第1話
第1章『出会い』が始まります!!
「死ね」
そう吐き捨てられた言葉は、刺々しいのにどこか軽い。
そりゃあ、気持ちの籠っていない言葉は軽いに決まってる。それを吐いた当の本人は当然かのように他のやつらと笑っていて、その言葉の矛先が向けられたそいつもそいつで「こわーい」などと抜かしながら笑ってる。
別にそんなことをいちいち気にする方がここでは異質なのだろう。そう錯覚せざるを得ないほど、この世界はそういう言葉で満ち溢れていた。
俺は、そんな世界が心底嫌いだった。
そんな学生時代の俺は、少なくともたぶんいわゆる陽キャというやつでは無かったと思う。
でも、友だちはそこそこ居たと思うし、少なくともそいつらは、「死ね」などと軽々しく吐き捨てるようなやつらじゃなかったから割と恵まれても居たと思う。それとも俺がそういうやつらとは関わりを持たないようにしていたからかもしれない。
でも、今はもうそんな世界、どこにも無い。
不思議なことに、当たり前だったものが失われてみると、今度は前の方が良かったと言い出すのが人間である。
人間は常に何かしらの不満を抱えていて、でもそれをどれだけ隠せるかで人の善し悪しが決まっていたように思う。
そして、それは俺も例外では無かったみたいだ。
今日ほどこの世界を憎んだ日は前にも後にもないだろう。
今、俺の手の中には一つの焼け焦げたお守りがある。あのときから、あいつは肌身離さず持っていたようだ。
でも、もうあいつはいない。
そんな世界が俺には未だに信じられない。
残ったのは、このお守りと、一通の手紙。
3枚にも及ぶ手紙には溢れんばかりのあいつの想いが綴られている。といっても、別にラブレターとかそういうのではない。
正直、今の俺にしてみれば意味のない言葉がつらつらと書かれているだけなのに、その最後の一節だけがはっきりと思い浮かぶ。
その一文に、全ての想いが懸かっている気がした。
それはこのクソみたいな世界が現実だと俺の頭に訴えるような、そんな力をも持っていた。
そんな、俺にとって唯一生々しさを与える、ほんの少しの言葉。それが今も脳裏に焼きついて離れない。
それなのに、にも関わらず、だ。
俺は今もあの「死ね」などと軽口を叩いていられるような、そんな日々が続いているような気がしてならないーー。
○
ティンティロリン、ティンティロリン…。
スマホのアラームの無機質な音が、薄暗い部屋に響く。俺はそれを幾度となく繰り返してきた動きで止める。
この瞬間、俺はロボットだ。なにも考えず、考えるよりも先に手がまるて意思を持ったように動き、「停止」の二文字に触れる。だから毎日、昼前に目が覚めると、昨日かけたはずのアラームは切ってあって自分でも驚く。
しかしどうしてか、今日は目が覚めた。思い出してしまったからだろうか。
朦朧とした意識の中、目を閉じる。もう春だというのにまだ朝は寒さが残っている。そのことに内心舌打ちしながら、布団を肩まで引きずって横になる。
ティンティロリン、ティンティロリン…。
五分と経たないうちに控えめな電子音が、再び部屋を満たす。外からは小鳥の囀りが聞こえる。
ティンティロリン、ティンティロリン…。
一度目が覚めてしまったのが良くなかったのか、手が自動で動いてくれることはなかった。
「んんー、…もう少し寝かせてくれよ」
ティンティロリン、ティンティ。
アラームを設定した昨日の自分を恨みながらも、起き上がる。
絶賛イヤイヤ期の自分の体に鞭をうって、なんとかふとんから引き摺り出す。
のそのそとベッドに座りなおし、伸びをする。
もう、あれからどれだけの時が経ったのだろうか。
ああ、嫌なことを思い出してしまった。
洗面所で水道から水が、ぽたりとこぼれ落ちた。どういうわけか、まだ水道が使えるのはありがたい。
窓からは眩しいほどの光が差している。太陽の光は、俺がどれだけ現実から目を背けようとしても、絶対に逃してくれない。
そして外からはなにかが割れる音がしたかと思うと、誰かの悲鳴が聞こえてくる。いくら聞き飽きるほど聞いたとしても、それを聞いてなにも思わない自分に気づき、無性に虚しくなった。
窓から外をみる。
どぉんという重低音がまちに響いた。遠くのビルで爆発が起こったらしい。
