地獄の釜。
もう何日もこの状態で煮込まれております。
ほどほど熱めの良い湯加減で、流れる汗も通り越して体液やら腐った肉やらドロドロと滴り落ちて。
湯に浸かっている部分からぐずぐずと溶け落ちて行くもんですから、尻から腰からずるずると湯の中に崩れ落ち、頭もすっかり鍋の中で煮込まれております。
ああ。鍋じゃなかった。
風呂なんですが。
いわゆる孤独死というやつです。
人生何が起こるか分かったもんじゃありません。
持病もない、不摂生なんてしてるつもりもなかったんですが、これが寿命というヤツでしょうか。
死んじゃったものはしょうがない。
気がつけば三途の川のほとりで誰か手招きしてるんだろうなあなんて思ってたら、これが全然的外れ。
風呂にいた。
生きてたときと変わらず、湯船の中に浸かってた。
だからあたしも最初は死んだなんて気づきもしないで、あ、なんかあの急に苦しかったヤツ、ちょっと気ぃ失ってる間に治ったんだなと思って立ち上がろうとして、初めて気づいたくらいで。
なんにも感じないんです。
あったかいお湯の感覚とか、風呂のにおいとか、濡れてるとか。
立ち上がろうとしても、足を踏ん張る感覚っていうんですかね、身体に力が入るとかそういうのもない。
ただ、なんとなく、ぐずぐずっと腹のあたりが崩れる感じがした。
なんだろうって、下を見ようとしても首は動かない。動かそうとすると、やっぱりずるずるって背中のあたりが沈む感じがする。
あれ、これ、身体に力が入らないってことは、このまま溺れ死んじゃうんじゃあないかって焦れば焦るほど、ぐずぐず……ずるずる……って、足から腰から沈んでいく感じがする。
ああ、どうしようどうしよう、なんか尻のところが……、足の付け根がって焦ってたら急に
「おい」
って声を掛けられて飛び上がるくらい驚いた。
驚いた拍子にまた、ずるずるって背中が沈んじゃったんですけどね。
「おい」
もう一回声を掛けられて、誰だろうとか、いつのまに入って来たんだろうとか、風呂の中だから恥ずかしいとかそんな気持ちいっぺんに吹き飛んで、とにかく助けて欲しくて声を上げようとした。でも、いくら頑張っても声が出なくて、心の中でじたばたとしていると、にゅっと視界に「おい」の主が現れた。
「次はどうする?」
なんの前振りもなく「次」の話を振ってきたのは黒いぼろきれを全身に纏った骸骨だった。
絶対死神じゃん。
「そうだよ」
声には出せなかったはずなのに、死神は聞こえていたかのように答えた。
「次、決めてもらわないと、あっちに連れて行こうにも連れて行けないのよ」
いや、だから「次」の意味がわからない。死神って、死にそうな人見張ってて、死んだらすぐにあの世に連れて行くもんじゃないのか。ってか、やっぱり死んだのか、あたし。
「どう見たって死んでるだろう。自分でわからない?腐ってドロドロに溶けかけてんの。これあれだよ、だいーぶ掃除大変なやつだよ」
えええええ~……。って無力感と共にずるずると身体も崩れ落ちるのがわかる。比喩じゃなくって本当に崩れ落ちてるんだから救いようがない。風呂で死んだだけに。
だいたい死神なら死んですぐ迎えに来るだろうに、いくら風呂の中とはいえ、こんなぐずぐずに溶ける前に何故迎えに来なかったのかと憤りすら感じ始めると、やっぱり聞こえたように死神が言う。
「いや、本人が死んだこと気づくまで、こっちは迎えに行けないシステムなんだよ」
ええ!?ウソでしょ!?死神が迎えに来るから人って死ぬんじゃないの!?
「なんでいちいち迎えに行かなきゃならないのよ、こっちが。おまえら勝手に死んでるくせに」
いや、よく聞くじゃない、なんか死神に足引っ張られたとか、虫の息のおじいちゃんの部屋の隅に黒い影がいたとか。
「知らねーよ、そんなの。気のせいだよ」
気のせい!?
「おまえらの寿命とか、こっちの知ったこっちゃねーよ。死んだから迎えに来てやってるだけなんだよ。うぜーな」
うぜえ!?
「で?次は?どんな人生歩みたいの?なんになる?」
はあ?
「え?なかったの?死ぬ前。もっとこうしとけばよかったーとか、小学生に戻ってやり直したいーとか、生まれ変わったらこんなんなりたいーとか。人間ってそんな、阿保みたいなこと、一度は想像するんでしょ?」
……とてもバカにされているような気がするんだが、てことは、生まれ変わらせてもらえるってことでいいのかな?
「いや、ホントはね、そういうの無いのよ。普通に寿命を迎えてたら三途の川渡ってもらってね、一回ゆっくり休んでもらうんだけど、あんたみたいにさ、突然なんか死んじゃう人とかはね、恩赦っていうとアレなんだけど、一回チャンスがもらえるのよ。よみがえりチャーンス」
それは……!もしかして昨今流行りの異世界転生!!
