『アポリアの群青 ―迷える子羊の島―』
第二話:忘却の花は、君に似ていた
忘れたはずの痛みが、
君の声に、花のかたちで咲いた。
僕はまだ、愛せるのかな。
“忘れたい”と願った記憶ごと、君を。
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砂の海に、ぽつりと咲いていた。
花だった。
名前も種類も知らない──ただ、小さな白い花。
彼はそれを、しばらくじっと見つめていた。
胸の奥が、妙にざわついていた。
まるで、忘れたはずの記憶が、花に姿を変えて立っていたような感覚。
「それ、“ユーフォリア”って呼んでた気がする。」
彼女が言った。
「え?」
「なんとなく……そんな気がしたの。私も、ちゃんとは覚えてないんだけど。」
彼は花から彼女へ視線を移した。
その髪が、風に揺れている。
「君……前にも、そんなふうに、僕に名前を教えてくれた気がする。」
「そっか。だったら、たぶん私は──
何度でも君に名前を贈る人だったんだろうね。」
彼女は、微笑んだ。
けれどその微笑みに、かすかな影があった。
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彼は問いかける。
「どうして、そんなにやさしいんだ?」
彼女は少しだけうつむいた。
「やさしくなんて、ないよ。
私、あのとき……たぶん、誰かを信じられなかった。
だからね、いまは信じたいの。
“この出会い”だけは、裏切らないって。」
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そのときだった。
群青の空の向こうで、微かに何かが砕けるような音がした。
風が変わる。
彼の中に、“記憶”の粒が流れ込んできた。
──誰かが泣いている。
──誰かを置き去りにして、逃げた。
──それでも、「愛してる」と言ってしまった。
「僕……何かを、忘れてるんじゃない。
忘れたかったんだ。
忘れないと、生きていけなかった。」
彼は、震える声でそう言った。
彼女は近づいてきて、
その白い花を摘んだ。
そして、彼の手のひらに乗せた。
「それでいいよ。
忘れたいなら、忘れていい。
でも、忘れても私がいる。
君がまた誰かを選べるなら──
そのときは、私を選んで。
記憶じゃなく、意志で。」
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