第十四話 兼務という名前
五月十二日。
搭乗禁止期間は、まだ一日以上残っていた。
朝。
右手の重さは、昨日より薄くなっていた。
何かを持ち上げている感覚はない。
ただ、指を強く握ると。
横倒しになったフレイムワーカーの装甲表面が、手のひらへ戻ってくる。
冷たい金属。
細かな振動。
片瀬のワイヤーが張られ。
俺の右腕へ重量が移った瞬間。
完全には消えていない。
だが。
消えなければ困る、とも思わなくなっていた。
忘れたいわけではない。
思い出すたびに動けなくなるのが怖かっただけだ。
「今日は普通の日?」
朝食の席で、結衣が聞いた。
最近、毎朝同じ確認をされている。
「事務所へ行く」
「乗らない?」
「医療担当から禁止されてる」
「じゃあ絶対?」
「絶対」
結衣が安心したように卵焼きを食べる。
美咲は俺の顔を見る。
「禁止が終わったら?」
すぐ答えられない。
「訓練の予定はない」
「予定じゃなくて」
「乗るつもりも、今はない」
今は。
自分でも、その言葉が逃げに聞こえた。
美咲も同じように感じたらしい。
「現場へは?」
「事故報告の追加確認があるかもしれない」
「訓練場?」
「行くとしても、機体には乗らない」
「本当に?」
「医療命令があるから」
また。
自分の意思ではなく、規定を理由にしている。
嫌だから乗らない。
そう言っても。
組織は必要性を持ち出す。
医療命令がある。
そう言えば、止まる。
自分の意思より、規則の方が強い。
それが少し悔しい。
「お父さん」
結衣が味噌汁の椀を持ちながら言う。
「乗らなくても現場へ行くの?」
「行くことはある」
「何するの」
「人の話を聞く。危ないところがないか見る。仕事の順番を決める」
「監督?」
「今までも、そういう仕事はしてた」
「じゃあ、フレイムワーカーに乗る人じゃなくて、乗る人に言う人?」
「そういう時もある」
結衣は少し考える。
「それなら、お父さんが乗らなくてもいいじゃん」
「俺もそう思う」
本当に。
そう思う。
現場へ行き。
危険を見つけ。
作業を止め。
機体に乗っている人へ指示する。
それで済むなら。
「でも、お父さんしかいない時があるんでしょ」
美咲が言った。
昨日の事故。
代替機は五分から七分後。
その場には俺がいた。
乗れる機体があった。
「そういう時は」
俺は言葉を探す。
「その時に考える」
「また分からない?」
結衣が笑う。
「便利だからな」
以前、相馬にも言った。
分からないという言葉は便利だ。
嘘をつかずに済む。
ただし。
決めるのを先延ばしにもできる。
「今日こそ普通に帰ってきてね」
結衣が言った。
「努力する」
「努力じゃなくて帰ってきて」
「分かった」
自分で言い直す。
「今日は帰ってくる」
事故は予定できない。
それでも。
言葉にした方がいい。
*
復興管理局へ着くと。
俺の机の横に、見覚えのない椅子が増えていた。
簡易端末。
追加モニター。
現場図面用の大型表示板。
「何ですか、これ」
佐伯が顔を上げる。
「橘さんの新しい席です」
「今の席があります」
「拡張されたんです」
「なぜ」
「現場支援兼務用」
聞いていない。
「誰が決めた」
「課長」
課長を見る。
視線が合う。
「今、説明する」
「決める前に説明してください」
「決定ではない」
「椅子があります」
「準備だ」
「決定前に準備するんですか」
「通る可能性が高い」
それを決定という。
俺は鞄を置かず、課長の席へ向かった。
「現場支援兼務とは何ですか」
「そのままだ」
「現場監督とは違う?」
「現場監督業務に加えて、第三中隊と復興管理局の連絡調整。現場兆候報告の判断支援。救助機の運用計画」
「機体搭乗は」
「原則なし」
また。
「例外は」
「今から説明する」
課長が会議室を指す。
「局長と第三中隊が来る」
「もう話が進んでる」
「昨日の事故で進んだ」
事故が起きた。
俺が結果を出した。
制度案を書いた。
上が関心を持った。
全部、繋がっている。
「本人意思は」
「聞く」
「決めた後に?」
「正式には決めていない」
椅子はある。
端末もある。
俺の名前が貼られている。
「先に拒否と記録してください」
「内容を聞いてからにしろ」
「現場支援という名前でも、搭乗させるつもりなら拒否です」