「記憶はなくすし、異世界とか無いから」
なーんだ。
「やる気なくすな」
えー、もう一回人生始めからかー。
「なんかなかったの?もっとちゃんと勉強していい会社に入りたかったーとか、アイドルになりたかったーとか」
う~ん……。
「あ、でも、大金持ちの家に生まれて親類縁者と相続関係で揉めたかった、とかいう火サスみたいな設定物は受け付けてないんで。あくまで自分の人生をどうしたいかね」
そうさなあ……。
「あれよ、偶然誰かの目に留まってモデルデビューするみたいな他力本願な奴もダメよ。あくまで自分の努力で掴む人生ね」
ないなあ……。
「マジで?」
死神には呆れられたが、本当に「もう一度人生をやり直せるなら」と思ったことはなかった。
驚くほど幸せな人生でもなかったが、雨の中ずぶ濡れになった道路に跪き拳でアスファルト道路を殴りつけるほど不幸な人生でもなかった。
「なにそれ」
派手に遊んだことはないが、食うに困ったこともない。高級ブランドにも興味はないし、服も汚くなければこだわりはない。読みたい本も大体読んでるし、配信サービスを利用する程度の稼ぎはちゃんとある。きつくないわけではないが、どこでもそんなもんだと思うので、今やってる仕事に不満もない。
「モテたいとかは?」
人付き合いはなあ。一番金と神経持ってかれるから、最初にいらないもんなんだよなあ。
「変な人だねえ、あんた」
そう考えると、もう、生まれ変わらなくていいかなあ。
「うーん……」
死神は黒い布で隠した頭をぽりぽりと掻くと、ため息混じりに言った。
「たまにいるんだよ。あんたみたいに『もう、生まれて来なくていい』って人。そういう人たちはさ、『自死』扱いになっちゃうんだよねえ」
え?なんで?
「考えてもみなよ。突然死んで、せっかくもう一回生まれるチャンス貰ったのに『いらない』って断ってんだぜ。怪しいにもほどがあるだろうが」
そう言われても。
「『自死』した人間にもいろんなのがいてね。死んだの後悔して『生き返りたい』と泣くヤツもいれば、『生まれ変わって幸せになりたい』とか厚かましいことぬかすヤツもいる。まあ、だいたい『あんなろくでもない世の中、死んでせいせいした』って人が多いんだけどね」
切実ですねえ。
「だからさ、せっかくここでチャンス貰ってんのに『もう、いっかな』なんて言われちゃったらさあ」
ちなみに『自死』した人たちは『突然死んだ』うちに入ると思うんですけど、その口ぶりだと生まれ変わり先は選べない感じで?
「いや、生まれ変われないよ、まず」
当然でしょうとばかりに死神は言うので驚いた。
「ずーっと煮られるんだよ、地獄の釜で」
えええ?
「火力はね、だいぶ強くしてあるけど、骨が溶けてなくなるまでだからとにかく長い。長いこと煮られて、骨の髄までぜーんぶ無くなったところで、やっと次の生まれ変わり先に行ける」
えええええ~……。
「あんた、だいぶ溶けてるけど……」
死神は風呂の中を覗いて言う。
「あの世行ったらまたイチからだからちょっと時間かかっちゃうけど、やれる?頑張れる?」
ぶんぶんと首を横に振ろうとして、ぼろりと首から頭が外れた。
「あーあーあー」
風呂の底に沈んで行く頭から見えた視界は黒のような茶色のような汚らしい濁り具合で、ぐずぐずに溶けちぎれた自分の肉体がかすかに見える。 骨にこびりついた肉だか脂肪だかが藻のようにゆらゆら揺らめき、昔テレビで見た工業用水で汚染された海の底みたいだなと思った。
「どうするー?本当に次の希望が無いなら、釜に連れてくよー」
風呂の底まで死神の声が届く。
なりたいものなんてない。やりたいことも特別ない。正直、何が一番嫌かって、もう一度人間関係を構築しなきゃあいけないことなんだなあって、このちっさい海の底を見ながら改めて思う。海じゃなくって風呂なんですが。
思えばマイナスで選んで来た人生。
あれは無理。これも無理。
あれ欲しいけど、きっと無理。
もう一回人生やり直せば、ちょっとぐらい背伸びして頑張れるんじゃないかなんて、きっと無理。
きっとまたほどほどの、手に届くくらいの人生で終えてしまう。
誰とも競わなくていいもので充分。
誰からの妬みも買わない方が幸せ。
だって人間と関わるのはとてもとても神経を使うことだったから。
妬み嫉みも何もない、穏やかな人生を送りたい。
ああ、それで海洋散骨なんてものが流行っているのかと、この小さな海の底に沈んでやっと気づく。
誰とも関わらなくていい、海の底。
いや、海じゃなくって風呂なんですけれども。
死んで、沈んで、初めて気づく。
次は是非とも
魚で。
「また煮られるけど、いい?」
おしまい