それぞれ、進展
それから一週間が過ぎた。
岸森真実は綾子の見立て通り、どんどん仕事を覚え、確実に成果を上げていったのだが、大下維は相変わらず、同行している凛太郎をヤキモキさせる言動を続けていた。顧客に対してタメ口で話したり、挨拶も友達にするような砕け過ぎのもので、顔をしかめる顧客もいた。
(こいつ、進歩どころか、退歩している気がする)
最初こそ、緊張していたからか、丁寧だった言葉遣いが妙な慣れが出て来て、荒くなったようだ。
「大下君、お客様にはもっと丁寧な言葉遣いを心がけてよ。友人の家に行くのと違うからね」
凛太郎は顧客の会社を出ると、大下に注意した。
「そっすか。わっかりました」
大下は凛太郎にまでそんな口調で応じ始めた。
(様子を見てと母さんに言われて我慢して来たけど、もう無理だ。こいつ、仕事を舐めてる)
凛太郎は注意してもダメだと判断し、それ以上何も言わなかった。
(母さんに本採用を見送ってもらおう。ダメだよ、こんな世の中舐め切った奴)
試用期間は今日まで。一区切りついたところで、綾子に見限ってもらう事を考えた。
「それじゃあ、今度は銀行へ一緒に行きましょうか」
綾子は真実と共に出かけようとしていた。そこへ仏頂面の凛太郎と何故か笑顔の大下が帰って来た。
「只今戻りました」
凛太郎が言った。
「只今戻りました」
大下はにこやかに言った。
「お帰りなさい、お疲れ様です」
真実は笑顔で応じた。
「お疲れ様。ちょっと、いい?」
綾子は凛太郎を手招きした。
「はい」
凛太郎は綾子に近づいた。すると、何故か大下も綾子に歩み寄った。
「あ、大下君は、自分の席で報告書を書いてくれるかな?」
綾子が苦笑いをして告げると、
「わかりました」
大下は一礼すると、自分の机へ歩いて行った。
「どうだった?」
綾子は声を低くして凛太郎に尋ねた。
「全然ダメ。試用期間でやめてもらった方がいいと思う。お客様に対して態度が悪過ぎるし、言葉遣いも全然改善されないから」
凛太郎は大下が報告書を書いているのをチラッと見た。
「そうなの」
綾子は凛太郎の報告に眉をひそめた。
「私と回った時は、そんな事なかったんだけどね」
綾子の言葉に凛太郎はカチンと来て、
「って事は、俺が舐められてるって事? だったら、余計ダメだよ。人を見て態度を変えるなんて、絶対許されない事だよ」
「それはわからないけど。もう少し様子を見てから判断するから」
綾子は凛太郎を宥めた。
「知らないからね、問題が起こっても」
凛太郎は憤然として自分の机に行った。
(凛と大下君、相性が悪いみたいね)
二人を事務所に残して出かけるのはまずいと判断した綾子は、
「岸森さん、銀行はまた明日にするわ。領収書の精算と出納帳の入力をお願い」
「わかりました」
真実は笑顔で応じ、領収書を所定のケースから取り出し、会計ソフトへの入力を始めた。
(岸森さんも言葉遣いが怪しかったけど、すっかり改善されたのに、大下はむしろ悪化している。しかも、母さんの前では猫をかぶっているのだとすると、ますます許せない)
凛太郎はイライラしながら、顧客から預かって来た書類を整理した。
「午後はどこを回るの?」
綾子が不意に訊いて来た。凛太郎はハッとして、
「箕輪工業さんと力丸技研さんだけど」
まさかと思ったのだが、
「じゃあ、そこは私と大下君で回るから、貴方は岸森さんについてあげて」
「え?」
凛太郎はギクッとした。
「よろしくお願いします、先輩」
真実は微笑んだ。
「ああ、はい」
凛太郎は引きつり笑いをした。
(この人、何となくだけど、優菜さんと同じ匂いがする……)
凛太郎は真実を恐れていた。何がどうという事なく。
「む?」
所長室で担当から上がって来た法人の確定申告書に目を通していた隆之助は、凛太郎からのラインに気づいた。
(そうか、やはり大下は厄介な奴か)
凛太郎と同じく、大下にいい印象を持っていない隆之助は、凛太郎の危惧を重く見た。
(綾子の奴、自分にはいい顔をする大下にすっかり籠絡されているようだな。大事にならないうちに手を打たせないと)
隆之助は申告書を机の上に置くと、腕組みをした。
「お」
次に綾子からもラインが来た。
(凛の言う事は話半分に受け止めて、か。これは急を要するかも知れないな)
そして、嫌な予感を抱いた。
(綾子は、最終的に面接をした私のせいにする可能性があるから、それは先に封じておかないといけない。一度、大下の事は注意しておくか)
隆之助は凛太郎にラインを送った。
(大下の言動を記録して、綾子に突きつけるしかない。只の愚痴だと思われるだけだ)
高岡税理士事務所を護るため、そして妻と息子を護るため、隆之助は決断した。
「先輩、お昼はどうするんですか?」
綾子と大下は午後行く予定の顧客が少し遠いので、外で昼食を摂って、そのまま向かうために事務所を出た。そのタイミングで、真実が凛太郎に訊いて来たのだ。
「出前でも取る?」