「だから説明を聞け」
少し強い声。
周囲が静かになる。
俺も黙る。
課長は息を吐いた。
「橘」
「はい」
「お前を戦闘員へする話ではない」
「上はそう言います」
「俺も信用していないのは分かってる」
「課長を?」
「組織を」
否定できない。
「だから、境界を文書へ入れるための会議だ」
「俺が参加して?」
「お前がいないところで決められたいか」
それは嫌だ。
「参加します」
「最初からそう言え」
「内容次第で拒否します」
「それも記録する」
少しだけ。
昨日より話が通じる。
*
午前九時三十分。
会議室。
局長の三島。
課長。
第三中隊長の神代。
相馬。
安全管理課の森下。
俺。
机の中央に、新しい職務案が表示されている。
復興管理局・現場安全支援担当
括弧書き。
現場監督兼務
「名称が曖昧です」
俺は最初に言った。
三島局長が眉を上げる。
「内容より先に?」
「曖昧な名称は、後から仕事を増やす時に便利なので」
課長が視線を逸らす。
心当たりがあるらしい。
三島局長は少し笑った。
「では内容から話そう」
業務。
一つ。
復興現場における現場兆候報告の確認。
二つ。
危険兆候が複数発生した場合の追加調査判断。
三つ。
フレイムワーカーを用いた避難経路、救助計画の作成。
四つ。
現場監督と第三中隊の連絡調整。
五つ。
災害時の遠隔支援。
六つ。
必要に応じた現地派遣。
「ここまでは分かります」
俺は言った。
「問題は、その次です」
七つ目。
緊急時における作業支援機の運用補助。
「運用補助とは」
三島局長が答える。
「現場で機体が不足した場合の、搭乗を含む支援」
「含まれてますね」
「完全には外せない」
「なら拒否します」
即答した。
相馬が口を開きかける。
だが言わない。
以前。
能力があるからやれと説得しないでほしい。
そう伝えた。
相馬は、今も守ろうとしている。
神代が代わりに話す。
「常時搭乗を求める役職ではありません」
「緊急時に乗れと書いてある」
「命令ではなく要請を原則とします」
「例外は?」
「大規模災害。代替搭乗者不在。人命危険が切迫している場合」
昨日と同じ状況。
事故。
機体。
人。
代わりが遅い。
「その時、断れますか」
神代はすぐには答えない。
「法的には、業務命令となる可能性があります」
「なら選べない」
「完全な選択権は保証できません」
三島局長が言った。
「だが、現状よりは境界を明確にできる」
「現状より?」
「今の君は、現場監督として派遣されても、緊急時には一般職員として協力命令を受ける可能性がある」
即応登録を断っても。
候補に入らなくても。
現場にいれば、命令される。
「兼務にすれば、事前に条件を決められる」
三島局長が続ける。
「使用機体。装備。指揮系統。拒否可能条件。医療基準。家族への連絡。搭乗後の休養」
乗らないために。
乗る条件を決める。
以前と同じ逆説。
登録した方が断りやすい。
訓練した方が安全。
機体を知った方が逃げられる。
「俺を乗せたいから、条件を用意してるように聞こえます」
「否定はしない」
局長は率直だった。
「君が現場に必要だと判断する者はいる」
「戦闘能力で?」
「救助判断。危険察知。現場指示。機体操作。その全部だ」
「本人が嫌だと言っても」
「だから、常時配置にはしない」
「兼務ならいい?」
「組織としては、妥協案だ」
俺にとっても。
完全に現場を離れる。
今まで通り現場監督だけ。
現場支援を兼務。
戦闘部隊へ配置。
選択肢の中では、まだましに見える。
それが怖い。
「なぜ、今までの現場監督では駄目なんです」
俺は聞く。
森下が資料を開く。
「現場兆候報告制度が第三中隊へ導入されます」
三か月の試験運用。
復興現場。
整備棟。
訓練場。
倉庫。
輸送路。
報告件数は増える。
だが。
報告を読む人。
複数の弱い兆候を関連づける人。
それを作業停止や追加調査へ繋げる人。
足りない。
「制度だけ作っても、判断する人がいません」
森下が言った。
「安全管理課では?」
「定量的な評価はできます。ですが、機体運用と現場工程の両方を理解する人員が不足しています」
「俺も機体運用の専門家ではない」
「専門家ではありません」
神代が言う。
「だから必要です」
