凛太郎の悩みと麻奈未の危機
「俺に相談?」
大介は凛太郎と居酒屋の個室に入ると、凛太郎に意外な事を言われ、面食らっていた。
「お義兄さんに相談されるなんて、俺、責任重大じゃないですか」
大介は緊張した面持ちで応じた。
「いやその、お義兄さんはやめてください。俺達、タメなんだし」
凛太郎は大介が異常に腰が低いのを鬱陶しく思っていた。
「そうですか? では、何とお呼びすれば?」
大介は聖生をデレさせるイケメン全開で凛太郎に尋ねた。全く悪気がないのがタチが悪いと凛太郎は思っていた。
「凛太郎でいいですよ」
凛太郎は苦笑いした。
「わかりました」
大介は素直なので、すぐに了承した。
「それで、どんな相談ですか?」
大介は従業員が近くにいないのを確認して訊いた。凛太郎は声を低くして、
「その、妊活の事なんですけど……」
俯いて事情を説明した。
「え? そうなんですか?」
大介は目を見開いた。
「自分でも情けないとは思うんですけど、どうしようもなくて……」
凛太郎が涙ぐんでいるので、大介は慌てた。
「ええとですね、実は自分もあったんですよ。聖生はあの通りの美人で、スタイルも抜群ですから、こっちはすっかりテンパってしまって、誤射しました」
大介は自身の失敗談を話した。
「え? そうなんですか? 大介君程のイケメンでも、そんな事があるんですか?」
凛太郎は身を乗り出した。
「自分はイケメンじゃありませんよ。それに顔の良し悪しとそれは無関係だと思います」
大介は真顔で持論を述べた。
「まあ、そうですね……」
凛太郎は皮肉を言ったつもりはなかったので、頭を掻いた。
「それで、大介君はその後何とかなったんですよね? だから、聖生さんは妊娠している訳で」
凛太郎はその後の事が気になった。
「もちろんです。聖生とも話し合って、いろいろ工夫した結果、何とかうまくいって、懐妊に至りました」
「工夫って、どんな?」
凛太郎の顔が更に大介に近くなった。
「それはちょっと、言うのは憚られるので……」
大介は顔を赤らめた。
「あ、そ、そうですよね。すみません、不躾な事を訊いてしまって……」
凛太郎は椅子に戻った。
「凛太郎さんも、工夫してみたら如何ですか? それに慣れれば、緊張はしなくなると思いますし……」
大介が提案したが、
「慣れる自信がないです。麻奈未さんは、知っての通り、超絶美人ですから、あの美人とそういう事をするって思っただけで、もう大変で……」
凛太郎はネガティブな思考に陥っていた。
「はあ、そうですね。自分も、お義姉さんとは自信がないです。あ、失礼な事を言ってしまいました……」
大介はハッとして頭を下げた。
「そうですよね。聖生さんと妊活できた大介君なら、いいアドバイスをもらえるかと思ったんですが、無理ですか」
凛太郎は溜息を吐いた。大介は苦笑いをして、
「ええとその、もしあれだったら、体勢を変えてみるとかして、お義姉さんと向かい合わないとか、部屋を暗くしてみるとか、そんな工夫はどうですか?」
「暗くしてもダメでした。体勢を変えるって、どういう事ですか?」
凛太郎はキョトンとした。
「え? どういう事っていうか、その……」
大介は凛太郎の無知ぶりに気づき、呆気に取られ、
(この人、本当に知識がないのか? それともとぼけている?)
そんな疑いを抱いてしまった。
「凛太郎さんて、お義姉さん以外とそういう事をした事がないんですか?」
大介は気まずそうに尋ねた。
「はい……」
凛太郎は消え入りそうな声で応じた。
(うわあ……)
大介も、決して百戦錬磨ではないが、流石に聖生以外とも経験があったので、パーフェクトな童貞だった凛太郎に言葉が出ない。
「もしかして、AVとかも観た事ないんですか?」
「はい……。母が厳しい人だったので」
大介は信じられないという目で凛太郎を見た。
(もしかして、マザコン?)
そして、正解を導き出した。
「と、とにかく、お義姉さんと話し合った方がいいですよ。でないと、解決できないと思うので」
大介は何とか正当なアドバイスをした。
「でも、麻奈未さんには知られたくないので……」
凛太郎は顔を赤らめた。
(いやいや、お義姉さんと話していないの? ダメじゃん)
大介は結論を出した。無理だと。
「え?」
麻奈未は帰宅途中、誰かが尾けているような気がしていた。
(何? ストーカー? 痴漢?)
