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悩む男と有頂天な女

「何かいい事あったの?」

 鼻唄混じりに自分の机の整理をしている神宮真帆を見て、聖生が尋ねた。

「いい事なんてないよ」

 真帆は本当は聖生に明かしたかったのだが、

「しばらくは誰にも言わないで欲しい。俺の仕事の性質上、プライベートは隠していないといけないんだ」

 子供の頃から大好きだった勇悟お兄ちゃんに言われた事を思い出していた。

「そう?」

 聖生はいつになく真帆が陽気なのを怪訝そうに見ていたのだが、本人が違うと言うのであれば、もうそれ以上は訊けなかった。

「それより、聖生こそ幸せオーラ出しまくって、見ていられないよ、ホントに」

 真帆は肩をすくめて聖生を見た。

「そ、そう?」

 聖生は身に着けているゆったりとしたワンピースを見た。柄は相変わらずのボタニカルである。真帆は聖生が追撃して来ないうちにと、さっさとその場を離れた。

「神宮さん、何だかウキウキだよね」

 大介が聖生のそばに不意に近づいて来た。

「大介もそう思う?」

 聖生は気のせいではないと確信した。

「あらあら、朝から仲がよろしい事で」

 そこに現れたのは、同じ法人課税部門の調査官である武藤むとう花蓮かれんである。黒髪ストレートで、アイボリーホワイトのパンツスーツを着ているスレンダーなクールビューティといった風貌だ。

(貧乳仮面か)

 辛辣な言葉を思い浮かべると、聖生は花蓮の言葉を無視して自分の鞄を持ち、

「行って来ます」

 妊婦とは思えない大股でフロアを出て行った。

「ちょっと、ガン無視って何よ!」

 花蓮はムッとして叫んだが、聖生は振り返りもせずにエレベーターホールへと歩いて行った。

「大介君、貴方の奥さん、性格悪くない?」

 花蓮は大介ににじり寄った。彼女もまた、真帆と同じく、大介に告白せずに振られた一人である。しかも、二人が結婚した後も、大介にちょっかいをかけて来る超肉食系だ。

「ごめん、武藤さん」

 人の好い大介はすぐに謝罪した。花蓮はニヤリとして、

「貴方を責めているのではないのよ、大介君」

 大介の右肩に両手を載せた。

「武藤、人の夫に気安く触るんじゃないわよ」

 かつて好きだった男の危機を感じたのか、真帆が舞い戻って来た。

「何よ、神宮、あんただって、大介君を好きだったくせに、好い人ぶるんじゃないわよ!」

 花蓮は大介を離れて、真帆に詰め寄った。

「うるさいわね!」

 図星を突かれた真帆は顔を赤らめて反論したが、

「ふふん、顔真っ赤にして、バレバレなんだから」

 花蓮は勝ち誇った顔でフロアを出て行った。真帆は苦虫を噛み潰したような顔で花蓮を睨みつけた。

「ありがとう、神宮さん」

 大介は花蓮を追い払ってくれた真帆に謝意を示した。

「いえ、どう致しまして」

 花蓮に暴露されてしまった真帆は俯いて応じた。

「俺、神宮さんに嫌われているのかと思っていたんだけど、武藤さんを撃退してくれて、凄く嬉しかったよ」

 大介が近づいて来て告げたので、

「え、あ、そう、ありがとう」

 真帆は狼狽えて応じると、

「じゃ!」

 用もないのにフロアを飛び出して行った。

「ああ……」

 置いてきぼりを食らった形の大介は呆然としてしまった。


(何だか、恥ずかしい)

 真帆は昨夜、ずっと思いを寄せていた勇悟お兄ちゃんと結ばれた翌日に、その直前まで好意を持っていた大介に感謝されて、気が動転していた。

(大介君の事、まだ意識してしまう……)

 勇悟お兄ちゃんに結婚をしようと言われて有頂天になっていたのが後ろめたくなる程、大介の爽やかさが身に沁みた。

(ダメダメ、大介君は聖生の旦那さんなんだから、もう考えないようにしないと。勇悟お兄ちゃんにも悪いし)

 勇悟お兄ちゃんの告白は、真帆にとって途轍もない喜びなのは間違いない。しかし、どこかで引っかかるものがあった。

(勇悟お兄ちゃん、何をしているのか、教えてくれなかった。私も公務員とだけしか言わなかったけど)

 勇悟お兄ちゃんが何を隠そうとしているのか、気になったのだ。

(再会したその日に身体を許してしまったのは、私の暴走なのかな? でも勇悟お兄ちゃんは確かに私を愛してくれた。身体だけの関係ではないと思える。でも……)

 余韻を楽しむ事なく、勇悟お兄ちゃんは先にホテルを出て行った。どこか冷たい印象が真帆に残った。

(何だろう、あの違和感……)