意味が分からない。
「専門家ではないから?」
「戦闘部隊は、どうしても脅威排除を先に考える」
神代は言葉を選ぶ。
「整備班は機体保全。現場監督は工程。安全管理は規定。医療は人命。全員が違うものを見ている」
「俺は?」
「全部へ口を出す」
課長が言った。
褒められている気がしない。
「工程も見る。人も見る。機体の動きも見る。AIの判断も疑う。現場作業員の感覚も拾う」
「面倒なだけでは」
「組織には、面倒な人間が必要な時がある」
局長の言葉。
「これまでは、現場ごとに偶然対応してきた」
クロウラー。
鳥が消えた朝。
匂い。
通信障害。
複数の弱い兆候。
スカベンジャー。
地下物流路。
藤堂への機体操作指示。
訓練場の陥没。
正式報告されなかった振動。
「今後は、制度として判断する人間が必要です」
森下が言った。
「現場へ行かず、庁舎からできませんか」
「一部は」
「なら遠隔支援だけで」
「現場でしか分からない情報があります」
森下は、整備員の証言を表示する。
床の振動。
工具の移動。
配管の鳴る音。
文章だけでは弱い。
実際の床。
機体の稼働音。
振動。
匂い。
周囲の人間の表情。
「報告者自身が、何をどう説明すればいいか分からないこともあります」
森下が続ける。
「直接聞き取る必要があります」
「森下さんでも」
「私は現場経験が少ない」
「増やせばいい」
「その間、誰がやるんです」
言葉が止まる。
今。
人が足りない。
制度だけが先に動き始めている。
「俺一人に集めるのは危険です」
「その通りだ」
局長が頷く。
「だから、君を永続的な専任にはしない」
「兼務?」
「三か月の試験配置」
期限。
少し違う。
「三か月後は」
「制度運用結果と人材育成状況を見て再評価」
「俺が後任を育てる?」
「一部は」
「仕事が増えてます」
「兼務だからな」
佐伯の顔が浮かぶ。
また言われる。
「通常業務は」
課長が答える。
「四割減らす」
「半分では」
「四割」
「現場へ行く時間を考えたら」
「まず四割」
「増えたら」
「調整する」
信用できない。
「書面に」
「入れる」
「現場支援業務を理由に、元の事務業務の遅延を個人責任にしない」
課長が少し嫌そうな顔をする。
「細かいな」
「必要です」
「入れる」
一つ。
境界。
「搭乗条件」
俺は言った。
会議室が静かになる。
自分から話すのは嫌だった。
だが。
決めなければ。
曖昧なまま使われる。
「機体搭乗を通常業務に含めない」
神代が入力する。
「はい」
「訓練は本人同意」
「はい」
「戦闘訓練は別途同意」
「別途でも拒否します」
「拒否意思を記録」
「救助訓練も、医療許可と本人同意」
「分かりました」
「緊急時」
そこが難しい。
「まず代替要員の到着時間を提示してください」
神代が頷く。
「現場で、人がいると言われるだけでは判断できない」
誰が。
何人。
状態。
代替。
時間。
危険。
情報が必要。
「搭乗を要請する時は、命令なのか要請なのか明確にする」
「はい」
相馬が以前言った。
命令なら、命令だと伝える。
正しいことのように飾らない。
「要請なら断れる」
「原則として」
「原則を使わないでください」
「要請は拒否可能」
神代が言い直す。
「命令の場合は、命令者名と理由を記録」
「記録します」
「戦闘は」
言いにくい。
「救助対象の生存と退路確保を優先」
「敵性対象への対応が必要な場合は?」
「逃げる。遮断する。押し退ける。閉じ込める」
スカベンジャー。
養生板。
隔壁。
前回の訓練。
模擬標的を押し流した。
「討伐を第一選択にしない」
「第一選択にはしない」
「武装は」
「作業装備を基本」
相馬が言った。
「ワイヤー。荷重板。切断具。低出力電磁杭。防護盾」
「銃器は」
「原則搭載しない」
今度の原則は必要かもしれない。
完全に武装を外せば。
危険から逃げられない場合もある。
「銃器を搭載する場合は事前説明と本人同意」
俺は言う。
「緊急時の現地換装は」
神代が聞く。
「命令と理由を記録」
「分かりました」
書類へ条件が並ぶ。
まるで。
乗ることを前提に準備している。
胸が重い。
「橘」
相馬が初めて俺へ直接言った。
「今、嫌なら止めてもいい」
全員が相馬を見る。
「会議を?」