部屋にある食器棚ががしゃがしゃと揺れた。
ああ、俺はあとどれだけこの景色を見なければいけないのか。
そう思いかけて、思い直す。
そんなことを考えても仕方がない、と。
「馬鹿か」
頬を叩いて自らを鼓舞すると手にも痛みが伝わってくる。代わりに、自分が生きていることが否が応でも伝わってくる。
前を向き、歩き出す。
洗面所で顔を洗い、冷蔵庫を開ける。
「しまった」
食材がない。
とてもすごくめっちゃ面倒臭いが、スーパーにでも行くしかなかろう。
もう、朝ごはんなど食べなくても良いかとも思ったが、結局後で買い物に行かなければいけないのは変わらないので、荷物を持ってしぶしぶ玄関のドアノブに手をかける。
「いけねぇ」
忘れ物に気がついた俺は、鉛のような足を動かして自室に戻り、その床に転がっているナイフを手に取る。
朱に染まったナイフは、ところどころ錆びていた。
「手入れしないとなぁ」なんて独りごちつつ、再び玄関のドアを開ける。
マンションの五階にある通路に出ると、目の前に広がる桜並木はちょうど満開だった。
「良い天気だ」
階段を降りて、道路に出る。決して気を緩ませることなく、辺りを注意して慎重に進む。ナイフを構えて、でもしっかりとした足取りで。
なんの変哲もない、ただのよく晴れた春の日。こうして歩いていると、そう思えてくる。
そうなれば良いのに、と心から願う。
しかし、神様はそんな些細な願いさえも聞き入れてはくれないらしい。
ちょうど一つ目の角に差し掛かったときだ。目の前に、そいつは現れた。
全身血まみれで、肌の色は土気色だったり、青白かったり。関節は変に折れ曲がり、充血した目は焦点があってない。
ゾンビだ。
ため息をついた俺は素早くナイフを急所に突き刺す。そいつは地面に倒れる。その隙に逃げるのだ。
青い空。
暖かな春風。
舞い散る桜。
そして、聞こえる悲鳴。
突如、世界中にゾンビが発生してから三年。今もゾンビは増え続けている。
そして何故か生き残ってしまった一人の男である俺は夢と希望を持って社会に放り出されたばっかりの新卒の会社員、だった。
○
「死ね」
そう言って竹刀を振り下ろし、ゾンビを殺す彼女の言葉には、確かな重みがあった。
高校生くらいだろうか。割と顔の良い彼女の目には、生気が無かった。
ふらふらと歩く彼女。
剣道でもやっていたのだろうか。いとも簡単にゾンビを倒す彼女は、おそらくかなり強い。
それなのに、まるでいまにも倒れそうなその背中は、とてもさっきゾンビを一太刀で殺したとは思えなかった。
そのときだ。ふとあいつの表情が脳裏に浮かんだのは。
あの時から、俺の脳裏にはあいつの顔が焼きついて離れない。あの、ゾンビの事なんて頭にないんじゃ無いかと思ってしまう飛び切りの笑顔と、頬をリスのように膨らませて怒った顔。そして今にも泣き出しそうで見ていられない、悲しそうな表情。
今の彼女の表情とあいつのそんな顔が重なった。
俺は何か嫌な予感がして、後をつけた。
あれから三年間、もう何も考える気になれなくて、現実から、世界から逃げるようにただ単調に生きてきた。
それなのに俺が彼女を追いかけたのはただ、この退屈な日々に飽きてきたからだろうか。それともこの変わらない日々を打ち破りたいという気持ちが、未だ俺の中で未練がましく疼いていたのかもしれない。
雑居ビルだった。彼女はその今にも崩れそうな非常階段を上り始めた。
カン、カン、カンという無機質な金属音が建物に響く。
一階はシャッターが閉まっていて、よく覚えていないがまあ古着屋とかだった気がする。上の階には小ぢんまりとした飲食店やバーなんかがあったみたいだ。
それだけで、かつての盛況ぶりが伺える。
アルバイト募集と書かれた広告のお姉さんも、どこか寂しそうだった。
かつて、俺が今いるこの街にはとにかくたくさんの人がいた。一本向こうにある大通りは大量の車が行き交っていたし、この狭い路地では塀に擦らないようにと車がゆっくりと走っていた。
駅にはオレンジや黄色の電車がひっきりなしに止まり、迎賓館の前にはスーツを着た偉そうなおっさんが歩いていた。
ちょっと坂を登れば例の階段があって、外国人がスマホでカシャカシャと写真を撮って喜んでいた。
