月が満ちる【東方二次創作】
霞んだ満月がのぼる夜。藤原妹紅は、もんぺの懐に手を差し入れたまま、迷いの竹林の小径を歩いていた。腰までの白い髪が、月明かりを映して揺れる。
丸い月を眺めていると──地に堕ちた月の姫、輝夜の面影が胸に浮かぶ。せっかくだからあいつを訪ねていって、周りの邪魔が入らない場所に行き、何回か殺してやろうと思ったのだ。
妖怪に遭うことはなく、竹の合間から永遠亭の中庭が見えてきた。いつものように裏手に回って月の姫と対面しようと思ったが、縁側に姫が腰掛けている。周りに永琳や兎の姿はなかったので、庭を突っ切って姫のほうに向かった。
焦る必要はないはずなのに、自然と足が早まってしまう。
今夜は火で焼こうか、短刀で喉を裂いてやろうか。腹を蹴り飛ばして咳込む姿も見ものだった。
近寄っていっても、輝夜は腰を上げず、こちらを一瞥しただけだった。
「あら」
そう答えたきり、再び足元の地面に目を落としている。普段なら顔を合わすとべらべらと嫌味を言ってくるのに、今夜は妙に大人しい。
「やけに静かだな。やる気があるなら──」
外に出ろ、と手で示そうとしたとき。座っている輝夜の背後、屋敷の奥のほうから悲鳴が聞こえた。口を閉じて耳をそばだてる。押し殺したような呻き声は、若い女のものらしい。
「……何だ、あの声」
「お産ですって。今朝からずっとあんな感じよ」
輝夜の言葉に、上弦の月の頃を思い出した。
永琳に頼まれて、身ごもった女を里に迎えに行き、永遠亭まで同行したのだ。自分一人なら歩き慣れていても、足場の良い道を選んで、途中で休憩を挟んだりすると、思ったよりも時間がかかる。日が高いうちに着いて安心したのを覚えていた。
「そういえば、少し前に案内したな。産み月になったら来るように言われたって」
苦しげな声が一旦収まる。中庭に立ったまま、声のしていたほうを眺めていると、輝夜が「座って」と目で示した。
「前に立たれると落ち着かないわ」
人がひとり入るぐらいの間を空けて、隣に座る。輝夜は両袖を重ねて自分の指先を弄りながら、刺のある口調で呟いた。
「ここは元々、冷え性とか疳の虫とかの薬を煎じる場所だったの。永琳が薬を煎じて、兎が里に売りに行ってね。赤子を取り上げるのは里の役割だったはずよ。穢れを呼び入れるなんて、何のつもりかしら」
穢れという響きが、どうにも癪にさわった。命を繋ぐことを穢れだといわれるのは聞き捨てならない。
「私と殺し合うほうが百倍は穢い。この前だって血塗れだっただろうに」
少しは効くかと思ったのに、輝夜は当然のように「あんたのは別よ」と返してきた。
「……気色が悪い」
先日やり合ったとき、こちらは唇を切ってしまい、口の端から顎まで血が伝っていた。地面に横たわっていると、輝夜がしゃがみ込んで頬に手を添え、指で口元を拭って──その指を、自分の唇に運んで舐めた。気色が悪いことこの上ない。
苛立ちまぎれに、言葉を続けた。
「どうせ、朝から誰にも構ってもらえなくて拗ねてたんだろ。皆忙しいんだよ。ほっとかれたからって死ぬわけじゃなし」
言いたいことを一通り言って、口を閉じた。図星だったのか、輝夜の返事はない。
縁側に座っていると、屋敷の中からまた叫び声が漏れ聞こえた。話の内容までは聞こえないが、兎が励ますように声をかけている。
進み具合が気になったものの、永琳と助手の兎が数匹いれば手は足りそうだし、冷やかしで覗きに行くのも良くないだろう。永遠亭まで案内したところで、自分の役割は済んでいる。
特にできることもなく、指先に火を灯して眺めた。
体が焼けるのとどっちが痛いだろうか、とふと思う。母も子も命に限りがあって、一度死んで仕切り直すわけにもいかないから、それも大変かもしれない。
雲が流れて月が白く輝いた頃、屋敷から産声が響いた。障子越しに、確かに赤子が泣いている。
ひとつ息を吐いて、指先を振って火を消し、腰を上げた。
「今日は帰る。次会ったら、覚悟しておけ」
答えを待たずに、中庭を横切って、小径に足を踏み入れた。
*
里の女は、しばらく屋敷で療養してから、赤子を布に包んで抱いて帰った。