「条件を考えることを」
相馬は続ける。
「決め始めたら、引き受けたように見える」
分かっている。
「俺は、まだ同意してません」
「記録されています」
森下が画面を示す。
«本人意思:現場支援兼務について判断保留。
機体搭乗業務には拒否意思あり。
条件整理への参加は、職務同意を意味しない。»
正確だ。
「続けます」
俺は言った。
「知らないところで決められる方が嫌です」
相馬が頷く。
説得しない。
止めもしない。
選ぶ余白を残す。
「現場派遣の頻度」
「週二回を上限」
局長。
「事故時は?」
「別」
「また例外」
「災害は予定できない」
正しい。
「通常派遣は週二回。事故・災害対応は別途記録」
「連続派遣は」
「原則二日まで」
「原則」
局長が少し困る。
「三日目は本人同意と医療確認」
それなら。
「搭乗後の休養」
河野の医療指示を参考にする。
救助搭乗後。
最低十二時間。
重大事故。
二十四時間以上。
心理面談。
事故映像閲覧制限。
「家族連絡」
自分から言う。
「搭乗が決まった時点で、美咲へ連絡」
「本人から?」
「できるなら」
「できない場合は管理局から」
「帰還後も」
「安否連絡」
美咲。
結衣。
待つ人。
機体へ乗る条件だけではない。
帰るまでの仕組み。
「これで全部か」
局長が聞く。
「本人拒否を評価欄から消さない」
最後に言う。
「結果を出しても」
「消さない」
「自分で救助を選んでも、次回への同意と扱わない」
「扱わない」
「搭乗した事実を、適性だけでなく経緯と一緒に残す」
命令。
要請。
本人判断。
全部。
「記録する」
局長が文書を保存する。
「この条件で、三か月の試験兼務を提案する」
提案。
まだ決定ではない。
「今、答えますか」
「期限は明日」
家で話せる。
約束を守れる。
「持ち帰ります」
「分かった」
会議は終わった。
立ち上がる。
だが、扉へ向かう前に。
森下の端末が鳴った。
緊急ではない。
現場兆候報告。
「一件です」
森下が画面を見る。
「第三復興区画。共同溝補修現場」
内容。
地下配管の圧力計。
数値異常なし。
ただし。
作業員二名が、配管の中から規則的な打音を聞いた。
三回。
間。
三回。
俺の足が止まる。
牧野が閉じ込められた時。
金属を叩いた。
三回。
間。
三回。
「現場の人員確認」
俺は言った。
森下が操作する。
「全員地上にいると報告」
「確認方法」
「現場責任者の口頭」
「個人端末の位置」
«一名分、共同溝内部。»
空気が変わる。
「全員地上じゃない」
「端末だけ落とした可能性」
森下が言う。
「打音の位置は」
«端末位置から十六メートル。»
「現場カメラ」
共同溝。
狭い。
人間用通路。
フレイムワーカーは入れない。
作業用小型機器。
照明。
途中で映像が途切れている。
「通信障害?」
«ケーブル断線。»
「現場責任者へ」
接続。
『第三復興区画、責任者の岸本です』
「管理局の橘です。全員地上と報告されていますが、一名分の端末が地下にあります」
『端末を忘れたんでしょう』
「氏名は」
『確認します』
また。
誰がいないか分からない。
「今すぐ点呼してください」
『作業は止めますか』
「打音が続いている?」
森下が確認。
新規報告。
三回。
間。
三回。
「止めてください」
俺は言った。
『圧力値は正常です』
「人がいる可能性があります」
『でも全員』
「確認できていません」
声が強くなる。
「作業停止。共同溝入口を開放。換気を最大。救助班を準備」
『権限は』
言われる。
俺は現場安全支援担当ではない。
まだ。
現場監督としても、その区画の担当ではない。
「課長」
振り返る。
「権限をください」
課長が一瞬、目を見開く。
すぐ端末へ入力。
「臨時安全確認担当に指定」
«橘蒼真を第三復興区画・臨時安全確認担当に指定。»
「岸本さん。管理局命令です。停止してください」
『了解』
現場が動く。
局長。
神代。
相馬。
全員が見ている。
「第三中隊は」
神代が立ち上がる。
「人間用共同溝なら、小型救助班を出す」
「到着時間」
「十二分」
「現地の救助装備」
「呼吸器四。担架二」
「先行確認は」
「現場作業員に行かせないでください」
閉じ込められているかもしれない。
配管破損。
