震える女と自暴自棄の男
「え? いないぞ」
大介は息を切らせて、凛太郎がいるはずのコンビニの前に着いたのだが、凛太郎らしき姿は駐車場にも店内にも見当たらなかった。
(どこに行っちゃったんだよ、凛太郎さん)
大介は焦っていた。来る途中、聖生からのラインで、麻奈未が泣いていると伝えられたのだ。
(見つからないなんて告げたら、お義姉さん、取り乱すかも……)
それでも大介は聖生に凛太郎が見つからないとラインを送った。何も伝えないのはもっと不安を掻き立ててしまうと思ったのだ。
(凛太郎さんはどうしていないんだ? そして、お義姉さんはどうして泣いているんだ?)
大介は聖生の返信を待つ事にした。
(ええ? 凛太郎さん、いなくなっちゃたの?)
聖生は大介からのラインに目を見開いた。
「どうしたの?」
涙を拭いながら、妹の反応を見た麻奈未が訊いた。
「凛太郎さん、コンビニにいなかったって」
聖生は気まずそうに応じた。麻奈未はまた涙ぐんで、
「凛君、私が酷い事を言ったから、家を出てしまったのよ。私のせいだわ」
自分を責めた。聖生は麻奈未の肩を抱いて、
「そんな事ないよ。凛太郎さんもいい大人なんだから、それくらいの事で家を出たりしないよ。ちょっと、感情の整理がつかなくなっただけだよ」
姉を宥めた。聖生は更に、
「ねえ、凛太郎さんが行きそうなところ、心当たりない?」
麻奈未の顔を覗き込んだ。麻奈未は涙で濡れる目を聖生に向けて、
「凛君が行くとしたら、カフェよ。あそこは私達の思い出の場所だから」
「最初にデートで行ったところね?」
聖生は姉に確認した。
「うん」
麻奈未は零れそうになった涙を拭って応じた。
「わかった。そのカフェなら、大介も知っているから、見に行ってもらうわ」
聖生はすぐに大介にラインを送った。
「それにしても、凛太郎さん、子供過ぎだわ。お姉に子作りを拒否されたくらいで、感情に任せて飛び出してしまうなんて」
聖生は流石に凛太郎の行動が理解できない。
「凛君を悪く言わないでよ! 悪いのは私なんだから!」
麻奈未はムッとした顔で妹を睨みつけた。聖生は肩をすくめて、
「お姉が凛太郎さんを庇うのはわかるけど、それがまた、凛太郎さんを子供扱いしている事になるって感じないの?」
「それは思うけど、でも、今回の事は私の言い方が悪かったの。凛君に隠し事をして、今日はダメって言ってしまったから」
麻奈未は三度涙目になった。
「隠し事?」
聖生は眉をひそめた。麻奈未は俯いて、
「私、本当は仕事が忙しいから断わったんじゃないの。ストーカーの事が気になって、眠れなくて、それで凛君の誘いを断わったの」
「ストーカー?」
聖生はその言葉に眉を吊り上げた。麻奈未は一連の出来事を説明した。
「そんな事があったの。でも、どうしてそれを凛太郎さんに言わなかったの? そうすれば、凛太郎さんも納得したはずよ」
聖生は姉と凛太郎のすれ違いに呆れ気味だ。
「今となってはそう思えるけど、あの時は、凛君に心配かけられないって思って……」
麻奈未はますます目を潤ませた。
「でも、それが裏目に出て、凛太郎さんが家を飛び出してしまったんでしょ? 結局、二人の思いがすれ違っているのよ。ちゃんと言葉に出さないと、伝わらない事ってあるんだよ」
聖生は説教じみていると思ったが、言わずにいられなかった。
「ごめん」
麻奈未は更に俯いた。
「謝るのは私にじゃなくて、凛太郎さんにだよ、お姉」
「わかった」
麻奈未は涙を拭って顔を上げた。
「ありがとう、聖生」
麻奈未は聖生に抱きついた。
「よしよし」
聖生は麻奈未の頭を優しく撫でた。
(ええと、カフェってどこだっけ?)
