手放しました。後悔はありません。
「もう昼か……」
薄暗い部屋で、私は天井を見つめたまま動けずにいた。
かつては、目を閉じる前に翌日のことを考えるのが楽しかった。
人が集まり、酒場が満ちていく光景を思い浮かべるだけで、自然と眠れた。
「どうして、こうなったんだろう……」
今は違う。
眠りは浅く、目覚めは重い。
「……だるい。でも……行かないと……」
そう呟いて、ようやく身体を起こす。
支度をする動きは遅い。
外に出ると、空気がわずかに張りつめているのが分かった。
村人とすれ違い、私は小さく頭を下げる。
「こんにちは」
返事はなかった。
以前は、向こうから声をかけてくれたのに。
視線が合うと、ひそひそとした会話が途切れる。
「また今夜も、あの音か」
「旅人が増えすぎて、落ち着かないわ」
「昔は、こんな村じゃなかったのに」
誰に向けたとも知れない声が、背中に突き刺さった。
酒場に入ると、店主がいつもの場所でグラスを拭いていた。
どのグラスもピカピカに磨かれている。
「お疲れ様です……」
私の顔を見るなり、手を止める。
「顔色が悪いな」
「そう見える?」
「ちゃんと寝てるのか?」
「寝てるよ……寝起きは悪いけど」
店主はグラスをコトンと置く。
「……もう、やめたらどうだ」
「っ……急に、何を言い出すの」
笑おうとして、うまくいかなかった。
「私がやめたら、みんな困るでしょう?……過疎化してた村が、やっと軌道に乗ってきたとこじゃない」
私は上着を脱ぎながら口にする。
「それに……ここは、私を受け入れてくれた村だもの」
転移してきたとき、よそ者だった私を受け入れてくれた。
だから――。
「そうよ。私はまだ、恩を返しきれていない」
店主が一瞬だけ目を伏せる。
「……お客が来る時間よ、準備するわ」
その一言で、会話は終わった。
その日の客層を思い浮かべ、私は曲を選ぶ。
「今日は、この曲にしようかな……」
この時間は、今も胸が弾む。
演奏を始めると、どんどん人が集まった。
酒が運ばれ、笑い声が上がる。
分かってる……。
これは、自分に言い聞かせているだけ。
それでも、盛り上がる客の姿を見ると思ってしまう。
ああ……やっぱり、手放せない。
ふと、店主が村人と話しているのが目に入った。
「前も言ったが、もう少し静かにできないのか?」
「……すみません」
店主が頭を下げる。
演奏が終わると、私は駆け寄った。
「あの……何かありましたか」
「旅人を呼んでるからって、調子に乗るなよ」
男は吐き捨てるように言った。
「村に住まわせてもらってるだけで、ありがたいと思え」
その言葉を残し、男は酒場を出ていった。
言われなくても……分かってるわよ……。
私は強く手を握りしめる。
店主が何か言おうとしたが、私は遮った。
「私は大丈夫だから。戻るね」
そう言って、演奏を再開した。
客が引けたあと、店主はすっと酒を差し出した。
「奢りだ」
「……ありがと」
杯を手に取り、私はぽつぽつと話し始める。
「元いた世界でさ……これと言った成果もないまま、続けてたの。
やめるのが怖くて、だらだらと」
酒を一口飲む。
「でもね、ほら、今は成功してるでしょ。
最初は、みんなも喜んで……村が潤ったって言ってくれて……
それが、すごく嬉しくて……」
グラスを眺めながら呟く。
「どうして、こんな風になっちゃったんだろうね」
店主は少し考えてから答えた。
「人が増えれば、村は変わる。
変わるのが嫌なやつほど、音やよそ者のせいにする。
それに――」
私は顔を上げる。
「恩が続くと、人はそれを“借り”だと思い始める。
返せない相手ほど、避けたくなる」
「そっか……」
私はグラスの氷を見つめた。
成功にしがみついている自覚はある。
それでも、手放すのが怖い。
「それに……この村を出て、生きていける気がしないし……」
元の世界にいた時と一緒。踏ん切る勇気がない。
だからといって、このまま続けたらどうなるか――考えたくもない。
グラスの氷がカランと音を立てた。
店主はしばらく黙ってから、店の中を見渡し、静かに言った。
「なら、一緒に逃げよう」
「……え?」
「ここに残れば、あんたは壊れる。
それに――この店も、もう潮時だ」
私は目を瞬かせた。
「そんな……このお店、大切にしてたのに」
「大切にしてたさ。
だから、これ以上汚したくない」
「……ごめん。私のせいで……」
「違う。
壊れる前に離れるってだけだ」
私は、泣きながら頷いた。
村を出るために準備をする。
店主を待つあいだ、部屋の隅に置いた相棒を眺めた。
……本当に、これでいいの?
やっと居場所ができた。
楽しい時間だって、確かにあった。
ここに残れば――
まだ、やり直せるんじゃないか。
そう思って、手を伸ばす。
指先が、相棒に触れた。
……握りしめて、止まる。
「……だめだ」
小さく呟き、首を振った。
そのとき、店主が荷物を抱えて現れる。
「待たせたな」
「ううん……行こっか」
夜のうちに、二人は村を出た。
「置いていくのか?」
「いい。
持っていけば、また執着するもの。置いていく」
――翌朝、村がざわめいた。
「あの二人、出ていったのか?」
「まぁ……いいさ。誰かにやらせたら」
しかし酒場では、混乱が起きていた。
「誰だよ、簡単だって言ったのは!」
「この箱どうやって動かすんだ!」
「くっそ、円盤ギュギュッてするだけじゃねーのか!?」
酒場は静まり返り、村を訪れる人は次第に減っていった。
私は別の町で目を覚ました。
「あー……よく寝た……」
腕を上げ、背伸びをする。
胸の奥に、わずかな痛みは残っている。
それでも、呼吸は深く、頭は冴えていた。
「もう、行かないと」
軽やかに身支度を整え、扉を開く。
「行ってきます」
新しい人生が、もう始まっていた。
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