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火花は紙の上に

紙の匂いがした。

それは雨の匂いとは違って、乾いた繊維と、鉄のような墨の匂いと、ほんのわずかに、汗を吸った革のにおいが混ざっていた。幌の中に、それが静かに漂っていた。


 

革袋は開かれ、書類が並んでいた。綴じられていない一枚一枚の紙は、表向きはまるで白紙のように無害な顔をしている。だがレナ・ド・ヴェールは知っている。そこに書かれている言葉のほとんどは、目的ではなく“逃げ道”だ。逃げるために書く。逃げられた時に備えて書く。逃がさないように、もしくは逃げるために。


仲介を担う男は、紙の束を丁寧に並べていた。


男の顔は平凡だった。表情も乏しく、声には感情がなかった。ただ、その手つきだけが、奇妙なほど丁寧で、遅滞がなかった。動きに無駄がない。インク壺の蓋を開け、羽根ペンを取り、紙をめくる、そのすべてが、まるで何かを“整える”ことに特化して生まれた人間のようだった。


「……すでに初稿はまとめてあります。劇場側と劇団側、それぞれの権利義務の明文化。今回に限っては、前回の興行記録を参考に、双方の損益を加味した分配比率を試算しています」


彼は紙を一枚、差し出した。


「ご覧ください。これは報酬の分配案です。劇場が固定費を負担、劇団には歩合制の報酬。最低保証は三割。上限は設定していませんが、控除項目が複雑なので、実質五割を超えることはないでしょう」


レナは受け取らなかった。ただ、睨むようにそれを見た。


「控除項目?」


「衣装費、照明、音楽使用、警備員の追加配置。劇団が外部から来る場合、滞在登録料もかかります」


「……つまり、払ってもらえる金額は、契約書を読んでも分からない、ということね」


「読めば分かります。すべて書かれています。書かれていないことは、起きたとしても争点になります」


「書いてあるからって、信じられるとは限らないわ」


男はわずかに目を細めた。だが怒りではなかった。ただ、ほんの少しだけ、相手の言葉を検証するような視線だった。


「信じる必要はありません。合意するかどうかだけです」


その一言に、幌の中が少しだけ冷えた。

誰も声を発さなかった。団員たちは、いつものことのように装って、衣装を畳んだり、小道具の手入れをしているふりをしていた。だが耳は、確かに二人の会話に傾いていた。


レナの声が低くなる。


「“合意”って、どういうこと?」


「両者が、対等の立場で、内容を理解し、署名することです」


「あなた、本当にそう思ってるの?」


「そうでなければ、契約は成立しません。法的にも、倫理的にも」


レナは笑った。だがそれは、陽のあたる場所で咲く笑いではなかった。


「契約ってのは、いつも強いほうが作るのよ。弱いほうは“同意したことにされる”。それだけ」


男は、少しのあいだ黙った。そして、紙の束のうち一枚を取り出し、レナの前に置いた。


「これは、演目内容に関する修正条項です。都市の風紀委員会に提出した案の写し。検閲の対象は、衣装と演出の一部。台詞には今のところ、制限はかかっていない」


「じゃあ、衣装は制限されるの?」


「舞台上の露出について、一定の保守的な条件が提示されています」


レナは顔を上げた。その目に、一瞬、灯のような何かが揺れた。


「……それで、私たちは、観客の前で、どうやって“真っすぐ”に立てばいいの?」


「観客は、演じる者の姿勢よりも、制度の許容を先に見るものです。制度の内側で、どう表現するかが問われます」


レナは立ち上がった。濡れた外套の端がひるがえる。音もなく、ただ目の前の男を見下ろすように見た。


「あなた、“演じる”って何だか分かってるの?」


男は答えなかった。答えなかったが、その目にだけ、わずかな反応があった。拒絶ではない。理解しようとする視線でもない。ただ、観察だった。制度の外にあるものを、制度の言葉に訳そうとする、無表情な計算のまなざし。


火花があった。声は荒れなかった。罵りもなかった。ただ、言葉と言葉の間に、確かな温度差があった。


そして、温度差があるところには、かならず火が生まれる。

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