大介はうろ覚えの記憶を頼りに、凛太郎がいるかも知れないカフェに向かっていた。
(今更、聖生にどこだっけって訊けないよなあ。激怒されそうだから)
自分にメロメロの聖生に気づいていない大介は、聖生が怖くてカフェの場所を訊けない。聖生と大介も言葉が足りないのである。大介は立ち止まって、スマホでカフェを検索した。
「ああ、これだ!」
大介はカフェの位置を確認すると、また走り出した。
(凛太郎さんにちょっと文句を言わないと)
温厚な大介も、今回の凛太郎の行動には怒りが湧いていた。
「あった!」
大介はようやくカフェを見つけ、中に入った。店内を見渡すと、一番奥のボックス席にテーブルに顔を突っ伏した状態の凛太郎を見つけた。
「いらっしゃいませ」
女性店員が声をかけて来たので、
「あ、待ち合わせです」
大介は女性店員に微笑み返した。大介は気づいていないが、その女性店員はイケメンの大介に微笑まれて、顔を赤らめた。そして、そのイケメンの待ち合わせ相手が誰なのか、イケメンを目で追った。そして、イケメンが辿り着いた先にいた凛太郎を見て、少しだけホッとした。
「凛太郎さん、探しましたよ。どうしてコンビニにいてくれなかったんですか?」
大介はやや非難めいた口調で凛太郎に声をかけた。
「あ、大介君」
凛太郎は声に応じて顔を上げ、声の主が大介なのに気づくと、自分がまずい事をしたのに思い至った。
「ごめんなさい。動転していて、ここまで来てしまいました」
凛太郎は立ち上がって頭を下げた。大介は苦笑いをして向かいの席に座ると、
「とにかく、人心地したら、帰りましょう。話はそれからです」
微笑んで告げた。
「はい」
凛太郎はしょんぼりして座った。
「お待たせしました」
先程の女性店員が凛太郎が注文したコーヒーを持って来て、テーブルに置いた。そして大介を見て、
「ご注文は?」
顔を赤らめて訊いた。
「ああ、コーヒーで」
大介はまた微笑んで応じた。
「畏まりました」
女性店員は嬉しそうに応じると、戻って行った。彼女は大介が既婚者だと知れば、落胆するだろうか? それとも、そんな事は関係ないだろうか?
「戻っても、もうダメですよ。麻奈未さんは俺に愛想が尽きたんです。だから、離婚しかないと思います」
凛太郎はまだネガティヴだった。
「何を言っているんですか!? 勝手に自分で妄想を膨らませて、周囲を巻き込んで! 聖生も自分も、そんな貴方のために動いているのだとしたら、悲しくなりますよ!」
大介は凛太郎の子供じみた発言に我慢ができず、強い口調で言い放った。
「……」
凛太郎は大介がそこまで言うとは思っていなかったのか、唖然としていた。
「確実にな。弱らせてから追い込むのが最適だ。マルサをしているような人間は、プライドが高い。自分の恥ずかしい様を公表されれば、堪えられなくなる。必ず、そこまで追い込め。決して、俺が背後にいる事を知られるな。危なくなったら、一も二もなく退け。期限は次の総選挙まで。しばらくは安泰だから、じっくりな」
四季島は通話の相手に強い口調で命じていた。しかし、彼がすでに情報部門の中禅寺茉祐子達によって黒幕であると突き止められている事を四季島自身は知らない。そして、別ルートで動こうとしている事も、ナサケは掴んでいるのだ。
「しくじるなよ」
四季島は通話を終えて、スマホをスーツの内ポケットに入れた。
「四季島さん、総理がお戻りです」
四季島の部下の若い男が告げた。
「わかった」
四季島は部下と共に官邸の廊下を大股で歩いた。
(財務事務次官の一之瀬も道連れにするくらいの大スキャンダルを演出して、伊呂波坂麻奈未を社会的に葬ってやる)
四季島は部下に気づかれないように狡猾な笑みを浮かべた。
麻奈未と聖生はリヴィングルームで凛太郎と大介の帰宅を待っていた。すでに時刻は午後十時を過ぎていた。
「あ」
インターフォンが鳴った。聖生は逸る麻奈未を手で制してソファから立ち上がると、玄関へ小走りに向かった。
「只今」
聖生が玄関のドアのロックを開錠して開けると、いつもより小さく見える凛太郎と大きく見える大介が入って来た。
「聖生さん、申し訳ありませんでした」
凛太郎は頭を深々と下げた。
「凛太郎さん、謝る相手が違いますよ」
聖生は微笑んで告げた。
「あ、はい」
凛太郎は涙ぐんで顔を上げた。聖生は大輔と目配せし合って、凛太郎をリヴィングルームへ連れて行った。
「凛君!」
麻奈未が涙声で叫んだ。凛太郎は麻奈未を直視できず、俯いている。
「凛太郎さん、言うべき事があるでしょう?」
