第3話
「ああ」
この一週間もなんとか乗り切った。
その一言が喉まで出かかったが、言わない。まだあと一日ある。
ゾンビ化前なら休日一日なんてゲームでもしてればすぐに溶けていったのだが、この世界ではそうもいかない。
……それにしても今週は色々ありすぎて脳の処理が追いついていない。主に梓のこととか梓のこととか。
ベランダの柵に肘をつくと、ひんやりとした金属の感触が心地良い。生暖かい春風が髪を揺らす。
今、目の前に広がるのは暗闇だけ。まるであの村に戻ったかのような静かな暗闇だ。
ーーかつて、まだ俺が上京する少し前のこと。大学から遠すぎず便利で、しかもなんとか家賃に手が届くくらいといった印象しかなかったこの街を訪れた俺は、いくつかのアパートやマンションを見て回った。
そのどれをとっても特にこれといった特徴も少なく、どれでも良いというのが正直な感想だった。
ここに来た時も、これも他と同じようなものだろうなくらいにしか思っていなくて、もう一番最初に紹介されたので良いか、とか考えていた気がする。
だが、部屋のドアを開けた瞬間、そんな考えは何処かへ消えた。
目線の先には、ひとつの大きな窓。
それはまだ住人が居らず閑散とした部屋に、ひとつの光を差し込ませていた。
自然と、足が動いた。
ベランダに出た俺の口からは、滑るように言葉が出た。
「ここにします」
そのときの桜は、まだ三分咲きくらいで蕾ばっかりだったけど、何故かこれからの日々が楽しみになった。
一口。手に持った缶に口をつける。ほんのりとした苦味が心地良い。
ちょっとした高台にあるマンションの俺の部屋からはこの近辺が見渡せた。
そうは言ってもただのごみごみとした街並みが見えるだけで、そこまで大したことはないが。
それでも夜になるとほんのりとした灯りがちらほら見えていて、それらは微々たる灯りに過ぎなかったけど、でもたしかにその灯りひとつひとつにそれぞれの営みがあった。
それなのに、今はただ悲鳴がこだまする暗闇となってしまった。
ーーあの日、梓と初めて出会った日。
持ち切れるだけの食材を持って家に帰った俺は、ついてくる彼女に向かって言ったのだ。「お互い、腹割って話そうぜ」と。
彼女がベランダに出たいと言うのでベランダで空を見上げて、並んで話していた。
「それで、どうしてあんなことしようとしたんだ」
俺はできるだけ圧力をかけないように気をつけて声をかけた。見上げると空はうっすらと曇っていて、星がほとんど見えない夜だった。
「……三年前、私はごく普通の中学生活を送っていたと思う。友だちもそこそこいて、バスケ部の引退がかかった大会まであと三ヶ月で部活も毎日夜中までやってたとき。あの頃は良かったんです。……なのに、突如町中の人がゾンビになった」
あの頃は政府も世間もパニックで、事件やら事故やらも多発してたことが思い出される。
そう考えると、あれから三年が経った今はまだマシなのかもしれない。
それこそゾンビはそこらじゅうにいるが、三年間生き残ってきた人というのはそう簡単にゾンビに捕まりはしない。
だからゾンビの増殖は緩やかになっているはずだし、かつてのような混乱は生じていない。
「うちの家族もみんなパニックになって、それでも山奥の田舎とかに逃げようとしてた。でもある日…お母さんが食糧調達に行くって言って……」
梓の目から大粒の涙が溢れた。
「うっ…それで、二年間隠れてたんだけど、お父さんも…ゾンビに…うぅ。それで、私がこの手で……お父さんをころ…うぁあああ」
「……そうか。それは、頑張ったな」
世界がこんな状況なのだ。似たような話なら山ほどあるだろう。
だがその苦しみは、一人の女子高生のこんなにも小さな肩に背負うにはあまりにも大きすぎる。
俺は泣きじゃくる彼女の頭を、いつまでも撫で続けた。
どこからか微かにバイクのエンジン音が聞こえてきて、血の匂いが鼻をついた。
そんな気がした。
結局、帰るところの無い彼女にはとりあえず俺の部屋に住んでもらうことにした。
というか彼女が一人じゃ嫌だと駄々をこねたのだ。
最初同じ部屋に泊まるのは狭いし、何よりいろいろよろしくないと思った。
まあ俺は何も手出ししないと誓ってやろう。何故なら俺は……年上のお姉さんが好みだからだ!え?聞いてない?まあそう言うなって。
というか「一人にしたら自殺する」などと全然冗談に聞こえない主張を聞かされてしまっては、二人暮らしを了承するしかなかった。
そうして二人の共同生活が始まると、彼女の顔にもだんだんと元気が戻ってきた。
それと同時になにか変な視線を感じるのは気のせいだろうか。
「おにーさあん」
彼女が俺を呼ぶ声がする。
気づけば、俺の頬を生ぬるい水が伝っていた。
「…あれ、おかしいな」
声に出してみるものの、それは止まらない。早く梓のところに行かなければいけないのに。
「おにーさん?」
ほら、呼んでる。だから……。
そっと、風が頬をなでた。
「……」
ああ、気づいてしまった。同時に、俺ってほんとダメだなあとつくづく思う。忘れようとすればするほど頭の中で意地悪してくる、その顔。
「そんなとこいたんですか。ポーカーリベンジするって約束してたじゃないですか?忘れたとは言わせませんよ」
こいつは、本当にすごいと思う。
こんなときにもトランプのこと考えて、毎日を楽しむことに全力を注いでいる。
それが大事なことだと分かっていても、実行できる人はそうそういない。
そして同時に、気づく。
「忘れなくても、良いのかな」
目線は外に向けたまま口にする。
「なに言ってるんですか。用意してますよ」
彼女の足音が遠ざかっていく。
あいつへの未練は、俺が再び進みだすために捨てなければいけない。
それでも、今日だけは…。
『わあー!きれいっ』
きらきらとした彼女の声が初めて部屋に響いた日。
その日満開だった桜はもうほとんど散ってしまった。
それでも…。
「あいつにも、見せたかったな」
以前と違って邪魔するものがない夜空には、満天の星がいつもより綺麗に見えた。
第1章『出会い』・完
第2章はいよいよ物語が動き出します。
そして第4話からは火・木・土・日の19:00に1話ずつ投稿予定!!
★★★★★の評価もよろしくお願いしますm(__)m