 真帆は大介との会話によって、昨夜の出来事が不可思議なものに思えて来た。


「同じ人間を頻繁に使うな。入れ替わり立ち替わり、幾人もの人間で尾けさせろ。相手は査察だ。勘づかれる可能性があっても、尻尾を掴まれないように動けよ」

 四季島は官邸の一室で誰かに指示を出していた。

「慎重を期せよ」

 四季島は通話を終えると、スマホをスーツの内ポケットに入れた。

(伊呂波坂麻奈未はそう簡単には許さない。剣崎先生の屈辱を何倍にもして苦しめてから、退職に追い込む。しかも、一大スキャンダルを土産に付けてな。場合によっては懲戒免職になる程のな)

 四季島の顔が狡猾に歪んだ。その時、ドアがノックされた。

「どうぞ」

 四季島は先程とは全く違う穏やかな顔になり、ドアを見た。

「失礼します。四季島さん、総理がお出かけになります」

 入って来たのは、四季島の部下の若い男だった。人気俳優かと思われるくらいの美形である。長身で、着ている紺のスーツも様になっている。

「わかった。準備は整っているね?」 

 四季島は微笑んで尋ねた。

「はい」

 部下は直立不動になって応じた。

「結構。では、行こうか」

「はい」

 四季島は部屋を出た。部下の男はドアを閉じ、四季島の後に続いた。

(君には何の恨みもないが、義のために生きてくれ)

 四季島はまた狡猾な顔になった。


「凛、お客様のところに行くんじゃないの?」

 綾子は、いつまでも机に頬杖を突いている凛太郎に声をかけた。

「え? あ、しまった!」

 凛太郎は母の声に我に返ると、鞄を抱えてドアへと走った。

「行って来ます!」

 凛太郎は綾子を見る事なく、事務所を飛び出して行った。

(全く。隆之助の話だと、何もないと言っていたみたいだけど、大丈夫かしら?)

 明らかに何かに悩んでいる息子を見て、綾子は不安になった。

「あ」

 そんな事を考えていたからなのか、隆之助から着信が入った。

「どうしたの?」

 綾子が返事をすると、

「どうしたのって、凛太郎の事だよ。どうなんだ、あいつ、何か隠している気がしたんだけど?」

 隆之助は綾子のとぼけた返事にムッとしたようだ。

「見た限りでは、思い悩んでいるふうね。でも、何も言ってくれないから、全然わからないわ」

 綾子は回転椅子を軋ませて立ち上がり、窓へ歩み寄った。凛太郎が舗道を走って行くのが見えた。

「凛太郎が話すつもりがないのなら、こちらとしては打つ手なしだな。それとも、麻奈未さんに訊いてみるか?」

 隆之助の提案に綾子は目を見開いた。

「その麻奈未さんが原因の可能性があるんだから、それはダメでしょ?」

「そうだな」

 隆之助は綾子の言葉に納得した。麻奈未とすれば、隆之助達に訊かれても、答えられないだろう。あまりにもデリケートな問題だから。

「あ、そうだ」

 隆之助がある人物を思いついた。

「義弟の大介君に訊いてみるのはどうだ?」

 綾子は一瞬いいアイディアだと思ったが、

「貴方、連絡先知ってるの?」

「え? 綾子は知らないのか?」

 隆之助は意外そうに訊き返して来た。

「知る訳ないでしょ! まだ一面識もないんだから」

 麻奈未の仕事の都合で、未だに行えていない食事会のせいで、隆之助と綾子は大介夫妻と会えていないのだ。

「凛の事も気がかりなんだけど、明日来る新規採用の二人の面接、貴方、してくれない?」 

 綾子がいきなり別の話題を振って来たので、

「何言ってるんだよ。税理士法人にする話をした時、絶対に嫌だと言った人間が、よくもそんな事を言えるな?」

 隆之助が言うと、

「ごめーん。またその話は後で考えるとして、取り急ぎ、面接、お願い」

 綾子は見えていない隆之助に手を合わせた。

「税理士法人の事を前向きに考えるのなら、面接を代行してやってもいいぞ」

「うん、それでいいから、お願いね!」

 綾子は投げキッスをした。隆之助にはそれは伝わらなかった。

「じゃあ、時間と面接する子の履歴書をメールで送ってくれ」

 隆之助はそれだけ告げると、さっさと通話を終えた。

「つれないんだから」

 綾子は口を尖らせたが、パソコンに向かうと、面接に来る者の履歴書をメールで送信した。


「はあ」

 顧客のところを出た凛太郎は、病院に行くつもりで地下鉄に乗っていたが、

(あれ? どの病院に行けばいいんだ? 泌尿器科?)

