踊り子と紙
レナ・ド・ヴェールは、動かなかった。
荷馬車の幌をくぐり、石畳に足を下ろしてから、どれほどの時間が経ったか分からない。雨は止まず、背中に落ちる雫がじわじわと布地を濡らしていく。それでも、何も感じなかった。冷たさも、不快も、いっそ生の実感すらなかった。
目の前には、あの男が差し出してきた革袋がある。契約書の束。まだ開かれてもいない紙の、ただの重みだけが、まるで毒の入った水袋のように、じっとそこに居座っていた。
彼女の名前を、その中に書きつければ、またひとつ“何か”が戻ってこない場所へ行くのだと、わかっていた。
名を署す――それは、たった一度で十分な行為だった。
十六のときのことを、彼女は嫌でも覚えていた。
両親はすでに墓の下。頼れる親族もなく、彼女は自分の足で劇団の天幕をくぐった。舞台の輝きに惹かれたわけではない。食べ物と、居場所と、数日間の屋根をくれる場所がそこにあった。それだけだった。
そして紙が差し出された。団長は笑っていた。「加入には手続きがいる」と。その笑いは人当たりの良さに満ちていたが、いま思えば、あれは“回収済みの賭け”を見守る顔だった。
紙の内容は、半分も理解できなかった。だが彼女は名前を書いた。誰も止めなかった。
あれが“入口”だった。
それから五年。レナは幾度となく、舞台に立った。光の中に身をさらし、音楽に身を委ね、拍手と口笛と視線に囲まれて、踊った。けれどそのどの瞬間にも、自分自身がいたという確信はなかった。
衣装は自費。移動費も自費。寝床はいつも他人の後。舞台に立つことは、光を浴びることではなく、束の間“搾取に名前を与えられる”行為だった。
観客は、何も知らない。いや、知らなくて当然だった。
女が笑い、歌い、身体を揺らす舞台の裏で、朝には酒瓶が転がり、衣装のほころびがそのまま次の街へ運ばれることを、誰も知る義務などなかった。
それでいい。
ただし、踊る側まで“それでいい”と思い始めたら、終わりだ。
レナは雨の匂いを吸い込んだ。汚れた空気。鉄と泥と人の息が混じった都市のにおい。
だがその奥に、わずかに紙の匂いがあるような気がした。あの契約書の束が、まだ開かれもせず、彼女を待っている。名を書けと命じている。
背後から、声がかかった。
「レナ」
彼女は振り返らなかった。濡れた肩が、微かに動くだけだった。
「さっきの人……あれが仲介人かい? 契約の話、ちゃんと聞いた?」
声の主は、元踊り子で、今は衣装と帳簿を預かっている年長の女だった。馬車の幌の下から、レナの背を見つめていた。
レナは、ゆっくりと答えた。
「話なんてなかった。ただ、紙があるだけ」
「読んだの?」
「読んでない。読まなくても、だいたい分かる」
女は沈黙した。
レナは続けた。声音は硬く、湿っていた。
「どうせまた、舞台の回数も、演目の構成も、都市側の都合で変えられる。報酬は歩合制で、しかも支給は月末。経費は全部差し引き。撤退条項だけはきっちり明記されてて、うちが違約すれば罰金。……そんなとこでしょ」
それは、今までに読まされた紙に書かれていたものの、寄せ集めだった。
だが、彼女には分かる。契約というのは、たいてい、“何も起きなければ問題ない”ように作られている。けれど実際には、何かが起きる。遅れ、事故、誤解、都合、裏切り……それらが起きたときに、「書いてあった通りです」と言われるのが契約だ。
紙の中で、最も強いのは“想定されなかった事態”ではない。
“すでに想定されていた事態”の扱い方だ。
レナはうっすらと笑った。
だがその笑みには、温度も、柔らかさもなかった。
「この街で、紙に名前を書いて自由になった踊り子がいるなら、私はその人に会ってみたい」
雨が強くなった。屋根のない舞台は、今日も静かだった。
都市の石は冷たく、門の内側はまだ何も語らなかった。
だがレナ・ド・ヴェールは、もう一度、濡れた石を踏んで、前を向いた。彼女には選べることが少なかった。だからこそ、選べるものだけは、自分で選びたかった。
それが舞台であっても、あるいは、ただの紙切れであっても。