『アポリアの群青 ―青の記憶域(メモリア)―』
第四話:君に名を与える、その代わりに僕を忘れてもいい
名前をなくして、ようやく君に会えた。
でも、
今ここで名前を返したら、
君はもう、僕を知らないかもしれない。
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夜が明けて、潮が完全に引いた。
砂の上に残ったのは、小さな足跡と、
砕けかけた貝殻のような“文字のかけら”。
【……ri……el】
彼はそれを拾い上げた。
小さな板のような石に、かすれて彫られた“言葉の亡骸”。
その断片に、胸が締めつけられる。
「ミ……リエル……?」
思わず声に出したその名前に、
彼女は一瞬だけ、肩を震わせた。
「……それ、どこで聞いたの?」
「わからない。
でも……その名前を呼ぶと、君のことを失いそうで、怖くなる。」
彼女はゆっくりと目を伏せた。
「それ、きっと、私の“前の名前”。
けどね……もし今、思い出しちゃったら──
今の私が、壊れちゃう気がするの。」
彼は何も言えなかった。
ただその場に立ち尽くし、
その“名”の破片を手の中で握りしめる。
風が吹く。
文字の粒が空に舞い、一瞬だけ群青が“記憶色”に染まった。
「だったら……」
彼は言った。
「僕が代わりに、その名前を持っているよ。
君が思い出せなくても、忘れてしまっても。
君が“誰”なのか、僕だけは覚えてるから。」
「それって……ずるいよ。」
彼女が泣きそうに笑う。
「ずるいけど……でも、うれしい。」
彼はふっと笑った。
「君の名前は、ミリエル。
でも、今ここにいる君がそう呼ばれたくないなら──
僕は、ただ“君”と呼び続けるよ。」
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名前を持つことは、
世界に“定義される”ということだった。
君が壊れないように。
僕がその名前を、ずっと抱えていよう。
君がまた、それを受け取れる日まで。
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