 凛太郎はそれすら知らずに医者に行こうとしていた自分を情けなく思った。

(でも、相談するのが恥ずかしい。笑われないだろうか?)

 医師に対してそんな疑念を抱く時点で、どうしようもない。

(ダメだ、どうしたらいいのかわからない。今夜、もう一度挑戦して、それでもダメなら、麻奈未さんに付き添ってもらおうかな?)

 麻奈未に付き添ってもらうのは恥ずかしくないのが凛太郎のおかしなところである。場合によっては、離婚案件にもなりかねない事象なのに、凛太郎はあまりにも能天気であった。

(次のお客さんに行こう)

 その日は病院に行くのを諦め、顧客回りを続ける事にした凛太郎であった。


「まだ、四季島が首謀者である証拠は見つかっていませんが、動いている人間の特定はできました」

 麻奈未の席まで茉祐子が来て話していた。

「そうなんだ。さすがだね」

 麻奈未は情報部門ナサケの仕事の早さに驚いていた。

「織部統括官にはメールを送っておきました。一両日中には、尻尾を押さえられると思います」

 茉祐子はいくらかドヤ顔をしていたが、麻奈未は微笑んで、

「そう。ありがとう、中禅寺さん」

 気づかないふりをした。

「それより、この人の事が気になったのですが?」

 茉祐子はある人物の写真を見せた。

「この人がどうかしたの?」

 麻奈未は写真の人物を見てから、茉祐子を見た。

「ちょっと、聖生ちゃんに関わる事なので」

 茉祐子は声を低くした。

「聖生に? どういう事?」

 麻奈未も声を低くした。

「実はですね……」

 茉祐子は事のあらましを説明した。

「え? それって……」

 麻奈未は息を呑んだ。


「お帰りなさい」

 麻奈未が帰宅すると、妙に上機嫌の凛太郎が出迎えた。

「只今。どうしたの、凛君?」

 麻奈未は苦笑いをした。凛太郎の上機嫌が理解できなかったのだ。

「その、例の件なんですけど、病院に行ってみようかと思いまして」

 凛太郎はにこやかに告げた。

「え? 病院に?」

 麻奈未はリヴィングルームに向かいながら応じた。

「そうです。今夜、うまくいかなかったら、いつか予定を合わせてもらって、麻奈未さんに付き添いで一緒に行ってもらおうかと思って」

 凛太郎がそこまで言った時、

「ごめん、今日は勘弁して。明日、早朝から仕事なの。しばらく忙しくなるから、また別の日でお願い」

 麻奈未にあっさり拒否されてしまったので、凛太郎は唖然とした。麻奈未は凛太郎の事にかまけていられない程、切迫した状況を抱えていたのだ。

「麻奈未さん……」

 凛太郎は涙ぐんで、麻奈未の背中を見ていた。

(やっぱり、麻奈未さんにあんな体勢をお願いしたのがまずかったのかな?)

 凛太郎は右の目から涙が一粒こぼれたのに気づいていなかった。

(まだ、誰にも言えない。聖生にすら言えない。凛君には悪いけど、しばらくプライベートはお預けにしないと)

 麻奈未は子作りに体力を使っている余裕はないと考えていた。そして、凛太郎が追い詰められているのに気づく余裕もなかったのだ。


「あ、義兄さんからだ」

 聖生とマンションに帰り着いた時、大介は凛太郎からの着信に気づいた。

「どうしました?」

 事情を知らない大介は陽気に通話を開始した。

「大介君、もうダメかも知れないです」

 凛太郎の声は涙声になっていた。

「どうしたんですか、凛太郎さん?」

 凛太郎の異変を悟った大介が尋ねた。

「何?」

 聖生が玄関に戻って来た。

「麻奈未さんに拒否されたんです。もう俺達、ダメかも」

 凛太郎は暴走していた。

「え? ダメって何ですか?」

 大介は聖生を見ながら訊いた。

「麻奈未さんに子作りはまた別の日にって言われたんです。もうダメです」

 凛太郎が暴走してしまっているのを大介は感じた。

「凛太郎さん、落ち着いてください。今、ご自宅なんですか?」

 大介は何何と騒いでいる聖生を手振りで制しながら続けた。

「悲しくて、出て来ました。今、近くのコンビニの前です」

 大介は思わず聖生を顔を見合わせた。

「わかりました。そこを動かないでください。すぐに行きます」

 大介は鞄を放り出すと、玄関を飛び出した。

「あ、お姉から」

 追いかけようとした聖生に麻奈未から連絡が入った。

「凛君がいなくなっちゃったの!」

「今、大介のところに連絡があって、飛び出して行ったわ。大丈夫よ、お姉。落ち着いて」

 聖生は泣きじゃくる麻奈未を慰めた。

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