とある海岸にて
夜明け前の空気は凛と澄み渡り、頬を撫でていく風は肌を切り裂くように冷たい。吐く息は白く煙り、足元から冷気が這いあがってくる。かちかちと歯を震わせながら、紗織は襟を立てたコートをさらに掻き抱き、マフラーを巻いた首元を一層ちぢこませた。
身体を動かすだけで、足元の砂利が互いに擦れて音を立てる。黒いブーツに包まれた足にも、そのごつごつした感触とひんやりとした冷たさが伝わり、あまりの寒さに骨の髄から凍りついてしまいそうになる。
初日の出を見に行こうと、彼の車で近くの海岸まで半時間。木立ちに隠れた駐車場の、あんまり誰にも知られていない秘密のスポットだから、と言っていたのに、予想以上に見物人は多い。年に一度のイベントなだけあって、年齢層はともかく、男女二人という組み合わせがやたらと目につく。きっと、今年の二人の幸せを、二人で一緒に願うのだろう。
そんな光景を傍目に、紗織はますます身をちぢこませる。まるで、たった一人で立ち尽くす場違いなほどの自分の姿を、周りの人々の視界から隠して消えてしまいたいかのように。
毛糸の手袋をした両手で口元を覆い、そっと息を吹きかけた。ほんのりと温かな吐息が、凍りつくように冷たい掌を温めるが、彼女の心は逆に冷え切っていく。手足の冷たさが、何時にも増してその身に沁みた。
――まったく、肝心な時に限っていないんだから。
心の中で相手を罵って、自分の気持ちを納得させようとするが、それでもやっぱり寂しさは誤魔化せない。居てほしい時に限って、そばにいてくれない、それは避けられない当り前のコト。それでも、今日みたいな特別の日だけでも、ずっと一緒にいたいのに。いて欲しいのに。
――あいつは何時もそう、私の気持ちも知らないで……。
胸に置いた右手を、そっと左手で包み、抱え込むようにして握りしめる。
東の空は徐々に明らみ始め、それにつれて周りにいる人達の無言のざわめきも、次第に大きくなってくる。高まる期待と興奮が辺りに満ち、それは次第に渦を巻き天へと昇っていく。
その時は、近い。
そしてついに、水平線が白く輝き始めた。もはや、いつ朝日が顔を出したとしてもおかしくない。
もう、間に合わないかな。紗織が小さくため息をついた、その時。
「――っひゃう!」
突然、温かいものを頬に当てられて、紗織は妙な叫び声を上げてしまった。背後から聞こえる笑い声に慌てて後ろを振り向くと、缶コーヒーを両手に一つずつ持った男が、満面の笑みを浮かべてそこに立っていた。
「何よ、おどかさないでよ!」
「あっはは。お前、びっくりしすぎだって」
そう言って、男は右手に持った缶を紗織に向かって差し出す。彼女は頬を膨らませ、上目づかいでじっとそれを睨みつけていたが、しばらくして両手で包みこむように、それを受け取った。
「どこ行ってたのよ、バカ孝介。女の子を一人で待たせるなんて、最低じゃない?」
「悪い悪い、自販機がどこも売り切れでな。結構遠いところまで買いに行ってたんだよ」
口をとがらせて文句を言う紗織に、孝介は頭を掻きながらただただ謝るだけだ。
温かい飲み物が欲しくなって買いに行ったのは孝介だったし、そもそも紗織は時間がないと言って反対していたのだ。間もなく初日の出だというのに、急にその場を離れたくなるオマヌケさんも、なかなか珍しいものである。紗織の分もついでに奢り、帰ってくるのが遅くなったのも冗談で誤魔化そうとしていたのだが、完全に失敗してしまったようだ。
「売り切れだったなら、諦めてさっさと帰ってきなさいよ」
「ごめん、どうしても温かい物が欲しかったんだよ。まぁ、間に合ったんだからいいじゃないか。遅くなったのは本当に反省してる。ほら、この通り」
拝むように両手を合わせ、紗織に謝りたおす孝介。この場面を見るだけで、普段の二人の様子が手に取るように分かってしまうのは、一体どうしてなのだろうか。
「ふん、別に気にしてないからいいんだけど。とりあえず、後でいろいろと埋め合わせしてもらおうかしら?」
すん、と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた紗織に、
「はいはい、分かりました。姫様の仰せのままに」
上手く取り直せたことに安心したのか、孝介は一転しておどけた仕草で畏まり、冗談交じりに返答する。その口調が可笑しかったのか、紗織の口元も柔らかに緩んでいた。
怒っていたはずなのに、いつの間にかどうでもいい事だったかのように思えてしまう。巧くはぐらかされた様にも感じないし、そのことに対して不満を感じることもない。ましてや、紗織自身が彼の言動に呆れてしまい、相手にもしなくなったという訳でもない。
それは彼自身の人間性が原因なのだろうか。長く付き合った者だけが感じ取れる、彼の内面の魅力。そんなものが彼に備わっているのかは分からない、だが紗織はそんな孝介に魅かれている、その事だけは揺るぎようのない事実である。
そして…………。
「お、出た出た」
「うん、綺麗だね」
漆黒の海面を一直線に斬り裂く、白い閃光。
二人の顔を明るく照らし出す、一筋の光。
赤く、紅く、燃えたぎる太陽が、遥か遠く宇宙のかなたから、今年最初の光を地上に届かせる。
歓声が、どよめきが、水面に広がるさざ波のように辺りを走り、静かだった海辺の駐車場は、一時の喧騒で満たされる。
眩しくも明るい、心地よい光。音もなく、あたり一面にさっと広がった朝日の輝きは、海に、山に、すべての生き物に、温もりを与え、なおもその力強さを増してゆく。
二人はそろって柏手を打ち、そっと瞼を閉じた。
初日の出に祈りを奉げること十数秒、その後どちらともなく顔を見合わせ、にっこりと微笑みを交わし合う。
今年の何を願ったのか。二人の想いは、きっと同じに違いない。
こんにちは、針井龍郎です。御拝読いただき、ありがとうございました。
日常風景の一部分を切り取った、今回の拙作。オチなし、捻りなしということで、こんなのはSSではないと仰る方も居られるとは思いますが。とりあえず、場面の分かりやすさと読了感の良さだけには注意して書き上げました。短い時間に、ほっこりとして頂くのも、SSが持つべき力なのではないかと個人的に思うんです。
幾分、やっつけ仕事な部分もありますので、気になる点や直した方が良い点など、ご指摘いただけたらと思います。
それでは、これにて失礼します。