ガス。
圧力。
二次被害。
「小型探査機」
«一台。入口から投入可能。»
「入れて」
岸本へ指示。
探査機。
車輪式。
高さ二十センチ。
共同溝へ。
映像。
配管。
ケーブル。
水。
照明不良。
打音。
三回。
間。
三回。
近くなる。
角。
曲がる。
人影。
倒れている。
「一人いる」
森下が息を呑む。
作業服。
脚が配管支持具の下。
意識あり。
手に工具。
打っている。
「全員地上じゃなかった」
岸本の声が震える。
『名前、吉岡です。午後の班交代で確認漏れ』
「意識は」
探査機のスピーカー。
『吉岡さん、聞こえますか』
人影が顔を上げる。
『……聞こえる』
弱い。
「空気環境」
«酸素濃度、十八・四パーセント。低下傾向。
可燃性ガス、微量。
配管圧力、局所変動あり。»
圧力計は正常。
全体値は。
局所では違う。
「何が起きた」
吉岡の声。
『支持具が……外れた。配管が下がった。脚が』
「出血は」
『分からない』
「呼吸器を」
現場作業員が入口にいる。
十二分。
小型救助班を待つ。
酸素は低下。
「探査機に予備マスク」
«搭載あり。»
「吉岡さん、自分で取れますか」
探査機の側面が開く。
マスク。
吉岡が手を伸ばす。
届かない。
「探査機を近づけて」
車輪。
水。
段差。
止まる。
「あと三十センチ」
探査機の小型アーム。
マスクを押し出す。
吉岡の指が触れる。
落ちる。
「もう一回」
アーム。
マスク。
今度は掴む。
装着。
酸素。
少し時間を稼げる。
「配管支持具の状態」
映像拡大。
脚を直接挟んでいるのではない。
支持具の金属枠が作業服を押さえ。
配管がその上へ。
動けば配管がさらに下がる。
「救助班到着十分快」
相馬が言う。
「俺が行く?」
「フレイムワーカーでは入れない」
「人間用装備で」
第三中隊には訓練がある。
「相馬が行く必要は」
「現場を知ってる」
「救助班が来る」
「十分快」
俺がさっき言った。
代わりがいる。
到着時間。
状態。
判断。
「待てます」
俺は言った。
「酸素は確保。意識あり。配管は不安定ですが、今動かす方が危険」
相馬は頷く。
行きたいのだろう。
だが。
必要性だけで動かない。
待つことも判断。
「岸本さん」
『はい』
「交代記録を確認。吉岡さん以外に未確認者がいないか、端末だけでなく本人の顔で確認」
『分かりました』
「共同溝入口周辺を封鎖。配管操作禁止」
『はい』
「救助班へ、局所圧力変動と支持具破損を共有」
神代が手配する。
時間。
一分。
二分。
探査機の映像。
吉岡の呼吸。
打音は止まった。
声をかけ続ける。
「眠らないでください」
『眠くない』
「何でもいいので話してください」
『何を』
「家族は」
『妻と、息子』
「息子さんは何歳」
『五歳』
『今日、誕生日』
最悪の情報だ。
聞かなければよかった。
いや。
聞いた方がいい。
「帰らないといけませんね」
『帰りたい』
「救助班が来ます」
保証はできない。
だが。
「もう近くまで来ています」
«到着予定、四分。»
本当に近い。
「息子さんの名前は」
『悠斗』
「何を渡す予定でした」
『消防車』
吉岡が少し笑う。
息が震える。
「大きいやつ?」
『音が鳴る』
「喜びますね」
『多分』
会議室。
誰も話さない。
画面の向こう。
地下。
一人。
「救助班到着」
神代。
小型救助班四名。
呼吸器。
油圧支柱。
簡易切断具。
共同溝へ。
映像が増える。
一人目。
二人目。
配管の手前。
「支柱を先」
救助班長。
「荷重を受ける。切断はその後」
俺は口を出さない。
専門家が来た。
任せる。
「吉岡さん」
『はい』
「専門の人が来ました」
『見えてる』
「俺は通信を外れます」
『橘さん』
名前を覚えていた。
「はい」
『ありがとう』
「まだ終わってません」
『話してくれたから』
それだけ。
「帰って、消防車を渡してください」
『うん』
通信を救助班へ引き継ぐ。
支柱。
配管を数センチ上げる。
支持具切断。
吉岡を引き出す。
出血。
脚部骨折の疑い。
担架。
地上。
午後十時十四分。
救助完了。
酸素低下。
配管破損。
もし。
全員地上という報告を信じていれば。
打音を設備音として閉じていれば。
「現場支援担当が必要な理由」