初産で時間がかかったが、産後の回復は順調だったという。歩いて帰れるまで体力が戻ったところで、薬売りのうどんげが、女に付き添って里まで送っていった。
輝夜は永琳からその話を聞いた。帰っていった女の顔は見ていないし、赤子が男か女かも尋ねていない。全ては障子を挟んだところで過ぎていって、自分が関わることはなかった。
女が帰っていった晩。屋敷に静けさが戻ったはずなのに──私は酷い夢を見た。
晴れた昼間に縁側に座って、妹紅と話していた。
妹紅は妙に呑気な調子で、竹細工屋の主人と結婚したのだと云った。竹林の妖怪退治はどうなったのかと問うと、嫁入りしたんだから、一人で竹林に棲む理由もない、という。
腹に子がいるから、諍いや妖怪退治はもう止めたし、竹細工を手伝って暮らすことにするよ、と。
子がいるとは本当かと尋ねると、永琳に診てもらったから間違いはないと返す。妹紅は患者の道案内でも夜の交戦でもなく、腹の子を診てもらうために、屋敷に通ってくるのだった。
あるとき、廊下で妹紅とすれ違った拍子に、足払いをかけて突き飛ばした。柱に背を預けて姿勢を直し、赤い瞳でこちらを見上げてくる。ふだんならすぐに反撃してくるのに、と思う。
白い髪が血に濡れるのが好きだった。燃える翼を纏って夜空を駆ける姿が好きだった。
首を絞めたときに目が虚ろになりながら、こっちの手を掴んで引き剥がそうとするのも、地を這いながら睨みつけてくるのも好きだった。何回殺しても向かってくるのが好きだった。
首無しの不死鳥に、人間の真似事は似合わない。
壁際まで追いつめて、逃げられないようにした。妹紅は腹に手をやって庇いながら、目だけはこちらを見据えていた。服越しの腹は、いつも通りにぺたりとしている。大きくなるのはもっと後なんだろう。
片手を壁について、空いたほうの掌に光の弾が生まれる。腹に撃ち込むつもりだった。この距離なら確実に当たって、妹紅の腹を撃ち抜いて後ろの壁を揺らすだろう。そうすれば正気に戻るかもしれない。
撃とうとしたとき、永琳の声がして、体がぐらりと揺れた。
──目を覚まして跳ね起きた。
半身を起こして、片手で顔を拭う。汗をかいていて、心臓の音が煩いほど響いていた。こちらが起きているのに気づいたのか、障子の向こうに従者の気配がある。
「永琳。水を一杯、持ってきて」
永琳は一旦離れて、水を持って戻ってきた。器を受け取って喉を潤すと、永琳がこちらの首筋に手を当てた。
「熱はなさそうですね。体調がすぐれませんか」
「大丈夫。変な夢を見ただけ」
「そう。安眠効果のある香を焚いておきましょう」
部屋の片隅で皿を動かす音がして、衣擦れが遠ざかる。
夢の中には占いや未来予測に使えるものもあって、使えそうな内容なら、従者や兎に伝えることもあるけれど。さっきの夢を話す気にはなれなかった。
妹紅が竹細工屋に嫁に行く夢を見て魘されたなんて、口にすれば間が抜けているし、占いの役にも立たないだろう。
やがて、永琳の焚いた香がほのかに漂ってくる。まどろむうちに夜が明け、兎たちの足音が廊下に響いた。姿見の前で服を着替え、永琳に髪を梳いてもらい、朝粥を食べる。いつもと同じ朝だった。
*
欠けた月が上る頃。妹紅が訪ねてきて、二人で竹林の小径を歩いた。
妹紅は足早に先を行き、白い髪に結んだ赤いリボンが揺れている。腰のあたりでふわふわと跳ねるのを眺めていると、妹紅がこちらを振り返った。
「遅い。さっさと歩け」
「あんたがせっかちなのよ」
焦れたような様子が面白くて、わざとゆっくり歩いてみせる。妹紅は懐手のまま片足で土を蹴ると、また前を向いて歩き出した。
小径を外れて、人気のない開けた場所に出ると、妹紅は助走をつけて跳んだ。炎の翼が夜空によく映える。命がそのまま燃えているようで、思わず口元に笑みが浮かんだ。こんなふうに跳ぶから、あの子の呼吸は私よりもずっと速い。
足先が地面を離れて、体がふわりと浮いた。掌に光を集めながら、言葉もなく相対する。
──確かに、助産が穢れなら、殺し合いも穢れかもしれない。
でも、そうして人は生まれ、死ぬのだ。綺麗は穢い、穢いは綺麗。そういうものだと今日は思える。私たちは永い夜をふたりで生きて、生まれて死んで、また生まれよう。