彼女は怖くなり、早足で尾行者から逃げようとした。すると、尾行者も歩を合わせて来た。
(いやああ!)
麻奈未は震えが止まらなくなり、走り出した。尾行者も当然の事ながら、走り出した。
(とにかく、人通りの多いところへ!)
麻奈未は家への近道を使った事を後悔し、大通りへと走った。
「はあ、はあ……」
久しぶりに全力疾走したので、麻奈未は息が上がっていた。何とか、大通りに戻れたが、その場にへたり込んでしまった。尾行者はそこで諦めたのか、最初からそれだけが目的だったのか、姿を消した。
(凛君!)
尾行者が姿を消した事を知らないので、麻奈未はすぐにスマホを取り出して、凛太郎にかけた。
(出ない……。どうしたの、凛君?)
麻奈未は涙が出そうだった。凛太郎はこの時、大介と話していて、スマホの振動に気づいていなかったのだ。
(このままここにいるのは危険だ。どうすれば?)
呼吸を整えながら、麻奈未は何とか立ち上がった。
(タクシー?)
麻奈未はよろよろと車道に近づくと、タクシーを探した。
(駅まで行って、もう一度凛君に連絡を……)
タクシーはすぐに捕まえられた。
「駅までお願いします」
近距離だったので、運転手は露骨に嫌な顔をした。そして、何も言わずに急発進した。麻奈未はその勢いで座席に叩きつけられた。
(乱暴な奴! 名前覚えてクレーム入れてやろう)
だが、最近のタクシーは運転者証を裏向きにしていて、確認できないのだ。麻奈未は、名前を教えてくださいと言う程の事でもないので、諦めた。
(ネットに写真と氏名を晒されてしまった例があるらしいからって聞いた事がある)
麻奈未は溜息を吐いて座席に寄りかかった。そんな事を思っているうちにタクシーは駅に着いた。
「ありがとうございました」
麻奈未はスマホ決済で支払いをすると、タクシーを降りて、駅の中へと急いだ。
(まさか尾けて来てはいないだろうけど)
周囲を警戒しながら、人が多い方へと歩いた。
「あ」
凛太郎から電話が入った。
「凛君!」
麻奈未はすぐに通話を開始した。
「すみません、麻奈未さん。ちょうど大介君と話していたので、気づくのが遅れて……」
凛太郎は大介に呆れられて「頑張ってください」と言われ、別れたところだった。
「そうだったね。邪魔しちゃった?」
麻奈未は凛太郎がかけて来てくれたのに感動して涙声になっていた。
「いえ、別に。それより、どうしたんですか?」
凛太郎は麻奈未の声が違うのに気づいたようだった。
「実は……」
麻奈未は顛末を説明した。
「わかりました、すぐに行きますから、そこを動かないでください」
凛太郎は通話を切った。
(凛君、早く来てね)
麻奈未はスマホをスーツのポケットに入れて壁に寄りかかった。
「凛太郎さんとどんな話をしたの?」
聖生は大介が帰って来るなり、尋ねた。
「いや、その、仕事頑張ってるっていう話」
あからさまな嘘を吐いた大介に対して、
「もう、そんな顔で言われたら、聖生、何も言えなくなるう」
聖生は近距離で大介を見たので、またデレた。
(聖生って、時々妙な反応するけど、何だろう?)
理由がわかっていない大介は疑問に思っていた。
「私も食事はすませて来たから、お風呂入ろ!」
聖生は大介のスーツを脱がせながら言った。
「え、あ、ちょっと」
リヴィングルームへ歩いていく間に、大介はスーツとワイシャツとズボンを逃されてしまった。
「はい、待っててね」
聖生はスーツを持って、寝室へ行った。
「はあ」
大介は深い溜息を吐いて、脱衣所へ入り、インナーを脱ぐと、浴室に入った。
(大介、嘘が吐けないのよねえ。凛太郎さんとは、きっとあの事を話したんでしょ。丸わかり)
聖生は大介の反応を面白がっていた。
「そうか。それでいい。毎日繰り返せ。絶対に顔を覚えられるなよ」
四葉が帰った後、秘書室に一人で残っている四季島は、誰かとスマホで通話していた。
「何もしなくてもいい。只尾けるだけでいいんだ。精神的に追い込んで、仕事をできない状態にしてやれ」
四季島はそれだけ告げると、通話を切った。
(伊呂波坂麻奈未。剣崎先生の屈辱、思い知らせてやる)
四季島は恩師である剣崎龍次郎の仇と思っている麻奈未に陰湿な復讐を仕掛けていた。
(後は直接の原因を作った一之瀬事務次官か。奴も只では辞めさせない。ボロボロにしてやる)
四季島はスマホを操作して、誰かにかけた。
「四季島だ。一之瀬の事、調べはついたか?」
四季島は横柄な口調で尋ねた。相手が何かを答えている間、彼はイラついているのか、机を左手の人差し指でコツコツと叩いた。
「何をしているんだ! 早く何とかしろ。いいな」
四季島は相手を罵ると、通話を切り、スマホをスーツの内ポケットに入れた。
(使えない奴だ。別の誰かに頼むか?)