だが、今となっては人はおろか鳥や虫の姿さえ見ない。
代わりに見るのはやっぱり、ゾンビばっかりだ。
それにしても彼女の目的はなんなのだろう。
建物内はかつての面影だけを残したまま窓ガラスは割れ、食器や小物なども散乱してしまっている。マスターの趣味が伝わってくる古ぼけたバーは、かつては小洒落たBGMでも流れていたのだろうか。
何かの事務所なのか、事務机の上のものどころか机自体が雑然と散らかるフロア。
足場すら無いような、倉庫。
そのどれも階段の先をゆっくりと上がる彼女には縁が無いように思えた。
そして実際、彼女はそれらに見向きもせず、ただ重々しい足取りで階段を登った。
「どこまで上るんだ…」
俺の呟きは相手には届かない。
何か腐ったものでもあるのか、鼻がひん曲がりそうな異臭がする。だが彼女はなにも思わないのかマイペースに上り続ける。ぐっと涙を堪えてそのフロアも超える。
どうやら屋上に向かっているらしい。
そう気づいたのは彼女が最上階である七階を素通りしたときだった。
そう、俺はもっと早く気づくべきだったのだ。こんな雑居ビルの屋上へ女子高生がひとりで上がっていく、なんておかしいと。
少なくとも世界がこうなって、自分の感覚の方が完全におかしくなっていた。
屋上にでると、強い風が俺の歩みを遮った。
前を見ると彼女はただ、立っていた。
だが、その場所が問題だった。
俺は駆け出す。
「死ぬな!決して死ぬんじゃ無い!今すぐこっちに戻るんだ」
彼女は振り向き、ちょっとだけ驚いた顔をして、やがて大粒の涙を溢しながら言った。
「やめて!それ以上近づかないで!そんなの私の勝手でしょ!私…もう、嫌なの」
俺は強く、拳を握って立ち止まる。決して、彼女から目は逸らさない。
その足下、コンクリートはすぐに切れ、その先にはごみごみとした街並みが覗いている。
まるで映画のようなワンシーンだが、これは現実で、彼女はいつ飛び降りてもおかしくない。
正直、俺は彼女を止められる気がしなかった。何故なら、彼女のその気持ちが良く分かるから。
それでも、死なせるわけにはいかなかった。それが俺のせめてもの償いだから。
そんなごちゃ混ぜになった感情をなんとか纏めて出てきた言葉がこれだ。
「今、きみの気持ちはよく分かる。いや、実は分かってないのかもしれない。でもさ……今死ぬのはもったいないと思う」
「もったいない…」
俺は力を込めて続ける。
「そう、もったいない。ゾンビがなんだ。この世界がなんだ。生きたくても生きられなかったやつだって何千、いや何万といるんだ。そんな中、今、ここで、生きている君が死ぬのはもったいない。それに、君が死んだら、君の家族が、大切な人たちが悲しむ」
良かれと思って言った言葉だった。でも、彼女にかける言葉としてそれは悪手だったらしい。
「そんなのあんたなんかに分かるわけないでしょ!」
彼女は叫んでいた。
「その家族も、大切な人たちも、みんな、みんな死んだ!……私が殺したの」
最後の方はほとんど声になっていなかった。そして、ただ泣いていた。
やっぱりだ。俺は思う。どおりであいつと影が重なるわけだ。
だからこそ、俺は精一杯の想いを乗せて、言う。
「だったら俺が」
俺は思う。これは、あいつからの試練なのだと。ふと、あいつの顔が見たくて堪らなくなった。
「俺が、おまえの大切な人になってやる」
彼女の目が大きく見開かれる。
勢いに乗ってとんでもないことを言ってしまっている自覚はある。
思えば、彼女にとっては余計なお世話でしか無かったのかもしれない。そうだ、これは俺のわがままで自分勝手なエゴの押し付けだ。
でも、悪いが……そんなの関係ない。俺は決して目の前で人が命を断とうとしているのを見過ごしたくないし、精一杯の償いだってさせてもらう。
そうだ、これはひとつのケジメだ。
そう心に決めて、あいつへの未練がましい想いを捨て去る。
そのときだった。
風が吹いた。強い、春風だ。
それは暖かな空気とともに彼女さえも連れ去ろうとする。
「あっ、」
彼女も油断していたようだ。バランスを崩しかけている。
一瞬、彼女が世界の中に溶け込んだかと思った。
咄嗟に足が動かない。
止められなかった。間違えた。遅かった?何故だ。
俺はまた失敗を繰り返してしまうのか?
