントが、卒業後に、同じことを言いに来た記憶があった。



    ◇



 その夜、夢を見た。


 真っ白な空間。安っぽいカウンター。とんがり帽子と星柄マント。


「お久しぶりです、高田さん」


 ツクヨが座っていた。杖の「MAGIC」の刺繍は、相変わらずほつれていた。——むしろ、一年前よりさらにほつれが広がっている気がする。


「……お久しぶりです」

「勇者アリスさんの案件、お疲れさまでした。完璧な労務管理です」

「ありがとうございます」


 ツクヨが杖をくるくる回した。

 くるくる、くるくる。手慣れた仕草だった。


「一つだけ、お話ししてもいいですか」

「どうぞ」

「実は——あの案件、あなたで四人目なんです」


 私は顔を上げた。

 ツクヨの表情は、笑っているようで、笑っていなかった。


「社労士さん、前に三人、送らせていただきました。皆さん、着任後、一年から三年で——」

「過労死、ですね」

「はい」


 私は長い息を吐いた。

 思い当たる名前があった。前世で、同じ事務所のテナントに入っていた先輩。業界誌で訃報を見た同期。——そして、恩師。

 三人。


「知っていました。——同業者でしたので」

「お察ししておりました」

「その三人が、ここに来ていたんですね」

「ええ」


 ツクヨが、小さく頭を下げた。


「皆さん、最後まで、立派にお仕事をされました。——ですが、労使協定の締結までたどり着けたのは、あなたが最初です。ちなみに、今回の件で天界に提出した始末書、三枚複写で九枚目になります」

「——一つ、確認させてください」

「どうぞ」

「加護の本来の用途は、『不眠不休で動ける』ですか」

「いいえ。設計仕様は『人並みの体で魔王と戦える最低限の保証』まで。『不眠不休』は、現地側の拡大解釈です」

「加護の設計そのものは、ツクヨさんの担当ではないのですね」

「ええ。設計は祝福設計課という別部署でして、——取扱説明書を現地に同封するのが、うちの転生窓口の管轄でした。そちらを同封していなかったのが、こちらの落ち度です。祝福設計課の課長にも、一筆、差し入れさせていただきました。あちらも、今まさに始末書を書いております」


(——ああ、やはり。一年前アリスに伝えた『加護の本来の目的』は、推測ではなく、事実だったわけだ。しかも、天界内部で部署間の齟齬まで発生している。労使協定の締結先が、随分広がりそうだ)


 私は黙っていた。

 三人の顔が、順に浮かんだ。


「高田さん。一つだけ、お願いしてもいいですか」

「なんでしょう」

「今回だけは、倒れないでください」


 ツクヨの声から、冗談の色が、完全に消えていた。


 私は、しばらく考えてから、答えた。


「ツクヨさん」

「はい」

「一つ、約束していただけますか」

「なんでしょう」

「あなたも、休んでください」


 ツクヨが目を見開いた。

 杖を回す手が止まった。


「……え?」

「その名札。字が薄れています。その杖。刺繍がほつれています。その帽子。先端が傾いています。——前世で、追い詰められたクライアントを、私は何人も見てきました。みんな、自分の身なりから、こぼれていくんです」


 ツクヨが、自分の帽子に手を当てた。

 それから、杖を見た。

 名札を、見た。


「……」

「あなたが倒れたら、私たち凡人枠は、誰に送り出されるんですか」


 ツクヨは、長い間、黙っていた。

 やがて、小さく笑った。冗談の笑いではなかった。


「……そうですね。検討します」

「検討ではなく」

「……取ります。有給休暇を」


 白い空間が、薄れていった。


「ねえ、高田さん」


 消えかけのツクヨの声が聞こえた。


「あなたは、いい社労士ですね」

「当然です」


 私は答えた。


「前世では、他人を休ませて、自分は休みませんでした。——今回は、違います」



    ◇



 朝。


 労務院の机に向かって、私は日報を書いていた。


 「面談記録。対象者:アリス(勇者)。ステータス:継続中。

 趣味(絵画)を獲得。戦闘時の労働時間超過は、翌日の振替休日で適切に処理されている。次回面談までに、休日に読む本を探すとのこと」


 ペンを置いた。

 窓の外に、朝日が差していた。


(——私たち社労士は、他人を休ませて、自分は休まない職業でした)


 机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。

 年次有給休暇取得申請書。宛先は自分自身。


(——でも、今回は違います)


 ペンを取って、日付を書いた。

 明日の日付。


 日報を閉じようとして、やめた。

 明日も開くのだから。


 書類を持って、院長室に向かった。


「院長。明日、休暇をいただきます」

「……君が?」

「はい。パン屋のパンを、ゆっくり食べに行きます」


 エーリヒが、一瞬、きょとんとしてから、笑った。

 初めて見る、柔らかい笑顔だった。


「承認する」

「ありがとうございます」


 私は一礼して、部屋を出た。

 廊下の窓から、朝の光が差し込んでいた。

 ——パンの匂いが、ここまで届くような気がした。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。


 社会保険労務士——社労士という職業は、「他人を休ませるために、自分は休まない」仕事です。クライアントの就業規則を整え、労使協定を締結し、年次有給休暇の取得を促し、健康診断を督促する。他人の労働環境を守る人が、自分の労働環境を守れないまま倒れていく。業界にいると、同業者の訃報は、実はそれほど珍しい話ではありません。


 この作品は、その矛盾を抱えた主人公が、勇者アリスに「休んでください」と言いながら、自分自身にも同じ言葉を向けられるようになるまでの物語です。


「倒れた時点で、世界が終わる」——これは勇者の話でもあり、過労死した社労士の話でもあります。


 この作品は「凡人枠シリーズ」の一作です。チートなしの専門職が、前世の実務経験だけで異世界の問題を解決する短編を書いています。もしよろしければ、他の作品も覗いていただけると嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
社労士を目指して勉強中です。 もし合格出来たら、自分の労務管理もきちんと頑張る社労士になりたいです。 素敵な作品をありがとうございました。
凡人シリーズ、いつも楽しく読ませてもらっています。 シリーズが進むにつれ、 刺繍のほつれ=ツクヨさんのお疲れ具合が 大変なことになってない?と思っていたので 高田氏がツクヨさんに言ったセリフに ほろり…
毎回、楽しく読ませてもらっています。 「凄い人を目指すより、まずは出来る人であれ」という言葉がありますが、まさにこのシリーズを象徴するような一節だと感じました。 チートに頼らず、前世で培った実務経験…
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