四季島は歯軋りをした。そして、腕時計を見て、
(そろそろ帰るか)
鞄を手に取ると、秘書室を出て行った。
麻奈未は凛太郎と無事に合流すると、家へ向かい、帰り着いた。
「よかった。ありがとう、凛君」
玄関に入るなり、麻奈未は凛太郎に抱きついた。
「いえ、当たり前ですから。麻奈未さんは俺の一番大事な人ですから、絶対に守りますから!」
凛太郎は抱きしめ返した。
「嬉しい」
麻奈未は凛太郎にキスをした。
「麻奈未さん……」
凛太郎は激しめにキスを返した。
「私も夕食はすませて来たから、お風呂に入る?」
麻奈未が潤んだ上目遣いで凛太郎を見上げたので、
「はい! 喜んで!」
麻奈未をサッとお姫様抱っこすると、そのまま浴室へとダッシュした。
「ちょっと、凛君!」
いきなり抱き上げられた麻奈未はびっくりしたが、
(この際だから、お風呂で……)
一計を案じていた。
「そうか。四季島がな」
財務省の事務次官室で、一之瀬財務事務次官はスマホで通話をしていた。彼はすでに四季島の動きを掴んでいた。
(考えが浅はかなんだよ、坊や。返り討ちにしてやる)
一之瀬は通話相手に、
「奴の弱点を探ってくれ。恐らく、地元の仙台にあるはずだ。剣崎龍次郎の息がかかった連中は全部始末する」
眉間に皺を寄せて告げた。そして、通話を切ると、スマホをスーツの内ポケットに入れた。
(バカな男だ。剣崎などという前世紀の遺物のために動くとは、何とも時代錯誤な人間だな)
一之瀬は机の上にある資料を見た。
(東京国税局に同じく息のかかった男を局長として送り込むつもりのようだが、これは放っておくか)
その資料は、四季島が麻奈未達を追い詰めるために局長にしようと画策している兼守乙彦のものであった。黒のスーツに紺のネクタイをしている。痩せ型で、髪をセンター分けしていて、目が吊り上がっている。
(局長止まりの男には、好きにさせてやるさ)
一之瀬はすでに兼守を見限っていた。
「はああ……」
入浴後、凛太郎は大きな溜息を吐いて浴室を出た。
(凛君……)
後から浴室を出た麻奈未は凛太郎にかける言葉がなかった。
(またしくじった。麻奈未さんが誘ってくれたのに、俺はあまりにも不甲斐ない……)
凛太郎は意気消沈して、寝室へ歩いて行った。
(どうしてなのかな? やっぱり私が悪いの?)
麻奈未は憂鬱になった。
(こうなったら、聖生の言うように、凛君を問い質そう。理由がわかっているのなら、教えてもらわないと)
麻奈未は意を決した。
「凛君」
二人は寝室で別のベッドに寝ている。仕事が早かったり遅かったりする麻奈未が提案したのだが、それも良くなかったと麻奈未は思っていた。
「何ですか?」
凛太郎はベッドに入ろうとしていたのをやめて、麻奈未を見た。
「ねえ、理由がわかっているのなら、教えてくれない? そうじゃないと、このままずっと子供ができない状態が続いてしまうよ」
麻奈未は凛太郎のベッドに腰を下ろした。凛太郎は俯いて、
「どうしても言わなきゃダメですか?」
「ええ、言って。解決できないわ」
麻奈未は凛太郎をベッドに座らせた。
「わかりました」
凛太郎は麻奈未を見て、
「俺がしくじるのは、麻奈未さんが美し過ぎるからです!」
大真面目な顔で告げた。
「はあ?」
麻奈未は思わず詰め寄った。
「何ふざけた事言ってるのよ! 私は真面目に訊いているの! 真面目に答えて!」
ところが凛太郎は、
「だから、真面目ですよ! 大真面目です! 麻奈未さんが美人過ぎるから、俺、緊張して、うまくできないんです!」
詰め寄り返して来た。
「ええ?」
そこまでど直球な返答をされ、麻奈未は顔を赤らめた。