凛太郎は素っ気なく言った。すると真実はツカツカと凛太郎の席に近づき、
「外で食べません? 今日は来客の予定もないですし」
顔を凛太郎のすぐそばまで寄せて来た。
(近いよ、岸森さん)
凛太郎はドキッとしたが、
「どこか行きたいところがあるの?」
無理やり微笑んで応じた。
「あります! 行きましょう!」
真実は強引に凛太郎を立ち上がらせた。
「え、ああ、そう……」
凛太郎はますます真実と優菜を重ねてしまった。真実はさっさと身支度を整え、電話を綾子のスマホに転送すると、
「早くしてください! お店が混んじゃいますよ!」
ドアの前まで行き、凛太郎を手招きした。
「わかったよ」
凛太郎は溜息混じりに応じた。
「何だか、自分、凛太郎先輩に毛嫌いされている気がするんです」
昼食のために入った蕎麦屋の座敷で、大下がボソッと言った。
「え?」
綾子は大下からそんな事を言われると思っていなかったんで、ピクっとし、
「何か言われたの?」
声を低くして尋ねた。大下は深く溜息を吐いて、
「小言が多いんです。胃がキリキリするくらい言われるので、この仕事、向いていないのかなあって……」
「小言?」
綾子は凛太郎が言っていた事が真実だと確信した。
(ダメだ。この子、凛の注意を小言とか言って……。やっぱり、やめてもらうしかないな)
綾子も遂に大下を見限る事にした。
「挨拶をしているのに、そんなんじゃダメだとか、お客様に話しかけると、言葉遣いが悪いって。もう、何をしたらいいのかわかりません」
大下は俯いた。綾子は小さく溜息を吐くと、
「凛太郎の言葉をそんなふうに思っているの。それは困ったわね」
「そうなんです。困っているんです」
大下は綾子が自分の味方をしてくれていると誤解したのか、嬉しそうに顔を上げた。
「困っているのは私の方よ、大下君。君は自分が間違っているとは全く思っていないのね」
「え?」
大下は綾子が自分の味方ではない事に気づき、目を見開いた。
「そんな、先生まで……。自分は真面目に仕事を覚えようとしているのに、それを全否定するんですか?」
大下は涙ぐんでいた。
(まさか、この子、本気で自分は間違っていないと思っているの? 修正のしようがないわね)
凛太郎を舐めているのであれば、まだ改善の余地があると思ったのだが、どうやらそうではないのだ。綾子といると、言葉遣いもきちんとしているし、挨拶もできていたのは、単に綾子が怖いからのようだ。
(舐めているというより、気持ちが緩むという感じなのね。だから、自覚がないし、改善の余地がない)
このままずっと一緒に顧客回りをする事はできない。それでは、人員を増やした意味がないのだ。
「全否定なんかしていないわ。只、貴方が気づく事ができないのであれば、もうこれ以上ウチで働いてもらう事はできない」
綾子は真顔で大下を見た。大下は綾子の言葉でとうとう涙を流した。
「そんな、そんな、自分は一生懸命なのに、そんなふうに言われるなんて、悲しいです」
綾子は大下の演技とは思えない号泣にドン引きしてしまった。
(何なのよ、この子? いい大人が、大声で泣き出して……)
大下の泣き声に驚いた蕎麦屋の従業員が顔を出した。
「どうされましたか?」
その従業員は、多分大下より年下の女の子だった。泣いているのがスーツ姿の男だとわかり、呆気に取られている。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫ですから」
綾子は苦笑いをして従業員の女の子を厨房に帰らせた。
「大下君、一度事務所に帰って話しましょうか」
「はい」
綾子は大下を促すと、座敷を立った。
「先輩の奥さんて、マルサなんですよね?」
イタリアンレストランでの食事は真実の一方的な質問攻めに終始していた。
「あ、そうだけど」
凛太郎はあまり麻奈未の事は話したくないのだが、綾子が喋ってしまったようで、真実は麻奈未に興味津々だ。
「今度、お会いする事できませんか? お休みの日とか、ないんですか? マルサって、とんでもなく忙しいんですよね?」
マシンガンのように喋り続ける真実に凛太郎は辟易していた。
「うん、まあ、そうだね」
どうにかしてくれと思っていた矢先、綾子から電話がかかって来た。
「はい」
何だろうと思って出ると、
「すぐに戻って来て。緊急事態なの」
「緊急事態?」
凛太郎は綾子が大袈裟なのを知っているが、その時の口調は信じるに値する程強かった。
(よし、これで岸森さんのトークを止められる)
渡りに船と思った凛太郎は、
「わかりました、すぐに戻ります」
通話を切ると、
「岸森さん、所長から戻るように言われたので、帰ろう」
伝票を掴むと、席を立った。
「え? あ、はい」
真実はキョトンとしながらも、凛太郎に釣られて立ち上がった。
(とうとう真帆が休んだ。まずいかも……)
聖生は神宮真帆が突然仕事を休んだので、焦っていた。
(私の言動に何か気づいたのかな? 相手が真帆に入れ知恵したの?)