三島局長が言った。
俺は画面を見たまま答える。
「今の件を理由に、引き受けさせないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「少なくとも、今この場では」
局長は言う。
「君がいなければ助からなかった、とは言わない」
救助班が来た。
森下が報告を見た。
課長が権限を出した。
神代が班を動かした。
探査機。
現場作業員。
全員。
「だが」
局長は続ける。
「情報を繋ぐ人間は必要だ」
それは否定できない。
「俺である必要は」
「今は、君が最も経験している」
今は。
森下の言葉と同じ。
後任を育てるまで。
制度が根づくまで。
「三か月」
俺は言った。
「試験兼務」
全員が俺を見る。
まだ。
同意ではない。
「条件書を家へ持ち帰ります」
「分かった」
「美咲と話す」
「それも記録する」
三島局長が言った。
「今日の件で決めたとは扱わない」
少し。
信じてもいいかもしれない。
*
帰宅。
約束より遅くなった。
玄関。
結衣が出てくる。
「普通の日じゃなかった?」
「乗ってない」
「でも遅い」
「現場で人が一人、閉じ込められた」
美咲が来る。
「行ったの?」
「庁舎から」
「助かった?」
「助かった」
結衣が息を吐く。
「今日は何で逃がしたの」
「話して」
「話して?」
「救助の人が来るまで」
夕食は温め直してもらう。
三人で座る。
会議の話。
現場安全支援担当。
現場監督との兼務。
三か月。
通常業務四割減。
現場派遣。
遠隔支援。
緊急時の搭乗条件。
全部。
美咲は最後まで黙って聞く。
「どう思ってる?」
俺が聞く。
「引き受けたい?」
「分からない」
「今日の人が助かったから?」
「必要な仕事だとは思った」
「あなたが必要?」
「今は、経験があると言われた」
「それは本当?」
「多分」
現場兆候報告制度。
クロウラー。
スカベンジャー。
訓練場事故。
今日の共同溝。
経験してしまった。
「現場へ出る回数は」
「週二回まで」
「乗るのは」
「通常業務じゃない」
「でも緊急時は」
「命令の可能性がある」
美咲は目を伏せる。
「今までと何が違うの」
「条件が残る」
命令者。
理由。
代替要員。
到着時間。
装備。
本人拒否。
家族連絡。
休養。
「今までも、緊急時には命令される可能性があった」
「兼務しなくても?」
「うん」
「なら、兼務した方が安全なの?」
また。
逆説。
「少しは」
「呼ばれやすくもなる?」
「多分」
美咲は大きく息を吐く。
「嫌な選択肢ばっかり」
「うん」
「断ったら」
「制度担当は続ける。でも、現場判断する人が足りない」
「それを、あなたが責任に感じる必要はない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるけど」
止まる。
「今日、地下に人がいた」
「うん」
「全員地上だと報告されてた。でも、端末が一つ地下にあった。打音があった」
「あなたが気づいた?」
「森下さんもいた。皆で」
「でも、あなたは止めた」
「権限をもらって」
「そういうことが、またある?」
「あると思う」
美咲はしばらく何も言わない。
結衣も静か。
「お父さん」
「何」
「現場に行ったら、乗らないといけないの?」
「いつもは乗らない」
「じゃあ、人に言う仕事?」
「危ないかもしれないって、皆へ伝える」
「今日みたいに?」
「そう」
「それなら、やった方がいいと思う」
美咲が結衣を見る。
「簡単に言わないの」
「でも、人が助かった」
「お父さんが危ない場所へ行くかもしれない」
「乗らないんでしょ」
「事故が起きたら乗るかもしれない」
結衣は黙る。
少しして。
「お父さんは、やりたいの?」
同じ問い。
「人を助けたい」
「現場へ行きたい?」
「行きたくない」
「乗りたい?」
「今は乗りたくない」
「じゃあ、助けたい仕事だけやる?」
子どもは簡単に分ける。
だが。
その考えが制度案の始まりだった。
「できるだけ、そうする」
俺は言った。
「完全には分けられないかもしれない」
「何で」
「危ない場所にいる人を助ける仕事だから」
「お父さんも危なくなる?」
「なることはある」
結衣が箸を置く。
「嫌だ」
初めて。
はっきり言った。
