開き直った女達
「どうぞ、お入りください」
優菜の声が告げた。エレベーターホールへと続くドアが開錠され、麻奈未は奥へと進んだ。
(拒否されるかと思ったけど)
麻奈未は優菜があっさり通してくれたので、彼女の考えを訝しんだ。
(何を企んでいるの?)
もしかして、玄関で靴を揃えている時、後ろに回り込まれて撲殺される? それとも、コーヒーに睡眠薬を入れて、眠ったところを絞殺、あるいは扼殺?
(推理小説の読み過ぎ……)
大学生の頃、大いにハマったので、時々思考がそんな系統に陥る。
(まさかね)
一度だけ見た事がある優菜は、非力そうな女性に見えた。むしろ、腕力や脚力では、麻奈未の方が上だろう。麻奈未は妄想を振り切ると、エレベーターに搭乗し、優菜の部屋の階のボタンを押し、扉を閉じた。エレベーターはゆっくりと動き出し、たちまち優菜の部屋がある階に着いた。チャイム音が鳴り、扉が開く。麻奈未は前方に見える長い外廊下を歩いた。優菜の部屋は、廊下の一番奥である。
(何だか、凄く遠くに感じる)
おかしな妄想をしたせいか、麻奈未は少しだけ優菜に怯えていた。凛太郎への執着が想像以上に強い。しかも、義弟の大介の話によると、
「私は凛太郎さんとはまなみさんより早く出会っているんです! 凛太郎さんの事が大好きなんです! 大好きな人と、深く繋がりたいと思うのは、いけない事なんですか!?」
自分の行動を正当化していたという。
(確かに、優菜さんの方が私より先に凛君と出会っている。でも、人と人との関係は、早さじゃない。深さよ)
麻奈未は優菜が何を主張しようとも、全部論破するつもりでいた。
「麻奈未さんと何があったんだ?」
ファミレスのボックス席に凛太郎と向かい合って座った隆之助は、単刀直入に訊いた。
「ええと、その……」
凛太郎は言葉に詰まりながら、昨夜何があったのか、話した。隆之助は唖然としてしまった。
「お前、何してるんだ? 優菜ちゃんと何を……」
やっと出たのがそれだった。
(もしかして、優菜ちゃんは事務所で聞いたのか?)
隆之助は自分の不手際を思い知った。
(もっと優菜ちゃんを警戒するべきだったのか? 小さい頃から知っているから、どこかで甘く見ていたのか?)
妻の綾子が言っていたように、父親である柿乃木啓輔の遺伝子を受け継いでいるので、異性に対して執着心が強く、自分のものにしたいと言う気持ちも強いのか? 隆之助は改めて優菜の事を恐れた。
「すまん。私のミスだ。優菜ちゃんが聞いてしまったのだろう。だから、食事会の場所を知り、待ち伏せができたんだ。申し訳なかった」
隆之助は息子に詫びた。
「父さんは悪くないよ。悪いのは俺だ。優菜さんに無警戒に近づいて、一緒にバーに行ってしまったのだから」
凛太郎は自分の非を認めた。麻奈未に詰められた時はそんな感情は湧かなかったのだが、父に謝罪されて、自分の愚かさに気づいた。
「それで、麻奈未さんは?」
隆之助は俯いたままの凛太郎に尋ねた。凛太郎は顔を上げずに、
「麻奈未さんは、優菜さんのアパートに行ったよ。どうせ会ってくれないだろうけど……」
隆之助は溜息を吐いて、
「だからあの時、優菜ちゃんのアパートの住所を訊いて来たのか? 麻奈未さんはお前の同行を断わったのか?」
凛太郎は顔を上げて、
「いや、怖くてそんな事訊けなかった」
隆之助は我が息子の情けなさに溜息を吐いた。
「でも、優菜さんを首にしないで。俺が優柔不断で、彼女をちゃんと拒否しなかったのが悪いんだから」
凛太郎は涙ぐんでいた。
「順番が違う」
隆之助はムッとした。
「え?」
凛太郎には何の事なのかわからない。
「どうして最初に浮かぶのが、優菜ちゃんの事なんだ? お前がまず気遣うべきは、麻奈未さんだろう? そんな事じゃ、今度こそ離婚されるぞ」
隆之助の声は大きくなかったが、凛太郎には心臓が飛び出してしまうくらい衝撃だった。
「どうして? 麻奈未さんはそんな事言ってなかったよ。何で離婚になるの? 俺は優菜さんに強い酒を飲まされて、無理やりラブホテルに連れて行かれたんだよ?」
凛太郎は自分の愚かさを思い知りはしたが、まだ被害者面をしていた。
「それを麻奈未さんにも言ったのか?」
隆之助の目が鋭くなった。呆れから怒りに転じたのだ。
