舞台に立つということ
レナ・ド・ヴェールは、裸足だった。
床は冷たく、乾いていなかった。濡れたままの木の板。衣装の裾が足首をかすめるたびに、水を含んだ布が肌を打った。着替えなどなかった。次の舞台に立つ者に、支給されるのはあくまで貸与品。ほつれた糸も、染みの残る布も、そのまま次に渡される。
彼女は黙っていた。声を出せば、崩れてしまいそうだった。声は、演じるために残しておくものだった。
周囲では団員たちが準備をしていた。足音は控えめだった。言葉は最小限に抑えられ、表情は乏しく、目は合わせないように散らされていた。けれど誰もが知っていた。今夜の舞台が、何かを決定するのだと。
誰も言わなかったが、それは明らかだった。
劇場組合との契約は、まだ署名されていない。だが、上演は予定されていた。これは“確認の舞台”だった。演目の内容、演出、衣装、動き、言葉、それらすべてを“都市の側”が審査するための、無言の前哨戦。
だからこそ、今日の舞台には、意味があった。
――そして、何より皮肉なことに、レナ・ド・ヴェールは、こういう舞台こそが好きだった。
評価されるかもしれない、判断されるかもしれない。拒絶されるかもしれない。
そのすべての可能性が、彼女の動きを研ぎ澄ませた。
期待のない拍手よりも、刃のような沈黙の前で踊る方が、よほど意味があると思えた。
足元の冷たさが、心のどこかを締めつけた。
それでも彼女は、舞台袖に立っていた。
蝋燭の灯りが、紙のように薄い光を投げていた。観客席にはまだ誰もいなかった。だが、もうすぐ座るだろう。組合の監察員、都市の風紀官、劇場側の興行責任者、そして――あの男。
カイル・ラグラン。
彼の名を、レナは今朝知った。仲介人などという曖昧な肩書ではなく、“契約を書く者”という職能であり、その名であった。
彼のことは分からなかった。だが、目の奥にあるものだけは、知っている気がした。
感情ではない。欲望でも、権威でもない。ただ、構築された理性。
冷たく、そして精緻に組み上げられた“枠”が、彼の全身から滲んでいた。そこに、レナ・ド・ヴェールは奇妙な安心と、同時に恐ろしい違和感を覚えていた。
あの男にとって、舞台は“確認項目”にすぎない。踊り子は、“条項の履行担当者”でしかない。
だが、それでも彼の作った契約は、ほかの誰よりも丁寧で、筋が通っていた。
――だからこそ、舞台に立たなければならない。
彼に知られたいのではない。彼に理解されたいのでもない。
ただ、あの契約書の中に、自分の“名前”が書かれる前に、舞台の上に“レナ・ド・ヴェール”という存在を刻んでおきたい。
そう思った。理由はなかった。けれど、体の奥がそう叫んでいた。
照明が少しだけ明るくなる。
舞台袖から、舞台の中心までの距離はわずかだった。だが、その数歩が、とても遠く思えた。
足を出す。冷たい板の上に、裸足が触れる。観客席からはまだ何の音もない。静寂のまま、彼女は舞台の中央に立った。
――もし、これが最後の舞台だったとしても。
そう思いながら、彼女は静かに腰を落とし、呼吸を整えた。
楽団の音は鳴らない。だが関係なかった。音楽などなくとも、彼女は踊れる。音楽とは身体のなかにある。拍子も旋律も、観客の吐息から拾えばいい。
レナ・ド・ヴェールは、ゆっくりと踊り出した。
その動きは、舞台の光を割り、沈黙を震わせ、契約書に書かれた一行の文字よりも重く、深く、都市の空気にしみ込んでいった。
そしてその夜、劇場の片隅で契約草案の“条項第四項”が、わずかに書き換えられた。
――衣装制限、緩和。