そんな考えが頭をよぎる。
○
ーーその日も、俺はあいつと一緒だった。
そのとき俺たちが歩いていたところは人が多く、またとにかくでかい建物の中だった。
「これ可愛くない?」なんて言って服を選ぶあいつに、「ソーダネー」なんて返して。
そんな俺をみて頬を膨らませて「もう、素直じゃないんだから」なんて言うあいつ。
そんなこんなで買い物に付き合わされたり、その後フードコートに行ってラーメン食ったり、「ゲーセンだ!懐かしい」なんて言って目を輝かせたあいつに連れられてクレーンゲームの代金をちゃっかり払わされたりしてた。
まあ、つまり休日に当時通っていた大学の近くにあるショッピングモールに、二人で遊びに来ていたのである。
そしてそれは、本当に些細なことから始まった。雑誌を読んでた時にあいつが「この女優さんかわいいよね」なんて言って、俺が「いやこっちの娘の方が良いだろ」などと返して、だんだんとヒートアップして…。
……なんてしょーもないことなら良かった。
そう、そんな些細なことなら良かった。
いつもはそーゆーことで、あいつとはよく喧嘩してた。もはや俺たちが喧嘩しだしても大学の友だちなんかは「またやってるよ」くらいしか思ってないようだった。
もはや犬猿の仲とも言える俺たちにとって、ちょっとした喧嘩なんて日常的なことのはずだった。
だが、あの日は違った。
それは、絶対に言ってはいけなかった。
いつからだろう、当時を思わせないほど溌剌とした彼女の声に、笑った顔に、どこか騙されていた。油断していた。知っていたはずなのに。
あの日のことは、どれだけ後悔してもしきれない。
自分だけでは飽き足らず、この世界をも憎んだ。これほどこの世界が憎らしく思える日はもうないだろうと、その時は思っていた。
だが、次にまた世界を憎むときは、意外にもすぐだった。
死んでいたのだ。
交通事故だそうだ。ゾンビ化じゃなくて、死んでいた。
そのことを知ったとき、俺はどれほどこの世界を憎んだだろう。これほどまでに世界が崩壊し、数え切れないほどの命が失われていることにはほとんどなにも思わなかったのに。
或いはゾンビ化ならもしかして治す薬でもできるかもしれない。まだ希望はあった。
でも、残っていたのは自動車の爆発で焼け焦げたお守りひとつだけ。あの村で俺があげた唯一のプレゼント。あいつが肌身離さず持っていたはずの黄色いお守り。
ーー結局ショッピングモールで別れた後、あの日から俺たちは一言も言葉を交わさずに過ごした。
大学で会ってもお互い声はかけない。
以前はその姿を一番に探したのに、もう探さなくなった。
時が経つのが、恐ろしいほどに早かった。
世界中がパンデミックの渦に巻き込まれていったのは、あの日から一年が経とうとしていたときだった。
そして、世界中が混乱し、誰もがありもしない逃げ場を探して彷徨い、自殺も多発した。
インフラの維持が難しくなり、交通事故なんて日常茶飯事だった。
そう、日常茶飯事だったのだ。
なのに俺はなにがあろうと、どこか他人事だった。冷めた目で、ただ時間だけが過ぎていくのを眺めながら。
まさか、それらの事故の犠牲者の中に、あいつがいるとも思わずにーー。
だが、それで終わりじゃなかった。どうやら神様は、あいつの後を追おうとしていた俺に意地悪したかったみたいだ。
一枚の便箋。
あいつの部屋には手紙が残されていた。ご丁寧に宛名には俺の名前だけが書かれて。
手紙の内容は、その殆どが俺にとってどうでも良いことだった。
あいつにとってどうだったかは分からないが、殴り書きで書いてあった気がする。
だが、最後の一節。
その部分だけが俺の記憶から離れない。