「お父さんが現場へ行くの、嫌」
胸が痛む。
「うん」
否定しない。
「私がやった方がいいって言ったから、やるの?」
「違う」
「じゃあ、やめて」
美咲は止めない。
俺の答えを待っている。
「すぐには決めない」
「明日まで?」
「うん」
「やめてもいい?」
「いい」
「やってもいい?」
「それも、皆で話して決める」
結衣は納得していない。
だが、頷く。
「乗る時は絶対言って」
「言う」
「帰る時も」
「連絡する」
「死なない?」
答えられない。
美咲が少し目を伏せる。
「死なないようにする」
俺は言った。
「絶対じゃない」
「絶対って言って」
「嘘になる」
結衣の目に涙が浮かぶ。
言えばよかったかもしれない。
絶対帰る。
父親なら。
だが。
「帰るための条件を、今日たくさん決めた」
俺は続ける。
「一人で行かない。代わりの人が来る時間を確認する。危ない装備を勝手に載せない。乗った後は休む。お母さんに連絡する」
「それで帰れる?」
「帰りやすくなる」
「少し?」
「かなり」
本当かは分からない。
だが。
何も決めないよりは。
「お父さんは、帰りたい?」
「帰りたい」
これは断言できる。
「絶対?」
「絶対、帰りたい」
結衣は涙を拭く。
「じゃあ、考えていい」
許可されたような気がした。
子どもに決めさせてはいけない。
それでも。
家族の気持ちは、条件の一部だ。
「美咲は」
俺が聞く。
「反対?」
「反対したい」
「したい?」
「あなたが必要だと言われるたびに、全部断ってほしい」
「うん」
「でも今日みたいな話を聞くと、断れとも言えない」
俺と同じ。
「だから」
美咲は条件書を見る。
「三か月だけ」
「うん」
「通常業務を本当に減らす」
「書面に入れる」
「週二回を超えない」
「事故時は別だけど、記録する」
「搭乗は通常業務にしない」
「うん」
「訓練は、嫌なら断る」
「うん」
「命令された時は、命令した人の名前を聞く」
「記録する」
「私に連絡」
「必ず」
「帰ったら、何があったか話す」
それは難しい時もある。
機密。
疲労。
恐怖。
「話せる範囲で」
「黙って一人で抱えない」
「うん」
「それを守れるなら」
美咲は言った。
「三か月だけ、やってもいいと思う」
許可ではない。
一緒に決めた。
「ありがとう」
「喜ばないで」
「喜んでない」
「少し安心した顔してる」
しているかもしれない。
決められたからではない。
一人で決めなくて済んだから。
*
夜。
日記を開く。
---
五月十二日
勤務内容:現場安全支援担当・兼務協議/第三復興区画共同溝救助支援
場所:第三復興管理局本庁舎
機体搭乗:なし
医療指示:搭乗禁止継続中
現場安全支援担当。
現場監督との兼務。
三か月の試験配置を提案された。
理由。
現場兆候報告制度を運用する人材が不足。
報告を読むだけでなく。
現場工程。
機体運用。
避難。
救助。
AI判断。
現場作業員の感覚。
複数を繋ぐ人間が必要。
---
上層部は、自分を現場支援へ出したい。
理由は制度だけではない。
遠隔支援で結果を出した。
機体を操作した。
事故現場で救助した。
能力を使いたい。
それもある。
本人は現場配置を拒否している。
その意思は変わっていない。
---
試験兼務条件。
期間三か月。
通常の事務業務を四割削減。
通常の現場派遣は週二回まで。
連続派遣は二日まで。
三日目は本人同意と医療確認。
主業務。
現場兆候報告の確認。
追加調査判断。
避難経路と救助計画。
第三中隊との連絡調整。
遠隔支援。
必要時の現地派遣。
---
機体搭乗は通常業務に含めない。
訓練は本人同意。
戦闘訓練は拒否。
救助訓練も医療許可と本人同意。
緊急搭乗要請時。
救助対象。
危険内容。
代替搭乗者。
到着時間。
使用機体。
装備。
指揮者。
これらを提示。
要請は拒否可能。
命令の場合、命令者名と理由を記録。
---
救助時。
人命と退路確保を優先。
敵性対象への対応は。
逃げる。
遮断する。
押し退ける。
閉じ込める。
討伐を第一選択にしない。
作業装備を基本。
銃器搭載は事前説明と本人同意。
緊急換装は命令者と理由を記録。
---
搭乗後。
最低十二時間の休養。
重大事故後は二十四時間以上。