「言ってないよ。それを言ったら、麻奈未さんが怒るから。言っても、何の解決にもならないし」
凛太郎は保身しか考えていない。隆之助は凛太郎を睨みつけて、
「お前、何様のつもりだ? 今まで、二回も麻奈未さんを悲しませるような事をしでかして、また同じような事をしでかして、何なんだ、その態度は? 麻奈未さんに対して、申し訳ないと言う思いはないのか?」
強い口調で詰問した。ところが凛太郎は、
「何だよ、父さんまでそんな事を言うの? 俺は優菜さんに陥れられたんだよ? それなのに、麻奈未さんに離婚されるって、おかしいじゃないか!」
見事なまでの逆ギレをした。隆之助は一瞬絶句してしまったが、
「だったら、全部自分で何とかしろ。もう私は知らん。母さんにもこの事は伝える。明日にも、お前は高岡税理士事務所をクビにされるだろうな」
隆之助はテーブルに置かれた伝票を掴むと、レジへと歩いて行った。
「ええ!?」
事務所をクビにされると言われ、凛太郎はハッとして、
「待ってよ、父さん! 母さんには言わないで!」
涙ぐんで父を追いかけたが、すでにその姿はどこにもなかった。凛太郎はファミレスの前の舗道にしゃがみ込んでしまった。
「失礼します」
ドアを開けてくれないと思った優菜は、意外にもドアを開き、麻奈未を招き入れた。麻奈未は玄関土間に入った。
「どうぞ、お上がりください」
優菜は靴箱から来客用のスリッパを出した。
「いえ、ここで結構です。以前、ほんの少しだけ、お見かけしました。覚えていらっしゃいますか?」
麻奈未は、優菜が元同僚で現在は刑事裁判中の一色雄大にストーカーまがいの行為をされていた時、ほんの少しだけ顔を合わせた事がある。
「はい……」
優菜は顔を強張らせた。ほとんど人が来る事はないのだろう。部屋着の優菜は子供っぽく見えた。
(でかい……)
以前会った時は夜で、事務所の制服を着ていたので、優菜のスタイルはわからなかったのだが、スウェットの上下を着ている優菜は、その胸の大きさがはっきりとわかった。
(聖生程ではないけど、私よりずっと大きい)
麻奈未は思わず自分の胸を見てしまった。そしてハッとし、
「お願いがあって来ました」
優菜を見た。
「はい」
優菜は身じろいだように見えた。麻奈未は一呼吸置いて、
「もう二度と凛太郎には近づかないでください。以前、料亭で貴女がした事は、その時点では私と凛太郎は夫婦でも婚約者でもなく、何度か会った事がある仲でしかありませんでした。だから、事を荒立てる真似はしたくなかったので、何も言いませんでした」
優菜は微動だにしていないが、目は泳いでいるのがわかった。
「ですが、今回は違います。私と凛太郎は夫婦です。場合によっては、貴女に慰謝料を請求する事もできます」
麻奈未の強い言葉に優菜はピクンとした。
「でも、今後凛太郎に近づかないとお約束いただけるのであれば、何もしません。どうでしょうか?」
麻奈未は一度目を伏せて優菜を見た。上り框の高さがあっても、優菜と麻奈未の視線の高さはほとんど変わらない。それだけ、優菜が小柄で、麻奈未が長身なのだ。優菜は麻奈未の迫力に気圧されていた。
「わかりました。もう二度と、凛太郎さんには近づきません。お約束します」
優菜は深々と頭を下げた。
「そうですか。ご納得いただけて、ホッとしました。この事は凛太郎の両親には言いません。ご安心ください。では、失礼します」
麻奈未はそのまま玄関を出て行った。
「……」
優菜はその場に座り込んだ。
「はあ……」
麻奈未は外廊下に出ると、震えてしまった。妙な妄想をしてしまったために、優菜に背を向けた瞬間、後頭部を殴られて死んでしまうのではないかと思ったのだ。
(我ながら、無謀な突撃だったわね)
最初の想定では、追い返されておしまいという結末だった。しかし、予想外にも、優菜は玄関を開けてくれた。むしろ、その事で麻奈未は恐ろしくなったのだ。だから、相手に付け入る隙がないくらいの速さで捲し立てる事にした。
(完全に考え過ぎだった。優菜さんがそこまでサイコパスなら、凛君が無事ですまなかったはず)
優菜が怖い存在なら、大介に見つかった瞬間、凛太郎を殺していたのではないかと思った。
(むしろ、凛君の方がサイコパスだったとはね。全然自分が悪いと思っていない。どうしてそんな人になったんだろう?)