その言葉たちだけに、まるで五分も十分もかけたかのような、美しく、力強い文。
『ーーだから、約束してほしい。
もう一度会おう。
それまで、絶対に絶対に死なないで、生きて、会おう。
約束だよ?』
その言葉はあまりにも自然で、まるでそこにあいつがいるような気さえした。
読み終えて手紙を置いたとき、俺は大粒の涙を流して、声をあげて泣いた。
人のこと言えないだろう。お前が死んだら意味がないじゃないか。そもそもこんな混乱の中一家揃ってどこ行こうとしてたんだよ。
言いたいことは、山ほどあった。
けれど、出てきた言葉はただ、一つだけだった。
「俺も、会いたいよ」
あの日、俺はルールを決めた。
あいつへのせめてもの償いとして。
一つ。二度と同じような過ちを繰り返さない。
一つ。俺の前では誰も死なせない。
一つ。俺も絶対に、死なない。
○
ーーそうだった。
俺はもう、誰も死なせてはいけない。
失敗は、絶対にだめだ。
死なせるわけにはいかない。諦めてはいけない。
それが俺の、せめてもの償いだから。
その時、俺は今までで一番速く走った。
おそらく、この先も一番であろうその足は、全盛期である高校生のころよりも速く、そして俊敏に動いた。
正直、間に合う気がしなかった。
思えば俺はこういう大事なときに、いつもぎりぎりでミスをする。そんな自分が情けない。
それでも俺は彼女の元へ駆ける。
とにかく駆ける。
手を伸ばす。
頭の中には、あの手紙の一節が繰り返し蘇る。
あいつの笑顔が、泣き笑いのあの顔が、しっかりと浮かぶ。
ーーおそらくここで彼女を死なせたら俺の中の何かがダメになる。そんな予感があった。
同時に、そうなっても償いを続けていける気がしなかった。それは、確信でもあった。
だからだろうか。下手したら自分も落下して死ぬかもしれないというのに、俺は飛び込んだ。
強い、春風だった。
このとき、屋上を掠める風は、彼女を空へと誘った。
幸か不幸か、彼もまたその犠牲者であり、恩恵を授かった幸運な一人でもあった。
その僅かな差が、彼の手が彼女の手に触れるかどうかの違いだった。
俺は、その僅かな差をものにしたのだ。
しかしそれはつまり自分にとっても予想外の勢いがついていたわけで、俺の身体に浮遊感を感じるまで一秒と経たなかった。
「あ、」
これ、まずい。
そう思ったときには俺と彼女は互いの手を握ったまま、ひび割れた道路に向かって吸い込まれていた。
このままでは恐らく二人とも即死だ。
なにやってんだ、俺。
誰かを助ける助けない以前に自分が死んじゃあだめじゃないか。
何か無いか?
よく晴れた青空。辺りにはビル、マンション。その他諸々。
一番近いビルは、あまり背が高いとは言えず、もうすぐ屋上の横を過ぎようとしていた。
何か無いか?
引き伸ばされた時間の中、振り返れば先ほどまで自分が居たビルは目の前だった。
小窓に着いた柵に捕まろうと左手を伸ばすが、すんでの所で届かない。
右手は依然、彼女と繋がったままだ。
何か…。
「……」
ああ、俺、死ぬのか。
そう受け入れてしまえばあとは楽だった。
……はずなのに。
「なんで…」
思い出してしまう。次々と流れる走馬灯に混じって。
『ーー絶対に死なないで』
あいつの悲しそうな顔が。
『ーー生きて会おう』
あいつのとびきりの笑顔が。
『ーー約束だよ?』
「…ばかやろうが」
思考を必死で巡らせる。走馬灯のように流れる記憶を辿る。
何か、ないか。
このビルはおそらく鉄筋コンクリートの七階建だ。
一階には古着屋の跡があった。
使えるものはない。
二階には飲食店があった。
使えるものはない。
三階にはバーがあった。
使えるものはない。
四階から上は何かの事務所だ。
使えるものは……いや、待てよ?