嫌な予感がぐるぐる頭を巡っている。
(茉祐子に迷惑がかかる。どうしよう?)
聖生は考えた挙句、茉祐子に連絡した。
「どうしたの、聖生ちゃん?」
茉祐子はワンコールで出た。
「ごめん、私がうまく立ち回れなくて、真帆に勘づかれたみたいなの。彼女、今日休んだのよ」
聖生は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、茉祐子に謝罪した。
「心配しないで。大丈夫。こちらで何とかするから」
茉祐子は冷静だった。聖生は茉祐子の言葉にホッとした。
「真帆を助けて、茉祐子」
聖生は声を震わせて告げた。
「それは約束する。聖生ちゃんの親友は、私にとっても親友だから」
「ありがとう、茉祐子」
聖生は通話を終えて、法人課税部門のフロアへ戻った。
「神宮さんが動いたようです」
茉祐子はそばで聞いていた麻奈未に告げた。
「そう。深みにはまらないうちに救い出せそうね?」
麻奈未は微笑んで応じた。
「はい。充が神宮さんを尾行しているので、すぐに助け出せると思います」
そう言いながらも、茉祐子は怪訝そうな顔をしている。
「何か気になる事があるの、中禅寺さん?」
麻奈未はそれを見て取り、訊いた。
「妙なんです。あっさりし過ぎています」
「え?」
茉祐子の言葉に麻奈未は眉をひそめた。
「どういう事?」
茉祐子は麻奈未を見て、
「四季島という男は、物凄く慎重な性格なんです。今回の件、あまりにも杜撰な感じがします」
「杜撰? どんなところが?」
麻奈未が更に尋ねると、茉祐子は苦笑いをして、
「具体的にどこがどうというのは言えないのですが、何となく罠にはまったような気がするんです」
「罠?」
茉祐子の謎めいた言い方に麻奈未は混乱していた。
「何か、嫌な予感がするんです。四季島の考えている事がどうにも読み切れないというか……」
「そうなの」
麻奈未は茉祐子の右肩をポンと叩いて、
「それはおいおい考えればいいわ。とにかく今は、神宮さんを救い出す事に集中しましょう」
「そうですね」
茉祐子は四季島の悪意を拭い切れず、不承不承頷いた。
(私、どうしたらいいの?)
聖生の視線が怖くて、真帆は仕事を休んだ。だが、かといって、勇悟お兄ちゃんのところへ行きたいとは思えなかった。
(勇悟さんの言っていることは、嘘だとわかった。わかったのに、勇悟さんと結婚したい、一緒にいたいと思うと、突き放せない。どうしたらいいの?)
真帆は迷いながら、勇悟お兄ちゃんが待っているはずのホテルへと歩いていた。
「南渋谷税務署の神宮真帆さんですね?」
不意に横から現れた男に声をかけられた。
「え?」
真帆は声の主を見た。知らない男だった。
(誰?)
真帆は咄嗟に後退った。男はスーツの内ポケットから身分証を提示して、
「同業ですよ。東京国税局査察部の中禅寺充と言います」
微笑んでみせた。真帆は全身の力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
「助けに来ました。これ以上、四季島勇悟に会うのは危険です。保護しますので、ついて来てください」
充は真帆の視線に合わせて腰を下ろした。
「あ、ありがとうございます……」
真帆の両目から涙がこぼれ落ちた。