すると、頭の中の聖生が言った。
『お姉がそうさせたんじゃないの?』
麻奈未はギクッとした。
(私が凛君を無意識のうちに追い詰めて、サイコパスにしてしまったっていうの?)
麻奈未はそれを全面否定した。
(そんなはずない。それに、凛君はマザコンなだけで、サイコパスじゃない)
麻奈未は地下鉄に乗ると、ドアの近くに立った。
(取り敢えず、様子を見るしかない。優菜さんにはまだ警戒をしつつ、凛君も見張らないと)
それが良くないのでは、ともう一人の自分が言った。凛太郎を縛り過ぎるから、妊活も苦労し、周囲の女性にも苦労するのかも知れない。
(でも、妊娠期間中の行為は流産の可能性がある。特に初期は危険だって、産婦人科の先生が言ってた)
麻奈未は検査薬だけでは心許ないので、診察してもらったのだ。間違いなく、妊娠していた。
(凛君にはもっときちんとそれを伝えないと。私が嫌で拒否していると思われるのは心外だし、それが原因で、浮気とか、風俗通いとかされるのはもっと嫌)
行為そのものは無理でも、その前段階は応じようと思った。
(手で我慢してもらおう。口は顎が痛くなるし、後処理が面倒だから)
できれば、自分で処理して欲しいと思ったが、それはそれで酷い気もしたので、その選択肢は捨てた。
「只今」
麻奈未は玄関に入って、凛太郎の靴がないのに気づいた。
(出かけた? どこへ?)
当たりがきつ過ぎたので、実家に帰ったのだろうか? 麻奈未が不安になっていると、
「あ、戻りました」
凛太郎が帰って来た。
「どこへ行ってたの?」
麻奈未は無理に笑顔を作って尋ねた。それは凛太郎には返って怖かったらしく、顔を引きつらせ、
「父に会って来ました」
後退りした。
「え?」
麻奈未は焦った。
「もしかして、優菜さんの事を話したの?」
麻奈未は詰め寄って問い質した。凛太郎はますます顔を引きつらせて、
「ああ、はい。相談しました」
それを聞き、麻奈未は項垂れた。
(口止めしていくべきだった。そういうのが全然できないのが凛君なのよね……)
麻奈未は凛太郎を見て、
「どうして断わりもなくそういう事をするの!? 優菜さんにはご両親には言わないからって言ったのに! 約束を破っちゃったじゃないの!」
更に詰め寄った。凛太郎は苦笑いをして、
「すみません。でも、父には優菜さんをクビにしないでと言いましたし、母には言わないでと言いました」
しかし、すぐに俯き、
「ところが、父は怒ってしまって、母にも言って、事務所をクビにしてもらうって……」
涙ぐんだ。麻奈未は目を見開いて、
「ええ!? お義父様をそこまで怒らせてしまったの?」
スマホを取り出すと、隆之助に連絡をした。
「麻奈未さん、うちのバカ息子が本当に申し訳ない」
隆之助は開口一番、謝罪して来た。麻奈未はそのせいで恐縮した。
「いえ、それは大丈夫です。先程、優菜さんに会って来ました」
麻奈未が告げると、
「ああ、だから凛太郎が優菜ちゃんの住所を訊いて来たのですね? 多分そんな事ではないかと思っていました」
隆之助は合点がいったようだ。
「それで、優菜さんには二度と夫と合わない事を約束してもらい、それを条件にお義父様とお義母様には話さないと告げました。ですから、優菜さんには何もおっしゃらないでください」
「わかりました。そういう事なら、もうおしまいにしましょう。優菜ちゃんも、麻奈未さんに言われて、目が覚めたと思います」
お義父様は優菜さんに優しいなと麻奈未は思った。
「だとすると、バカ息子も離婚されずにすみそうですか?」
隆之助の問いかけに麻奈未はチラッと目の前で震えている凛太郎を見て、
「はい。もうしばらく、頑張ってみようと思います」
「重ね重ね申し訳ない、麻奈未さん。バカ息子をよろしくお願いします」
隆之助が電話の向こうで頭を下げているのが思い浮かんだ。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
麻奈未も電話の向こうの隆之助に一礼した。
(今度はもっと上手くやらないと)
優菜は全く反省していなかった。
(凛太郎さんの脇の甘さは一緒に仕事をしていた頃から変わらない。また機会があれば、襲っちゃおう)
優菜はフッと笑った。凛太郎の運命はまだまだ翻弄されるのであった。
(凛太郎さんの、気持ちよかったから)
優菜は何かを想像して、うっとりとした顔になった。