大介が凛太郎の背中を押した。聖生は麻奈未に頷いてみせた。
「麻奈未さん、ごめんなさい。自分の事ばかりで先走って、麻奈未さんに悲しい思いをさせてしまいました。許してください」
凛太郎は土下座をした。これには聖生も大介も仰天した。
「凛君、謝るのは私の方だよ。凛君の気持ちを考えずに、冷たい事を言って凛君を傷つけてしまったわ。ごめんなさい」
麻奈未は凛太郎のそばまで近づくと、同じく土下座をした。また聖生と大介は驚いた。
「麻奈未さん」
「凛君」
頭を上げて、互いにすぐそばにある相手の顔を見つめる二人。聖生と大介は見ていられなくなり、そっとリヴィングルームを出た。麻奈未と凛太郎は顔を近づけて、キスをした。それはかなり激しいものだった。二人は聖生と大介がいなくなったのも気づかずに互いに唇を貪り合った。
「あーあ、何だか、しらけちゃったわ」
廊下で聖生が呟いた。
「そうだね」
大介が聖生の顔を覗き込んで微笑んだので、
「ああん、大介、かっこいい!」
聖生も釣られたように大介にキスをした。
「み、みふぉ……」
大介は戸惑ったが、すぐに応じた。
「ちょっと、人の家で何してるのよ?」
そこへ冷静になった麻奈未が顔を覗かせた。
「ああ、お姉!」
聖生と大介は慌てて離れた。
「今日はどうもありがとう。聖生は妊娠しているのに、遅くまで付き添ってくれて、お礼を言いようがない程だよ」
麻奈未は目を潤ませて言った。
「どう致しまして。これで大きな貸しが作れたので、いつか返してもらうからね」
聖生は戯けてみせた。
「すぐそういう事を言うんだから、あんたは」
麻奈未は泣き笑いをした。
「ところで凛太郎さんは?」
大介がリヴィングルームを見ると、凛太郎は床に突っ伏して眠っていた。
「呆れた! あれだけ引っ掻き回しておいて、当の本人は眠っているの!?」
聖生は腕組みをして不満そうだ。
「ごめんね。凛君も、私以上に寝不足だったみたいなの。勘弁してあげて」
麻奈未は聖生に手を合わせて詫びた。大介はいびきを掻いている凛太郎を微笑ましく思ったのだが、
「お義姉さん、これからも大変そうですね」
麻奈未の事を考えると、微笑ましいばかりではないと思えた。
「まあね。でも、そんなところを含めて、愛すべき夫だから」
「ご馳走様」
聖生は半目で麻奈未を見た。
「で、大丈夫なの、凛太郎さん?」
聖生は真顔になって尋ねた。
「少ししたら、起こすわ。とにかく、遅くまでありがとう。早く帰って、ゆっくり休んでね」
麻奈未は聖生と大介を玄関まで見送った。
「まだ風邪をひくほど寒くはないけど、凛太郎さん、ちゃんとお守りしてね」
聖生は玄関を出ながら麻奈未に念を押した。
「大丈夫よ。ありがとう、聖生、大介君」
麻奈未は小さく手を振りつつ、ドアを閉じた。
「ちょっと、お姉にデレデレしないでよ、大介!」
ヤキモチ妬きの聖生が大介の二の腕を強くつねった。
「あいたた!」
大介は思わず悲鳴をあげた。
「ご近所迷惑よ!」
聖生は大介の口を右手で塞ぐと、
「次にお姉にデレついたら、エッチは当分禁止にするから」
大介を睨んだのだが、
「ああん、そんな事しないから、私だけを見てね」
大介を近距離で見てしまったので、またデレてしまう聖生であった。
「ああ、はい」
聖生のリアクションが理解できない大介は呆気のとられながら頷いた。
「あれは確か……」
凛太郎と麻奈未の家から少し離れた曲がり角の電柱に身を隠した男二人がいた。
「伊呂波坂麻奈未の妹の聖生だ。連中の住居も突き止めておくか」
男のうち丸坊主の方が言った。
「そうだな」
七三分けの男が応じた。麻奈未のストーカーのようである。二人は大介と聖生が歩き出すと、それを尾行し始めた。
(あらら、聖生さん、やばいっすよ)
そのストーカーをマークしているナサケの一員であり、茉祐子の部下で夫の中禅寺充が溜息を吐いた。
「茉祐子さん、聖生さん達がストーカーに尾けられています。どうしますか?」
充は茉祐子にスマホで指示を仰いだ。
「そっちはこちらで何とかするから、あんたは別の場所に向かって」
茉祐子からの指示は意外であった。
「え? そっちですか? 了解しました」
充はスマホをスーツの内ポケットに入れると、別方向に走り出した。
(たまには早く帰って、子供と遊びたいのになあ)
茉祐子の母親とは良好な関係を築いている充は、入婿生活を満喫しているのだ。
(まあ、ナサケに配属された日から、こんな生活を予感していたんだから、仕方ないか)
充は可愛い我が子の顔を思い浮かべながら、深夜の住宅街を走り抜けた。