思い出す。そうだ、あれはちょうど五階をすぎるとき。涙が滲み、鼻がひん曲がりそうな想いをしなかっただろうか。
「もしかして…」
脳裏に一つの案が浮かぶ。だが、だからって上手くいく可能性はほとんどゼロに等しい。部屋がどれだけ密閉されているかも分からない。
しかし。このままいけばそれこそ助かる見込みは殆どないだろう。
だから。ダメ元で俺はかける。
この左手に命運を賭ける。
「いっけええええええ!」
火のついた銀色の箱。
精一杯の力と、想いを込めて、精一杯それを投げる。
するとそれは窓から綺麗に部屋に入り、瞬間、建物から光が漏れ轟音に包まれる。
身体にものすごい風圧を受ける。
彼女の手を強く握る。
「きゃああああああ!」
マンガかなんかだったとしたらズドン、とかそういう効果音が着きそうな勢いで俺たちは着地する。
しかし果たしてそこはカチカチのアスファルトか。
否、そこは荒れ果てた畑の上だった。それもビルの屋上の。
そう、とりあえずは、助かったのだ。
傲慢にも彼女の生というおまけをも手に入れて。
ところで。
「うぅ…」
いまいち状況を理解できてなさそうなまま倒れている彼女だが。
「あ、」
こちらに気づいて、少々気まずそうに俯く。
しかし振り解いた手はどこかいきばのなさそ行き場のなさそうに揺れ、結局強がるように拳をつくった。その表情からも彼女がやはり不安なのだろうと察しはつく。
だから立ち上がった俺は、再び手を差し出す。
「だからせめて、あと一ヶ月でも良いからさ、生きてみたらどうだ。偉そうなこと言っててムカつくかもしれないけど、俺だってこう見えてまだ二十五なんだぜ」
なんとか助けられたとは言っても、必死だった。
恐らく途中で異臭の酷かったフロアは死体でも転がっていたのだろう。何の、とは言わないが。
そして死体が腐敗するときに発生したガスに、俺が投げたライターが起爆剤となって爆発が起こった。
その風圧で、すぐ隣のビルの屋上菜園だった場所に着地できたのだ。
落ち着いて考えてみると、自分でも驚くほどうまくいった。
特に爆発が起こるかどうかは部屋に満ちたガスの濃度が重要だ。濃度が足りなければもちろん引火しないが、濃度が高すぎても酸素不足で爆発は起こらない。本当に奇跡的だったとも言える。
他にも、対ゾンビ用にライターの火が勝手に消えないようにつまみに細工をしておいたのもちょうど良かった。
隣をみる。
彼女はしばらくの間きょとんとした表情をしていた。
ところが少しの静寂の後、突如として大粒の涙をこぼし始めた。
「……怖かった」
「…へ?」
「寂しかった。悲しかった。なのに……なんなんですか」
彼女は顔をぐしゃぐしゃにして、必死に言葉を紡ぐ。
ほら元気出して、せっかくの可愛い顔が台無しだよ。なんて気障な台詞は言わない。
だって、俺は白馬に乗って現れた王子様じゃない。マンガの主人公でもない。俺は、ただの平凡で、わがままな男だ。あいつへの償いなどという勝手なエゴをここにいる彼女にぶつけている、わがままで身勝手な男だ。
だから、俺は彼女の言葉を待つ。ここに来て身体中に激痛が走りはじめたけど。
「……そんなに言うなら責任とってくださいよ」
さらにしばらくすると落ち着いてきたのか、唐突にそう言われた。
え、責任?なんて思ってると、彼女は今にも泣きそうな、あいつみたいな表情をしていて、それでもとびきりの笑顔で言った。
はっきりと。
「私の生きる手伝いをしてください」
彼女の瞳にはさっきまでとは違った輝きがあった。
明日も2話同時更新します!
(第2話から一話のボリュームが小さくなります)
拙い文章ですが少しでも面白いと感じていただけたら下の☆☆☆☆☆を★★★★★に変えてもらえると筆者が喜びで飛び跳ねます。モチベーションにも繋がるのでよろしくお願いします。