医療面談。
事故映像の閲覧制限。
家族へ搭乗前連絡。
本人が連絡できない場合は管理局。
帰還後も安否連絡。
---
重要。
条件整理へ参加したことを、兼務への同意とは扱わない。
救助を選んだことを、次回搭乗への同意とは扱わない。
結果を出しても、本人拒否を消さない。
搭乗の経緯。
命令。
要請。
本人判断。
全て記録する。
---
会議中。
第三復興区画共同溝から報告。
規則的な打音。
三回。
間。
三回。
全員地上との現場報告。
ただし、一名分の個人端末が地下。
点呼漏れ。
吉岡作業員が共同溝内に取り残されていた。
配管支持具破損。
右脚拘束。
酸素濃度低下。
---
小型探査機で確認。
予備マスクを搬送。
第三中隊小型救助班到着まで、通信を維持。
吉岡氏。
妻と五歳の息子。
本日、息子の誕生日。
消防車の玩具を渡す予定。
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救助完了。
右脚骨折の疑い。
意識あり。
死亡者なし。
---
俺が助けたわけではない。
探査機。
森下さん。
課長。
神代中隊長。
救助班。
現場作業員。
全員で助けた。
ただ。
情報を繋ぐ人間が必要だという言葉を、否定できなくなった。
---
家族と話した。
結衣は最初、現場支援をやった方がいいと言った。
人が助かったから。
その後。
自分が事故時に機体へ乗る可能性を聞き、現場へ行くのは嫌だと言った。
どちらも本当。
人を助けてほしい。
父親には危険な場所へ行ってほしくない。
子どもの中にも、二つの気持ちがある。
---
美咲。
反対したい。
だが今日のような救助を聞くと、断れとも言えない。
三か月。
条件を守るなら、兼務してもいいと思うと答えた。
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自分。
現場へ行きたくない。
機体には乗りたくない。
人を助ける仕事はしたい。
制度を作りたい。
現場でしか分からないことがあるのも分かる。
全部。
同時に存在する。
---
最後。
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現場へ出なければならない理由ができた。
機体に乗れるからではない。
戦えるからでもない。
現場で発せられる、弱い声を聞くため。
書類へ入らない違和感を見るため。
報告と数値の間を繋ぐため。
危険を止める権限を持つため。
---
現場監督だけでは足りない。
現場支援。
新しい名前。
名前が増えれば。
仕事も責任も増える。
危険も増える。
それでも。
境界を決められるなら。
三か月だけ。
試してもいいと思っている。
まだ正式には答えていない。
明日。
条件書へ署名する前に。
もう一度読む。
嫌だと思う項目があれば、直す。
それでも納得できなければ、断る。
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今日の結論。
現場へ出る理由は。
命令だけではなくなった。
誰かに期待されたからでもない。
現場でしか拾えないものがあると、自分で知ってしまった。
それが。
今、一番困っている理由。
以上。
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日記を閉じる。
端末には。
明日午前九時。
現場安全支援担当・試験兼務に関する意思確認
承諾。
拒否。
条件付き承諾。
三つの選択肢。
俺は。
条件付き承諾の欄を開く。
今日決めた条件が並んでいる。
一番下。
自由記述。
少し考え。
書く。
«本人は、現場支援業務の必要性を認める。
ただし、機体搭乗および戦闘任務への同意を意味しない。
本人の拒否、恐怖、家族への影響を、能力評価より軽く扱わないこと。»
保存。
まだ送信しない。
明日の朝。
もう一度読む。
その時。
同じ気持ちなら。
送る。
三か月。
現場監督。
現場支援。
事務員。
どれが本当の仕事なのか。
分からない。
多分。
全部なのだと思う。
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